魏延文長 知られざる守護者(2)

◆劉備の死

219年、劉備は漢中王となり、その領土も旧国名の区分でいうと巴蜀に漢中、さらに楚を兼ねるという広大のものとなりました。人材も、帷幄で策を練る謀臣に孔明、法正、黄権、馬良、李厳、劉巴、爪牙となる猛将に関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠、そして魏延と、粒ぞろい。まさに人生絶頂のときでしたが、その栄華も長くは続きませんでした。

はやくも翌220年、関羽が魏へと侵攻し、一時は曹操に遷都を考えさせるほど勢いも盛んだったのですが、同盟を組んでいた呉の裏切りよって敗北します。関羽はなんとか義兄のいる蜀へ逃げ延びようとしたのですが、麦城で呉軍に補足され、万夫不当を謳われた豪傑もあえない最後を遂げました。

激怒した劉備は復仇の軍を起こします。しかし、これも出立まえから宿将趙雲の大反対にはあうし、軍の要だった張飛は事故のような感じで部下から殺されるしで、ケチ続き。

当初こそ快進撃でしたが、結局呉のダークホース陸遜が登用されると、その勢いも止まり、結局夷陵で敗れます。殲滅といっていいもいいような被害でした。蜀は軍需物資並びに、何よりも貴重な次代を担う中堅の指揮官を失いました。

命からがら逃げ延びた失意の劉備は白帝城で寂しく亡くなります。代わって台頭してくるのが孔明です。この頃には、魏延を可愛がってくれた叩き上げの猛将達、関羽、張飛、黄忠は既に亡くなっており、残るは趙雲ばかりになっていました。

◆孔明との関係

北伐開始前の孔明と魏延の関係はよくわかっていません。しかし幹部同士ですし、派閥としては同じ荊州閥に属しますから、まさかまったくの没交渉ということはなかったと思います。

百九十二センチという大リーガーみたいな体躯、山東人らしい精悍で秀でた容姿、優れた弁舌と頭脳、先祖には司隷校尉、今で言う首都知事みたいな役職をつとめた諸葛豊もいる孔明は、魏延から見れば世のなかのど真ん中の道を堂々と歩んでいける、まばゆいような名士でした。

ただ、孔明は名士でありながら、関羽や張飛といった叩き上げの庶民上がりの武将ともフランクに付き合えた人ですし、もし魏延が新野時代から劉備に臣従していたとすれば、広い意味での同期ということになります。年も似通ってますから、案外若いころは棒組になって飲み歩いた仲良しだったかもしれません。

孔明が劉備から跡を託されたと聞いても魏延は、

「まぁ順当なとこかな」

くらいのもので、反発も感じなかったでしょう。

◆初めての対立

しかし、北伐がはじまり、孔明が丞相府を漢中に移すと、徐々に二人の関係はギクシャクしだします。

まず魏延は漢中太守から外されました。これは孔明が直接軍事基地としての漢中を運営するための施策でやむを得ないことではあるのですが、それまで掌中の玉のようにして守り育ててきた漢中を辞令一本で取り上げられた、魏延の無念は察してあまりあるものがあります。。

ただ、その代わりに督前部(前線部隊司令)、丞相司馬、涼州刺史に任命されました。丞相府の軍事の統括と、主に戦場になるであろう涼州の行政長官ですから、これはかなりの出世です。やはり孔明にとっても、政戦両方まかせることのできる魏延は頼みとする存在だったのでしょう。臍を曲げられないよう、色々と気を使ったようでした。

孔明との長いつきあいの魏延もその辺りの人事の機微は理解できたはずなので、任免についてはまぁなんとか飲み下したのではないでしょうか。

しかし、最初の決定的なすれ違いは第一次北伐まえの軍議の席で起こります。ここで魏延は、後年、「子午谷の奇謀」として知られる長駆急襲策を提案します。

魏略によれば、その内容は、

「精鋭五千と兵糧五千石をお貸しください。子午谷を通って長安まで十日で踏破してみせます。長安の守将、夏侯楙は曹操の婿というだけの青二才ですから、私があらわれたら必ず逃げ出すでしょう。あとは御史と京兆太守がいるだけですので、長安横門の食料貯蔵庫と逃散した民衆の穀物とで軍糧は十分にまかなえます。魏が軍勢を集めるには二十日はかかるでしょうから、公は斜谷を通っておいでになるには、十分に余裕があるに違いがありません。こうすれば、一度の行動で咸陽以西を平定することが出来ましょう」

というものです。魏延は先述の通り、漢中太守時代、防衛網を構築するために秦嶺山脈を駆け巡っていました。その間、魏の関中方面の情報も収集していたはずで、そのなかで、案外、守りが手薄になっているという感触をつかんでいたのでしょう。

三国の勢力圏を示した白地図を見ると、線引きされた領土内はどこでも同じ影響力を持っているように見えますが、実は地方によって濃淡はかなり異なります。魏はその国名が表すとおり、洛陽や許昌、?など、黄河中流域の諸都市を中心にした国で関中は遠い外地でした。

当時、魏の蜀への印象は「劉備が頑張っているだけで、それも死んだから、そのうちに降伏してくるだろう」というものでしたから、案外、強行していたら成功したかもしれません。

しかし、残念ながらこの策は取り上げられませんでした。

一つには全滅か大成功かというイチかバチかのかなり危険性の高い作戦だったということがあります。もう一つは、長安という重要都市をとってしまった場合、この戦争の規模がどれほどのものになるか読み切れなくなるということがあったように思います。

孔明の頭のなかには、この戦争の範囲と規模に対して明確な枠組みがあったようです。

実は、孔明の北伐の目的は本当に魏を倒してしまうというより、益州と経済的な結びつきの強い、へい州・涼州を攻略するということへの比重の方が高かったのです。

北伐を文字通りの字義、漢王朝再興のための聖戦として捉える魏延と、蜀という国の経済を安定させるための施策として捉える孔明とでは、そもそも考えの立脚点がまるで違うのでした。

孔明は「五千の兵員の命を掛け物にする危険な策だね。安全を保って平坦な道を取り、無理をせず朧右を奪うべきだ。その方が万全の必勝策で危険がなくてよいだろう」と、北伐の真の目的をかすかに匂わせながら魏延の策を却下しました。

しかし、魏延にはこの辺りの考えのずれがよく理解できなかったのでしょう。漢中を取り上げられた上に、長年練ってきた作戦を無視された、そんな恨みだけが残りました。

◆第一次北伐から第三次北伐まで

結局、魏エンの策を無視して実行された第一次北伐は、孔明の一番弟子馬謖の信じられないようなポカミスで失敗に終わります。

健在なことを示すためにすぐ第二次北伐が実行されるのですが、こちらも孔明の出方を完全に読み切っていた曹真が作った陳倉城とその主将カク昭のために行く手を阻まれ、撤退の最中に突出して追撃してたき王双を切る程度の戦果で終わります。

北伐を続けてもなかなか成果につながらない年月が続き、この頃は魏延もやきもきしていたと思います。

しかし、二二九年、陳式という部将単独で行われた第三次北伐では、迎撃に出た郭淮も追い払い、武都・陰平の二郡を占領することに成功します。この直前、魏は蜀の官吏すべてに向けて降伏勧告の声明を発表していますから、その向こう面を張り倒すような壮挙でした。

当然メンツを潰された魏からは強力な仕返しが待っているはずでした。

当時、魏の蜀方面の戦線を担当していた将軍は、曹真、張コウ、そして司馬懿と、当代第一級の面々ばかり。魏はそのすべてのカードを切って、漢中に押し寄せてくることが予想されました。

どう防衛するか?

それを決める軍議の席で、孔明と魏延の意見は再び対立します。そして、この軍議の場で、蜀の滅亡に至る階梯の第一歩を踏む決定がなされてしまうのでした。

◆漢・楽二城

軍議に向かう道すがら魏延の足取りはいつになく軽いものでした。いよいよ、自分が構築した防衛網の真価が問われる日が来ようとしているのです。脇には、秦嶺山脈に蜘蛛の巣のように張り巡らされた諸陣営の地図が抱えられています。何十年も取りかかっていた傑作のお披露目会に向かう芸術家のように魏延の胸は高鳴っていました。

しかし、軍議の場で、孔明か、あるいは丞相府の参謀の誰かからいきなり切り出された発言は、耳を疑うようなことでした。

「来るべき魏の侵略に備え、漢中盆地内に新しく、漢・楽という二つの防衛用の城を構えようと思う」

魏延は唖然としたはずです。法正が図案を引き、自分の作った防衛網の堅固さは魏延自身がよく知っていました。

たとえ魏が、切りうる最良のカード、曹真、張コウ、司馬懿の三枚を同時に切ってきたとしても(実際にそうなるのですが)おさおさ破られるものではないと確信していたのです。

それが何故、先述の防衛思想「衝立をいくつも立てて、敵を通せんぼするよ」を
否定するような城を立てるのか?

怒りをこらえつつ、魏エンは軍議の席で、孔明側の席に座る白面の選良達に城を建設する目的を聞きました。するとしれっとした顔でおそらく楊儀辺りが返してきた答えはこうでした。

「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、新しく漢中盆地内に築城する二城に兵を集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊し撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう」

実は、上記は、正史姜維伝からの姜維の発言を一部変えただけで、ほぼそのままのものです。姜維の発言はかなり後年になってからのものですが、この時期、既に姜維は孔明の秘蔵っ子でしたから、漢・楽二城がどのような防衛思想の下に作られたものであるかを示したものと思ってよいかと思います。

それはすごくかいつまんで言うと下記のようになります。

「それじゃ手柄立てられないじゃん。衝立は後ろに下げて敵を麓に引き込んで殲滅しようよ」

◆魏延の怒り

魏延は赫怒しました。魏延にとって漢中とそれを守る防衛網は自分の全精力をささげた作品のようなものでした。また、曹操は漢中は放棄する際、住民の多くを拉致しています。そのため、ほぼ空になってしまった漢中に益州や荊州の住民、もしく羌族といった異民族達を移住させ、土地に馴染むよう慰撫する仕事も魏延はしてきたはずです。

それを血まみれの戦場にする?

しかも、五千の兵卒の命を掛け物にするのかと、自分の作戦を否定した連中がそれを言ってきたのですから、怒りはひとしおでした。

魏延は二城建設に対して絶対反対の立場を取りました。後々の顛末を考えると、魏延だけでなく、蜀の武官のなかで戦上手ということに関しては魏延と双璧だった王平も反対の論陣を張ったでしょう。ただ、こちらは板楯蛮出身で漢語があまり得意ではないため、ぼそぼそと「わ、わたしも反対……」程度を呟くだけで、あまり頼りにはならないのでした。

そのため軍議の席では魏延だけが必死に発言することになりました。その席で魏延は、向こう側の席に座る面々を見て、「なんなんだ、こいつら?」という感覚を覚えたでしょう。

第一次北伐が終わった直後に趙雲も死んでいますから、いつのまにかたたき上げの武将は魏延だけになっていました。身一つで乱世を駆け巡った庶あがりの豪傑たちが去ったあとの空席は、皆名士あがりの武将や文官がうめていきます。例えば、先祖に三公を出した家柄の張翼や、光武帝の元勲の子孫である鄧芝といった面々です。孔明直属の文官である蒋?や費?、楊儀なども、皆代々官僚を輩出してきた家柄でした。

溌剌とした壮士集団であったはずの劉備軍は、いつの間にか冷たい選良たちの指揮する組織に変わってしまっていたのでした。

「ここはどこだ?」

いくら意見を主張しても、いっこうに響かない場の冷ややかさに、魏延はそう感じる瞬間も多かったのではないでしょうか。

そんな軍議の様子を末席で澄まし顔で見守っている若者がいました。白皙の薄く透き通った肌に、ほんのりと桜色の血がのぼり、唇はあくまで紅く、髪は濡れ羽ガラスのように艶やかな、一見少女のようにも見える若武者です。

彼の名は姜維といって、出身は羌族ですが、代々学問を好み、地方官を輩出してきた家柄の出でした。彼は武芸のみならず、学問とくに儒学を好み、しかも蜀に自分の栄達のチャンスがあると見ると、母親を弊履のように棄てて寝返ってきたという珍種としかいいようのない若者でした。彼は劉備など一度も見たことがありません。そんな世代も蜀に加わるような時代になっていました。

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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