潁川の名士

三国志の名士を調べているうちに思ったことを、とりとめもなく。

有名な三国時代、当時、時代の主役だったのは名士層と言われる人達でした。色々と定義はあるかと思いますが、ざっくり言ってしまうと、1)豪族(大農園経営者)で、2)読書階級で、3)過去に中央政府に人材を輩出した家系で、さらに4)他の名士達から名士と認められている、人達です。

魏なら郭嘉、司馬懿、呉なら周瑜、張昭、陸遜、蜀なら孔明、劉巴などが、それに当たります。

公教育が発達していない時代は、やはり氏素性が一番の教育機関となります。彼らの家には代々積み重ねてきた豊富な蔵書があったでしょうし、先祖が役職についたときの行政記録も残っていたはずです。また、名士同士で縁戚も重ね、その人的ネットワークも強固なものでした。

この名士層にも、ワインや牛肉のように出身地による階級があり、質量ともに最も高いと言われていたのが、潁川出身の人材達でした。

ざっとあげてみると、荀彧、荀攸、鍾?、郭嘉、陳羣、郭図、淳于瓊、辛評、辛毘、徐庶、司馬徽 等々、錚々たる顔ぶれです。他にも、彼らより、一つ上の世代になりますが、党錮の禁で弾圧された清流派知識人、陳蕃、李膺なども、この地の出身でした。また、あの魔王董卓の父親が、ここで役人をしていたりなんかもしています。

潁川は、現在の河南省許昌市にあたり、後漢の行政区分でいうと豫州になります。首都洛陽のすぐ西南の土地です。曹操の出身地、沛国?県の東隣に位置する場所でもありました。中原のど真ん中ですね。当時、中国で大きな経済圏は、三つありました。中原から山東・琅邪にかけての中原地帯、長安を中心とする関中地帯、最後が成都を中心とする蜀地帯ですが、そのなかで最も生産力の高く、重要だったのが、中原地帯でした。

潁川が人材の輩出地帯になったのも、この高い経済力によるものです。

ただ、後漢末の動乱期、この豊かな土地が一転地獄絵図に変わります。まず黄巾の乱が潁川を拠点として発生、朱儁や皇甫嵩率いる官軍と黄巾党との戦いの主戦場となります。また董卓と反董卓連合軍との戦いの際にも戦場となり、剽悍きわまりない涼州軍に荒らし回られることとなります。

また気候においても、漢やローマの繁栄を産んだ、古代温暖期が終末を迎えていました。その結果、土地の生産力が落ち、飢饉が発生します。これは、全ての経済圏で起きたことでしたが、中原は最大の人口を抱えていたために、最も悲惨な結果となります。次々に村落が放棄され、難民が産まれ、難民の集団がまだ食料の残っている村を襲い、また難民が産まれます。この凄惨な玉突き現象はついに、青州兵のような、百万単位の大難民群を産むまでに至ります。

こうなると蝗の大群のようなもので、どこの群雄も彼らを抱えるのを嫌がり、袁紹に利用されたり、公孫瓚にたたきのめされたりと、さんざんな目に会っていました。後に、曹操が彼らを吸収し、自分の配下としたことが、彼の躍進のきっかけとなるのですが、そのことはまた別の機会に詳しく話そうと思います。

つまり潁川は、後漢末の動乱の被害を最も大きく受けた場所でした。曹操の「蒿里行」という詩に、「鎧甲は蟣蝨を生じ、萬姓は以て死亡す。白骨は野に露われ、千里に鶏鳴無し。生民は百に一を遺し、之を念えば、人の腸を断つ」という一節がありますが、この頃の潁川の詐らざる光景があらわされたものかと思います。

曹操は、群雄のなかで、潁川出身の一流の名士層を取り込むことに最も成功しますが、彼の勢力のどこか鬼気迫るような迫力は、故郷の土地を復興させたいという、名士達の願いによるものだったのでしょう。

それを考えると、呉・蜀もまた、中原の名士を取り込むことにある程度は成功していますが、彼らは、結局のところ、争乱の土地を「逃げ出した」人達でした。魏・呉・蜀の領土の大きさの違いは、留まった人達と、逃げ出した人達の、中原にかける思いの差、だったのかもしれませんね。

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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