花武担 第三章 姜維(六)

 学問については、結局、最初蘭が言ったことが正しかったようだった。

 別に体系だった教程や師がなくても、張嶷は、自分で興味を見出したことを、自分なりにやり方を組み立てて、勝手に学んでいく。

 医術は簡雍が強奪してきた書籍を熱心に読み、分からぬことがあれば、溺街にいる医者で、姚子牙というものに聞きに行った。

 姚子牙は、節だらけの樫の木の柱にぐるりと巻き付けた葦簀が、壁でもあれば、屋根でもあるという、犬も嫌がるような家に住み、昼間から酒臭い息をはき、お代も酒でしか受け取らないという人物だが、見立ても投薬も確かで、溺街のものは、妓楼の妓女も含め、何かあればこのものを頼った。時折、張嶷は、教えに請うついでに、処方の手伝いなどもさせられる。

 その際、姚子牙は、薬草や硝石をくべて、怪しげな赤色や緑色の煙の立ちこめる掘っ立て小屋のなかで、

「本当に医者になる気なら、いつでも来い。お前は筋がいい。これだけで食べていけるよう仕込んでやる」

 と言うのが常だった。

 算学の方も暇さえあれば、例の帳面を開き、様々な図形と数値を書き込んでいる。簡雍にも、蘭にもまったく理解できない世界だが、新しく手に入れた周髀についても、どんどん読み進めていっているらしく、帳面に書き込まれる図は、日を負う事に複雑になり、呪詛の文様のようにも見えるようになってきた。

 概して、張嶷という少年は、発明や規矩のことが好きで、政治学である経学には興味の行きにくい性格をしているようだった。

 学問の本道から逸れることになるのだが、簡雍も、太学の一件以来、それも無理がないと思うようになっていた。

 何せ、経学を学ぼうとすると、栗も言っていたように、その階梯の第一歩で自分を否定する文言が出てくるのである。もともと知的好奇心の強い子だが、これでは興味が失せてしまうのも仕方がない。

 簡雍は、これだけは自分も一家言を持つ、春秋経を手ずから講義してやることで、経学を学ばせる代わりとした。思弁に思弁を重ね、宙に空論を追うような他の経と違い、春秋は歴史書のため、古代の人間がどう生きて、どう死んだかが、具体的に書かれている。戦闘描写も秀逸なため、軍記物として読むことも出来、市井の哥哥(あんちゃん)でも、愛読して、一席打てるいるというものも案外多いのだった。

 呉の呂蒙も、孫権に学ぶよう促されて、最初に手に取った書籍が春秋経だった。

 ただ、学問の方はそれでいいかもしれないが、このままでは学友というものに巡り会うことが出来ない。

 人なつっこい子だが、溺街の同年代の少年達は、どうもその美貌に気後れするらしく、なかなか打ち解けてくれないようだった。

 もちろん、蘭は善良なうえ聡明な少女だが、鉄は鉄で打てばこそ鍛えることが出来る。

(同年代でよい男友達が出来ないものか)

 簡雍が、そう考えているときに、蘭が、成都西北の長順橋の当たりに、草市がたっているという話を持ってきた。

「羌族や、南蛮族の行商人がやって来て、色々珍しい物を売っているらしいわ。ちょうど小城も通るし、そこも冷やかしながら、遊びに行ってみましょう」

「小城って何?」

 この日、簡雍は朝から、関節痛が出て、張嶷に按摩をしてもらっているところだった。こわばりは強く、張嶷程度の手の力では歯が立たない。それで、張嶷は、寝そべった簡雍の上に足で乗り、背中の痛みを踏みつけて、追い出そうとしていた。

 蘭はいつもより高いところにある張嶷の顔を見ながら答えた。

「小城は、市橋を渡って北に半里くらいの場所にあるのよ。大城とは西に接して、別の城壁に囲まれてて、たくさんのお店が入っているの」

「面白そう」

 張嶷が思わず背中で飛び跳ねたものだから、簡雍は短く悲鳴をあげた。

「おいっ、もっと老人は大事にせい」

「ごめんなさい」

 慌てて張嶷は、簡雍の背中から床に直接飛び降りた。その弾みで、また、簡雍が「グゥッ」と蛙が踏まれたような声をあげる。

「ねぇ、二人で行って来ていいでしょ?」

 簡雍の許可を仰ぎつつ、もう蘭はその気なようで、細かい襞がさざ波のように光る、お気に入りの蜀錦の裙を穿き、頬にうっすらと紅を刷いていた。市場は、娘にとって、女を誇るいわば戦場なのだ。

「好、好」

 枕に突っ伏しながら、簡雍は言った。

「よかった、じゃぁ、行きましょう」

 蘭が、張嶷の手を取ろうとしたところで、

「いや、わしも行く」

 がばっと簡雍は起き上がった。額に、玉のような汗が、無数に浮き上がり、麻の襦の背中がびっしょりと濡れている。

「えっ、リュウマチなんでしょ? やめておきなさいよ」

 蘭は張嶷と行きたいわけで、老人のことがうるさい。

 しかし、簡雍は、のぼせたような顔を、白布でごしごしこすりながら、

「いや、嶷のおかげですっかり楽になった。あの薮が褒めておったが、案外空言でもないようだな。悪い汗が皆抜けたみたいだ」

「ありがとう」

 張嶷は嬉しそうに言うと、黄帝内経を取り出し、経穴の頁に書き込みをくわえた。

 一方、蘭は面白くない。

「すぐぶり返すかも」

「何を言う。ほら、腕もこの通りだ 」

「結構歩くわよ」

「はは、泰山だって一またぎだ」

 簡雍は立ち上がると、壁に掛けていた片刃で幅広の山賊が持ちそうな佩刀を取り上げた。そして、鞘から抜くと、部屋の中で、風が起こるほどに振り回し、激剣の型も幾つか見せ、最後に役者のような見栄をきった。

「な、達者なもんだろう。子供だけで銭を持って歩くなど危ない、危ない。わしも行く」

 要は自分も行ってみたいのである。面白がりの性格は七十になっても変わらない。

 張嶷は、蘭の気圧が低くなってきたのを目ざとく読むと、素早く、二人の間に身を差し入れ、両人の手を取った。

「じゃぁ、三人で行こう。友連れは多い方がきっと楽しいよ」

→ 花武担 第三章 姜維(七)

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黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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