三国時代の幕府

三国志の正史を読んでいると、日本史で見慣れた「幕府」という言葉がちらほら出てきます。

例えば、蜀書李厳伝には、李厳が、魏の司馬懿が幕府を開いて属僚を招聘しているので自分にもそうさせて欲しい、と孔明に願い出たとあるし、孫権が孫策の跡をつぎ、討虜将軍となったときも、呉に幕府を開いたと記述されています。

他にも曹操の丞相府や魏王府、また孔明が漢中においた丞相府も幕府と表現されることがあります。群雄割拠の時代だった三国時代は、各地に幕府が乱立した時代でもありました。

もともと幕府という言葉は春秋戦国時代からあるのですが、当時は単に出征中の将軍の軍営を指す言葉でした、これが転じて、朝廷とは別の行政機関の意味あいを持ち出すのは、前漢の時代からです。まず、李広や衛青らが匈奴討伐のために前線に設けた占領地統括機関が幕府と表現されはじめます。そして、もう少し時代が下って後漢明帝の御世、東平王蒼が驃騎将軍となって自己の政庁を置き、天子を輔佐するのですが、この時彼が設けた政庁のことも幕府と表現されました。

前漢から三国時代にかけて作られた幕府は、朝廷からのある程度の独立性を持ち、支配地における「司法」「立法」「行政」の三権を有しています。また、東平王蒼の場合や、曹操の魏王府のように、朝廷の支配地と幕府の支配地が完全に被っているケースもあります。

一方、公的な権力機関である朝廷と違い、幕府は祭祀権を有しません。権というより義務といってもよいかもしれません。いわゆる社稷を保つ義務は、朝廷、公的機関の方が負っているのですね。

となると、日本の幕府と大体一緒だなということに、少しでも歴史に詳しい人は気づかれるかと思います。似ているというより、中国の幕府の仕組みを恐らく大江広元辺りがパクリ、源頼朝の耳に入れたのですね。京都からは手出しできない関東の独立王国を作るということが夢だった頼朝にとっては渡りの船の提案だったのだと思います。

ただ、日本の幕府が鎌倉、室町、江戸と数百年にわたって続く長期政権になったのに対し、中国では下記の三つの場合でしか使われませんでした。

1)領土拡大により公的な仕組みでは掌握できない地域が出来た場合
2)公的な仕組みが衰え、それをサポートする補助的な政府機関が必要となった場合
3)遠征、あるいは防衛戦といった国家プロジェクトのため、公的な仕組み外で、人材を集め管理する必要が出た場合

1)は李広や衞青のケースですし、2)は曹操や東平王蒼のケースですね。2)は多くの場合、現在の朝廷に取って代わり次の政権の母体となります。3)は北伐を実行しようとした孔明と、そのカウンターアクションとしての司馬懿の幕府のケースです。

日中共通ですが、幕府には下記の利点があります。

a)あくまで私の機関なので、因習に縛られず機能的な組織を作ることが出来る
b)朝廷の役職と幕府の役職を組合せることで論功行賞の幅を広げることが出来る
c)祭祀の義務を負わないため、リーダーの負担が少ない

a)は曹操や孔明の幕府のもと伸び伸び働いていたスタッフ達の活躍を思い起こしてもらえばよいかと思います。曹操や孔明は朝廷のしきたりに縛られず、様々なテクニカルワードを産み出しては、人材を当てはめ、組み合わせ、彼らの才能を限界まで絞り出しました。

b)については、魏延の役職を例に説明しましょう。魏延の役職は北伐開始時、督前部・丞相司馬・涼州刺史というものでしたが、このうち督前部・丞相司馬が丞相府で、涼州刺史が朝廷の役職です。

まず督前部・丞相司馬は前線司令官兼丞相軍参謀とでも訳せる、名前と役目が一致した具体的な「役職」でした。一方の刺史は地方長官の意味ですが、このとき涼州は魏の制圧下にあったため、有名無実のものということになります。

ただ、魏延のような当時第一級の蜀の将軍を涼州刺史に任命することは、内外に次に涼州を攻めるぞと喧伝することでした。これは信長が明智光秀に日向守という役職を与えることで、次は光秀を使って九州を征伐するぞとアピールしたことを思い起こさせますね。

また魏でいうと四品官クラスの職位を与えることで、漢中に丞相府が出来たことにより、漢中太守の役目を失った魏延のメンツをたててやることにもなりました。いわば、朝廷の役職の方は、実態を伴わない位階として利用したのです。

c)についてですが、そもそも神に仕えるプリーストと、効率がよく機能的な政権運営をする政治家を両立させることは不可能なのですね。曹操が最後まで幕府の長のままでいて皇帝の位につくのを嫌がったこと、劉備の皇帝即位後の急速な消耗振り、孫権の即位後の別人のような耄碌振りを思い出してもらえばよいと思います。

イザヤ・ベンダソンは、幕府のことを日本という政治的天才の発明と表現しましたが、三国時代の幕府を調べると、その萌芽は中国で既に芽生えていたように見えます。しかし、その成果が花開いたのは日本ででした。中国の幕府は先に述べた1)、2)、3)いずれのケースであれ、必ず朝廷に吸収される運命にあり、いわばワンポイントリリーフとして使われることはあっても、恒久的なものとして続くことはありませんでした。

それはなぜか?

これはあまりも広い国土に雑多な民族の散らばる中国では、支配者に絶対的な超越性が求められたからなのだと思います。「司法」「立法」「行政」の三権を振るう根拠として、軍事力の他に、祭祀長として天と直接つながっていることを証明することが必要だったのですね。

一方、島国で単一民族であり、また基本同格の戦士階級のなかから相対的に一番強いものが盟主として選ばれる日本では絶対的な超越性は求められません。家康が神主の真似をはじめたら伊達政宗や加藤清正から、お前誰もそこまで偉くなれとは言ってないと突っ込みが入ったでしょう。

このことは日本にとっては幸いでした。相手を滅ぼし尽くすという大陸式の戦いをしなくても、相手より自分が強いということさえ証明すれば、幕府を開き、天下を取れるわけですから。政権を取るまでの過程に流れた血は、あくまで中国と比較すればですが、ずっと少ないもので済みました。

ひるがえって、現在、薄熙来政変での中国中央政権の弾圧の過酷さと、日本の維新の会の石原・橋本さんを中心とするある意味ノンビリした政局との対比を見ると、中国で政治をするということの難しさと、日本の幸せを感じずにはいられません。

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黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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