花武担 第二章 簡雍(一)

 砂塵にまみれて太陽は黒く、世界は鉄と血と硫黄の匂いに満ちていた。

 放棄された村、破壊された街、人の死体で詰まった井戸、溝に転がる千切れた足や腕、樫の木になった親兄弟全て揃った一家の果実、赤毛の犬がくわえてどこかに持って行く涙の跡の残る白い少女の首。

 どこまでも、どこまでも、不可思議な美しささえある、神の怒りのあとのような、徹底的に毀され、徹底的に見捨てられた、荒廃の景色が続く。

 それが、その頃の中原だった。

 簡雍はまだ三十になったばかり。

 七尺の頑健な体は疲れを知らず、どんなことに出会っても、壮年の心は恐れを知らないはずだった。

 しかし、それでも、泗水のほとりでその光景を見たとき、こう思わずにはいられなかった。

(この世は確かに終わろうとしている)

 川幅が二十里もある泗水が、人の死体の山で埋まり、流れが止まってしまっていた。

 頭上には大陸中から集まったとしか思えない鴉の群れ。彼らは黄色い目を細め、ケーケーと鳴きながら、黒い渦になって空を旋回していた。時折降下し、御馳走の山に頭を突っ込んでは、人の目の玉や、真っ青な腸といったものをくわえていく。

 それは、紀人の憂い通り、天の怒りによって、空が裂け、断片になって剥がれ落ちていく様のように見えた。

 風向きがこちらに変る。

 生温かい空気とともに、凄まじい臭いがした。

 隣で張飛が毒づく。

「くそみたいな匂いだ」

 簡雍は狐の襟巻きで鼻を覆いながら、泣いている自分に気づいた。

 発酵した死骸から起こるガスに引火してか、そちこちで青いかげろいがたつ。それは、死者達の果て知れぬ無念と哀しみ、そして怒りを示しているようだった。

 死体の山から一つ、枯れ枝のように細く小さな足が突き出している。履いてるのが、お下げを二つ垂らした喜娃娃の描かれた子供用の赤い靴だったことを認めたとき、簡雍はえづいた。

(もう終わりだ)

 尭と舜と禹が一辺にあらわれたとしてもこの世界を救うことは出来ないだろう。桀と紂と王莽が同時に生を受けたとしても、ここまで世界をひどくすることは出来ないのだから。

「くそみたいな匂いだ」

 張飛がまた同じ事を言った。

 その傍らで関羽はむっつりと黙り込んで馬を進めている。身も心もばねが入っているようで、常に騒々しく、活動的な男だが、この惨状に言葉もないようだった。後ろに付き従う、顴骨高く眦の切れ上がった烏丸騎兵も、途上で保護した飢民の群れも、皆一様に口を噤み、ただ黙々と重そうに足を運んでいる。

 聞こえるのは、乾き凍てついた風の音と、死骸の膨れた腹が破裂するどこか間の抜けたパンという音のみ。

 奇妙に歪んだ、悪い神の見る、悪い夢のような景色を過ぎながら、簡雍は、

(自分達はどこへ行くんだろう)

 と、思った。

 黄巾の乱から始まった後漢末の争乱は、初平四年その極に至った。

 上は皇帝を虐待し、下は人民に対して収奪の限りを尽くし、その所業は魔王という他ない董卓は、前年ようやく王允の手によって取り除かれた。が、そのことがかえって、群雄達の動きに縛りをなくしたようだった。中原はいわばたがが外れた。

 河北では袁紹と公孫瓚が激しい勢力争いを繰り広げ、袁術は南陽に圧政を敷き、董卓亡き後の長安は、その残党の李傕や郭汜といった虎狼のような人間の手に落ち、秦以来の三輔は人跡絶えた荒野に変わった。

 最もひどかったのが河南で、元々は、首都洛陽や、名士の産地とも言うべき学問の巷、潁川を抱え、中国で最も繁華を極めた土地だったはずが、黄巾の乱や、続く董卓と群雄の戦いの主戦場になったために荒れ果て、飢民の群れが言葉の比喩ではなく、本当にお互いに相食む修羅の土地に変わった。

 かつては豊かな土地だっただけに、生まれる難民の数も多い。それが黄巾党の残党と合流し、まだ食料のある村落にいなごのように襲いかかっては、略奪と虐殺を繰り返している。悲惨なのは、こうした略奪によって、また新たな難民が生まれ、昨日の被害者だったはずの彼らが、今日には生き残るため加害者側に変わってしまうことだ。略奪が略奪を生み、虐殺が虐殺を生んだ、不信と憎しみは雪だるま式に膨れあがり、同時に難民の群れも限りなく膨張していく。その群れはいつしか、受け口になった黄巾党の名を取り、青州黄巾党と呼ばれるようになった。

 先の春、この百万を超える青州黄巾党を曹操という男が降し、自分の勢力下に組み入れた。十万を超える難民群に対しては、袁紹や袁術といった大勢力でも受け入れるのに躊躇するのが普通で、公孫瓚などは渤海からの流民三十万を、まるで害虫か何かのように酷薄に攻撃し追い払っている。それが、董卓との戦いのなかで、長沙の孫堅と並んで、最も勇名を挙げた人物とはいえ、勢力としては零細で弱小な曹操が、百万もの難民を受け入れたことは、天下に驚きと感動を与えた。

 簡雍もまたその報を聞き、乱世に聖人顕ると思ったものだが、それが年も改まぬうちに裏切られた。

 自分の本拠地に呼び寄せる途中だった、父親をはじめとする親族一同が陶謙の領土で何者かに殺されたことを口実に、吸収したばかりの青州黄巾党全てを動員、中原で唯一戦乱に巻き込まれず、平和だった土地、徐州に攻め込んだのだ。

 青州黄巾党は、物を奪い人を殺すことには慣れているくせに、正規の訓練は受けず、軍としての規律はないという悪夢のような集団だ。戦場となった土地に、これまでにない天災のような災厄をもたらし、その結果が、今眼前に広がる光景だった。

 救いを求めるように前を向く。

 集団から少し離れて、一人の男が青毛の馬を進ませていた。

 身の丈は七尺五寸、大きな耳と、広い肩を持っている。

「おい、哥哥(あにき)はどういうつもりなんだと思う?」

 黙り込んでいた関羽が口を開き、話しかけてきた。

 手鼻を一つかみ、目を拭ったあと、簡雍は答えた。

「どうもこうも、このまま進んで、陶謙の野郎のいる郯に行くんだろうが」

「馬鹿、そんなこと聞いてるんじゃないよ。俺にはどうも徐州についてからこっち哥哥が上機嫌に見えて仕方ないんだ」

 また、前を向く。

 確かに、その背中は弾んでいるように見える。

「哥哥のやつは会ったことはないが、曹公のことはいつも褒めてただろ? 曹公が河南の難民共、青州黄巾党とかいうやつを吸収したときも、我が事のように喜んでた。それが、親を殺されたとはいえ、事の真偽も確かめずに、いきなり徐州に攻め込んだうえ、何の咎もない住民に対して、この有様だ」

 関羽は鞭で死体の山を指し示した。

「瓚の奴とは馬があわなくなってたから、援軍に外に出されたのは、渡りに船だっただろうけどよ。信服してた人間の本性を見たうえ、飛のやつでも参っちまう光景の連続だ、気が滅入るのが当然じゃないか」

 関羽は簡雍の方へ馬を寄せると、声の調子を落とした。

「大きな声では言えないが、徐州に入って、この光景を見て哥哥は実は喜んでるんじゃないか。少なくとも、何というかな、これまでと違って、行動に迷いがなくなったように見えるんだ」

 簡雍はもう一度男の方を向いた。

 すると男が、死体の山の方を向いた。

 立派な鼻を持った精悍な横顔が露わになる。男は、右手を軽く握って腰に当て、鷲のような胸を張っていた。

「……!」

 信じられぬものを見た。

 男は死体の山に向かって、両の口角を高々と裂いて笑ったのだ。まるで、猛禽が獲物に襲いかかるときのような、獰猛極まりない表情だった。

 簡雍は慌てて顔を伏せた。

「おい」

 隣の関羽も同じものを見たらしい。

 簡雍の肩を一つ叩くと、

「怖い、怖い」

 と言いながら、遅れがちになっている飢民達に発破をかけるために、後ろの方へ下がっていった。

(あの表情の意味は?)

 関羽が去ったあと、しばらくしてから、簡雍は顔をあげたが、そのときには男はもう視線を戻していた。彼はノンビリとした仕草で、長い手を後ろに回し、ポリポリと腰の辺りをかいている。

 その鯨のような太い腰に、一双の剣があった。

 一つは三尺ほどと長く、もう一つは一尺五寸と短い。長い方は刀で、短いほうは両刃の突剣だった。いずれも、朱漆の塗られた鞘におさめられていた。柄の飾りは素っ気なく、馬革が巻いてあるだけだ。両刀それぞれの下げ緒は牛の尻尾の房で出来ていて、中国の始祖神、伏羲と女媧が編み込まれていた。

 簡雍は、その剣を見つめながら思った。

(一体、この男は自分達をどこへ連れて行くつもりなのだろう)

 進んでも、進んでも、横手に見える、川を埋めた死体の山は尽きない。

 死臭は、黄泉の国から直接吹き上がってくるもののようにますます濃い。

 道中で出会った、危ういところで難を逃れた難民たちは、もう中原は避け、荊州や揚州、あるいは益州といった土地へ避難していくらしい。彼らは一様に、凍り付いた目をしていた。きっと流れた先で、新たな憎しみと不信の種をまくことだろう。

 赤い傷口をむきだしに、世界の裂け目は止めどもなく、天際に届くまで広がっていくもののように思えた。

→ 花武担 第二章 簡雍(二)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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