花武担 第三章 姜維(七)

 街亭での敗報が成都に届いてから、すでに一カ月がたっていた。

 一時期は、哭礼の声が巷にやまず、街全体が潮垂れたようになっていたが、日常の慣性というのは凄いもので、無数の壮夫の死も飲み込んで、また、もとの、肥えた貴婦人が帳の奥で午睡を楽しんでいるような、成都特有の気疎い雰囲気に戻っていた。

 壷のなかの油のようにとろりと温そうな花江の流れを見おろしながら市橋を渡ると、東の大城の豪壮な宮殿群がのしかかるように迫ってくる。玉の垂木頭に飾られた、翠の甍の波の群れはうねりながら、果ては霞むほどに続き、その下では、蜀の誇る文吏たちが灰色の脳を働かせているはずだった。

 それらの宮殿群を右手に見ながら、太学のある区画を過ぎ、さらに半里ほど進むと、宮殿を囲う大城に接して、城壁の高さが半分ほどの、もう一つの小さな城が目の前にあらわれる。

 木で出来たいかにも軽そうな門扉は外側に広々と開けられていて、城壁の上の兵達も、大城のもの達のようには、鋭さがなく、姫垣に腰をかけて、ノンビリ弁当を使っている。

「ここが小城よ」

 蘭は誇らしげに言った。

 門を潜ると、沸き立つ鼎の蓋を急に開けたように、熱気がむんと張嶷の鼻をついた。四方から響く商人と客の取引の声が、鐘のなかにでも入ったように頭を揺らす。成都には珍しい、塼作りの店が軒をつらね、その間を、この地特有の一輪車を推して商品を運ぶ苦力が、縦横に行き来し、轍の綾をつくっている。

「詩に言うのよ」

 蘭はませた胸を張った。

「隧を列ぬること百重、店を羅ぬること巨千って」

 確かに蘭の言う通り、お店の数は千を超えるほどありそうだった。そのどれもが、店頭に山と商品を積み、おやじやおかみが行き交う人の袖をとらえては、やっきになってものを売り込もうとしている。

 売りものは、蜀の特産が多い。真珠を含んだカラス貝や、紐でくくられたスッポン、ヤブミョウガやサソリといった薬材に、広漢の漆園で作られた藍色に輝く漆器、さらには、西域の大夏にまで輸出されるという筇竹があった。

「ご老人、こいつは杖にいいよ」

 その筇竹を売っているおやじが簡雍に声をかけてきた。

 半丈ほどの長さに切って揃えた筇竹を束にしたものにおやじは腰かけていたが、一節、そこから引き抜くと言った。

「ほら、根元の方を叩いてみて。ねっ、普通の竹と違って身をつまってるのが分かるでしょう? それに、この通り、全然しならない」

 おやじは、筇竹を地に突き刺し、両手で握って、体重をかけてみせた。

「弓にはむいてないかもしれないが、物干しや杖にするにはぴったり。価は五銖銭で百でどうです」

 簡雍は親父から竹から受け取ると、自分で叩いてみたり、弓に弦をかけるときのように、しならせてみたりしたが、やがて、むくむくと悪戯心が湧いてきたらしい。

 やにわに「やっ」と竹を空高く放りなげた。

 そして、大刀を抜くと、電光のような速さで、空中で一閃、二閃させた。

 竹は二度、両端を切り落とされながら跳ね上がり、空で回転していたが、やがて、簡雍の足元に、見事に垂直に突き立った。杖には手頃な長さになっている。

 沿道の客達が「おおっ」と歓声をあげると同時に、「ひえっ」とおやじが腰を抜かした。切り落とされた前髪の束が二つ、はらりはらりと地に落ちる。

「気に入った。ほれ、お代だ。釣りはいらん」

 簡雍は、紐でつづった銭を数えもせず、おやじに放り投げると、杖を肩にかついで歩み出した。

「将軍、あんな、乱暴、どうかと思うわ」

 あとに続きながら、蘭が注意する。

「わしを杖がいるほどの年寄りと見よった」

「でも、欲しかったんでしょ?」

 そう、張嶷もかぶせると、

「ものはよかったからな」

 簡雍はまんざらでもなさそうに、二、三度、地に杖をつき、カラカラと笑った。

 小城をさらに進むと、筇竹の筒に収められた苧麻を紙よりも細く編んだ黄潤、華麗に染め上げられ光沢が波のようにうねる蜀錦の山、山椒魚や、ヤツメウナギ、カジキ、鮪、鱒などを入れた瑠璃の水槽、「天府の国」の異名にふさわしい文物が次々とあらわれる。

 老人と少年は、気の向いたものにすぐ引き寄せられていくので、蘭は、じゃれ癖のある小犬を二匹散歩させるときのように、終始、手綱を引き絞らなくてはならなかった。

「あ、あれ、凄いよ」

 少女と誤解した悪少年達にからまれているのを、蘭が襟首つかんで引きはがしたところだったが、張嶷は驚きの声を上げた。

 蘭が張嶷の指差す方を見ると、人だかりの向こうで、火が天高く吹き上がっている。

 簡雍はどこかへ消えてしまっていて、二人、近づいてみると、半裸の男が、大人の腕ほどもある太い竹筒を抱えていた。

 その先から、ちろちろと蛇の舌のような火が出ている。

「火井ね」

 なぁんだという風に蘭が言った。

 いわゆる天然ガスである。

 易経に「沢中火有」とある通り、天然ガスの噴出という現象は、中国では古代から認められていたが、特に四川に多く、この地特有の風物の一つになっていた。なかでも、臨邛県のものが有名で、塩井も伴って湧く場合が多いので、製塩業者が古代から燃料として使用している。

 半裸の男の抱える竹筒の根には、棒の軸が挿入されている。

 別の男がそれを持つと、ぐいと押し出した。

 ボウッ。

 と、再び、竹筒の先から、龍の吐くもののような炎が吹き上がる。

「幾らかな。買って帰ったら、李負が楽になるかも」

「駄目よ」

 蘭は、ちょっと回りを伺ったあと、かがんで張嶷に耳打ちした。

「すぐ気が漏れちゃうの。勢いも安定しないから、炭の方がずっといいわよ。回りをご覧なさい。成都の人は一人もいないでしょう」

 確かに、人だかりをよく見ると、土地のものは少なく、あおぐように背の高い山東の人間や、華奢で眼裂の切れ上がった呉の人間が多いようだった。

「このお店も本当は金物屋なのよ。火井は客引きでやってるだけなのよ」

 言っているうちに、呉人らしいものが、銭を払い、栓をされた竹を受け取った。家で待つ妻への土産にでもするつもりなのだろう。満腹したような顔をしている。

「建業についた頃には、ただの竹の筒ね」

 そう言ったあと、蘭は張嶷に片目をつむってみせた。

 二人はクスクスと笑い合った。

「おーい」

 はぐれていた簡雍が戻ってきた。

「どこへいっていたんだ。迷子になってはいかんだろうが」

「老師、それ……」

 蘭が、呆然として簡雍の持っているものを指差した。

「おお、これか。いい買い物をしたわい。火井もこうやって竹に詰めたら持ち帰れるわけだな。李翁も、李負も喜ぶぞ」

 簡雍は、竹筒を振ってみせた。

「あぁ」

 蘭は頭を抱えてしゃがみこみ、その傍らで張嶷は腹を抱えて明るく笑った。

 ボウッ。

 と、また火井の炎が、空高く吹き上がり、三人の顔を橙色に照らした。

→ 花武担 第三章 姜維(八)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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