花武担 第四章 四聖(四)

 さすがに早朝の馬術の練習までは付き合わないが、太学が終わったあとは、姜維と一緒に、書物を持って簡雍邸に遊びに行く。

 子供が四人も毎日簡雍邸に居りびたるようになったので、簡雍が私塾を開いたという噂がたち、溺街の連中から塾の名前まで勝手に付けられた。豫塾と呼ばれている。四人は、簡雍が開いた覚えもない塾の門下生ということになった。街のものたちからも親しまれ、姓に朗(若様)をつけられ、姜朗、羅朗、柳朗といった風に呼ばれた。張嶷だけは、若干差別され、阿嶷(嶷ちゃん)のままである。

 その四人は、今日も、簡雍邸の楼閣で涼んでいる。楼閣は四方一間くらいの広さで、四人入るのには狭いのだが、高い場所にあるので風通しがよい。

 張嶷は、羅憲のぽやぽやとした膝を枕に寝そべり、羅憲は、張嶷の頭を膝にのせたまま、譙周の書籍を読んでいる。姜維は、欄干に腰をかけ、矢筒から矢を取り出し、一本一本矢羽の角度を確認していた。柳隠は、やや学問が遅れていて、今さら論語の素読をしている。一字一句ゆるがせにしない読み方で、実直で不器用な彼の性格が出ていた。

 やがて、馬車の音が近づいてきた。簡雍が乗っている。木製で屋根も無い、質朴な物なので、厳しい風体の簡雍が楼閣からよく見えた。

「老師が帰ってきたぞ」

 欄干に腰掛けていた姜維がいち早く気付き、四人ともワイワイと楼閣から階段を伝って降り出した。簡雍は、礼儀を煩く言う人間ではなかったが、自分が帰ったとき門下生が出迎えないと不機嫌になる。

 階段から降りると、四人は中庭に整列した。

「間に合ったか?」

 羅憲が息を切らしながら言った。

「大丈夫、大丈夫」

 張嶷は笑い、羅憲の肥満した腹をつねった。

「少し、やせないとね」

「僕は、いいんだよ、これで。阿嶷のほうこそ、もう少し食べなきゃ。老師からも、言われてるじゃないか。肉を少ししか食べないからいけないんだよ」

「牛乳も」

 姜維が付け足した。

「嫌いなものは嫌いなんだもん」

 張嶷は、舌を出した。

「しっ、もう老師が来るよ」

 柳隠が言った。李翁が門をあけようとしている。

 四人は拱手の礼を取った。簡雍が門から入ってくると、

「老師、お帰りなさい」

 と元気良く言った。

「おうおう」

 簡雍は、目を細めた。

「悪餓鬼共が、また来ておるな」

「勉強するなら、楼閣ではなく、母屋のほうでやるんじゃぞ。お前らは、すぐ高いところに登りたがるんじゃから」

 簡雍は、馬車から降りながら、そう注意した。

 四人は、素直に、書物を手に手に持って、正堂に向った。正堂では、もう簡雍が上座に座り、脇息にもたれて胡坐をかいている。
この格好で酒壷を引き寄せ、手酌で飲んでいる様は、山塞に潜む山賊のようで、怪物じみていた。

 その回りを四人が囲んだ。それぞれ、書物を持ち出し、素読や写本を始める。皆礼儀はよろしくない。柳隠はまだましだが、他は簡雍と同じで胡坐をかいたり、腹ばいになって寝そべるものさえいた。

 師弟ともに、自由気儘というのが、豫塾に流れる空気だった。

 張嶷は、周髀算経を読んでいる。以前簡雍が強奪してくれたのは、実は一巻だけで、続きを読むことができなかったが、今は、姜維達が、続きを順々に持ってきてくれている。

「また、算学の本を読んでるのか?」

 羅憲が、言った。

「だって、面白いんだもん」

 周髀算経には、垂直に立てた棒の影の長さから、太陽との距離や、北極星までの距離をはかる話が出てくる。この書籍のなかでは、太陽までの距離は、十万里とされていた。

「数ばっかりで頭が、こんがらがるよ」

 羅憲は、頭を振った。羅憲には、こんな数字の迷路のような書物を面白いという張嶷の感覚が分からない。

「この書物だって、官吏になりたいなら、必須だよ。暦を読み間違えたら、どうするの? 打ち首だよ」

 張嶷が、おどけて、羅憲の首に手刀をチョンと落とした。

「このっ」

 羅憲も、たわむれて、張嶷に組み付くと、板敷きの床に押し倒した。羅憲は大柄である。張嶷は、たやすく組み敷かれた。

「君子は器ならず。計算は、出来る人間に任せたらいいんだよ」

 羅憲は、言った。

 張嶷は、羅憲の下で、抜け出そうとウンウンうなっている。ホツレ毛が頬にかかり、頬は紅潮している。不思議な色気があった。羅憲が何やら奇妙な気分になり、力を抜いた瞬間、スルリと張嶷は抜け出した。今度は、張嶷が羅憲の上になった。

 たわむれとは言え、組み敷かれた時、強く体をぶつけられたので、頭に来ている。羅憲の肘を背中で完全に決めてやった。羅憲が「トン(痛い)、トン(痛い)」と悲鳴を上げるほど捩じ上げながら、

「周礼に曰く、君子を養うに道あり、すなわち礼楽射御書数の六芸なり。ちゃんと、数学は君子の必須条件になっているじゃないか。器ならずの言葉だって、一つの知識に偏るな、幅広く学べという意味だってあるでしょう?」と言った。

「分かった、参った、参った」

 羅憲は、降参した。

 簡雍は羅憲が難渋している様子を見ると、苦笑しながら、上座から歩いてきて、平手でピシャッと張嶷と、羅憲の頭を叩いた。

「こりゃっ、お前たちは直ぐ暴れて、大人しゅう勉強せんか」

 口では、叱っているが、目は笑っている。自分も、関羽や張飛といった連中とともに、大陸中を暴れまわった人間である。元気のよい少年達が、子犬のようにじゃれついて暴れているのは可愛くてしかたない。

 張嶷は羅憲の肘を離してやった。そして、まだ背中にまたがったまま、

「老師、勉強も飽きてきちゃった。また、先帝のお話を聞かせてください」

 と言った。

 最近、張嶷は、男友達が増えたからか、随分腕白になってきている。やはり、少年は同性の友人にこそ磨かれていくものなのだろう。

「先帝は、学問は好きでしたか?」

 羅憲が、張嶷の下敷きになったまま聞いた。

「いやいや」

 しぶい顔で簡雍は手を振った。劉備は、後漢の大儒であり、名将でもあった盧植の塾に、折角親戚の援助で入っていながら、まるで勉強せず、馬やお洒落にばかり現を抜かす道楽者であった。学生の見本にはならない。

「どのような御姿だったのですか?」

 姜維が聞いた。姜維は、涼州産まれなので、劉備の姿を人づてにさえ聞いたことがない。

「若き時は、それは涼しげな美丈夫であったよ」

 簡雍は、まぶしげな目をして答えた。若き日の英姿を思い出したのだろう。

「こんな風に」

 張嶷が手を広げた。

「手が長くて、背も高いの」

 劉備は、手を垂らすと膝まで届いたという記述が正史に残っている。また、背丈は七尺五寸(約184ンチ)あった。

「僕等ぐらいの年のときは、どんな人だったんですか?」

 柳隠が聞いた。

「たくさんの友人に囲まれておったよ。わしも、その一人じゃった。懐かしいのう」

 簡雍は、遠い目をした。

「先帝の近くにおると日向に出たような気分になるんじゃ。太陽のような人だったかな。わしらは、その回りを巡る遊星といったところかの。しかし、太陽が昇ると星が消えるのとは違った。先帝は、星ぼしを、さらに輝かせる太陽じゃった」

 張嶷は、羅憲の背中から降りると正座し、真剣な顔で簡雍の話しを聞きはじめた。思い出の中の淡い劉備の面影を、簡雍の話しの中に見つけようとしていたのだ。

 幼い日、欠け物の体をかかえ、独りぼっちだった自分に、居場所を与えてくれたのが、劉備だった。黒一色の世界から、光と暖かさに満ちた世界に連れ出してくれた。老人とは思えぬガッシリとした膝に乗せ、大きな大きな手で頭を撫でてくれた。

 劉備の膝の上ほど、暖かく安らぎに満ちた世界を張嶷は知らない。簡雍が言った日向に出たようなという言葉を、張嶷は心の中で何度も繰り返していた。確かに、幼児だった張嶷には全世界にも等しかった劉備の膝の上は、陽の匂いに満ちた世界だった。

「強かったですか?」

 姜維が質問した。いつの時代でも、男の子が最も興味を持つ事柄だろう。

「さて?」

 簡雍は、首を捻った。劉備は、必ずしも戦歴は良くない。

「正直、戦上手とは言えなんだな」

 簡雍は、正直に答えた。劉備は良く言われるように戦争に関してまるで無能というわけでは無かったが、曹操や陸遜といった時代を代表する名将には、敵わなかった。戦術面はともかく戦略というものに関する致命的な欠落が、この人物にはあったようで、曹丕にその布陣を馬鹿にされたことさえある。

「何度、逃げたことか」

 簡雍は苦笑いした。劉備軍には、景気のよい戦勝の記録は少ない。戦っては逃げを繰り返しながら、大陸中を渡り歩いたというのが実情である。

「一つの豆の葉粥を、すすり合ったこともあったよ」

 簡雍は、笑いながら言った。景気のよい武勇伝を聞きたかった子供達は、物足りない顔だ。

「それほど苦労なされたのに、何故老師は先帝から最後まで離れなかったのですか?」

 姜維が、質問を重ねた。取り様によっては、きわどい質問だ。

「それは、お前」

簡雍は答えた。

「好きじゃったからじゃよ」

「さっきも言ったじゃろ。そばにいると日向に出たような思いがしたと。何というかホッとさせるものがあったんじゃ。確かに、あの方より強い人間も、知恵のある人間も幾らでもいた。でも、あの時代、人に居場所を与えられる人間は、あの方以外おらんかった。お前達は知らんじゃろうが、黄巾の乱からの騒ぎといったら、ホントに酷かったんじゃ。お前達にだって話せない話しが山とある」

 簡雍は、ここで言葉を切った。四人は、シンと静まりかえって、簡雍の話しの続きを待っている。

「ありとあらゆる酷い事を見てきたよ。自分だって、それと無縁という訳じゃないがの。墓まで持っていかなければならない秘密も幾つも出来てしまった。人が人を憎み、恨み、嫉み殺し合う時代じゃった。強者が弱者を虐げ、虐げられた弱者が自分より弱いものを見つけ、また虐げる」

 簡雍は、姜維、羅憲、張嶷、柳隠の顔を一人一人見ながら、話しを続ける。

「親兄弟を殺された子供達が、生きんがために自分自身が殺人者になる。まだ、お前達くらいの年なのに、必要以上に嫌な物を見てしまい、ゾッとするような目をした子供達を何百人とわしは見てきた」

「そんな時代で、あの方だけじゃったんじゃ。一緒に居て安らぎを与えてくれたのは。雲長も益徳も、わしと同じ思いだったはずじゃ」

「あの方に統べられる民は幸せに違いない。わしらの思いは、それに尽きた。そのために、曹公とすら戦ったんじゃ。今、長人(ノッポ)が魏と大戦しようとしているが、それは、あいつも同じことを願っているからじゃ」

 長人とは、蜀の丞相、諸葛亮孔明のことである。孔明は、長身で有名だった。

 簡雍は、ここでフッと息を継ぎ、グッと酒を飲んだ。

「ちょっと飲みすぎたかの」そういうと、ゴシゴシと顔を擦った。「話しすぎたようじゃ」

「私も、同じ思いで魏と戦います」

 感動屋の羅憲が叫んだ。張嶷も目が潤んでいる。姜維と柳隠も、うなずいた。

 簡雍は、優しげに微笑みながら、呟いた。

「君子は器ならず」

「えっ?」

 羅憲が聞き返した。

「君子は器ならず。この言葉の真の意味が分かるまでは、戦うなど百年早いわ。古い詩にもあるじゃろう? 踊れぬ男に刀を持たせるな。お前達がやらなくてはならないことは、他に幾らでもある」

 簡雍は、そう言うと立ち上がった。

「お話しの続きは?」

 張嶷が、ねだった。

「酔ったわ。寝る」

 簡雍は手を振ると、奥の間に去って行った。

→ 花武担 第四章 四聖(五)

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黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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