花武担 第一章 武担(一)

 健興三年三月。

 蘭は、花江に面した自分の部屋の窓から、武担(ぶたん)山を見るともなくぼんやりと眺めていた。

「蜀犬日に吠ゆ」という。

 成都はいつも曇りで、空気のはっきりしない、色合いの薄い街だ。

 窓から見える町並みもかすみがかったように茫洋として、淡墨で描いた絵のようにどこかあわい。

 ただ、成都西北の高さ十丈ほどの小山、武担だけは晴れ間が当たっているのか、春の陽に映え、その仰向けになった娘の乳のような山容がひどく近くに見えた。

 起伏にとぼしい街のため、こんな丘ほどの山でも城内のどこからでも見ることの出来る。山椒や桂(ニッケイ)、木蓮におおわれた武担は、この灰色の街の片隅にそっと置かれた小さな美しい花束のようだった。

 武担は、成都の住民の心や生活の、深いところまで染み渡っている。方角の手がかりに使われることもあれば、

「朝方、山頂に暈がかかっていると、夜は雨」

 といったように、天気を予測するときの目印に使われたりした。

 年頃の娘達の間では、恰好の占いの種で、

「武担の方を向いて、目を強くつむって三呼吸。開けたときに山の色が赤く見えたら吉、青く見えたら凶」

 蘭が、友人の小椒(しょうしゅく)から教わったのは、そんな占いだった。

 言われた通り、目を強くつむり「一、二、三」と数えてみる。

 つばきを一つ飲み込んだ後、おもむろに目を開けた。

 しかし、つむった拍子ににじんだ涙で山は何重にもぼやけ、何色にも見えない。

(これじゃ、何も分からないわ)

 蘭はため息をつくと、脇机のうえの手鏡を手に取った。

 蘭は花江のほとりに店を出す酒屋の娘で今年十四になる。

 花江は、岷江の流れを城内に引き込み、街を東西につらぬいて流れる運河だ。

 この河は、成都西の市橋辺りに来ると、その南岸に楊柳と妓楼を従わせ、絃楽の音と酒客、そして美しい妓女に満ちた遊里の巷になる。

 街のものはその遊里のことを溺街(できがい)と呼んでいた。

 名前の由来は、大雨が降ると、すぐ水に浸かるからだと言うものもあれば、酔客が道ばたにするもので厠の匂いがするからだというものもいた。

 蘭の酒屋はその溺街の妓楼に酒を卸すだけでなく、花街をそぞろ歩きする酒客相手の居酒屋も経営している。蘭は居酒屋の看板娘といったところで、はっきりと二重にくびれた大きな目と、瓜の種のように綺麗な歯並みを持つ美しい少女だった。

 ただ、蜀の産にしては珍しく長身で、肉置きも年の割にませている。

 名前のあたまに小をつけて小蘭というのが通称だったが、口の悪い客などは店の手伝いをする蘭に向かって、小じゃなくて猪だなどとからかうこともあった。

 蘭も盛り場で育って来た街の娘だけに負けてはいない。怒鳴り返すこともあれば、時には手を振り上げて大人の男相手に凄みを効かせたりもした。

 しかし、やはり年頃の娘である。

 店に出ているときはよくても、部屋に一人いると言われたことが身に応え、ついつい傷口をいじるもののように、あげつらわれたことを鏡で確認しようとしてしまう。 

 裏に双魚の文様のある手鏡はとても小さい。

 そこに自分のよく実った頬が縁一杯に溢れそうになっている。

 蘭はその頬を憎々しげに人差し指で押したあと、ほたほたと実った乳を両の手でおさえた。

「まだはやいわ」

 蘭はそうひとりごちた。

 体ほどまだ心は成長していない。同年代の女の友人たちはもう結婚も意識しだし、少しでも姿見のいい男の子を見るとやいのやいのと騒いだが、蘭はまだ男という存在そのものに対してピンと来なかった。

 それに、世間は、目に見えるところだけで解釈するが、実は体のほうだってまだ熟していないのだ。

 蘭は一度戸の側まで行って、誰も自分の房に近づく様子がないことを確認すると、裙(スカート)をたくしあげ、下穿きに手を入れた。

 生真面目に口を閉じた貝殻の上の密やかな丘。

 そこは磁器のようにつるりとしていた。

「やっぱりまだはやいわ」

 そうもう一度ひとりごちてから、立ち上がった。

 部屋を出ると、厨房に行き、客のつけを書きつけた木札を一つ取った。その木札には将軍と赤字で記されている。それから、椀に盛られた松の実を麻の袋に三合ほど入れ、小脇に抱えた。

 厨房を過ぎたが、店には客は一人もいない。父は客用の椅子の一つに座ってぼんやりしていた。

「将軍のところに行ってくるわ」

 蘭はそう声をかけた。

「店の手伝いは?」

「どうせ誰も来ないわよ。だって、若い人は皆戦争に取られたんだもの」

 父はそれには答えず、一つくしゃみをすると、勝手にしろという風に手を振った。

「つけをもらってくるだけよ。すぐ帰ってきます」

 そう言い捨てて店を出た。

 将軍の屋敷は、人一人がやっと抜けれるような細い路地を挟んで西隣にある。

 蘭は、その路地に入った。

 成都の家々は背を伸ばせば中がのぞけそのうなくらい垣が低いのが普通だが、将軍の屋敷の塀は思い切り高く、屋根も片流しになって、外にはみださない。

 それで、路地は日の遮られてひどく暗かった。

 歩いて行く先には、花江と、その向こう岸の、内城を取り囲むように建ち並ぶ、豪壮な屋敷の群れが見える。構えは、皆、将軍の屋敷と同じものになっていた。

 そこら一帯が、先の帝、劉備という人が連れてきた北方の人、つまり将軍のような人たちが住まう区画だった。

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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