花武担 第五章 友というもの(四)

 蘭は、小城での買い物のあと、家路を急ぐところだった。

 成都の秋の風物詩である乳白色の霧が濃く出、すぐ前を行く人の背中も白色のなかに溶け入って、ときに見えなくなる。

「いやだな」

 と、蘭はひとりごちた。

 花江の向こう岸は苦手だった。

 商売用に限られた小城のなかはまだましだが、そこを出ると、見知らぬ街なかのような、風景と遠い自分を感じる。回りを取り囲む、背の高い、豪壮なお屋敷たちも、こちらに背を向けた、見知らぬ大人の背中のように見えた。

 霧をついて吹く風が、寒々しく、何か嫌な予感がする。

 早く市橋を渡ろうと、臨江の塩の入った竹篭を持ち直し、歩みを速めようとしたとき、前方で何か騒ぎが起きていることに気付いた。

 場所は、太学の近くだ。この辺りは、甘やかされた若様たちが、たちの悪い面倒事を起こす場所でもある。老将軍が一度大暴れして、しばらくはしょげかえった風だったのだが、最近はほとぼりも冷め、またもとの元気を取り戻したらしい。

 巻き込まれないようにと、野次馬を横目に、さっさと歩き去ろうとした。が、何か張嶷の声を聞いたような気がして、ピタと足を止めた。

 まさかと思いながら、野次馬の肩越しに、様子を伺ってみる。

 そして、驚いた。

 張嶷が、泣き叫び、最近よく簡雍宅に遊びに来て、何度か声を交わすこともあった柳隠という少年が、ひどい乱暴をされていた。いや、乱暴などという生易しいものでは無い。一歩間違えれば、死に至るような殴られ方、蹴られ方だった。

 何とか止めなくてはと、野次馬に助けを求めたが、皆後難を恐れて、手をこまねいている。

 相手は、有名な名流の子供達である。実家に帰れば、地平線まで続く田畑、果樹園、生簀、そして一家郎党の住む巨大なウ(城塞)を持っている。下手に関わると、どのような災難が待っているか。

 野次馬の大人達は、力無く首を振るばかりで、何もしてくれない。蘭は、情けなさに、喉の奥に酸っぱい小石がつまってきて、泣きたくなった。

 と、何の騒ぎだ?と、ちょうど通りかかった少年と目が合った。

 少年は、褐色の肌、くっきりとした二重瞼、紺色の鉢巻をし、竹のようなしなやかな身体をしていた。タイ族の少年のようだが、目元にタイ族特有の険しさがない。漢族の血も幾らか混じっているようだった。

藁にもすがる思いで、蘭は、この少年に助けを求めた。

「友達が、乱暴されてるの。助けて」

 少年は、蘭を見て、暴行の現場を見た。

そして、ニッコリと微笑んだ。

 タイ族は、漢族から見ると突拍子も無いタイミングで笑うと言われる。今もそうだったが、しかし、何とも良い笑顔だった。四時如春と言われる雲南の土地そのものを思わせる笑顔だった。思わず、蘭は見とれた。

 彼は、スラスラと野次馬の群れを抜けると、暴行の現場に、ふわりと鳥のように降り立った。

 タイ族の少年は「やめよ」と言った。訛がきつい。漢族の言葉は苦手なようだ。

「何だ。てめぇ」いじめっ子達が、今度は彼を取り囲んだ。

「君達は強い。皆良く分かった。十分」

 タイ族の少年は、そう言うと、また笑った。いささかも、少年達を恐れている様子がない。

 いじめっ子達は、愚弄されたと逆上し、今度はタイ族の少年を殴りだした。

 しかし、この少年は、殴られても殴られても、竹のような素晴らしい復元力で、元の体勢を取り戻す。そして、決して笑顔をやめない。

 やがて、いじめっ子達の方が疲れてきた。さらには、野次馬達も、タイ族の少年の勇気に後押しされてか、囲みを縮め、口々に、「もう、やめてやれ」と叫び始めた。

 いじめっ子達も、形勢が悪くなってきたことに気付き、鼻白んできた。

 蘭は、倒れている柳隠と、泣きじゃくる張嶷の元に駆け寄った。柳隠の顔は赤黒く膨れ上がり、張嶷は、小さな拳で、しきりと涙をぬぐっている。蘭は、いじめっ子達を睨みつけた。

「こんなにまでする必要が、どこにあるのよ!」

 いじめっ子達も、蘭に言い返した。

「黙れ! 女が、えらそうな口を叩くな」

 下手をしたら、蘭にまで、手を出しそうな空気だった。しかし、タイ族の少年が笑みを含んだまま、少年達と蘭の間に身体を入れた。

「女に手を出す。あまりよくないね」

 そして、笑顔のまま、顎を引き、いじめっ子達一人一人の顔を睨んだ。笑顔の奥で、目が光っている。タイ族は、普段は処女のように温和だが、一旦怒ると手のつけられないような荒れ狂い方をする。いじめっ子達も、殴っても殴ってもビクともせず、さらには段々笑顔が大きくなってくるような、この少年が怖くなってきた。

 野次馬の罵声も激しさを増し、いじめっ子達も、ようやく立ち去ることにした。彼等の一人が、去り際、倒れている柳隠に向って、唾を吐きかけたが、蘭が、手でそれを払った。

「貞に加勢され、哀牢(タイ族に対する差別語)に助けられ、最後は、女にかばわれるとはよ」

 彼等は、最後にそう言うと、笑いながら、太学に入っていった。後には、踏みにじられた蜜柑と林檎が、屍のように転がっていた。

→ 花武担 第五章 友というもの(五)

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花武担 第五章 友というもの(三)

 柳隠は、唇をかみ締め、拳を握り締めた。自分のことなら、いくらでも我慢が出来る。しかし、友人の張嶷や、師である簡雍についてまで、言われるのは自分の身を切られるより辛かった。

 ふと気付くと、張嶷を見る四人の目が、ひどく湿度の高い、そのくせ温かみは微塵も感じられない、爬虫類のような嫌らしい視線になっていた。柳隠は、この四人が、好色かつ早熟で、まだ何の仕事をしたこともないくせに、二、三人の蓄妾をやっていることを知っている。

「なぁ、貞のあれってどうなってるのかな?」

 いじめっ子の一人が言った。

 四人は、この企みに、大いに興が湧いたらしく、皆一様に、見よう、見ようと騒ぎ出した。女を抱く前のような、上気した顔になっている。

 張嶷は、彼等の爬虫類のような目と、血と脂で膨れたような面付きを見ると、無数の毛虫に足元から這い上がられるような悪寒を感じた。物心ついたころから、劉備、馬忠、簡雍と、時代を代表する一流の男から養育されてきた彼は、このような低劣極まりない人間というものを見たことが無かった。

 四人は、身を固くしている張嶷をすっかり取り囲むと、美しい振袖を後ろ手にまわして掴みあげ、身動きが取れないようにした。

「ここでは、人目があるから、太学のなかにまで連れ込んじまえ」

 張嶷は、彼らの手が触れている部分を、自分の身体ごと切り裂きたいほどの嫌悪を感じながら、先ほどからの暴言の衝撃で、胸も悪くなり、気も遠くなってきていた。目の前が赤と黒の光でチカチカしだし、もう忘れたはずの、去勢されたときの情景が浮かんできた。赤黒い血で汚れた曲刀と、鉄さびの匂い。恥ずかしさや、悲しみや、痛み。

 ゆっくりと視界が、黒い靄に包まれ、張嶷の全身から力が抜けさっていく。

 柳隠は、張嶷の様子がおかしいのに気付いた。

「頼むから、やめてくれ、用があるのは僕だろう」

 何とか、張嶷から、この下劣な若者達を引き離そうとする。この穢れた魂の持ち主達は、冗談でなく、本気で人の傷口を白昼暴いて見ようとしているのだ。しかも、単に面白そうだからという理由で。

「うるせぇ!」

若者の一人が、柳隠を突き転ばす。それでも、割って入ろうとすると、一番大柄な少年が、丸太のような腕をふるって、柳隠の頭を殴った。頭の芯まで、ビィンと響く凄まじい一撃だった。柳隠が、頭をかかえて、うずくまると、いじめっ子達の嘲笑が振ってきた。

 柳隠は、頭をクラクラさせながらも、張嶷の身を案じ、顔を上げた。張嶷は、大柄な少年に、米俵のようにかつがれ、かどわかされようとしていた。いつもは太陽を思わせる光のこもる瞳が灰色になり、瘧のように身体を震わしている。

 その様子を見たとき、柳隠の中で、何かがはじけた。あふれるような激情が、これまで彼が抱いたことも無い感情が、小さな身体を満たした。

「こいつら、絶対に許さない」

 あつらえ向きに、太学の壁を補修するための磚が、回りに散乱している。無我夢中で、そのうちの一つを取り上げた。そして、それを、張嶷を抱えている少年の顔に叩きつけた。彼の勇武を、世界に見せ付けた最初の一撃だったのかもしれない。

 磚を叩きつけられた少年は、鼻血を出しながら、かかえている張嶷と一緒に倒れた。倒れた拍子に、張嶷の持っていた袋も投げ出され、蜜柑や林檎が、周りに散らばった。

 いじめっ子たちは、石がしゃべったのを見るような目で、柳隠の抵抗を見た。柳隠が、庶民階層出身の人間が、自分達に逆らうなどとは考えてもいなかったのだ。

 柳隠は、倒れている張嶷に駆け寄った。張嶷は、真っ青な顔で、震えている。薔薇色の頬も、すっかり色を失ってしまっていた。

 助け起こそうとしたその時に、凄まじい蹴りが、柳隠の腹を捕らえた。

 立ち上がった大柄な少年が、反撃に出たのだ。
「この野郎、ゆるさねぇ」

 柳隠は、自分の身体すべてが、蹴られた腹部に巻き込まれ、くるまれ、落ち窪んでいくような痛みを感じた。胃の腑が、きゅぅとし、すっぱいものがこみ上げ、吐いた。息が出来ない。

 大柄な少年は、それにもかまわず、柳隠の襟を掴む。怒りで、顔が赤黒くなり、醜悪な顔が、さらに醜くなっていた。

 柳隠も必死だ。張嶷に向って、早く逃げろと手を振りながら、その襟を掴む手にくわっと噛み付いた。

「あぁっ」

 大柄な少年は、悲鳴をあげた。こいつ!と言いながら、その大きな拳で、柳隠の頭やら顔やらを、めったやたらに殴る。殴るたびに、ごつぅん、ごつぅんという凄まじい音が鳴り響いた。それでも、柳隠は顎を外さない。

 他のいじめっ子達も、加勢に出た。この程度の低い暴君たちは、自分達の権威が、ちらとでも脅威にさらされたことが許せず、残忍さを増していた。

 一人の少年が、助走をつけた残酷非情な蹴りを柳隠の背中に入れた。ついに、柳隠は倒れた。

 その倒れた人間に対しても、いじめっ子達は、足蹴にし、立ち上がらせては殴り、また足蹴にしを繰り返す。

 張嶷は、まだ、頭がボンヤリとし、耳に栓を詰められた時のような遠さで世界を感じていたが、こわれた人形のようになった柳隠が、いじめっ子達の間で、クルクルと弄ばれているのを見て、ようやくハッとなった。

 このままでは、本当に柳隠は死んでしまう。

 張嶷は、泣きながら、傷だらけの柳隠の身体の上に覆いかぶさった。

「やめて、やめて」

 張嶷は、自分を守ろうとしてくれた小さな英雄にしがみつく。

 しかし、いじめっ子達は貴種の血筋らしい冷血さを発揮して、攻撃を全くやめようとしない。張嶷は、柳隠から剥ぎ取られ、突き転がされた。

「お前の料理は、また後でしてやるよ」

 シシシッと四人は怪鳥のように笑った。

 このまま殴り続けたら、柳隠は死ぬかもしれないが、所詮は庶民の出。なぁに、自分の名流の血が守ってくれる。自分に逆らった庶民を叩き殺すというのも、一興ではないか。自分の勇武を表すエピソードとなってくれるだろう。

 この未完成で、未熟で、身震いすることを知らない、名門の子供達は、そう思っているようだった。

→ 花武担 第五章 友というもの(四)

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花武担 第五章 友というもの(二)

 後漢代から、重陽節には「登高」といって家族や友人と小高い丘や山に登り、開花時期にあたる菊を観賞して過ごすのが慣わしとなっていた。

「うん、いいよ」

 柳隠は、快諾した。

「よかった。どうやって過ごそうかって令則(羅憲)と話してたんだ」

 賑やかな日だけに、家族から離れて異郷に居るものには、よりいっそう孤独が染みる日でもある。

「一人ぼっちだったら、どうしようかと思ってたの」

「老師もついてくるかもね。菊酒を飲むために」

 柳隠が、言った。

「節句じゃなくったって飲むのにね」

 張嶷も話しをあわせると、二人は、顔を見合わせコロコロと笑った。

 この頃には柳隠の憂鬱は、すっかり消え去ってしまっていた。

 いつしか二人は、孔明邸はじめ、高級官僚が多く住む場所を抜け、太学の近くまで来ていた。後は、太学の壁を右手に通り過ぎ、花江にかかる市橋を渡ったら、簡雍の家まで、もうすぐである。

「すごいお屋敷ばっかりだったね」

「宮城の近くで、出仕しやすい場所だから、偉い方達は、皆あそこに住むんだよ」

「でも、何だか、ひっそりとしてたよ」

「そりゃ、北伐のために漢中に出払ってる人が多いからだよ。右将軍の家も、僕のほかは、あまり人がいなかったでしょ」

「北伐かぁ」

 孔明の内治のよろしきもあって、成都には戦時中という雰囲気は、あまり無い。そのため、今の張嶷には、北伐と言われても、遠くで聞こえる太鼓のようにしか聞こえなかった。

 と、柳隠が急に立ち止まった。

 張嶷が、いぶかしげに柳隠を見ると、顔が青くなって、固まったように前方を見ている。視線を辿ってみると、薄ら笑いを浮かべながら、シャナリシャナリと近づいてくる四人組の若者がいた。皆、錦の豪奢な服を着て、甘ったるい香水の匂いをプンプンと漂わせている。張嶷たちより、一、二歳ほど、年上のようである。

「おい、隠じゃねぇか」

 若者の一人が、殊更横柄に、呼びかけてきた。

「ちょっと、こっち来いよ」

 そういうと、柳隠の首に乱暴に腕を回してきた。そのやり方は、ひどく権高で、ヒヤッとする残酷さが感じられた。

 太学で柳隠を苛めている連中らしく、腕を回された柳隠の首が雨に濡れた稲穂のように垂れている。

「何だ、これ?汚い蜜柑と林檎だな」

 別の一人が、柳隠の抱えている袋の中をのぞいて、馬鹿にしたように笑った。他の三人も、それに合わせて、ゲタゲタと笑っている。

 柳隠は、唇をかみ締めていた。四人の若者は、巴西の周氏、蜀郡の杜氏、義陽の来氏、梓潼の李氏といった名族中の名族の子供達である。皆栄養の行届いた血色の良い顔をして、大柄である。かなうわけがなかった。

「ちょっと食べてみようぜ」

 四人は、柳隠の袋を取り上げると、てんでに手を突っ込み、蜜柑や林檎を取り出しだした。

「ちょっと、やめろよ」

 柳隠が、恐々抵抗しようとした。すると、いじめっ子の一人が、口の端だけ曲げ、ひどく意地悪そうな顔をしながら、耳の後ろに手を当てた。

「あっ、何だって?今何て言った?」

「それは、簡老師に渡す束脩なんだ。だから、触らないで」柳隠の声は震えている。

 束脩という言葉を聴くと、四人は、爆ぜたように激しく笑い出した。

「これが束脩だって!?」

「俺は、豚に餌をやりに行くのかと思ったぜ」

 口々に好き勝手なことを言う。

 それでも、柳隠が何か言い返そうとすると、若者の中で、一番体が大きな者が、柳隠を突き飛ばし、太学の壁に押し付けた。その若者は、体も顔も大きいが、目だけは線で描いたように細く、まなじりが吊り上がっている。いかにも、酷薄そうな人相だった。

「黙ってろ!馬鹿が」

 彼は、そう言うと、柳隠の横の壁を、どんと殴った。その拳と殴った時の音の大きさに、柳隠は震え上がった。他のものは、その様子をニヤニヤ見ながら、取り上げた蜜柑や林檎をかじっていた。

「やめてあげなよ」

 黙って、様子を見ていた張嶷が、口を開いた。

 若者達が、何だ?と張嶷の方を向いた。張嶷は、この日、鶏冠花の模様が入った着物を着、長い袖に薫陸香の香袋を入れていた。鶏冠花の鮮烈な紅色と、薫陸香のあえかな匂いで、人の形をした燃え上がる花束のようだった。

 いじめっ子達は、このただただ美しい存在を、どう解釈したら良いか分からず、少し気圧されたようになった。

 張嶷は、薔薇色の頬に、さらに血を登らせて、腹を立てていた。何て人達だろう。名門の子供らしいが、姜維のような高貴な責任感も、羅憲のような大らかな優しさも彼等からは感じられ無い。感じられるのは、甘やかされた思いあがりと、無慈悲な傲慢さだけである。

 スタスタと、壁に押し付けられたままの柳隠の側に歩いていくと、彼の手を取った。

「こんな人達放っておいて、さっさっと行こう」

束脩の入った袋を、引っ手繰るようにいじめっ子から奪い返すと、さっさと歩き去ろうとした。

「おい、ちょっと待てよ」

 例の、一番大柄で酷薄な顔をした少年が呼び止めた。

「誰か知らんが、お前には関係ないだろうが」

「関係あるさ。柳隠とは友達だもの」張嶷は言い返した。「君たちみたいな乱暴な子と遊ぶ気はないの」

 このっ、と大柄な少年は怒鳴ろうとした。が、その前に他のいじめっ子が、大柄な少年に何か耳打ちした。耳打ちする間ずっと、張嶷の方を見て、何やらにちゃにちゃとした、嫌な笑いを浮かべている。

 大柄な少年は、聞き終わると、にたりと笑った。笑ったというより、ぐしゃりと顔の輪郭や部品が崩れたような、何とも陰険で陰惨な表情を取った。

「お前、簡雍老師の所の腐貞だろう」

 大柄な少年は、あざけるように言った。

 貞とは、宦官の中でも、性徴が始まる前に去勢されたもののことを言う。腐をそれにつけると、宦官に対する侮蔑語になった。去勢された後は、しばらく排尿の調節が聞かなくなり、召し物を汚すことが多々あるため、宦官は罵られる時は腐と呼ばれていたのだ。

 張嶷は、身体的なことを言われるのを非道く嫌う子で、回りに居る人間も、張嶷の身体のことについては成るべく触れないようにしていた。成都に来てから、これほど無造作に、そして不注意に、傷口に触れられるのは初めてだった。

 張嶷は、怒りと恥ずかしさで、頭がボゥッとなった。

 いじめっ子たちは、もう毒気をすっかり取り戻し、何がおかしいのか、またヒヤヒヤと笑い始めた。

「あの老革様も、耄碌したもんだ。色子遊びかね」

「隠も情けねぇな。五体満足でもない、男ですらない人間から助けてもらう気かよ」

 老革とは、老いぼれの兵隊といった意味である。簡雍のような、創業者劉備の友人で、蜀建国のために命を的に働いた人間でも、名士層の間では、裏でこのように言われる扱いでしかなかった。

→ 花武担 第五章 友というもの(三)

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花武担 第五章 友というもの(一)

 柳隠は、道を歩きながら、ふっとためいきをついた。

「どうしたの?ためいきなんかついて」

 かたわらを歩く張嶷が、いぶかしげに聞いてくる。

 くすぶっているような夏の埋火も去り、ようやく四川の足の遅い秋も深まりだしていた。二人は、ハンノキの落葉を踏みながら、簡雍の家へ向っている。脇には蜜柑や林檎が入った袋を抱えていた。

「いや、何でも無い」

 柳隠は、そう答えると、袋を担ぎ直した。そして、ソッと張嶷の横顔を盗み見る。

 柳隠のような思春期の少年が、こうあれかしと願う少女の容貌(かたち)が、そこにあった。

 絞りたての牛乳に薔薇の滴を浮かべたような肌、陽にあたると虹色に輝く碧の黒髪、大きな目は目じりが少しだけツンと尖り、その瞳は太陽を閉じ込めた黒曜石。あどけない顔立ちの中、唇だけは官能的で、良く実った果実のよう。

 柳隠が、しばし見とれていると、張嶷が視線に気付いて、パッとこちらを向いた。

「僕の顔、何かついてる?」

 柳隠は、顔を赤らめ、視線を逸らした。

「ううん、何でも無い」

 そうごまかしつつ柳隠は憂鬱だった。その憂鬱さは、こうして張嶷と並んで歩いていると、ますます深まってくる。理由は、はっきりしていた。

 棒組になって遊んでいる四人の中で、自分だけ取り得が無いのだ。

 張嶷の花のような可愛らしさも、姜維の美貌と勁さも、羅憲の朗らかさと膂力も、自分にはいずれも無かった。おまけに家柄も大したことが無い。

 姜維も羅憲も張嶷も、自分に対して十分な会釈はしてくれる。しかし、それでも三人とも余りに衆に秀でて目立つから、羽を広げたクジャクの群れに、一人濡れ雀が交じっているようで、時々地味な自分が惨めになるのだ。、しかも、そんな思いを感じることが、最近、頻繁になってきている。

 一方、張嶷は柳隠の憂い顔を、濃い睫毛に飾られた目をぱちくりさせて、不思議そうに見つめていた。

 が、急にニンマリしたかと思うと、柳隠に自分の身を寄せ、肩と肩をトントンとぶつけた。彼は、聞いて欲しいことがあるときは、いつもこの愛らしい仕草をした。

「ねぇ、さっきから思ってたんだけど、この袋の蜜柑、一個べちゃっていい?」

「えぇっ」

 柳隠は、返事に困った。

 この果物は、柳隠の両親が、お世話になっている簡雍へと、遅ればせながら、束脩(入門料)代わりに送ってくれたものである。量が多いということで、張嶷が運ぶのを手伝いに柳隠の住いまで来てくれたのだ。今、二人は、それを簡雍の家へ持っていく最中である。

 実は、これも憂鬱の原因の一つであった。束脩に果物というのは、あまりにも庶民じみているだろう。羅憲の親は、束脩として広漢の漆園で作られた豪奢な漆器を送ったというし、姜維は、天水の実家から、西域の素晴らしい海堂花文の羅紗を十匹送らせたという。

 それに比べて、自分の束脩は泥の付いた蜜柑や林檎である。安価なものではないが、結局の所、ちょっと高価な日常品である。それを、どう引き伸ばしたって、広漢の漆器や、西域の羅紗にはたどり着かないだろう。

 やはり、住む世界が違うのか。

 そうした柳隠の気鬱さに気付いているのかいないのか、張嶷は、袋をゴソゴソやって、もう蜜柑を一つ取り出してしまった。そして、悪戯っぽい微笑みを浮かべながら、その太陽色をした皮に爪を入れた。

 シュッと切ないほどの香気が立った。張嶷は、フフッと笑うと、柳隠を見つめながら舌を出した。

「爪を立てちゃった。もう、これは食べなきゃね」

張嶷は、唖然とする柳隠を横目に、クルクルと蜜柑の皮をむきだした。白いお菓子のような手が器用に動く。

 むき終わると、皮を、側で繋がれていた水牛の鼻先に放った。水牛は、しばらく眠そうな目で、皮の匂いをかいでいたが、やがて長い舌を出して皮を巻き込み、ペロリと飲み込んだ。

 張嶷は、水牛が皮を食べたのを見ると、柳隠の方を向き、小首を捻って、笑いかけた。

 そして、蜜柑の房を一つばらすと、自分の小さな口に入れた。よほど美味しいらしく、噛むごとに身悶えするような仕草をする。

 房を六個程食べてしまった所で、張嶷が、柳隠の方を向いた。何やら口をパクパクやっている。口を開くたびに、川底で輝く白石のような歯が覘いた。どうやら、口を開けろということらしい。

 柳隠が口を開けてやると、張嶷は、蜜柑の房を放り込んだ。柳隠も、やむを得ず噛んだ。黄玉(トパァズ)色の香りが口に広がる。切ないほど甘く美味い。

 最後の房を柳隠の口に放り込むと、張嶷は、その大きな黒い瞳に柳隠の顔が、すっかり写るくらい顔を近づけた。悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「蜜柑二人で食べちゃったね。ツマミ食いしたのは、僕と休然。二人は、共犯だよ」

「伯岐が、勝手にむいて、むりやり食べさせたんじゃないか」

柳隠は抗議した。

 しかし、張嶷は、キラキラ笑うばかりで相手しない。

 ひとしきり笑った後、

「でも、蜜柑ホントに美味しかったと思わない?老師も、きっと喜ぶよ」

と言った。

「そうかな?」

「絶対そう」

張嶷は答えた。

「自信持って良いと思うよ。素敵な束脩だね」

 ふんわりと微笑んだ。生まれてから一度も嫌な事に会ったことのない少女のような可憐な微笑みだった。

 その微笑みによって、さっきまで心に引っかかっていたものが、氷が溶けるように消え去っていくのを柳隠は感じた。

「それにしても、休然の家って大きいね」

「あれは、僕の家じゃないよ。右将軍の家さ」

右将軍とは、蜀の最高権力者、諸葛亮孔明のことである。先の北伐の失敗により、自ら降格を申し出たため、現在の位階は丞相ではなく、右将軍になっている。

「あんな宮城の近くの良い場所に、家を構えられるわけないじゃないか。僕の家族の家は、別の所にあるよ。太学に通うには遠いから、住まわせてもらってるんだ」

「えっ、丞相の家だったの?」

張嶷が目を丸くした。果物を受け取りに行ったとき入った孔明宅を、ずっと柳隠の家と思っていたらしい。
 柳隠は、吹き出した。
「閣楼も隅櫓も望楼まである御屋敷だよ。僕の家のはずがないよ。それと丞相じゃなくて、右将軍」

「孔明様は、丞相と呼んだほうが、おさまりが良いよ。じゃぁ、休然の本当の家は、どこにあるの?」

「城の中にはない。外壁の外、濯錦橋を東に渡って、丘を一つか二つ越えた所にあるよ」

「どんな所?」

「どんなって、普通の農家だよ。桑林があって、田んぼがあって、交替で菜の花を植えたり、菊を植えたり、蕎麦を植えたりする畑があって。全部が僕の家のものじゃなくて、右将軍からお借りしている土地もあるけどね」

太学では諸葛家の奴僕と陰口を叩かれることもあるが、柳隠の家はれっきとした自作農で、小なりとはいえ宗族も百を超える。

「菊畑があるの?」

張嶷の顔がパッと輝いた。

「菊畑があるのなら、重陽節の時、柳隠の家に遊びに行ってもいい?伯約も、令則も、蘭も一緒に」

 重陽節とは、旧暦九月九日晩秋の節句のことである。古典「易経」では奇数は陽の数とされる。陽数の極である九が重なる日であることから、この日は「重陽」と呼ばれていた。陽の気が強すぎることから、この日は不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれる。

→ 花武担 第五章 友というもの(二)

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花武担 第四章 四聖(五)

「好きになれそう?」

 張嶷は、三人を市橋まで送りしな、振り返ってそう聞いた。

 もう時刻は夕方を過ぎていて、このころになると、娼妓たちが、蝶のようにふわりふわりと、溺街に姿をあらわしはじめる。まだ夏のほてりは路上から去っていない。皆胸をくつろげ、風を入れたりして、少年には眩しすぎるような白い肌を襦袢の襟から見せている。

 通りかかった妓楼の前の榻には、二人の妓女が腰をかけ、飯を食べていた。饂飩に麻辣をかけたものをすすり、丸のままの胡瓜を黒味噌を盛ったものに突き刺してはかじっている。幕が開く前の舞台裏の役者のように殺気立っていて、その姿は飼い葉に鼻面を突っ込む馬のようにあさましく、生き物生き物していた。

「阿嶷」

 そのうちの一人が箸を止め張嶷を呼んだ。

「待っててね」

 張嶷は、質問の答えは聞かぬままに、三人を道の真ん中に置いて、妓女達の方へ走っていった。

 若作りはしているが、笑うときに出来る目元の小皺で、三十近いと思える年増の妓女は、たもとから真菰の葉で包んだカタミズアメを取り出すと張嶷に渡した。

「謝謝」

 張嶷は、膝をかがめて、弾むような拱手の礼を捧げた。

「老将軍に最近つれないねって言っておいて」

 もう一人はまだ二十にも届かぬような若い妓女で、ふくふくと肉置きが豊かで、蜀錦の深衣のうえからでも、胸や尻のありどころが確かだった。彼女は、語尾のしつこく粘る甘ったるい声でそう言った。

 二人とも客である簡雍を通じて、張嶷とは顔なじみで、別に乱れもない彼の襟や、帯をつくろってやったりと、むやみに構いたがって、なかなか離さない。

 その間、姜維は妓女達などいないように遠心的な目を行く手の方に向け、柳隠は真っ赤になってうつむき、羅憲はというと、「俺にも飴をくれてもいいもんじゃないか」と年にも似合わず果敢に妓女たちをからかおうとしてうるさがられ、蹴る真似をされたりしている。

 やがて、妓女たちを振り切り、張嶷が三人の元に戻ってきた。

「お待たせ」

 少年たちは、もらったカタミズアメを分け合いつつ、歩き始めた。

 歩く列は自然と決まっている。

 姜維と羅憲が先頭を競うようにして進み、その後ろを守られるようにして柳隠が肩を落としてトボトボと歩く。張嶷はというと、三人の回りを、前へ行ったり、後ろに行ったり、蝶のごとくして自由に飛び舞う。

 歩きつつも、少年達は、先ほどの議論を続けていた。

「好きになれそう?」

 張嶷は重ねて聞いた?

 劉備とは、どういう人であったのか?

 議題はそれだった。

「信じられないくらいお優しくて、格好の良い人だったんだよ。老師も、おっしゃってたでしょ」

 張嶷が、三人の前で後ろむきに歩きながら言った。頬に血が昇っている。張嶷にとって幼年期の庇護者であった劉備は、神にも等しい人である。

「でも、狡猾で計略が得意だったって話しも聞くよ」

 姜維が言った。人物評が盛んだった時代である。子供ながら評価の目は厳しい。

「そりゃぁ、敵が曹公に、孫公だもん。狡猾にもなるさ」

 羅憲が、口を挟んだ。

「他にも、呂布に、袁術、劉璋もいるよ」

 柳隠が付け足した。劉備が戦った相手たちである。これを、劉備に裏切られた相手たちと言い換えることも出来る。そこが、この人物の底知れぬ恐ろしさだった。

「あぁ、皆も一度会えたら良いのに。そうしたら、僕や老師が言ってることが分かるから。どんなに僕達が話しても、皆は先帝を知ることは出来ても、分かることは出来ないよ」

 張嶷は、残念そうに言った。

「でも、太学で聞かされる話しよりは、ずっとましだよ」

 羅憲は言った。太学でも、蜀という国の成り立ちを聞かされるが、その中での劉備は、儒教風に身の丈を削られ、チンマリとしていた。それと比べたら、簡雍の話しのなかの劉備は、伸び伸びとし、幾分悪党(ピカレスク)ではあったが、ずっと魅力的だった。劉備に纏わる話しは、男の子ならワクワクするもので満ちているようだった。そこには、戦争があり、恋があり、友情があり、裏切りがあった。狐もだます策謀が、業火に包まれる城が、幾千もの剣戟の音が、地平線を埋め尽くす馬蹄の響きがあった。

「なぁ、そうだろう?」

 羅憲が、姜維に聞いた。

「うん。まぁ、そうだね」

 姜維が答えた。

「好きになれそう?」

 張嶷が言葉を重ねた。

「あぁ」

 姜維はうなずいた。張嶷は、その答えを聞くと、微笑みを顔中に広げた。花が咲いたような美しさだった。


 少年たちの後ろ姿を、先ほどの二人の妓女が見守っている。

 年増の方が、往来に立て膝で、白い脂のとろりと乗った脛を見せつけながら、

「あの子たちのことどう思うかえ?」

 と若い方に聞いた。

 当代、妓女ほど女の身で自由なものはない。それは、蕩児の口車に乗せられて深窓の奥様になったかつての妓女が、「昔娼家の女たり」と過ぎし日の艶やかなあれこれを思い出す古詩が残っていることでも分かる。また、そのまさに娼家の女であった女性を正室にした曹操は彼女たちのことを金石の樂にたとえてたたえた。

 社会から高い地位を認められていた彼女たちは、気位が高く、気に入らない客なら肘鉄砲を食らわす権利も有している。当然、男に対する評価はすすどい。

「どうって、姉さん、まだねんねじゃないの。あと、十年はたたないと使いものにはならないわ」

 若い方がそう答えると、

「馬鹿だね。あんたは」

 と年増がキュウリをかじりつつ言った。

「あたしたちは、男に住んで、男を着て、男を食べる商売をしているんだよ。青田を見て、秋の景色を読むくらいでないとどうするのさ?」

「じゃぁ姉さんはあの白魚たちが鯉になるか泥鰌で終わるか分かるとでもいうの?」

「鯉どころか、滝を登って龍になるかもしれないわよ」

「あらあら、馬鹿馬鹿しい。姉さんが、そんなに男に気の長い方とは思わなかったわ」

「ふん」

 二人は話がそこまで煮詰まると、箸を置き、肩を揉んだり、腰を拳で叩いたりしながら立ち上がった。往来にちらほらと赤灯がまたたきはじめている。顔に油を浮かべた蕩児たちの姿も往来に現れだした。

 花街の長い夜がはじまろうとしていた。

「四聖」

 と、年増の方がぽつりと言った。

 それが、いつの間に溺街の妓女たちの呼ぶ、四人の少年の総称になっていた。

「はやく、あの四聖たちもはやくあたしたちの客になってくれたらいいのだけどね」

 年増の妓女はそうぼやきつつ、妓楼のほうへ歩き出した。緑の門をくぐるとき、ちらりと少年たちの方を見た。彼らは、もう市橋の辺りまで歩いていて、その姿は小さくなっている。しかし、その影は、傾いた夕陽に引き延ばされ、大人のもののように長かった。

「四聖」

 その後、ながく成都の住民たちからは溢れるような尊敬と愛情をもって、魏と呉の人士たちからは畏れと戦慄をもって、そう呼ばれることになる少年たちは、橋のたもとで、

「また、明日」

 と、言ったようだった。

→ 花武担 第五章 友というもの(一)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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