花武担 第二章 簡雍(二)

「将軍!」

 高く澄んだ声に簡雍は我にかえった。

 たちまちに、死臭は遠くなり、空気は優しくうるんだ。凍てついた黄土のかわりに、今踏みしめているのは、四川の肥沃な赭(しゃ)色の土だ。春霞みのなかに、梅や桃、篠竹の濃い淡いが眩しい。遠く霧の向こうで、黄金の微塵が舞っているのは、この国の異国情調を決定的なものにしている、火井(かせい)だろう。

 酒を入れた瓢箪を肩に担ぎ、庭園の道を歩いているうちに、意識は遠く三十年前の中原に飛んだようだった。

「どうしたの?」

 二人の小さな巴蜀の野蛮人が、よく光る黒い瞳を四つ並べてこちらを見あげている。彼女達は、庭池の畔の菜の花の柔らかく茂ったところに座り込んでいた。花穂を結びあわせて作った花輪と、草相撲のあとの車前草のちぎれたものが幾つか散らばっている。

 簡雍は顔を一つ撫でたあと、

「ちょっと昔の夢を見ていたよ」

「どんな?」

 少女が悪戯っぽく笑いながら訊いてくる。

「さぁな。若者の夢の数だけ、老人には秘密がある」

 簡雍が箴言じみたこと言ってごまかすと、少女達は顔を見合わせてくすくす笑った。

「ねっ、言った通りでしょ? いつもこんな風に昔のことは取り紛らわしちゃうのよ」

「ホントだね」

「何だ、お前達、もう馴染んでたのか?」

 二人のひどく打ち解けた様子に簡雍がそう言うと、蘭は手を伸ばして、張嶷の肩をとらえ、頬を寄せあうことで答えにした。

「童子はすぐ垣根のなくなるものだな」

 簡雍は、瓢箪を担ぎなおしたあと、築山の方へ歩き始めた。

 蘭と張嶷もついてくる。

 何がおかしいのか、二人、小鳥のさえずりように、後ろでクスクス笑いあっていた。

 いただきのあずま屋につくと、三人は、陶器の椅子に座った。

 簡雍は手酌で飲み始め、蘭はそれにあわせて、店から持ってきた松の実を卓上に直に撒いた。

「だいたいのところは紹介しあっているのかな?」

 蘭の方が質問を引き取った。

「ええ、名前くらいはね。でも、将軍、こんな可愛い子どこで拾ってきたの?」

「可愛いってお前、男の子だぞ」

「男の子といっても……」

 と、何か言おうとして蘭は続く言葉は飲み込んだ。むきつけなことを言いそうになったらしい。もう一度仕切り直して、

「山精みたいに綺麗でしょ。本当に女の子みたい。私初め誤解してしまったわ」

「誤解って?」

 簡雍が聞くと、蘭は張嶷と顔を見合わせたあと、ペロッと舌を出した。

「馬鹿馬鹿しい」

 簡雍は苦笑した。

 張嶷は分からないらしい。きょとんとした顔だ。

「まぁいいわい。年も近いし、仲良くなってもらおうと思っていたのだ」。

 簡雍は手を伸ばすと張嶷の細い顎をつかんだ。

「改めて紹介しよう。この子の性は張、名を嶷という。色々と事情のある子でな。父母は分からないが、恐らく巴の生まれた。先帝が夷陵で破れたあと、黄元というものが漢豊で叛いたことがあったのだが、それを手ずから鎮圧した際に、彼奴の城でひろいあげ、手元で可愛がっていたらしい」

「そうだったんだ。それで」

 蘭が独り言のように呟いた。

「うん、どうした?」

 簡雍が聞くと、

「いえ、何でもないわ。続けて」

 蘭は手を振った。

「先帝崩御の後は、今、南中で太守をしている馬忠に預けられていたのだが、年も十四になったしということで、成都に遊学に出してきたのだ。まぁ、わしもそれを昨日知ったのだがな。突然、忠からの手紙と刺を携えて、こんな小さな子が訪ねて来たものだから驚いたよ」

 馬忠は、巴西郡閬中出身の人である。

 閬中は成都の東北五百里ほどで、蜀の東北を限る大巴山脈が、四川盆地へなだれ込む途上にある。無数の美しい丘と谷間があり、その丘や谷間ごとに、漢族と蛮族がモザイク状に村落を作って、暮らしている。

 馬忠はもともとの姓を狐、名は篤という。狐など獣くさい姓で、漢族ではありえない。母のもので、彼は、産まれてすぐ母方の家にひきとられそこで養われた。別に父母間の仲に問題があったわけではなく、彼の生まれた土地では、これがあたりまえの俗で、子は母の姓を継ぎ、父親は母方の家に通ってくるものらしい。この辺り、草深い母系性社会の匂いがする。

 今の姓は、父の死によって、断絶の危機のあった、父方の家を急遽継がなくてはならなくなり改姓したもので、その際、名も一緒に忠と改めている。

 馬忠は、三十半ばまでこれといった話もなく、県長などの目立たない仕事をこつこつやっていたが、太守の命により、諸県の兵を率いて、陸遜のために破れた劉備の援軍に派遣されたことで、運命が変転する。

 劉備は馬忠の指揮する軍の整然たる様を見て驚き、

「黄権を失ったが、狐篤を得た」

 と言った。

 黄権は、同じ閬中出身だが、こちらは本籍を荊州に持ち、中原にアイデンティティのある純然たる漢族である。名参謀だった法正とともに漢中奪取のための策を劉備に献じた人物だった。征東の戦の際も、長江の流れに逆らって退却することの難しさを憂い、まずは自分を先鋒にして、呉軍の強さを試せと、有益な諫言をしている。しかし、これは劉備に却下され、黄権は、長江の南を進む劉備と並行して、江北を進む、別働隊の将にされた。

 結局、戦いの推移は彼の恐れた通りになり、江南の劉備軍は、多くの部隊が退却が叶わず、ほとんど壊滅といってよい被害を受けた。夷陵の戦は、対岸で行われたもので、黄権の軍はほぼ無事だったが、江南を呉に占拠されては、蜀への帰りようがない。やむなく魏に降っている。

 この政戦両方にまたがる才腕を有す人物を失ったことは、劉備にとっては敗戦以上に痛恨事だったが、そこに同郷で、しかもそれに匹敵する新しい人材が現れたことはよほど嬉しかったに違いない。先に述べた言葉と同じ内容の文を成都の簡雍に送ってきている。踊るような筆跡だった。

 その後、劉備は病を得て死ぬが、馬忠のことは孔明に言付けていたらしい。

 南方征伐戦時に、建寧の李恢とともに、独立した一軍を率いる将軍として、異例の大抜擢をされた。

 馬忠は、「君は漢族か蛮族か、どっちだ?」と本人に聞いても首をひねらざるを得ない人間だが、それだけに異族に対し偏見がない。孔明、李恢、馬忠の三隊のうち、牂牁を経て建寧に至るという、一番東のルートを進む馬忠の軍は、半ば戦い、半ば教え諭すといった感じの行軍になり、宣撫の功を最もあげた。

 対照的なのは、中央を進む李恢の軍で、平夷から彼自身の故郷である建寧を直撃するというルートだったが、蛮族に対し過酷で、だまし討ちに近い策を李恢が取ったこともあり、激しい反発を招いた。最終的に勝利をおさめたとはいえ、彼の軍は異族から魔物を見るような目で見られ、忌み嫌われた。

 李恢は馬超を帰順させる使者にたったことからも分かるとおり、有能な男だが、もともと建寧八大姓と言われる異姓の大族の出で、李氏は彼の代で急激に漢化した。それだけに無用の力みがあったようだ。この辺り、異民族戦独特の人事の難しさがある。

 戦後、南中の抑えになる人選をするにあたって、当然、李恢と馬忠の名前があがったが、孔明は迷うことなく馬忠を選び、李恢は中央に召還された。李恢自身、故地の同族相手の戦いで消耗したところがあったのだろう、ほどなく故郷から遠く隔たった漢中に隠棲している。

 馬忠は、現在、牂牁太守をつとめているが、異民族に対し、血の通った温もりのある政治をし、見事な治績の功をおさめている。ときに中央から異民族に対し甘すぎるという批判を受けたが、決して方針を変えることはなかった。

 もともと、人の世話をするのが好きな性質なのだろう。彼に育まれた目の前の少年も、不幸な境遇にもかかわらず、安心して満ち足りた顔付きをしている。

「先帝が晩年になって抜擢した男だから、同輩が少なく、心細いらしくてな。何かと頼りにしてくる。わしもそれに人よく答えていたが、まさか、こんなことを押しつけられるとは思わなかった」

 簡雍はそう言いつつ、つかんでいた張嶷の顎を突き放すようにした。華奢な張嶷の体は、百合のようにたわいなく揺
れた。

「ねぇ」

 蘭が低い据わった声色を出した。

「あんまり乱暴なことしないで」

 怖い目をして睨み付けてくる。

 大分、少年に対して情を移しているらしい。長い付き合いで、簡雍も蘭が手強い少女だということは知っている。

 慌てて、簡雍はひとつ咳をすると、

「もう聞いたと思うが、少しからだに事情がある子だ」

 簡雍は、そんな言葉で去勢のことを表現した。

 張嶷も煙が目に入ったような顔を一瞬した。

「だが、何か罪を犯したわけでもないし、自分一人の欲から親不孝を望んだわけでもない。詳しい事情は分からぬが、先帝が拾ったときには、そうなっていて、もう取り返しがつかなくなっていたらしい。少なくとも、わしの目の届く範囲では、そのことでこの子に負い目を背負わせたくない。わしは普通の男として扱うつもりだ。だから、蘭も同じようにしてくれ」

 蘭は年の割にませた自分の胸の上に手を置き、

「諾」

 と言った。

「先帝ともひとかたならぬ縁がある子だ。蘭や、親しくしてやってくれよ」

「勿論」

 蘭はそう言うと、先にしたように張嶷の肩を抱き、頬を寄せた。張嶷も嬉しそうに、桃色の透けた頬に笑窪を作って、蘭に体を預けている。そうして、二人顔を並べると、姉妹のように見えた。

 簡雍は慌てた。

「蘭の方が少し年上かな? 余り甘やかさないでくれよ。馬忠は、この子が娘くさくなるのを恐れて、外に出したんだから。文にあったが、先帝は、この子は英雄になるといったそうだ」

「この子が?」

 蘭はおかしそうに笑った。

「わたしよりもちっちゃいくらいなのよ。手だってほら」

 蘭は張嶷と手をあわせた。張嶷の指の先は、蘭の第二関節にやっと届く程度だ。

「ね」

 と言ったあと、蘭は自分の大手が恥ずかしくなったのか、慌てて袖に手を隠すようにした。

「英雄なんて荒っぽいこと無理よ」

「いや、なるさ」

 と簡雍は言いつつ、張嶷の腰に帯びている剣を見た。

 あの時、あの時だけでなく、自分の進む道の先で、道しるべのように、必ず光っていた一双の剣。今、それはちっぽけな宦官の柳のような腰におさまっている。

「先帝のご遺志だ」

 蘭はなおも何か言おうとしたが、簡雍の声の重さと、表情の影がひどく深いものになっていることに気づいたのか、口を噤んだ。

 簡雍はもう一度言った。

「劉哥哥のご遺志だ」

 劉哥哥と言ったとき、張嶷は、大きな瞳をこちらに向けた。その墨々(ぼくぼく)とした、したたるような黒に、春の庭の色合いが美しく溶けていた。

→ 花武担 第二章 簡雍(三)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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