ぼくのともだち

昔、だめ連という集団がありました。1992年に誕生した、「普通の人のように働けない」、「異性と恋愛できない」、「家族をもてない」といった者たちが、その「だめ」な有り様を否定的に捉えるのではなく、敢えてそのようなだめ人間であることを積極的に表に出し、「だめぶり」を語り、そこを立脚地にして生き直そうとして誕生したオルタナティブな「生き方模索集団」です。

登場時はセンセーショナルな存在で話題にもなったのですが、そのうち日本経済が左前になり、別にそんな肩に力を入れなくても、結果として駄目人間になってしまう人が急増。駄目であることが珍しいことでもなんでもなくなり、この集団の活動も沈滞気味になってしまっているそうです。

さて、今回はゆまの読んだエマニュエル・ボーヴの「ぼくのともだち」の主人公ヴィクトールも、別にオルタナティブに生き方を模索しているわけでもないのに、普通の人のように働けず、異性と恋愛できず、家族をもてない、駄目人間です。

世に駄目小説は多いのですが、太宰治の「人間失格」のように、実はイケメンでやりまくっていたりして、はゆま的には駄目男とは認めたくなかったりします。でも、この小説の主人公は合格。もう百点満点です。

パリ在住のフランス人という、金ぴかのアドバンテージを一切いかせず、第一次世界大戦に従軍したときの恩給で、細々と食いつなぐヴィクトールの生活は本当に貧相。唯一の願いも友達が欲しいというささやかなものです。この小説はヴィクトールが貧しいニート生活のなか、友達を作るために悪戦苦闘するさまを描いたものなのですが、願いの真摯さにも関わらず、彼の試みはことごとく失敗します。

それは彼の不器用さのせいでもあるのですが、相手の見てくれや態度や社会的地位に敏感に反応して、自分との優劣をつけようとするこざかしさも原因の一つになっています。解説でも書かれていますが、彼の観察は本当に細かい。彼の意識が、他人の前に立つとき、あまりの自信のなさに、溺れるものが藁もつかむ感じで、相手の細部にしがみついているのです。

告白して振られた牛乳配達の娘のスリッパの染みや、自殺志願の水夫の耳毛など、普通の人なら見落とす細部を彼はよく見ています。

しかし、一方で、彼はその細部から視界を広げることができず、人間の個性に対するとらえ方も、染みや耳毛に留まり、全体を見渡すことが出来ません。相手の目を見ているときも、瞳孔の大きさや色しか見えず、その後ろに広がる相手のインナースペースに心を配ることができないのです。

そんなわけでヴィクトールが友情を育もうとした五人――この五人の名前が、章の名前にもなっているのですが――は、皆彼の前からいなくなり、さらに追い打ちをかけるように、安アパートからも住民の苦情が原因でたたき出されます。

強い人は、孤独でもさみしさを感じない。でも、ぼくは弱い。だから、ともだちが一人もいないと、ぼくはさみしい。



上記のモノローグで小説は終わります。純粋な善人というわけでもなく、嫌らしさやこざかしさもあるヴィクトールですが、不思議と読後、彼に対する愛しさがわいてきます。それは自分より駄目な人間に対する優越感などではなく、自分自身も持つ、不器用さや、嫌らしさやこざかしさ、それを増幅した戯画として、彼の心境や環境に共感を覚えるからなのでしょう。

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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