花武担 第三章 姜維(三)

 太学は、簡雍の屋敷とは花江を挟んで、ちょうど向こう岸の、市橋を渡ってすぐの場所にある。

 花江沿いの、若葉をつけた槐の並木道を進んでいくと、にきびを頬に浮かせた諸生の数が多くなってきた。皆、裾の長い儒服を着、帯にこれみよがしに書刀を差し挟んでいる声高に笑いながら群れ歩いているもの、花江の岸辺で詩吟をうなっているもの、車座になって激したように議論を交わしているもの。若者特有の乱雑さで、そこら中に精気が漲っている感じだが、どこか心許なく、元気な猿が飛び回っているように見えなくもない。

(おうおう、いいところの坊ちゃんどもが)

 簡雍はふんと鼻を鳴らした。

 大抵が、蜀郡や広漢、犍為といった富裕な地に荘園を持つ良家の子息である。それも、完全に蜀土着の家というのは少なく、ほとんどが、真偽は分からぬながら、本籍が中原にあるという家祖伝説を持っている。自分が、この西南僻遠の地でぼうふらのように湧いた家ではないということを主張したいのであろう。

(英雄豪傑ぶってはいるが、どこまで骨のあるやつらか)

 簡雍は、壮士時代のように、わざと肩を怒らせながら、道の真ん中を大股で歩いてやった。政治談義に花を咲かせながら、道一杯に広がって歩いて行く若者達も、この怪物のような老人を見ると、慌てて道を避ける。

(へっ、腰抜けめ)

 いくつもの若者の群れを裂き、無用な威嚇を繰り返しながら、簡雍は、やがて、太学の正門の前についた。

 道沿いには、例の蔡邕の筆による石碑が並び、門の両脇には天突くような望楼が構えられている。学生の分際で馬車や輿で乗り入れるものも多いらしく、門前には、豪華な馬車が何十台も停められていた。広々と開いた門扉の間から、玉の垂木頭を輝かせた、青丹の学舎の屋根屋根が見える。

(なんだい)

 簡雍は、寒門出と、無学者の悲しさで、気圧されてきた。朝廷をはじめとする、数多の権威ある役所は、自分が実際に仕え、(何だ、こんなものか)と実態も知っているので、劣等感も恐怖も感じないが、太学は考えてみれば、来るのが初めてである。自分の少年時代、太学というのは、子供の心の届く範囲で、もっとも偉いものだった。そのため、怖じ気も、子供の部分で感じてしまう。

 厳父に呼び出された子供が、その正房の前で、戸を叩くのを逡巡するように、門前でまごついていると、四人の力夫に担がれた輿が出てきた。

 なかでは、でっぷりと太った若者が座布団にもたれかかっている。彼はつまらなさそうに簡雍に一瞥をくれたあと、かじっていた紫の梨のへたを放り投げた。へたは、別に狙ったわけでもないだろうが、簡雍の足元に落ちた。

 常なら、若者を引きずり出し、拳骨の二、三発もくれてやるのだが、今は、どうしても気後れしてしまって、

「けっ」

 と、へたを蹴り飛ばす程度のことしか出来ない。

 簡雍は、しばらく、行き過ぎてしまった輿を睨み付けていたが、やがて意を決すと、太学の門を、まるで、矢の雨が上から降る、敵方の城門であるかのように、大急ぎで、早足でくぐり抜けた。

 成都の太学は、一町(五万平方メートル)あったといわれる後漢のものほどではないが、それでも六十畝(三万平方メートル)の広さがある。南門から入ると、甍の波に呑まれ、北の境が見えない。敷地に敷き詰められた玉砂利も、陽を反射して、目に刺さるように眩しい。

(手続きはどこでやるんだ?)

 簡雍は、知らない家の、大部屋の真ん中に放り出された猫のように、うろたえる感じだったが、道行く学生たちに場所を聞こうとしても、皆恐れて近寄ってこない。

(どうしたものか)

 普通、太守府でも、どこでも、官制の役所は、正門の脇に、帳簿を司る胥吏の曹を構えている。ここでも、正門の右脇に、他と違い、素読の声の聞こえてこない、しんと静まり帰った赤壁の建物があった。

(多分、ここだろう)

 簡雍は、当たりをつけると、そこへ入っていった。

 果たして、なかでは、黒色の官服を着た下級官吏達が黙々と仕事をしていた。生きた人間がいるのかと思うほど静かで、しわぶきと、シャッシャッと墨を摺る音しか聞こえない。

「頼もう」

 簡雍は梁の震えるような大声を出した。

 文机を前に、筆を走らせていた官吏達は驚いて手を止めると、写しもののように、特徴のない、灰色の顔を、声のする方に向けた。墓域の闋(けつ)にその姿を彫り抜いたら、魔除け代わりになりそうな恐ろしげな老人が立っている。

(なんだ、この爺は)

 とでも思ったのだろう。官吏達は、しばらく、ひそひそと声を交わしあっていたが、やがて顔を伏せると、再び筆を走らせはじめた。

「頼もう」

 聞こえなかったのかと、再び、簡雍が大声をあげる。

「頼もう、頼もう、頼もう」

 戦場で鍛え上げられた胴間声が、何度も何度も建物のなかで響く。硯のなかの墨はさざ波をたて、紙は太鼓の皮のように震えた。たまりかねた官吏の一人が、簡雍のもとに歩いてきた。下ぶくれた顔で、頭頂が尖っている。蜀の地に多い顔付きの一つで、どこか栗に似ていた。

「ご老人、何でしょうか? 私が用件を伺います」

「おお、やっと生きた人間が出てきたか。あんまり静かだから、わしはついに墓穴に入ってしまったかと思ったぞ」

 栗は軽口にちょっと面食らったような顔をしたあと、むしろの席を簡雍のために敷いてやりながら、

「皆、役目を持っておりますので……ま、まぁお座りください。して、御用の方は?」

「すまんな。いや、実は、ここで学ばせたい子がおってな」

「左様で。あの、当部署は金曹で、太学内の金銭出納を扱うところなのですが……」

「金曹か、太守府にもあったのう。胥吏のなかで一番仕事の出来るやつが行く部署だったな」

「有り難いお言葉で。それで、あの、ここでは入学の手続きは取り扱っていないのですが……」

「何? 面倒臭いことを言う。老人がわざわざ足を運んでやって来ているのだぞ。諸事、簡潔にやってくれ。わしが若いころは、一人の人間が、いくつもの職を兼ねるのがあたりまえだったぞ」

「ですが……」

「やれ」

 栗は後ろを振り返ったが、同輩達は、皆関わり合いになるのを恐れて顔を伏せている。やむなく、栗は、

「ま、まぁ、取りはからっておきましょう」

 と言った。

「で、御資格はございますか?」

「御資格? 何じゃそれは?」

「あのご老人。太学に入るには三つの条件がございまして、そのどれかを満たさなくてはなりません。一、年十八以上の儀仗端正なる者で太常(文部大臣)によって選ばれた者、一、地方郡国県などで、文学を好み、長上を敬い、政教をつつしみ、郷里に違背せず、行動が礼にかなっていること評判通りの者で、県令、侯国相、県長、県丞の報告をもとに、群太守、国相が可とした者、一、六百石以上の官吏の子弟たる者。このいずれかです」

「おお、それなら大丈夫じゃ。その者の身元は牂牁太守の馬忠めが保証しておるし、かく言うわしは口幅ったいが昭徳将軍。禄二千石をお上から頂いておる身だ。ほれ、これが印綬だ」

 簡雍は、将軍号を持つ人間であることを示す銀印青綬を栗に見せた。

「やや、将軍殿でございましたか」

 栗は裾を払って、辞儀を正した。

「姓名を簡雍という」

 簡雍は、ひしゃげた鼻を天井に向け得意げに言った。

「それは、それは」

 栗は感嘆した風な声を出したが、響きに重みがない。どうも、簡雍のことを知らないもののようだった。

(元勲の一人を知らんとは)

 簡雍は心外に思いつつ、

「牂牁太守馬徳信、昭徳将軍簡憲和。禄二千石が二人ながら推薦しているのだ。問題はないな? そうであろう?」

「おっしゃる通りで。では、諸生殿の名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「おお、肝心なことを言うのを忘れておった。性を張、名を嶷という。字は、字は……」

 そういえば、字がまだ決まっていなかった。どうしたものかと一瞬迷ったが、字は通常、師がつけるものだ。この際、ここで決めてしまっても、問題ないだろう。

「伯岐だ」

 長男につける伯と、今、孔明率いる蜀漢軍が、目的としている場所、岐山の頭文字を組み合わせ、たちどころに簡雍は字を決めてしまった。

「はいはい、張伯岐殿と」

 栗は一枚札の竹簡を取り出すと、先頭に、一行で姓名字を書き写した。

「本籍、年齢、人相、身長、あと目立つ身体の特徴もお伺いします」

「そんなものもいるのか」

「それがないと、推薦されたものが、本当に本人かどうか分かりませんので」

「それもそうか。ええと、本籍は巴西郡南充県。年齢は十四。人相は、色白で、女のような顔をしておる」

「おひげは?」

「ない」

「無髭で白面にして容貌秀麗と。身長は?」

「これくらいじゃな」

 簡雍は自分の肩の辺りで、手をひらひらさせた。

「六尺ほど。他に目立つ身体の特徴はございますか」

「ふむ、身体の特徴ねぇ。まぁ、目立つ子だよ。不幸なことに去勢されてしまっているから、外見はほとんど娘と同じだ」

「去勢された、と。えっ、何ですって?」

 栗が甲高い声を出して聞き返してきたので、簡雍はうるさそうに答えた。

「だから、幼少の頃に悪人から去勢されてしまっているのだ。別に、何か罪を犯したわけではない」

 栗の顔が、羹に水をぶちまけられたように白々しくなった。

「簡将軍殿。どうも、このお方は諸生としては受けかねます」

「何、何だと? 先ほど、お前がいった条件だと問題ないではないか」

「これは条件以前の問題です。よろしいか。諸生として最たる前提になるものは、孝廉と同じく、孝であることでございます。身体髪膚(しんたいはっぷ)之を父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり。張伯岐殿は、故意ではないにしろ、既に孝の最初の階梯を踏み外しておいでです」

「しかし、この子は父母の顔も知らないのだぞ。捨てられた可能性すらある」

「父母愛なくとも、子孝たるべしでございます。何と言われようと規則でございますから」

 簡雍はさらに抗弁、もしくは腕力に訴えようとしたが、栗はすでに無感情な官僚的顔付きになっている。威そうが殴ろうが、何の鳴き声もあげそうにない。

「ええい、お前では話にならん。竹簡をよこせ。教授共と直接話をつけてやる」

 簡雍は栗がまとめた竹簡を取り上げた。

 荒々しく床板をきしませながら、出口に向かっていく。

 部屋の中が「やっと狂人がいなくなった」といったような、安堵の空気に包まれていくのに腹が立って、戸口を出るとき、一度振り返ったが、栗はもう席に戻ってしまったのか、部屋のいずれにいるか分からなくなっていた。どうも、集団に紛れると、たちまち消えてしまう顔で、人であったらしい。

→ 花武担 第三章 姜維(四)


ネット小説ランキング>【登録した部門】>花武担

この記事へのコメント

トラックバック

URL :

三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ご意見、ご感想はこちら。必ず返信します

名前:
メール:
件名:
本文:

works
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR