花武担 第一章 武担(八)

 蘭は少年に対する態度を決めきれぬまま、まずは、

「私は蘭よ」

 と名乗った。

 張嶷は、

「蘭、蘭」

 とつぶやき、その響きを口の中で味わうようにしていたが、やがてにっこりと微笑み、

「よい名だね」

 と言った。

 ぱっとその辺りに日が差し、世界の広がるようなよい笑顔だった。

 その笑顔を見て、蘭はこの子を嫌うのはやめにした。

「ありがとう。私もあなたの名前、とても素敵だと思うわ」

 張嶷は、蘭の愛想に、右頬を右肩につける独特の礼で報いたあと、

「ねぇ、友達になって。君のことは阿蘭(蘭ちゃん)って呼べばいい?」

「いいわよ。私はあなたのことを阿嶷(嶷ちゃん)って呼ぶわね」

 話しているうちに、相手が同性でもなければ、厳密にはいわゆる雄でもないことが分かったからだろうか、ひどく気安くなってきた。

「成都は初めてなんでしょ。色々教えてあげる。初めはこの庭からかな。何と言っても、私六歳からここで遊ばせてもらってるのよ。何でも知ってるの」

「嬉しい」

 張嶷は両手をあわせた。

 木の葉のように小さな手だ。

 去勢という履歴を知ったせいもあるだろうか、蘭はひどく庇護心が掻き立てられた。

「さぁ」

 と手を取る。

 少年は立ち上がったが、蝶の羽をつまんだように手応えがたわいない。立ち上がらせてみると、背丈は蘭の肩ほどしかなかった。蘭が七尺近くあるから、六尺そこそこといったところだろうか。張嶷は信頼しきった様子で、蘭のことを見あげていた。

(あの子が生まれて、私に妹か弟がいたらこんな感じだったのかな)

 蘭は、ふと自分がまだ幼い頃、簡雍と出会うか出会わないかの時期に、雌雄も分からぬまま、母の下腹から水になって流れた命のことを思い出した。

「池の方に行きましょう」

 蘭は、張嶷の手を一度握りなおしたあと、庭池の方へとくだる築山の階段を踏んだ。

 しかし、歩を進め、築山の中腹まで来たところで、ぴたと張嶷が足を止めた。

「どうしたの?」

 と振り返ると、

「あれ」

 と少年は西北の方向を指差した。

 指し示す方を辿ると、武担山があった。

「あぁ、あれ、武担山というのよ。小さいけど、綺麗な山でしょ。みんな、あの山で方角を知るの」

 蘭は手早く答えると、また歩きだそうとした。

 しかし張嶷は根が生えたように足を動かさない。

「どうしたの?」

「もっと教えて」

「もっとって。ただの山よ。別に特別なことのない、ただの……」

 少年の大きな目がひとりでに潤みだしている。

「教えて」

 ひどく真剣な表情だった。

「本当に何でもない山なんだけどな」

 蘭は、少年の様子に戸惑いつつも、天気予測の目印に使われるとか、娘たちの間では占いの種になっているなどといったことを教えてやった。

 しかし、少年は、

「もっと、もっと」

 とせがんでくる。

「困ったな」

 仕方なく、頬に手を当てながら、頭の中で武担にまつわる知識を探っていたが、やがて、置き忘れていた玩具のような、遠く古い記憶に行き当たった。

「死んだおばあちゃんから聞いた話よ。とても昔の話。尭や舜や禹よりももっと昔の、まだ人と獣の境も、人と山精の境も、人と神様の境もあやふやだった頃の話。その頃、この国は目が縦に裂けた人たちが住んでて、王様の名は鼈霊(べつれい)といったの」

 少年の興味をひいたようだ。顎をあげ、目を見張って、聞き入っている。

「鼈霊はとても強くて、とても賢い王様だった。でも、もともとはよそもので、楚から長江を遡ってやって来たの」

 話しつつ、蘭はちらと、十三年前に、森を幾つもつぶして大船団を仕立て、荊州からやってきた剽悍極まりない人間集団、先帝劉備と「北の人」達との符合を思った。

→ 花武担 第一章 武担(九)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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