花武担 第一章 武担(六)

 気づくと、路地を抜け、花江のたもとまで来ていた。

 ここから、船着き場や洗濯場になる石畳みへと続く階段がある。

 そこを中腹まで降りて、手を伸ばした場所が、屋敷の塀の裂け目だった。

 階段を降りながら、蘭は花江に視線を向けた。

 いつもは、川面を埋め尽くすように一杯の画舫(うかれぶね)が、今日は一隻もない。それらは恐らく、雨戸や苫を降ろして、それぞれの属する妓楼のたもとに、羽を休める水鳥のように静かにもやってあるのだろう。

 川面には、ただ、真っ白な、柳絮(りゅうじょ)が雪解けの溶け残りのようにして流れている。それで、いつもは多くの住民の生活にまみれ、濁って見える花江の水が、今日は妙に澄んで見えた。

 どこかで、葬式の太鼓が鳴るのも聞こえる。その音は、いくつもの場所で、重なり合いながら響いている。誰かが悲嘆して泣く声も聞こえてくるようだ。戦死の報がまたどこかの家に届いたのだろうか。

 今、この国は戦争をしている。

 この年の初め、「北の人」達が大挙して北に向かい、桟道を超え、はるか彼方の涼州、恐らくこれまでも、これからも、決して蘭の履歴には触れることのない土地に攻め入ったのだ。それで、成都中の若い男も、花江の向こう岸の人たちも皆いなくなってしまった。

 先帝のご遺志ということだった。

 しかし、初めは調子のよかったその戦も、馬謖とかいう若い将軍の失敗のせいでうまくいかなくなったらしい。

 まだ、敗北の全貌は分からない。

 しかし、血相を変えて、市橋をこえ、政庁のある小城へ駆け去っていく早馬や、五月雨式に届く戦死者を包んだ馬革の袋を乗せた車の数を見れば、それがどのようなものだったかおおよそ予想はつく。

 いずれにせよ、私達は負けたのだ。

 ただ、親類を失った人たちには悪いとは重いながらも、兄や弟がいないせいもあって、戦いは川向こうで鳴る雷の音のように遠く、自分のこととして考えることが出来なかった。それよりも、今、自分の身体の深いところで鳴る、止めどのない響きの方が大きく近かった。

「まだ、はやいわ」

 そう、また独りごちながら、蘭は塀の裂け目を潜った。昔は、空き間に十分な余裕があって、苦労せず向こうにつくことが出来たのに、今はとても狭く、特に腰の辺りがつかえそうになる。そのうちにきっと通ることが出来なくなるだろう。そして、きっと、それはそんなに遠い未来ではない。

 まろび出るようにして、ようやく塀の向こう側に出た。

 ほこりまみれになって、蘭は、裙をパンパンとはたきながら立ち上がった。

 見あげると、築山に誰かいる。

 逆光で見えにくいが、簡雍だろう。

「将軍」

 と声をかけると、あちらも気づいて、「おや」という風にこちらを向いた。

「ねぇ、将軍」

 髪をととのえながら、築山の方に歩いて行く。

「私、今日相談したいことがあるの」

 そう言いつつ、築山の麓まで来たところで、蘭はぴたと足を止めた。

(嫌だ)

 酸いものでも飲んだように顔をしかめる。

 築山にいるのは簡雍ではなく娘だった。

 しかも、自分と同じ年くらいの。

(そんな人じゃないと思っていたのに)

 少女はこちらを見下ろしてあどけなく首をひねっている。

(お妾さんだ)

 蘭は、馬の糞でも踏んづけたような思いがした。

 簡雍は、高位の人間には珍しく、畜妾の習慣がない。

 妻子もいないため、このままでは家が絶えるのだが、あっさりしたもので、

「簡家はわしで終いだ」

 というのが常だった。

 ただ、まわりの方が、絶家の親不孝を惜しんで、うるさいらしい。結婚という年ではなくとも、別棟に妾を置いてはどうかと、薦めてくるようだったが、簡雍は、

「今さら妾でも家族なんて面倒だし、こんな爺のせいで、年頃の娘を日陰者にするのも嫌さね」

 と、すべて断っていた。

 蘭も年頃の娘らしく、性にまつわるうるさい論理感を持ち始めていたが、簡雍のそうした姿勢は、清潔で好ましいもののように思えた。

 無論、簡雍も完全に枯れて、脂っ気が全くないというわけでもない。それどころか、妓楼には三日と置かずめかし込んで出掛けていく。

 だが、蘭も遊里のたもとで育った娘だ。同じ女遊びでも、妓楼通いにはどこか甘い。それに、畜獣のように娘を家に囲い込むのと、魏の曹操の妻がそうだったように、己の美貌才覚で巨富を蓄えることも出来る妓楼の妓女と遊ぶのとでは、後者の方がどこか陽気で明るいように思えた。

 簡雍は、妓楼では、金離れがよく、遊び上手なうえ、妓女にも親切なので、大変人気のある客らしかった。化け物じみたご面相にもかかわらず、簡雍の酒席に呼ばれた妓女は、なかなか場から離れたがらない。

 これは店の客から聞いた話だが、あるとき、まだ二十歳そこそこの若僧達が、妓楼にのぼった簡雍にからんだことがあったという。自分達の宴の場に、お気に入りがなかなか来ないのに苛立った結果だった。彼らは、娘を求めて、妓楼の二階で宴を張っていた簡雍の酒席に乱入したのだ。皆、名家の貴公子達で、にきびを頬に浮かせたうらなりどもだったという。

 簡雍は、そのうらなり達から自分の膳部を蹴倒されても温顔を変えなかったが、若者の一人がその娘の頭を軽くはたいたことで赫怒した。

「孺子」

 と叫ぶと、その馬鹿者の襟をひっつかんで、二階から花江に向かって投げ捨て、残りはまとめて階段から一階まで蹴り倒してしまった。

 この話をしてくれた客は、

「さすが関将軍、張将軍のお友達だった人だ。やっぱりお強いんだねぇ」

 と頻りに感心していた。

 蘭は乱暴は嫌いだったので、後で簡雍に、

「将軍、随分腕白をしたそうね」

 とやんわり皮肉を言ったが、簡雍は顔をぺろりと撫でて、

「ふん」

 とはにかんで笑うばかりだった。

 傷も皺も一緒くたにくしゃくしゃになった、決して審美的に美しいとは言えない笑みだったが、その笑顔を見ると、蘭は胸がいっぱいになって涙が出そうになった。

 鼻に泥をつけた十二、三の男の子の笑顔のように見えたのだ。

 いずれにせよ、簡雍は少女が友情や愛情といったものを捧げるにたる老人だった。

 しかし、もし簡雍が耄碌して、他のあぶらぎったつまらぬ狒々爺と同じく、娘を、しかも自分と同じ年頃の少女を囲い込もうとしているのだとしたら、友人としての彼との縁もこれまでである。

 急に身なべに起こった厄介事、つまり、成都東北十里の新都に住むという、遠い親類との結婚話を相談しようとしていた自分のたわいなさにも腹がたつ。

 このまま立ち去ってやろうかとも思ったが、もともと自分の庭だった場所に入り込み、しれっとした顔で座り込んでいるこの娘には、一言ねじこんでやらなくては気がすまない。

 蘭は心中で罵声の弓を引き絞り、悪罵の矢をつがえながら、築山を登り始めた。

 登るにつれ、東屋に座っている娘の姿が鮮明になってきた。

 彼女は、上等の蜀錦の襦の上に、赤い比甲(ベスト)を羽織っていた。薄絹の羽衣を首の後ろに通し、腕に遊ばせている。どれも仕立てがよく、いかにも高そうなものだった。

 中腹まで登った辺りで、段々蘭の心中の弓はたわみはじめた。

(なんて……)

 と、蘭は思った。

(なんて、綺麗な子なの)

 陶器の椅子に少し斜め座りに座った娘は、行儀よく揃えた膝の上に小さな手を置き、こちらをじっと見ている。色は透き通って白く、頬には血がほんのりとのぼって桃色、目はあくまで大きく、睫毛が水草のように濃くしげっている。口は、小ぶりで愛らしく、飴玉を含んだみたいに笑窪をくぼませ、うっとりとしたような笑みを浮かべていた。

 蘭は気圧されてきた。自分の器量に対し、肉付きのよさは置いておいて、

(そんなに悪い方じゃない)

 と自負していたが、この少女の美貌というのは、蘭どころか、その美しさを詩に謳われる妓楼の妓女達のなかにも、ちょっと見当たらないものだった。

→ 花武担 第一章 武担(七)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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