花武担 第一章 武担(五)

 簡雍という老人に対する像がここまで豊かになったとき、蘭はもう少女といっていい年になっていた。

 といっても、たとえば先の帝の親友であったとか、政戦両面である程度の才能があった程度のことで、人の目方を変えたわけではない。

 少女の天秤の重りは、もっと重く、具体的なもので出来ている。たとえば、松の実や、梅の木に揺れる秋千といったもので。

 ただ、老人の孤独の根を理解出来たもののように思うのだ。

 五十年。

 そう口にしただけでため息が出そうな長い時間、生死を共にした大切な大切なお友達を老人は失ったのだ。そして、先祖の墓もないような、遠い異国の地に、独りぼっちで置いてけぼりにされてしまった。

 蘭は、たった一度だけだが、老人の孤独にほんのわずかばかり触れたことがある。それは、十歳の時、家の手伝いで何かヘマをやり、親にきつく打擲された夜のことだった。

 ヘマがどんなものだったか具体的には覚えていない。

 どうせ酒壺に麻布の蓋をするのを忘れていた程度のことだろう。

 ただ、寝床についても憤懣やりきれなく、家出してやるという気で家を抜け出し、真夜中に塀の裂け目を潜って、簡雍の屋敷に入り込んだ。

 成都には珍しく晴れ渡った夜で、中天には丸い月が架かっていた。

 例の築山の方を見ると、簡雍の姿があった。

 なぜかあずま屋の椅子に座らず、アザミや菜の花の柔らかくしげった地べたに、少年のように膝を抱えて座っている。かたわらには常の如く酒壺が置いてある。酒を飲んでいるようだが、池の方を向いているので、蘭のことには気づいていないようだった。

「将軍」

 と、声を掛けようとして、蘭はその言葉を飲み込んだ。

 簡雍の目元に光るものを認めたのだ。

 簡雍は泣いていた。

 傷や皺の奥に折りたたまれた目から止めどなく涙が流れている。

 成都中、月の光に濡れそぼち、銀色の湖の底にひそと沈んでいるような夜だった。庭池を縁取る、梅や桜の梢も、月に生えるもののように、しろがねの枝を伸ばし、しろがねの葉をはやしている。

 とても静かで、聞こえるのは、かすかな老人の歔欷の声だけだった。

 息を詰めて見つめていると、簡雍は、酒杯を持って立ち上がった。

 杯をぱっと空に向かってあおる。

 酒が、宝石のつらなりのように、きらめきながら広がったあと池に落ちた。

 そして、老人は血を吐くような声で叫んだ。

「劉哥哥(あにき)!」

「雲長!」

「益徳!」

 そう三人の大切な友達の名を呼ぶと、人里にまぎれたトラが山を慕うような風情で、おいおいと泣いた。

 蘭は、それ以上近づくことも、また立ち去ることも出来なかった。ただ声もなく塀の裂け目のたもとで、簡雍が酒壺を抱えて院子の方へ立ち去るまで、立ちすくんでいた。

 あとで知ったことだが、老人が花江の向こう岸からこちらにやって来たのは、三人の友人のうちの一人、関羽という人が呉の孫権の手によって斃れてからのことだった。

→ 花武担 第一章 武担(六)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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