花武担 第一章 武担(九)

「鼈霊が来た頃の四川は、今よりもっと川の勢いが盛んでね、盆地全てが湖みたいだった。成都の辺りもほとんどが水の底。おぎや、あしがはびこり、大きな山や白い石や赤い石が幾つも水の底に沈んでいた。だから、その頃だったら、私達が立っている場所も、きっと魚や海老の住み処ね。ただ、あの山、武担だけが、水面から顔を出していた。その頃の武担は高さ千丈もある大きな山で、武担の他に陸に見える山はなかったから、単に山とだけ言われていたそうよ」

 記憶というのは不思議なものだ。首飾りのように、最初の玉をひとつまみさえすれば、あとは苦もなく次々と、その連なりを引き出すことが出来る。蘭は幼いとき、祖母の膝の上で聞いた話を続けた。

「楚からやって来た鼈霊は、百丈もある樫の一本木を削って作った船を、山の麓につけると、腕が四本もある人みたいに働いた。山を削っては、その土で堤を作って洪水を防ぎ、溝を掘って悪水を流した。そうして、少しずつ乾いた土地が増えていくと、水を怖がり山に住んでいた目が縦に裂けた人たちを呼んだ。鼈霊は平地に降りてきた人たちに、蚕を養うこと、鵜を飼うこと、水牛で田を鋤くことを教えた」

 話しているうちに、不思議なことが起きた。蘭の頭のなかに、幻とは思えぬ確かな質量を持って、そのときの情景が浮かび上がったてきたのだ。龍蛇のトーテムを持って民族を指麾する、日焼けした、精悍な顔つきの長身の男と、その男のもと嬉々として働く半裸で入れ墨をした目が縦に裂けた人々。

「鼈霊の言った通りにすると、蚕は光る絹を織り、鵜は肥った魚を吐き、水牛の鋤いた田の稲は一茎に六つの穂を実らせた。それで、目が縦に裂けた人たちだけじゃなく、他の色んな人たちも鼈霊の元に集まるようになった。赤い肌の人、長いすねの人、巻き髪の人。顔かたちもばらばらの色んな種族の人たち。部落が出来、村に育ち、最後に街になった。こうして、産まれたのが成都という街よ。そして、鼈霊はこの街の王様になった」

 築山の上から見える風景が千年前のものに戻る。塼で固めた城壁が消え、「北の人」達の屋敷が消え、釉薬をかけた瓦が光輝く大城の豪壮な宮殿達が消えた。代わりに武担を中心にして広がる、竹を縄で編んだものを壁にして、稲藁で屋根を葺いた竪穴式の住居の群れと、それを囲む木柵が見えた。住居は幾つかの集まりになっていて、それぞれの集落の中心にたつのは、白虎や日輪、それぞれの民族の氏族神をかたどったトーテムだった。

「たくさんの人が幸せになったけど、それまで我が物顔で四川中を浸していた、水龍は面白くなかった。ある日、水の鱗を逆立て、泥の髭を怒らせながら、成都の街に襲いかかった。たちまちのうちに家や田は水につかり、住民全員が山の上に避難した」

 逆巻く濁流。刻一刻と水かさをまし、一歩一歩山の裾を浸していくヘドロ混じりの水。恐れおののく、様々な顔付きの人たち。そのなかで、ただ一人、吹き荒れる暴風にむかってまばたきさえしない男。

「鼈霊は鉄の剣を抜いて戦った。戦いは千と六十日続き、盾は三十二万個こぼたれ、刀は四十五万本折れ、船は六十五万艘沈み、矢は一千六百五十五万本放たれた。でも、億兆の人が斃れた戦いの最後に鼈霊は悪龍を斬り殺した。悪龍は地響きを立てて倒れ、そのせいで地軸は西から東へ傾いた。四川の土地が西が高く、東が低いのはそのせいよ。三つに裂けた悪龍の死体は、成都を流れる錦江、岷江、花江になった」

 ここで、一度蘭は話を切って、こめかみを押さえた。ひどく疲れていた。話しているのは自分のはずだが声がどこか遠い。自分ではない、何か別の大きな存在が自分の口を借りて少年に語りかけているような不思議な感覚だった。

「大丈夫?」

 蘭の様子を見て、張嶷が心配そうに声をかけてきた。

 蘭は無理に笑って見せると、再び話を続けた。

「悪龍を倒し平和にはなったけど、長く続いた戦いのせいで、人の数はとても少なくなってしまった。だから、鼈霊は人々を錦江のたもとに集め、夜が果てるまで歌垣をさせた。男の列と女の列は、近づいては離れ、離れては近づき、からかいあい、歌いあった。やがて、悪龍との戦いで斃れた人たちの分だけ恋が起こり、連れ合いが出来、赤ちゃんが生まれた。でも、たった一人、番いを見つけることが出来ないものがいた。それが鼈霊。旅と冒険を重ねた鼈霊には、どの女の人も退屈でつまらないものに思えたの」

 きわどいことを話しているのではと、蘭は耳が火照るのを感じた。胸も高鳴る。しかし、もう己の口が動くのをどうすることも出来なかった。蘭は河面を切って進む龍船の上で香木の櫂の音を聞くように、自分の言葉を聞いた。

「お嫁さんが見つからないものだから、鼈霊は部屋にひきこもるようになった。王様の気分も反映して、街全体の雰囲気も暗くなった。蚕は絹を織るのをやめ、鵜は魚を吐くのをやめ、水牛は田を鋤くのをやめた。街の人は皆、目が縦に裂けた人も、赤い肌の人も、長いすねの人も、巻き髪の人も先行きを案じて、嘆き悲しんだ」

 樫の木の戸が降ろしたままになっている族長の大きな家と、炊煙のあがらなくなった小さな家。ためいきをつく老人達と、おなかを空かせて泣き声をあげる子供達。

「その頃、遠く北の武都に、一人の少女がいた。その少女は、もともとは男の子だったのに十四歳のとき女性に変化した。嘘みたいに綺麗な子で、空に向かって歌えば鳥が肩に止まり、川に向かって手を叩けば魚が陸に騰がり、森に向かって踊れば獣がやって来て自分から餌にしてくれとねだった。まだ、桟道も出来てないころだったのに、少女は鳥も飛べない山々を越え、漢中を、蜀を自由に行き来することが出来た。皆少女のことを山の精だと言った。成都の人々はその噂を聞きつけると、この少女なら鼈霊も気に入るかと、使者を送って成都へ来てくれるよう頼んだ。少女の部族は、赤い髪の人たちで、馬に乗り、羊を飼っていた。少女と赤髪の人たちは、四十二万の羊と共に、山を降り、成都にやって来た」

 万丈の山が頂く雲冠がそのまま降りてきたような四十二万の羊の群れ、馬に乗って平野に降りてくる赤い髪を一房後ろに垂らした人々、そして、先頭にいるのは、鳥のトーテムと、柏の輿に乗った美々しい少女。少女は、戸豹の革の裙と、沈鰹(長江ワニ)の鱗の襦に、翡翠の髪飾りをつけ、髪と瞳を虹色に輝かせている。

「鼈霊は少女を一目見て気に入った。鼈霊は少女の名前を聞いた。少女は武(ムゥ)と答えた。少女は鼈霊の名を聞いた。鼈霊はそれまで誰にも明かしたことのない真名を教えた。それは開明(ホーミィ)というものだった。鼈霊と武はその日のうちに結婚式をあげた。赤い髪の人たちはお祝いに四十二万の羊を殺して捧げ、遊牧の生活はやめることにした。鼈霊は花江と錦江の間の沼地を山の土で埋め立て、そこに彼らを住まわせた」

 心が色彩と音の奔流に溢れそうになる。口は熱狂と陶酔のなかにある巫女のように勝手に動き、蘭を見知らぬ景色の土地に連れて行こうとする。

「鼈霊は気鬱が治り、また元の、いやそれ以上に元気な姿を見せるようになった。蚕は絹を織り、鵜は魚を吐き、水牛は田を鋤くようになった。武は次々に子供を産み、その数は六十人を超えるまでになった。それでも、武はいつまでも若々しく見た目は少女のままだった。何度閨を重ねても下腹は清らかなままで、武は閨の度に初々しい呻きをあげた」

 話の内容が祖母から聞いたはずのないものも含まれるようになっていた。それは蘭一個の存在を超えた、秦による一万人の植民、光武の御世の呉漢による大虐殺にも消えなかった、蜀人の血脈の記憶によるものだった。

「赤い髪の人たちが遊牧の仕方を忘れ、それよりも田を水牛で鋤き、稲苗を植えることの方が上手になったあとでも、武は武都の山々を、鳥と魚と獣と過ごした日々を忘れなかった。特に成都が珍しく晴れ、空に青色が見えるようになったときなど、武はぼんやり北の方を眺めることが多くなった。ある日、武は鼈霊に北に帰らせてくれるよう頼んだ。しかし、鼈霊は怒って許さず、六十人の子供達も泣いて止めた。同じ事が三回続き、そのうちに武は病気になった。鼈霊は国中の占い師と、魔術師を集めたが、武の病気を治すことは出来なかった。病になって六十日後に武は死んだ。鼈霊は、嘆き哀しみ、赤い髪の五人の力士を武都に送って、その土を成都のなかまで担いでこさせた。そして、堤や澤の埋め立ての度に削られ、今はすっかり平たくなってしまった山の跡に土盛りをさせ、そこに武を葬った。それから、その塚のことを少女の名を取って、武担と呼ぶようになった」

 話は終わった。暴れ馬からようよう無事に身を地上に降ろすことが出来たもののように、蘭は深く安堵の息をついた。めまいがするので「ごめん」と言いつつ、少年の肩につかまった。少年は身を差し入れてやりながら、

「面白かった。ありがとう」

 と顔をほころばせた。

「どういたしまして」

 まだ、頭のどこかが先ほどの世界、「北の人」が持つものとは違う、別の神話の世界に浸っている。蘭は頭を、濡れた犬のように激しく降って、その余韻を振り払った。

 蘭は少年を見下ろしつつ、

「ごめん。調子に乗って変なことも言った気がする。でも、そうね。だから、あの山は武担といって、背もあんなに低いのよ。成都の街は皆武担から始まったの」

「うん、うん」

 少年は熱心に何度もうなずきながら、きらきらと笑った。

 蘭はその笑顔を見つつ、神話の武という少女はこの少年のような子じゃなかったのではないかとちらと思った。

 まじまじと見てしまったのかもしれない。

「どうしたの?」

 と、少年がいぶかしんだ。

「ううん、何でもない」

 と、蘭は目線を反らした。

「そういえば」

 照れ隠しに、武担と「北の人」との関わりのことを、つけたりのように付け加える。

「先帝が皇帝になったときも儀式はあの山の南の麓で行われたわ。」

 そのときは、先帝の友人だった簡雍も美々しく着飾って、儀式に列席したはずだ。ただ、華やかははずのその典礼は、友人の一人関羽が死んだ後だったので、どこかうら寂しい雰囲気だったという。

「先帝が亡くなったあとも、武担に葬られたの」

 男の子から女の子に変化した可憐な少女の上に、激烈な中原の闘争をくぐり抜けた、血まみれの恐ろしげな男が、折り重なって倒れたことになる。

「それは……」

 先帝が、自分も鼈霊や武のようによそものだが、成都の人たちから末永く愛され、残していった政権も、成都にとっての武担のように住民から親しまれ馴染まれることを望んだからかもしれない……

 そう言おうとして、蘭は自分の手の下の少年の肩が震えていることに気づいた。見ると、少年の大きな目から引きもきらず、涙があふれこぼれている。

 蘭は慌てた。

「ごめんなさい。私、何かおかしなこと言った?」

 張嶷は首を振った。

「ううん、そうじゃないの」

 しかし、そう言いつつ、激しい歔欷はやまない。

「そうか……先帝はあそこに」

 張嶷は流れる涙を拭いもせずに、じっと武担を見ていた。

 山椒や桂、木蓮に飾られた武担は、曇天と物憂い春の霞みにおおわれたこの成都で、それだけが色彩のあるもののようにして照り輝いている。

 少年はもう一度独りごちた。

「そうか……先帝はあそこに」

 簡雍が築山で一人泣いていたときと同じく、少年の涙を前に、蘭は何を出来ぬまま立ち尽くすしかなかった。

→ 花武担 第二章 簡雍(一)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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