花武担 第二章 簡雍(三)

 少年が昨日自邸を訪ねてきたとき、簡雍は非常な驚きを持って迎えた。

 街亭での敗報の詳しいところを聞き、怒りを含んだ、悪い昼酒を正房の榻のうえで、飲んでいる最中だったが、春の風にそそのかされて首を折り、はっともたげたらもうそこにこの美しい生き物がいた。

 蜀錦の帳をまいあげ、梅の花や、柳綿とともに吹き込んだとしか思えない、山精のようなあらわれ方だった。

「何じゃ、お前は?」

 簡雍は佩刀を引きつけつつ聞くと、

「馬忠が貴方の世話になれって言ったの」

 と、謁と文を渡してきた。

 受け取ると、そのまま、榻の上、簡雍の隣に座る。

「お前」

 簡雍は怒ろうとしたが、春の酒と生き物の美しさもあって、まだ、半ば夢のなかにいるような心地にいる。

 簡雍はさすがに少女と見まがうようなことはしなかったが、それにしても面妖な出で立ちである。少年は、羊毛の外套を羽織り、縮れの襦、麻の軽やかな胡(ズボン)、そして親指と人差し指で挟む蛮族式の下駄をつっかけていた。

「読んで」

 と少年は桃色の唇を開いて短く言った。

 簡雍は謁に「弟子馬忠再拝、問起居、字徳信」とあるのを確かめてから、やむなく文を読み始めた。

 文は確かに見慣れた馬忠の筆で、武人らしく簡潔に用件がまとめられている。

 その簡素で実際的な文章を見ているうち、心が現実に戻ってくるようだった。

 要は、この張嶷という通貞を預かって、成都で遊学させろと言うのである。

 簡雍は一つ上の世代、いわゆる清流派の知識人達のようには、宦官に対する憎悪に似た悪感情はなく、また、それを持つほどの接触もこれまでなかった。

 精々が、曹操と劉備の蜜月時代、洛陽で献帝に仕えていたころ、たまたまこの人種が、配膳する宴に、二、三度出た程度である。その際、「欠」とか「不足」と言った言葉は宦官の前では厳禁であることは知らずに、うっかり自分に渡された杯の口がかけていることを、役目のものに言ってしまった。

 その宦官は自分への当てこすりと取ったのだろう。眉の薄くノッペリした顔を涙に濡らしながら、

「ひどうございます」

 となじってきたものだった。

 簡雍は慌てて様々に謝り、機嫌を取ったが、宦官は婦人が嘆ずるときのように、くねくねと身もだえし、「ひどうございます。ひどうございます」と繰り返すばかり。結局、間に劉備が入り、場を取りなした。

 その際の、憎悪とまではいかなくても、何か海綿とか、蚯蚓といったいった軟体の動物の粘液を浴びたような、不快な気持ちはよく覚えている。簡雍は、劉備や関羽や張飛といった、とにかく男臭い連中と、とにかく男臭い生き方をしてきた人間である。陸に打ち上がった蛸のような人間と、この年になってから一緒に暮らすというのはやりきれない。

(嫌だな)

 そう思ったとき、肩に柔らかい重みがした。

 見ると、少年が簡雍の肩にもたれかかっている。口を天井の方にあげ、「くー、くー」と案外猛々しい寝息をたてていた。そこで初めて、簡雍は少年のいた牂牁が成都とは千里も離れた遠隔の地であることに思い至った。疲れていたのだろう、寝顔はいかにも放恣であどけない。

 簡雍は手を叩いて、李翁を呼んだ。

 李翁は少年を見て驚いたようだったが、簡雍は「馬忠の縁者のものだ」と短く説明し、温めた漿と、顔と足をあらうための湯を持ってくるよう言いつけた。

 そこまでしてようやく簡雍は少年に対し、山精でも、また、不快な宦官という生き物でもなく、あたりまえの子供として見ることが出来るようになった。

(劉哥哥が可愛がっていた子でもあるし)

 文には劉備の白帝城の最晩年、親鳥が雛鳥をその羽で抱くようにして、この子のことを慈しんでいたということが書いてあった。馬忠に養育を頼むときも、

「この子は君と同郷の巴人のようだ。年は離れているが、私の元に同時期に来た同輩ということになる。よろしく育ててやってくれ」

 と言ったらしい。

 また、その際、劉備はこの子の才能を高く評価し、

「蜀の王ともなるべき才能を持っている」

 と述べたという。

 まだ、十に届かぬ幼児をつかまえて才能も何もないようだが、こと、人を見る目にかけては、曹操すら「かなわない」と言った劉備の言である。目利きの美術品への評のように、そのことだけで、もう対象物は神秘性をおびてくる。実際、関羽も張飛も旗揚げ時の五百人のなかにたまたま彼らがいたというより、五百の泥のごとき素材のなかから、劉備による選別と練磨を経て関羽と張飛になったように思う。

(考えてみるか)

 簡雍は少年の庇護者になるということを、一つ前向きに考えてみようという気になってきた。

 それに、一口に宦官といっても、史記を書いた司馬遷、紙を発明した蔡倫などという豪傑がいる。また、後漢三代目皇帝、和帝はやや線の細いところはあったものの、内には善政を敷き、外には異民族との融和をつとめた名君だったが、彼を補佐し、実質的に政治を切り盛りしていたのが、鄭衆という宦官だった。

 さらにいうと、後漢末期、劉備が太守をつとめたこともある譙県にとある一族がいた。彼らは、かつての元勲の子孫達だが、今は中央どころか県長といった地方官程度の役職にも就くことの出来ないほど落魄していた。一族の長達は、将来を悲観し、非常の手段に打って出た。

 一族のなかで最も英邁な子供を宦官として朝廷に送り、いわば搦め手から皇帝という至高の存在に近づこうとしたのだ。

 その少年は一族の長達のあつまる部屋に呼び出され、「このたくらみ如何?」とのしかかるように聞かれたらしい。長達は古錆びた老木が凝り固まって人になったような老人ばかりで、対する十三の少年は楚々として花の如き美々しさだったという。風景としてこれほど悲惨なものはないが、少年は黙って透き通るような笑顔を浮かべると、厠に一人で行き、白い小魚のようなそれを我が手で掻き切った。

 そして、少年は一人洛陽まで旅して、後宮に入り、そこで好運にも皇太子の学友となった。皇太子は、凡庸で、学問はむしろ少年の方が上達がはやく、ときに、少年は皇太子に「これはこういう意味です」といった風に、教えてやるようなこともしてやったらしい。年は少年の方がやや上である。皇太子は平凡なりに善良な性質で、人の庇護心を掻き立てるようなところがあった。自然、少年と皇太子は、君臣の枠を超えて、兄弟のような感情をお互い持つようになったらしい。

 後に皇太子は外戚の害のために一時廃嫡されるのだが、少年は、魑魅魍魎の渦巻く密林のごとき後宮を駆け、時に、宦官ながらも、腕力を振るうようなことすらして、皇太子を皇帝の位につけることに成功する。その功で、彼は、宦官にとっても最も最高位となる役職、大長秋にまで登り詰めた。

 この少年の名を曹騰という。

 曹操の義祖父にあたる人物である。

 曹騰は栄達の後、長の思惑通り、一族のものを芋を引っ張り上げるようにして、次々と要職につけた。これが、今中原で時めく、曹氏、夏侯氏の栄達のきっかけになったわけだから、魏という国自体、ちっぽけな少年の凄惨極まる自己犠牲から始まったといってもよいかもしれない。実際、曹騰は、魏で高皇帝を諡されている。

 曹騰は縁者のなかから、曹嵩というものを養子に取った。この嵩の子供が曹操である。曹操が成人するまで、曹騰は健在で、この祖父は一族の生ける氏族神のような扱いを受けていた。曹操の人格形成に、曹騰は、直接、間接の影響を与え、彼の果断さや性格の激しさ、英邁さといったものは、実父を飛び越えて、むしろ義祖父に似ていたという。

→ 花武担 第二章 簡雍(四)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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