北斎展

あらゆる意味で大阪らしい公園、天王寺公園のなかに大阪市立美術館があります。そこで、葛飾北斎展をやっているということで見に行きました。

真っ赤なフラミンゴやバースの狂ったシマウマなど、世界の終末というお題でディスプレイしたのかしらという、悪夢のような公園の飾り付けを横目に見つつ、美術館に入ると、日曜日ということもあるのでしょう、なかなかの人出でした。展示物の量もすごいボリューム。皆絵に夢中で列がゆっくりしか動かないこともあり、全部見るのに二時間かかりました。

でも、それだけの価値はあります。現物で見る北斎ブルーというのか、あの独特の青色の深さは本当に吸い込まれそうになります。大阪に居る人は是非見に行ってみてください。

はゆまは、甲州三坂水面がお気に入りでした。夏の富士を三坂峠から描いたものですが、湖面に映る富士山が雪を抱いた冬の格好になっていて、それで、しんと静かな河口湖の水面の青に、真っ白な富士山が、巨大なカクテルグラスのなかの氷のように溶け入っているように見えます。その静謐で清潔な感じは、北野監督の映画のワンシーンを思わせるものがあります。最も有名な神奈川沖浪裏も躍動感に満ちていいですが、はゆまはこれが一番好きでした。

さて、北斎といえば、ゴッホなどの印象派のヨーロッパの画家に影響を与えたことで有名ですが、実は彼自身もヨーロッパの影響を色濃く受けています。遠近法や、輪郭を書かずに色の濃淡だけで雲や岩を表現する手法は、幾つかの作品で取り入れていました。

晩年には、銅版画やガラス絵も研究、試みたようです。油絵に対しても関心が強かったようですが、残念ながら、作品を作り上げるまでには至りませんでした。

また、はゆまが興奮した北斎の青色自体、実はベルリンからやってきた顔料を使ったものです。これは、偶然開発されたもので、プロシアの青、ということでプルシャンブルーと呼ばれました。当時は青の顔料というと、ラピスラズリなどの高価な顔料しかなかったので、価格の安さからすぐに各地に広まりました。

日本は、これを中国経由で取り入れ、既に1763年には平賀源内の『物類品隲』にベイレンブラーウとして紹介されています。浮世絵などの出版関係者からは、ベルリンから来た藍という意味で「ベロ藍」と呼ばれることが多かったようです。日本の藍と違って色ののびと発色が抜群によい、この顔料によって、北斎はあの独特の海や空の鮮烈な表現を手に入れました。

皮肉なのは、明治期に日本にやってきた欧米人が北斎や広重の青色の表現に注目し、JAPANブルーとして本国に紹介していることです。色彩の逆輸入といったところでしょうか。

浮世絵というと、鎖国期の日本の、その独自の閉鎖性のなかで産まれた芸術というイメージがありますが、こうしてみると、決して世界史の大きな潮流に無縁だったわけではなく、それどころか、西洋の技法や道具を積極的に取り入れようとした開放的な芸術だったということが分かります。

そもそも、浮世絵の版画制作方法自体、あの平賀源内が開発したものですしね。

葛飾北斎がなくなったのは嘉永2年、1849年のこと、同年に旅順の英雄、乃木希典、またフィクションですが、るろうに剣心の緋村剣心が生まれています。ペリーが黒船を率いてやってくるのは、その三年後のことでした。

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黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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