花武担 第一章 武担(二)

 先帝が、北方の人をたくさん連れてきて、この街にやってきたのは十三年前、蘭が生まれたのと大体同じくらいのことだった。蘭は覚えていないけれど、激しい戦争があって、その果てにこの街は先帝のものとなった。

 体の大きな北方の人たちは皆花江の北、皇宮のある大城の近くに塀の高い、風通しの悪い屋敷をひしめくように建て並べた。

 四川の夏を知っている土地のものからすれば、見ているこちらの方が息苦しくなるような風景だったが、将軍も似た感覚を覚えたのかもしれない。蘭が六歳の頃、川をわたってこちらに越してきた。そして、たまたま空き地だった蘭の家の隣に、屋敷を構えたのだった。

 春にはあざみの柔らかく咲くその空き地は幼い蘭には格好の遊び場だったのだが、たちまちのうちに塼(せん)を重ねた高い塀に、ますのように囲われてしまった。

 ただ、塀の造作が甘かったのか、花江に面した東北の一角がすぐに崩れ、屈めば人の通り抜けられるくらいの隙間が出来た。

 蘭はたちまちのうちにこの間隙に気づき、子供の大胆さで、裙がすり切れるのにもかまわず四つん這いでくぐり抜けた。そうして、失地にたどり着くと、そこは、庭池と、それを巡る椿や梅の濃い淡いも鮮やかな、美しい庭園になっていた。築山も設けられていて、頂上にはあずま屋があった。

「誰だ。お前は?」

 そのあずま屋から固く強張った中原の言葉が降ってきた。

 見あげると、老人が一人、昼酒を飲んでいる。

 背丈はさほどでないが、骨柄がまことに雄偉で、肩幅広く胸板も厚い。ほとんど真四角といってもいいような、猛々しい体を、袍の襟がはち切れそうになりながらようようおさめている。腕も太いがその先の手も異常に大きく、節くれ立った指の中に杯は埋もれてしまっていた。

 顔貌も酷烈無残。無数の傷が縦横無尽に走り、右頬から唇へ斜めに走った傷のせいで口元が冷笑するもののように常に引きつっている。強そうな髭を蓄えた鼻は、魔除けの獅子のように穴が上を向きひしゃげていた。

 蘭は、老人に向かって、

「私は蘭よ」

 と言った。

 老人も大きな体をさらに膨らませて、

「わしは姓を簡、名を雍という」

 と怒鳴った。

 蘭は口をつぐんで、築山の麓からひたと老人を見据えた。

 老人は続ける。

「字は憲和だ」

 蘭は口を開いた。

「じゃぁ、字で呼んだらいいのね。あなたのことは憲和って呼ぶわ」

「やいやい」

 老人があずま屋の卓に拳を叩きつけた。四川ではあまり見られない、小麦の胡餅(フーピン)を乗せた皿が跳ねる。

「お前はわしのことが怖くないのか?」

「あなたは悪い人なの?」

 首を傾げて聞いた。

「いや、悪い人じゃない」

「じゃぁ、怖がる理由なんてないわ。憲和って呼んでいいのね?」

「おい、わしは昭徳将軍だぞ」

「ふぅん。それで」

 蘭が気のなさそうな返事をするので、むきになって老人は成都の北にそびえる大城を指差した。

「あそこにおわす尊い方から賜った将軍号だ」

「その尊い方は悪い人なの?」

「いや、悪い人じゃない」

「じゃぁ、やっぱり怖がることないわ。あたし憲和って呼ぶわね。憲和、ここで遊んでいい? もともとあたしの土地なの。あなたがあとから来て乗っ取ったのよ」

 老人は目を剥いて蘭のことをにらんだ。

 顔色は赤黒くなり、瞳は黄味を帯び、開いた毛穴一つ一つから火でも吹きだしそうな表情になった。

 だが、蘭はやわらかくその視線を受け流している。

 別に強いてそうしているわけではない。怖さより、むしろ、老人の表情からは、滑稽味と親しみの方を感じたのだ。

 しばらく、老人と少女はつばぜり合いするもののように黙って見つめ合っていたが、案外老人の方がたわいなかった。

 表情をゆるめ、カラカラと笑うと、

「やぁ、蘭、負けたよ。ここまでのぼってこないか? 一緒に松の実や西瓜の種を食べよう」

 と白旗をあげた。

「分かったわ、憲和」

「憲和はよしてくれ。これで、もういい年寄りなんだ」

 蘭は築山を登りだしている。

「じゃぁ、なんて呼べばいいの?」

「そうだな、将軍と呼べ」

「分かったわ。じゃぁ、将軍って呼んであげる」

 話がそう片付いた頃には、もうあずま屋についていた。

「ねぇ、松の実をはやくよこしてよ」

 老人は突き出された手を見ながら、面白そうに笑った。

「わしほどの男が童にいいようにされている」

 それから、簡雍という老人と、蘭は大の親友になった。

→ 花武担 第一章 武担(三)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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