魏延文長 知られざる守護者(3)

◆魏の侵攻作戦の顛末

激情家の魏延は、反駁する間、言葉が凶器のように鋭くなりました。発言も何度か火走りします。罵声に近い言葉を浴び、丞相府付きの役人達も何度か怒りに顔を青ざめさせました。とくに楊儀などは、このときにはっきりと魏延を敵と認識したようです。

孔明はというと魏延が自分の手飼いの子分達を罵るのを黙って聞いていましたが、魏延・王平という軍事における二枚看板が反対にまわったことで、何か思うことがあったのでしょう。

軍議の後しばらくして、魏延が秦嶺山脈に造った防衛網についてもそのまま温存させることにする、ただ兵や兵糧の格納に使えることだし二城建設の方針も変えないことにすると発表されました。

それで魏延も、

「まぁ、後詰めの城ということなら邪魔にはならないだろう」

と、矛をおさめることにしました。ただ、どこか心にひっかかるものがあります。自分の絵図のなかに、構想外の醜い染みを二つポツポツとつけられたという不快感だけではありません。それは何か得体の知れぬ一種異様な不安でした。共に反対した王平も腕組みし、憂い顔でしきりに首をひねっています。

しかし、そんな二人の不安をよそに、漢・楽の二城は丞相府の優秀な官僚達の手で、着々と行政化されていき、半年の工期で建造されてしまいました。

そして、翌二三〇年、予測通り、魏は曹真、張コウ、司馬懿という三枚のカードを同時に切り、三路から攻め立ててきました。

張コウが斜谷道から漢中の西に、曹真が子午谷から漢中の中央に、司馬懿が漢水を遡って漢中の東に攻めかかるという、雷神が三叉の矛を振り下ろすような誠に壮大な作戦でした。後々の曹爽や鍾会・鄧艾の侵攻作戦と比べても、将軍の質、兵員・軍需の規模ともに最大だったと言ってよいでしょう。

しかし、結局、このときの魏の侵攻作戦は長雨により行軍が不可能となったため、蜀がほとんど何もしないうちに中止になりました。

ただ、漢中の定軍山で戦死した夏侯淵の息子、夏侯覇のみが、復讐に燃えていたのでしょう、子午谷を一人突出して攻めかかってきました。蜀軍も迎撃の兵を繰り出し、彼を迎え撃ったのですが、その場所は興勢山、楽城よりもはるか北東、秦嶺山脈のまっただ中にある要衝の地でした。つまり、魏延の作った防衛線上です。結局、夏侯覇はこの地以南には一歩も進むことが出来ず、本隊の撤退もあって逃げ出していきました。

魏の作戦が中途半端に終わったので、このときの蜀の防衛構想の全貌ははっきりとは分かりませんが、夏侯覇が補足された場所を考えると、概ね法正・魏延ラインの戦略に則ったものであると考えてよさそうです。魏延の防衛網は有効に機能することをしっかり証明したのでした。

しかし、その一方で、漢・楽の二城は、大した働きはありませんでした。

魏延は得意だったでしょう。「どうだ、おれの作品は」そう誇りたい気持ちだったかもしれません。ただ、面白くないのは丞相府の文官達です。この戦役以後、目立って彼らの魏延への態度は冷たくなっていきます。しかし、優秀な軍人そして民政家ではあっても、政治家ではない魏延は不幸にもそのことに気付きませんでした。そして、何より孔明の自分を見る目が冷ややかなものになっていることにも。

魏のような名士による政治を目指す丞相府の選良達にとって、政戦ともに出来るたたき上げの武官というのは、どれほど優秀であっても、いつかは取り除かなくてはならない害だったのです。

◆その後の北伐

その後も蜀は北伐を繰り返し、魏延も軍の主力として奮戦し続けました。

魏が侵攻してきた230年同年には、彼らの撤退したあとを追うようにして、魏延単独で羌中まで進軍、羌族に対する宣撫工作を果たした後、迎撃に来た郭淮を返り討ちにしています。小説ではやられ役の郭淮ですが、実際は後に車騎将軍にまでのぼり詰める、魏の西方の守護神とも言うべき人でした。この遠征の功績で魏延は、前軍師・征西大将軍・仮節に昇進し、南鄭侯に報じられました。

また、翌231年の第四次北伐では蜀軍は祁山を包囲し、その援軍に来た司馬懿・張コウの軍と会戦、大勝利を収めます。その際活躍した武官の筆頭として残るのが魏延でした。

しかし、こうした戦術的勝利をいくら積み重ねても、兵糧が尽きたら撤退を繰り返しているのですから、なかなか成果を繋げ、西方経営を軌道に乗せることが出来ません。それどころか、蜀の動きは魏を刺激してしまったようで、北伐開始前は飛び地だった関中への本腰入れての経営が始まります。司馬懿の弟だった司馬孚が関中の軍屯をはじめ、さらに少し後のことになりますが鄧艾がさらに西方の隴西方面の軍屯をはじめます。こうした対策によって魏はわざわざ防衛軍を中原で招集しなくてもよくなり、蜀はますます不利になっていきました。

姜維の代になるともう関中盆地に兵を入れることも難しくなってしまうことを思うと、結局、第一次北伐開始前に献策した魏延の策しかなかったのかもしれません。

いずれにせよ、孔明の五度に渡る北伐は失敗でした。

そして二三四年、五丈原で孔明は陣没、その後、皆さんお知りの政変が起こり、魏延はかつて漢・楽二城を巡る議論の際の盟友だった王平によって斬られます。この顛末については、はゆまも陳寿の評以上のことは言えないので、あまり触れないようにしておきます。

本稿で書きたいのは、あくまで、あまり知られていない漢中防衛網に関する魏延の功績なのです。

◆二つのドクトリンに引き裂かれる漢中

ドクトリンという言葉があります。

広義には政治や外交における基本原則を言い、狭義には作戦・戦闘における軍隊部隊の基本的な運用思想のことを差します。

孔明も魏延ももつれ合うようにして斃れましたが、二人の残した漢中を守るためのドクトリンは二つながら残りました。

魏延「衝立を幾つも作って山の中で敵を通せんぼするよ。敵は決して麓には降りさせないよ」

孔明「それじゃ手柄立てられないじゃん。衝立は後ろに下げて敵を麓に引き込んで殲滅しようよ」

そして、この真っ向から対立するドクトリンが一本化されないまま、秦嶺山脈に張り巡らされた諸陣営と、盆地内に聳える強固な城塞都市、漢・楽の二城として並立したがために、魏が攻め込む度に漢中の戦略は、常に二つに引き裂かれることになるのです。

五丈原から十年後の二四四年、曹真の息子だった曹爽が十万の軍で出征の軍を起こし、はやくも先鋒は駱谷に押し寄せるという事件がありました。この際、漢中はたった三万の軍しかいなかったため、諸将は非常に慌ててこう主張しました。

「現在の力では敵を防ぐことが出来ません。敵の進むのにまかせて、漢・楽の二城を固守すべきかと存じます。たとえ、賊軍を侵入させても、そうこうしている間に、フ城の本隊は十分関城を救援できましょう」

しかし、この頃漢中太守として漢中の総指揮官だった王平が真っ向から反対します。

「それは違う。漢中はフ城から千里近い距離にある。賊軍がもし関城を手に入れるようなことになれば、それこそ禍いの種となるであろう。今はまず劉護軍と杜参軍を派遣して興勢山にたてこもらせ、私が後方の備えに当たるがよかろう。もし賊軍が兵を分けて黄金谷に向かってくるのなら、私が千人でこれを迎え撃つ。そのうちに、フ城の本隊も到着するだろう。これこそ上計だ」

興勢山はもう出てきました。先の曹真・張コウ・司馬懿による魏の攻勢の際に、夏侯覇を迎撃した場所です。黄金谷はそこからさらに西方で、ここもまた秦嶺山脈のど真ん中、つまり魏延の作った防衛網の一つでした。

最後は袂を分かった王平ですが、ことドクトリンということに関して言えば、魏延と同志のままでした。防衛戦ということに限って言えば、魏延よりも有能で、張コウも打ち破ったことのある王平の目から見ても、孔明のドクトリンは当てにならないものだったのでしょう。彼の主張のなかには、漢・楽の二城の話は一つも出てきません。

そして、王平の策は図に当たり、本隊がたどり着くまで、魏の攻勢を持ちこたえることに成功します。成都から援軍を率いてきたのは、かつて魏延・王平と言い争った丞相府の文官の一人費禕でしたが、このとき費禕と王平がどんな感慨を持ったか記録からは分かりません。

◆蜀滅亡

王平が二四十八年に、費禕が二百五十三年に亡くなると、姜維が軍事指導者として台頭してきます。かつての花はじらう美少年も壮年の屈強な男になっていました。そして、丞相府の寵児であったはずの彼こそが、軍の都合で政治を引っ掻き廻す恐るべき軍閥政治家になるのでした。

積極策を主張した魏延でも愕然とするようなペースで北伐を繰り返し、蜀の国庫と人口はみるみるうちに減っていきました。そして、段谷の戦いで鄧艾に手痛い敗北を喫し、諸葛誕の反乱と呼応し呉蜀連動した北伐も失敗に終わった二百五十八年、ついに先述の言葉を姜維が述べる日が来ました。

「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、新しく漢中盆地内に築城する二城に兵を集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊し撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう」

こうして、魏延が才能と情熱の全てを掛けて作り、それまで漢中を守り続けてきた防衛網は放棄されました。

そして、二六三年、度重なる蜀の侵略に業を煮やした魏は、ついに鍾会・鄧艾からなる征討の軍をおこします。鄧艾が沓中に駐屯する姜維を足止めしている間に、鍾会が放棄された諸陣営の跡を通って、漢中盆地に乱入、漢・楽の二城を包囲すると同時に、漢中から益州に向かう入口に当たる陽平関に襲いかかります。

この時、張翼・廖化などが率いる軍が援軍に向かっていたのですが、蒋舒の裏切りもあって間にあわず、結局陽平関も陥落、漢中は魏の手に落ちます。

その後、何とか鄧艾の追撃を振り切った姜維が張翼・廖化と合流し、漢中から益州に向かう最後の要衝の地剣閣で鍾会を迎え撃ちます。一事は鍾会に撤退を考えさせるほどに姜維達は奮戦するのですが、結局、陰平から間道を抜けて益州になだれ込んだ鄧艾の手によって成都は落とされ、蜀は滅びるのでした。

皮肉なことに、あの漢・楽の二城は蜀降伏のその時まで健在なままでした。

国が滅びても、まだ城が残っている。

そのこと自体が、この二つの城の無意味さと、孔明の残したドクトリンの無内容さを証明しているのではないでしょうか。

魏延が漢中太守になってから四十四年がたった年の出来事でした。

◆石人石馬

蜀という国は三国のなかで最もはやく滅亡しました。後の六朝貴族政治に繋がる魏や、東晋などの南朝亡命政権の礎になった呉と比べ、歴史的意義は低く、存在感の薄いはかない王朝でした。

しかし、後年、最も多くの人の口にのぼり、物語られるのはこの国の英雄達の事跡でした。それがやがて中国四大奇書と言われる三国志演義に結集するのですが、魏延はそのなかでも不運な役回りをさせられることになります。

しかし、漢中の民衆達は、部下や民への面倒見がよく、そして自分達を守ってくれていたものは何だったのか良く分かっていたのでしょう。

「石人石馬」という漢中で民衆の間で語り継がれてきた故事が残っています。その故事(若干の脚色あり)を紹介して本稿の結びとしようと思います。

魏延の馬は毛並みが絹のように光る、それは美しい黒毛の馬でした。

魏延はこの黒馬をことの他可愛がっていました。

黒馬もその愛情に答えて、戦場ではご主人様を乗せて風のように走りました。

黒馬はご主人様のことが何よりの自慢でした。

「ご主人様は蜀一番の大将軍なんだ」

しかし、ある日ご主人様は政争にやぶれ、奥さまも子供も皆殺しにされました。

黒馬はその墓の前で魏延のくれた朱漆の鞍を外し、黄金の馬鎧も脱いでおいおい泣き叫びました。

黒馬は漢水に向かって聞きました。

「わたしの主人はどうして殺されたのですか?」

しかし、漢水の神はすすり泣くばかりで答えません。

黒馬は秦嶺の山々に向かって聞きました。

「大将軍はたくさんの数え切れない手柄をたてたのに、どうして殺されたのですか?」

しかし、秦嶺の山精達も口を噤み顔をおおって答えません。

やがて、黒馬は、自分の傍らで少年が二人、大地にうずくまって泣いているのに気づきました。鎧に首が埋もれ、刀が痛々しく見える、百合と水仙のような二人です。

少年の一人が言いました。

「これは冤罪だ」

もう一人も叫びました。

「丞相様は不公平だ」

黒馬は二人のことを知っていました。士卒を育てるのが好きな魏延が可愛がっていた小姓達です。

「ここは危ないですよ。お坊ちゃん達、はやくお逃げなさい」

黒馬は少年達の身を案じました。

しかし、二人は首を振って答えます。

「僕達は将軍の墓を守ろうと思うのです」

すると黒馬も身を震わせて言いました。

「では、私もお供させてもらいます」

それから、二人と一匹は魏延の墓を守るようにして、その側に立ち続けました。

東風に梅が咲き綻ぶ春も、棗の若葉が蝋のように光る夏も、七夕の天河が漢水に映える秋も、秦嶺の山波が銀色の冠を抱く冬も、二人の少年と黒馬は魏延の墓を守り続けました。

そうして、何年もの間、日に当たり、風にさらされしているるうちに、天がその真心を憐れんだのでしょうか。

「いつまでもご主人様の墓を守り続けたい」

そんな願いは叶えられ、人も馬もすっかり石になってしまいました。

今でも、その二人と一匹は主人を慕って、漢中にある魏延の墓の側で立ち続けています。


ちなみに、この伝承のもととなった石人と石馬は本当に今でも陜西省漢中市街にある漢台の博物館に展示されていて、鉄道の下敷きになったご主人様の墓を哀しげに見つめているのだそうです。

この記事へのコメント

悲劇の武将 - 魔蘭 - 2013年12月02日 18:53:19

はじめまして。魏延の記事興味深く読ませていただきました。
わたしも魏延と孔明が好きです。 魏延は大抵の三国志でいい人ばかりいる蜀の中の悪党という扱いですが、近年日本では、戦略に優れた武将で再評価されてますね。

漢中防衛網の考察とてもおもしろかったです。 魏延が長年かけて防衛網を構築しそれらを、蜀が上手く活用できなかったこと この防衛網があるのだから、あの子午谷の奇襲も成功したかもしれない。私もそう
思いました。

孔明は官僚 政治家としては優秀でしたが、軍師としてはイマイチだったかもしれませんね。 魏延は征西大将軍 しかも当時蜀では、孔明しか権限がなかった使持節まで授けられてたのですから、蜀のNO2と見てもいいでしょう。しかし、孔明は自分の周りをお気に入りの名家の士大夫で固め(あの出師の表でも劉禅に自分の子飼いの部下を重用するように書いてありましたね。)
さぞ居心地悪かったでしょう

歴史にIFをいってもしかたないのですが、孔明と魏延もっとコミュニケーションが取れてら、蜀の運命も多少変わってたかもしれません。

はゆま様のデビュー作「劉邦の宦官」素晴らしかったです。
三国志も書いていただけると嬉しいです。

乱文失礼しました。

Re: 悲劇の武将 - 黒澤はゆま - 2013年12月03日 20:24:12

魔蘭様

こちらこそ、はじめまして。コメントありがとうございます。
今回は孔明にとって分の悪い分析になりましたが、私も魏延・孔明両方とも好きです。

最近はゲームの影響もあって魏延の再評価も進んでいますが、主に北伐時の功績ばかりで、漢中防衛網の構築という面でのテキストはあまり見たことがなかったので、今回書かせてもらいました。孔明と魏延、もう少し連携取ってくれたらというのは本当にそのとおりですね。劉備没後、こういった問題が続出するので、やっぱり昭烈帝は偉かった。

劉邦の宦官も読んでもらったうえに、素晴らしいなんて言ってくださって、本当にありがとうございます。三国志は是非、書きたいなぁと私も思っております。蜀末期を舞台に色々構想を練っていますので、近いうちにお目に掛けれるかと。

今後ともご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

黒澤はゆま拝

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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