魏延文長 知られざる守護者(1)

小学校六年のとき初めて三国志という物語に出会って以来、気になって気になって仕方がない武将がいます。

その名は魏延。

大体、三国志というか、中国古典小説の登場人物というのは、良い人間はあくまで良く、悪い人間はあくまで悪い。一色で塗られた書き割りのような人格の持ち主ばかりなのですが、孔明に対し逆らったり、文句を言ったりしながらも、命懸けの奮戦も見せれば、「丞相の蝋燭消しちゃった」と時に殊勝な態度も見せる魏延は、ちゃんと屈折と奥行がある、いわば近代的自我を感じさせる唯一のキャラクターでした。

まぁ、当時からはゆまはひねくれものだったので、同じくひねくれものの魏延に共感したということもあるでしょうが……

そもそも大体初対面で「こいつ人相悪いから斬っちゃいましょう」とか言われたら、誰だってひねくれちゃいますよね。

で、魏延は日本ではその不器用な生き方に共感する人も多く割と人気があるんですが、中国ではまじで嫌われています。毛沢東から裏切り者の比喩として使われたこともありますし、お墓も壊されちゃって、今はその上を鉄道が通っているほどです。

生前は主に孔明のせいで、死後も主に孔明のせいで踏んだり蹴ったりの人ですが、正史に記述に基づいてちょっと弁護を、特に漢中防衛ラインの構築という面で、していこうと思います。

◆生い立ち

魏延は荊州義陽郡出身の人です。春秋戦国の区分で言うと楚、現在で言うと湖北省と河南省の境あたりで、今でも激情家で無鉄砲な人が多いと言われる土地です。また、光武帝を輩出した南陽郡の近くで、いわば後漢王朝の故地でもあります。そんな風土が、向こう気の強く、同時に後漢王朝に強いこだわりを持つ彼の気質を形作っていったのでしょう。

出生年についてはよく分かっていません。言動から判断すると、孔明と同世代か、それよりも五、六歳下くらいでしょうか。いずれにせよ、劉備や関羽の世代とは親子ほども年は離れていたようです。

出自も詳細は不明なのですが、そんなに高くはなかったでしょう。後に、魏延は悲劇的な死を遂げますが、その際ライバルの楊儀が首を踏みつけ「傭奴」(奴隷野郎め)と罵っています。まさか奴隷ではなかったと思いますが、精々が小規模の自営農家くらいの家柄でしょうか。

◆雄飛

魏延が史料にはっきりあらわれてくるのは入蜀の戦いからです。身分は既に部隊長でした。一兵卒でないところを見ると、魏延の産まれ育った義陽郡は新野のすぐ近くですから、劉備が劉表の客将だった頃には既に臣従していた可能性があります。

いずれにせよ魏延は入蜀の戦いでたびたび戦功をあげ、牙門将に任じられました。

推測ですが庶民出身で、向こう気の強い魏延は同じような境遇の古株の将軍、関羽や張飛や趙雲や黄忠達から可愛がられていた可能性があります。素寒貧だった劉備軍もこの頃になると孔明をはじめとする名士層の武将や文官が増えてきて、彼らたたき上げもときに浮き上がってしまうことが多くなっていました。そんななか、かつての自分達と同じく何の背景もなく身一つで奮闘する息子ほどの年の若武者は可愛くて仕方なかったかもしれません。

魏延もそうした先輩達からの期待に素直に答えるいわゆるいいやつだったのでしょう。少なくともこの頃は小説のネタになるようなひねくれた一面など微塵も感じられません。

やがて張魯をくだした曹操と漢中を巡っての争いがはじまります。正史に詳細は書かれていませんが、魏延は張飛か黄忠の麾下で大活躍したようです。その働きぶりをじっと見ているものがいました。

漢中争奪戦の作戦を主導した法正と主君劉備です。二人は先輩達と張り合いながら、むきになって仕事する新進気鋭の将軍に、それまでのたたき上げの武将とは違う側面を見出したようでした。

漢中争奪戦は、黄忠が夏侯淵を斬り、さらに曹操もまた陣地を固く守る劉備に手を焼いて、鶏肋という言葉を残して去ったことにより劉備陣営が勝利をおさめました。漢中は劉備が初めて曹操を破って手に入れた土地になりました。漢中は東に肥った頭を西に細い尾を向けたなまこ型の盆地です。南西の益州盆地を守る要衝の地であるとともに、来るべき北伐の際には関中侵攻の策源地となる重要な場所でした。

もう一つの重要拠点、荊州は関羽が守っていましたから、漢中太守は張飛がつとめるものと皆が思い、本人もそう思っていました。しかし、劉備が漢中王になったとき、多くの下馬評を裏切って漢中太守を任命されたのは魏延でした。一軍皆驚きましたが、任命にあたって劉備が「今君に重任をゆだねるのだが、君は任にあたってどう考えているのか」と抱負を聞くと、魏延は胸を張って「もしも曹操が天下の兵をこぞって押し寄せてきたならば、大王のためにこれを防ぐ所存。副将率いる十万の軍勢が来るならば、大王のためにこれを呑み込む所存です」と答えました。人々はみなこの言葉を見事と思い、劉備もよきかなと満足したそうです。

この辺りの劉備の期待と、魏延のそれに報いようとする一途さは、父子関係に近いものを感じさせるところがあります。
督漢中、鎮遠将軍、漢中太守、堂々たる役職をもらった魏延は、このとき三十代半ばほど、最も体力・気力ともに充実する壮年の季節でありました。

◆漢中防衛網

魏延が漢中太守時代にした仕事で最も重要なのは防衛網の構築でした。

青写真は性格は最低だったが、軍才は最高だったもう一人の天才軍師法正が描いたもののようです。

先にも述べたとおり、漢中は南西の益州盆地を守る要衝の地です。関中から出発した軍は蜀を攻めるには必ずこの土地を通らねばならないのですが、そのためにはまず標高平均二千~三千メートルの秦嶺山脈を越える必要がありました。この山脈自体が天然の長城のようなもので、強力な防壁になっているのですが、河川に削られて出来た自然道など、所々に綻びが見られます。

そして、一旦敵を漢中盆地に入れてしまうと、防衛することは難しいということを法正は経験上痛いほど知っていました。

そこで、法正はこうした綻びに、交錯した複数の陣営、いわば縦深陣を構え、敵が漢中盆地に雪崩れ込む前に通せんぼしてしまおうとしました。敵はこの複雑に入り組んだ陣営に入ると、腹背に攻撃を受け突破する前に痩せ枯れるか、嫌になって撤退するかどちらかしかありません。

人間としてはクズでしたが(しつこい)、こと戦争に関してなら天使だった法正らしい防御網でしたが、惜しいことに彼は漢中争奪戦の決着のついた翌年には死んでしまいます。そのため、実務のほとんどは魏延が行いました。

元々、建物を作るとか、堤防を作るとか、道を作るとかいったふうな、大地に壮大な跡を残す工事はやり出したら止まらない、蠱惑的な魅力があるようです。それは何故か山の稜線に築かれている万里の長城を見ても、土木マニアと称される皇帝が幾つも生まれていることからも、分かる通りです。

魏延もこの仕事を壮年期の精力をかけて夢中になってやりました。

できばえは見事なものだったようで、魏延が構築した防衛網は蜀が滅びるそのギリギリのときまで有効に機能しつづけます。というより、この防衛網を自から外してしまったとき、蜀滅亡のカウントダウンは始まったのでした。

重要なのでもう一度、めちゃくちゃにかいつまんで法正が企画し、魏延が構築した防衛網のことを説明すると下記になります。

「衝立を幾つも作って山の中で敵を通せんぼするよ。敵は決して麓には降りさせないよ」

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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