花武担 第一章 武担(四)

 幼いときは、ただもう仲良しの友達というばかりで、簡雍の履歴について深く知ろうとはしなかったが、長じるにつれ、人への興味も深くなってくる。それに、簡雍は、溺街の人や、現政権のお偉いさまたちの来客もあって、常ににぎやかに人に囲まれていたが、蘭が彼から受ける印象は不思議と孤独というものだった。

老人との出会いから四年が過ぎた頃から、

(どういう人なのだろう)

 ということが気になるようになった。

 しかし、老人は多弁で物語り好きのくせに、自分の履歴については、当たり障りのないことばかりで、ほとんど話さない。

 時々酒に酔って、口が軽くなることもあるが、話が程良く進み、核心に近づいてくると、急に見えない壁にぶつかったようにだまりこみ、

「さて、この先はどうなったかな? 爺は忘れてしまったよ」

 と、話を逸らしてしまう。

 ただ、幸いなことに、蘭の実家は酒屋だった。

 口さがない人間には事欠かないし、いつの時代、どんな場所でも、自分の卑小さは棚にあげつつ、古今の人物を好き勝手に批評し、罵倒することを好む人間というのはいるものだ。花街近くのうらびれた酒屋でも、そちこちに即席の月旦評の市がたつ。蘭は、その論者達の言葉を拾って、老人の人物像に肉付けをした。

 そして、分かったのが、この簡雍という老人が大ざっぱなくくりで言うと、「英雄」という人種に含まれるらしいということだった。

 簡雍が、生を受けたのは延熹五年というので、もう七十年以上前になる。

 生国は幽州涿郡。万里の長城のすぐ側で、成都からは千里を隔てている。

 生家は先祖をいくら辿っても役人を出したことのない、いわゆる庶の出だ。もともとの本姓は耿だったが、幽州では簡と同じに発音されるため、周りから読み違えられることも多く、面倒臭くなって改姓したという。大らかといえば大らかな話である。

 そのまま、世が平穏に過ぎれば、簡雍も他の無名の先祖達と同じく、生涯に二、三度体験する牧民の襲撃を大事件とする程度の、平凡な百姓として終わっただろう。だが、彼が二十二歳のときに起こった黄巾の乱と、それを直接の引き金にして始まった大陸中をかき回すような大動乱が老人の生を大きく変えた。

 いや、正しくは、彼の生家と通りを挟んで斜め向かいに、門前に大きな桑の木の植えられた屋敷があったことが、老人の生に決定的な意味を与えた。

 そこには簡雍より一つ年上の若者が住んでいた。

 若者は、身の丈七尺五寸(百八十センチ)という恵まれた体を持ち、鼻は鷲のように高く、目は切れ長で、「肩まで垂れそうじゃ」と冗談を言われるほど大きな耳を持っていた。両腕も長く、特に大袖の杉(さん)を着て、手を広げたときなど、鳳凰が舞い降りたかのように見えたという。

 若者の姓名を劉備、字を玄徳という。

 この若者は幼いとき、門前の桑の木を見て、「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と嘯くのが常だった。天子の乗る車は桑の木で作られる上、その梢の伸びる様がちょうど傘のように見えたからだ。

 運がよかったのか悪かったのか、とにかくこの一代の英雄のたまたま近所に生まれついてしまったということが、老人の運命を決めた。幼いころから、劉備に餓鬼大将が野良犬を手なずける感じで、手荒に可愛がられ、彼が近隣五百人の若者を集めて黄巾退治のために旗揚げしたときも、さも当然のように参加させられた。

 その後は、劉備に従って、動乱の中原を馳駆したが、後漢末の群雄のために百戦してほとんど百敗し、特に一世の英雄で、一時は大陸の三分の二を支配した曹操がこの零細な勢力を初めから目の敵にしていたため、大陸的な規模で逃げまどわなくてはならなかった。

 それでも兄貴を人に頭を下げさせない立場に、つまりは男にしてやろうと、労苦に労苦を重ねた末、ようやくたどり着いたのが益州であった。そうして蜀という国が出来、蘭のような局地的な視点から言うと、花江の向かいに見慣れぬ、春秋の六国の区分で言うと燕や斉風の暑苦しい屋敷群が建った。その時には、五百の若者のほとんどが倒れ、生き残ったのはたったの三人、つまり簡雍と、劉備の義兄弟、関羽と張飛だけになっていた。

 関羽と張飛といえば、益州に限らず、大陸中誰でも知っている、蘭ですら知識のあった、万夫不当の猛将だが、簡雍は、彼らに対しても対等の口を効いたという。一つには、劉備との付き合いだけなら簡雍の方が長いということがある。また、もう一つには、簡雍も二人には劣るにしても立派な器量人であった。

 千人程度の部隊を率いる将卒としては堅実な才腕を有していたし、なにより周旋、外交という分野に関して言えば、その種の才能に恵まれなかった初期の劉備軍のなかで貴重な人材だった。実際、十三年前、この成都という街を降伏させるための使者にたち、難しい交渉をまとめたのが簡雍だった。

 また、あまりおおっぴらに口外出来ることではないが、草創期の劉備政権の陰の部分、例えば策謀や諜報といった部分を担当していたのも簡雍だったらしい。

 長年の付き合いのなかで、簡雍は関羽と張飛の泣き所もつかんでいたのだろう。それで、劉備以外には人なきといった風な、傲岸な態度が常の二人も、簡雍にだけは他の同輩には見せぬ敬意と友情を示した。

 また、それは劉備も同じことで、簡雍に対する接し方は死ぬまで、家来というより友人に対するものであったという。

 今は、もう関羽も張飛も、そして先の帝であった劉備も死んでしまったが、それでも現政権の首脳、たとえば諸葛亮孔明といった人々も、簡雍に対しては相当に気を使っている。

 当然といえば当然であろう。

 この国の成り立ちを全て知る、生き証人のような人間なのだ。機嫌を損ねたら、どんな秘密がその口から飛び出すか分からない。

 簡雍もまた、孔明達の会釈をいいことに、彼らと会うときは、長椅子に寝そべって話すのが常なのだという。

→ 花武担 第一章 武担(五)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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