花武担 第三章 姜維(五)

 朝廷だろうが、のっぽ(孔明)率いる丞相府だろうが、国の施設に居る人間を、自分の作ってやった砂場で遊ぶ子供程度にしか思っていない簡雍も、さすがに打擲事件まで起こしてしまうといたたまれない。太学の構内を仕事の終わった盗人のように、こそこそと走った。

 走りつつ、脳裏に甦るものがあった。

 それは、八年前、劉備の皇帝即位式のときの光景である。

 武担の南麓に築かれた壇の上、文武百官の歓呼の声のなか、劉備は皇帝となったが、簡雍は、あれほどつまらなそうな顔をした旧友を見たことがなかった。すでに関羽は亡く、張飛も任地の閬中の情勢不穏で出席することが出来なかった。さらに言うと、張飛には、その数ヶ月後に部下の手によって横死する運命が待っている。それで、旗揚げ時の五百人のうち、哥哥の夢の結末を見たのは、簡雍だけだった。

 本来、哥哥の回りに居るべき五百人の壮士の代わりに群れ集っているのは、黒い儒服を着た、青衣侯の向挙、従事祭酒の何宗、議曹従事の杜瓊といった学者達だった。夢の骸を貪りに来たカラスの群れのように見えた。

 それら、カラス共の首魁というべき男に、許靖というものがいた。

 太傳、皇太子の守り役という、国の最高職ではあるが、何の権限もない役職についていたこの老人は、かつて従兄弟の許劭とともに、人物評で名を売ったという、過去の評判以外に何の内容もない見事な愚物だった。

 一時、董卓のもとに仕えていたが、彼が推挙した人間がことごとく挙兵し、謀反を起こしたため、危うく殺されそうになっている。別に魂胆があってのことではなく、許靖にとっても意外なことであったらしい、慌てて董卓の元を逃げ出すと、あとは各地の群雄の元を転々とし、乱が及びそうになると逃げる、ということを繰り返した。

 最後には流れ流れて、蜀の劉璋のもとに仕えることになったが、劉備入蜀の際、陥落直前の成都からまたも脱出しようとして、とらえられた。

 劉璋降伏後、劉備のもとに引き出されたが、彼もさすがに、任用するのを嫌がった。だが、参謀の法正が、「これでも虚名があります。彼を任用しなかったら、君子を軽んじていると、中原の名士が騒ぐでしょう」と言ったため、やむを得ず、起用することとなったという人物である。

 簡雍はこの男を完全に弱虫毛虫扱いし、同席するのも嫌がった。たまに同じ席になると「死に損ない目」と人前で罵ったが、やはり、名士というのは、心の置き所が常人と違うようで、あまり痛痒も感じていないようだった。

 そんな虫けらのような男が、大学者であるという虚名により、式典の最も華やかな席に座り、その全てを麾下の学者達と取り仕切っているのである。実務においては鉄腕という他ない孔明も、礼法の知識はさほどで、学者連の言うことを聞くほかないようだった。

 五色の玉簾のある冕冠と、黄色の裾長の冕服を着て、カラス共に囲まれた劉備は、荘重というより、道化じみて見えた。

(あの樫の木の下で願ったことのとどのつまりがこれか)

 と、思うと、簡雍は、可哀想で仕方がなかったことをよく覚えている。

 足元の石をひとつ簡雍は蹴った。

 いつの間にか、太学の正門まで来ていた。

 下校しようとする諸生を乗せる馬車のために門前は混雑し、御者達の怒号が響いている。

 簡雍が門を潜ると、ちょうど、きわどいところを馬車が通り過ぎた。

 馬があがいたので、御者が馬上から鞭を振るおうとしたが、さすがに老人と見てそれは遠慮し、

「爺、気をつけろ」

 と、罵った。

 簡雍は道の脇にそれてやりながら、いわば天敵であった、許靖のことをさらに考えていた。

 その後、許靖は、蜀で高禄を食みながら、実質的な仕事は何もせず、ただただ、王郎や華歆や陳羣といった中原の名士達からの手紙を心待ちにするという、むなしい晩年を過ごし、昨年ようやくその空虚な人生を閉じた。

 これが、成都の太学の初代博士祭酒(大学総長)である。

 洛陽のものを模しただけで、何の独創性もない、この太学は、中原の乱から逃げ続けながら、その中原を恋い慕うということだけはした、無内容な男の人生そのもののようだった。

 道の脇を進んでいくと、ちょうど目の前に、後漢の太学者であった蔡邕の石碑の「写し」があった。簡雍の背の二倍ほどの大きさがある。

(何が、蔡邕じゃ)

 簡雍は思った。

 詩・賦・碑・誄・銘・贊・連珠・箴・吊・論議に通じた後漢最大の大学者であったというが、乱世に対して何ほどのことも出来なかった男である。後漢末期の朝廷に仕えたが、董卓と王允の争いに巻き込まれ、手もなく殺されてしまっている。

 簡雍は石碑の側に植わってある、槐の木を見た。高さは一丈、石碑ほどあり、幹の太さは大人の腰ほどもあった。その幹を二、三叩くと、簡雍はがっしりと抱きついた。

「おい、あれを見ろ」

 徒歩で帰る途中らしい、諸生の群れが笑いさざめいた。

「爺さんが、蝉みたいに木に抱きついてるぜ」

「おい、爺さん、ばあさんと勘違いしてるんじゃないのか。もっとも、虚があったら、ばあさんよりは、よほど具合がいいかもしれんが」

 罵声を背中で聞きながら、簡雍は筋肉を緊張させた。

 みしみしと木が震えだし、ぱらぱらと葉が落ち始める。

(何が太学じゃ)

 心のなかが、太学が象徴するもの、例えば、名士や学者、学問といった、つまりは、彼や関羽や張飛に意地悪ばかりしてきたものどもに対する怒りで満ちてきた。

 根が土を盛り上げ、つち固めた道にいくつものひび割れをつくる。

 先ほど簡雍のことを嘲った諸生達の顔色が変わり、望楼のうえの兵士が、異変に気づいた。

「おい、お前、何を」

 兵士は望楼の縁から身を乗り出しながら叫んだ。

 しかし、簡雍は構わず、

「ええい」

 と、気合い一閃、ついに槐の木は引き抜かれた。

 彼は、それを丸抱えにすると、うなりをあげさせながら横薙ぎした。

 木は、ちょうど蔡邕の石碑の、孝経、開宗明義章の冒頭の部分、あの栗が言った言葉、「身體髮膚、受之父母、不敢毀傷、孝至始也」の部分に直撃した。

 石碑は粉々に砕けた。

 さらに基盤の部分が倒れて、別の石碑にあたる。

 ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。

 将棋倒しがはじまった。

 先ほどの諸生が巻き込まれそうになって、悲鳴をあげながら逃げ惑う。

 望楼の兵士が「ひぇっ」と、素っ頓狂な声をだして、階段を駆け下りようとしたが、足を踏み外し、転がり落ちた。

 有り難い六経は次々に塵芥に帰し、聖賢の言葉は空に消えた。

 将棋倒しは、石碑の側に停めていた馬車にあたって、ようやく終わったが、それまでに、四十六枚、総字二十万字の石碑のうち、二十枚、八万五千字が失われていた。

 あまりの惨劇に、その場にいたものは、皆声がない。

 公達達は、白昼に魔物を見るような目で、天災のような災害を一人でなした老人を見ている。

 簡雍は、槐木を放り投げると、それらよいとこの坊ちゃん達に、はらわたまでひっくり返りそうな大声を出した。

「何を見てやがる!」

 徒歩の諸生達は大慌てで逃げ散り、あれほど、混雑していた馬車の群れ共は、誰が整理したわけでもないのに、生前と列をなして駆け去っていく。御者達は、皆、奇妙に生真面目な顔をしていた。
 望楼の兵士も、ようやく地に降りてきていたが、何と彼まで這々の体で逃げ去った。


「あっ、帰ってきたよ」

 張嶷が、院子から庭園へと入る小門を潜ってくる簡雍をめざとく見つけた。

 もう一番星が東の空にまたたくような時刻になっていたが、まだ蘭と張嶷は簡雍が帰ってくるまでは、と庭園で頑張っていて、李負が「夕餉はここで澄ませましょうか」とあずま屋の卓のうえに魚油の入った油皿を置いたところだった。

 簡雍は、いつになく肩をいからせながらこちらへ歩いてくる。

 彼があずま屋に着くまで待ってから、蘭は声をかけた。

「ねぇ、太学の選科のことなんだけどね」

 簡雍は、席につくと、幘(さく)をほどき、ざんばらになった、頭をいらだたしげにかきむしりながら、

「何、太学だと。あんなもの馬鹿が行くところだ」

 と、言った。

「ええっ」

 蘭は思わずぽかんと口を開けた。

「学者も諸生も行ってみたら、皆、青二才ばかりだ。しわのない、犬のような顔をしてやがる」

「だ、だって……いい師と友達に会えるところだって言ってたじゃない」

 蘭と張嶷は、最初、太学に行くことに気乗りしていなかったが、何を専攻しようかなどと話しているうちに、興に乗り、今はすっかりその気になっていたのだ。

「春秋経を専攻しようかな、と思っていたのだけど」

 そう張嶷が言うと、

「それなら、わしが教えられる。雲長のやつが詳しかったからな」

 簡雍は、たもとから、奪ってきた本を出して、卓子の上に置いた。

「ほれ、お前が欲しがっていた本だ。学問なんて場所を問わず、自分で出来る。国の禄をもらってるくせに、世俗のことには関わらず、なんて嘯くやつから何を教わることがあるか」

 簡雍は、李負から、酒壺を受け取ると、杯にもつがず、直接縁に口をつけてあおった。そして、大きなのど仏を盛んに上下さて、あっという間に飲み干してしまうと、対岸の太学を指差しつつ「いいか」と言った。

「いいか、あんなもの馬鹿が行くところだ」

 蘭と張嶷は、顔を見合わせて、「はぁ」と溜息をつくほかなかった。

→ 花武担 第三章 姜維(六)


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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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