スケープゴートとしての平家

古代ローマで共和制・帝政を通じて行われてきたお祭りに「王の放逐」(Regifugium)というものがあります。王制最後の王「傲慢なタルクィニウス」の追放を擬したと言われる一種の儀式的な競走ですが、その起源を遡ると、かつては本当に王が参加して他の参加者と競走していたようです。このお祭りで王様は走力が抜群であることを見せつけ、自分の肉体的な強さを誇示するという、いわばマウンティングの儀式でした。

もし、王様が負けちゃったら?

その場合、王様は肉体的・霊的力が弱まったものとして殺され、王権は王様に勝った者に譲り渡されます。

奇妙な話のようですが、実は王を殺したり、一定の年限がくると退位させる風習は、世界各地の古代社会で見られることでした。古代南インドでは王は在位十二年後に犠牲に供されましたし、古代スウェーデンの王も任期の九年を過ぎると殺される宿命でした。

日本でも有名な卑弥呼の死期は皆既日食の時期と被っていて、太陽の死と共に民衆に殺されたのでは?という説があります。また、古代中国で殷を創始した湯王は日照りの際に、積み上げた薪の上に座り、自分の身を焼いて雨を降らせようとしました。湯王の場合は儀式の途中で雨が降ったので助かりましたが、古代中国では本当に王が焼き殺される例もたくさんあったのだと思います

王様が祭祀王でもあった時代、力の弱くなったり、干魃などの災害を招いた王様は「祟り」をもたらすものとして殺されるのが一般的でした。

しかし、時代が下るつれこうした慣例は段々抽象化・儀式化されてきて、冒頭の「王の放逐」のような象徴的なお祭りになるか、あるいは身替わりのものが殺されようになりました。バビロニアでは毎年五日間の年次祭の時は死刑囚に王衣を着せ、王様の身替わりをさせたそうです。その間彼は王様同様に大事にされ、後宮の女と寝ることさえ許されるのですが、夢のようなひとときが過ぎると、鞭打たれたあげくに縄で吊されるか槍で突かれるかして殺されるのでした。

さて、タイトルの平家の件ですが、どうもはゆまには平家のあっという間の栄達と没落が、このバビロニアのスケープゴートと重なるのです。

平安末期それまで日本を支配してきた公家社会は、明らかに統治者としての能力を失っていました。奈良時代の貴族は体が頑健で気宇も大きいものが多いのですが、平安時代の貴族は仏教・神道両方の禁忌に心身ともに絡め取られ、体は不健康で小さくなり、まともな政治を行う力も意志も無くしてしまっていました。代わりに台頭してくるのが武士です。繁田信一氏の「殴り合う貴族達」という本には、平安末期の情けない貴族と、それとは対照的な凛とした武士の姿という構図を示す象徴的なエピソードが紹介されています。

治安三年(1013年)後一条天皇の時代のことですが、天皇の寝所の清涼殿を二人の若者が無断侵入した上に、派手な暴力沙汰を起こすという事件が発生します。二人の若者は、少将と称される内裏女房の息子で、母親を迎えに来ようとして、清涼殿に無断侵入したのでした。このとき、藤原永職という蔵人が二人を見とがめ誰何します。しかし、逆に二人から大声で威嚇されて怯み、警護の武士を呼びに行きます。無断侵入した二人も二人なら、怒鳴られた程度で怯んでしまう永職も永職です。

それで藤原友良という武士が駆けつけてくることになるのですが、こちらは見事な手並みで二人のうち一人をたちまちのうちに取り押さえます。しかし、さすがに二人同時というのは難しかったらしく、一人は取り逃してしまいます。友良は、まずは捕らえたものの身柄を確保して、ということで若者の一人を柱に縛り付けはじめるのですが、その間に一度は逃げたはずのもう一人が兄弟を助けようと舞い戻ってきました。手には抜き身の刀が握られています。この馬鹿者はあろうことか宮中で抜刀したのです。

しかし、凶器を持っても所詮公家は公家です。友良は取り押さえた方を柱に抑えつけつつ、空いた手の方でもう一人のくせ者を白刃をものともせず取り押さえてまいます。そのうちに、他の武士達も駆けつけ、二人のくせ者は柱に縛り付けられます。これにて一件落着のはずでしたが、この期におよんで馬鹿息子二人の母親少将が現場に駆けつけます。そして息子達の無断侵入と抜刀の罪を棚に上げて、二人を逮捕した武士達をさんざんに罵倒したのでした。

この話には後日談があります。これほどの騒ぎを起こしながら少将の二人の息子は母親の七光りで罰せられることはありませんでした。それを僥倖と思えばよいのに、そう思わないのが、甘やかされ思い上がった人間というもの。彼らは初めに自分達を誰何したあの臆病者の蔵人藤原永職を逆恨みし復讐することにしたのです。自分達を直接取り押さえた藤原友良を標的にしなかったのは、とても叶わないという思いがあったからなのでしょう。

で、二人の息子の内一人が再び宮中で抜刀し永職に斬りかかりました。しかし、これまた幸いに、側に永職の同僚で検非違使でもあった平孝成という武士がいたため事なきを得ます。孝成は、弓で息子の胸をつき、突き転ばして簡単に取り押さえてしまったのでした。

少将の馬鹿息子二人に比べて、藤原友良、平孝成、二人の武士の立ち居振る舞いの見事なことといったありません。また、二人は貴族を取り押さえる際に、貴族の繊弱な体というものを知ってしまったはずです。「こいつらは弱いし、その気になったら簡単に殺せる」ということを肉体的に実感したはずでした。その上で、友良などは少将に罵倒されているのですが、そのとき全身を駆け巡った血も凍るような怒りというのはどれほどのものだったでしょう。

恐らくこうした類似の事件は数限りなく起こっていて、その度に武士は貴族を舐めるようになっていき、次代の政権を担うものとしての自信をつけていったのだと思います。

ただ、武士に対する世間の目というのは複雑な面もあり、平治の乱の際、藤原信西を討ち取った武士の行列を見物する群衆は彼らに対しえんがちょを切っています。また、平家は平正盛以降時代の寵児として貴族社会に深く関わっていき、最後にはその大手道を歩くようになりますが、京都での本拠地は六波羅のままでした。

六波羅は洛中の東の外れにあり、京都の住民の葬地でもある鳥辺野の入り口にあたります。腐りかけの死骸が転がり、時に間引きのための捨て子の泣き声響く、障り多い場所です。平清盛は太政大臣になり、また娘・徳子を高倉天皇に入内させるなど栄華を極めますが、結局のところ厳密な意味ではあの洛中の碁盤の目に足一本踏み入れることが出来ませんでした。

公家社会には「位打ち」という言葉があります。位をどんどん高めることで、その人物の精神の平衡を奪い人格をつぶしてしまうことを差すが、はゆまにはこれとバビロニアの死刑囚に着させられた王衣が重なります。

政権担当者としての能力は失った公家ですが、権威者としては生き残るために、王たる者達が最後に果たすべきこと、薪の上に座って焼き殺されること、あるいは縄で吊されること、はたまた槍で突き殺されることを、全部平家に押しつけたのでした。平家は公家社会の最後の最後に登場し、ほんのわずかな一瞬貴族にしてもらったというだけで、それまでの矛盾と憎しみを一身に背負うことになったのです。

寿永四年(1185年)源義経が壇ノ浦で勝利し、平家は一族から出した念願の天皇、安徳天皇も含め全てが海の底へと沈み絶滅します。一方の公家社会はしぶとく生き残りますが、日本人の心に強く焼き付けられたのは、真の意味で貴族的だった平知盛、平重衝、平維盛ら、平家の公達達の美しい夕陽の最後の残照にも似た滅び行く様だったのでした。

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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