まどかマギカ[新編]叛逆の物語 考察 -ビューティフルドリーマー-

10月26日。

前回劇場版からほぼ一年。再び魔法少女達がスクリーンに戻ってきました。

待ちに待った日でした。しかし、一方で、テレビ版があまりにも綺麗に風呂敷を畳み、全きな完結を見せていただけに同時に不安でもありました。「見るんじゃなかった」そう後悔するんではないかと……しかし、そんな心配は杞憂に終わりました。

映画「まどかマギカ[新編]叛逆の物語」は、テレビ版を超克し、彼方にさらなる物語世界の地平を示す驚くべき作品になっていたのです。見終わって数時間がたちますが、まだ体の奥で何かが震えているようです。御覧になってない方は、是非まずは自分の目で映画の結末を確かめてください。絶対、後悔はしないはずです。

注意!

本ブログ記事の内容は、映画「まどかマギカ[新編]叛逆の物語」に対する重要なネタバレを含んでいます。まだ見ていない方は、映画を見てから以下の記事を読むようにしてくださいまた、以下の論考を読むにあたっては、前回テレビ版まどかマギカを考察させてもらった記事「まどかマギカ 考察 ―エディプスコンプレックスの物語として―」を先に読んで戴くと理解がスムーズになるかと思います。



◆叛逆の物語

多くの人が、この作品を見終わって感じるのは得体の知れない居心地の悪さではないでしょうか。バッドエンドなのか、ハッピーエンドなのか、それすらも分からない。ただただ、もやもやしたもの、かといって後味悪いとは言い切れない不可思議なものが、心の奥に残って、いつまでもいつまでも複雑な倍音を響かせ続けている。この映画を見た人は皆そんな感覚に襲われると思います。

しかし、結論から言うと、この映画は凄くシンプルな映画です。タイトルの通り、叛逆を描いた映画。少年ほむらによる父キューべー、そして母アルティメットまどかへの叛逆を描いた映画です。

この作品の後半でほむらの見せる決断、そしてその後の展開のなかで見せる不穏な表情によって、ほむらが豹変したと感じる方は多いかもしれません。しかし、テレビ版、映画版通して、彼女のキャラクターはぶれていません。彼女は、というより、彼、少年ほむらは少年のまま、男性原理の陽の部分を背負い、その陽を背負ったまま暴走し、あの結末となったのです。
少年ほむらは、その熱情のまま父を踏みにじり、母親を己が未生以前の存在にまで貶めて我が物としようとしたのでした。

乱暴な分析を許して貰えるならば、男性原理の陰の部分の暴走を描いたのがテレビ版で、男性原理の陽の部分の暴走を描いたのが映画版と言っていいのかもしれません。

◆キューべーとほむら

いきなり分けの分からんことを結論づけられて何のこっちゃという人ばかりだと思うので、まずはキューべーとほむらの関係を整理してみましょう。

前回記事で、はゆまはキューべーとほむらはこの作品世界に登場するただ二人の男で、片方は陰、片方は陽を象徴するコインの表裏であるとともに、父子なのだといいました。下記は前回の記事からの抜粋です。

男性原理(陽):暁美ほむら
 (情熱、恋、システムからの自由、冒険、歌、踊り、狂的な興奮、ゼウス)

男性原理(陰):キューべー
 (非情、理知的な判断、父権システム、システムへの服従、法律、選別、切断、裁判、クロノス)



テレビ版の最終回、聖なる処女母まどかは我が身を投げ出し、父なるものを象徴するキューべーの作った非人道的で血の通わぬ世界の仕組みを、非効率ではあっても、もっと温かみのある穏当で持続可能な仕組みへ再編成しなおします。女性だけが収奪の対象となる仕組みから、魔獣を通じて、男女が共同でエネルギーを生み出す仕組みへ。はゆまは、このことをキューべーとまどかの結婚と表現しました。そして、この結婚を通じて、少年はゆまも、また母まどかの息子となったのでした。

この結婚を通じて、血みどろの戦いを繰り広げていた、父キューべーと子ほむらも最終回のビルの上でリラックスした語らいを見せるまでに和解したかと思われたのですが、少々その考えは甘かったようです。

あくまで宇宙の延命にこだわるキューべーは、魔法少女→魔女システムにより産み出されるエネルギー生産の異常な効率性にひかれ、ソウルジェムの限界まで戦ったほむらに結界を張って餌とし、その罠のなかにアルティメットまどかをおびき寄せようとします。円環の理システムを破壊するためにです。

父親が自分に再びかしずかせるために、息子を人質に母親をおびき出そうとしている。そう説明すると、この陥穽の邪悪さが分かるかと思います。

◆一つ目の夢(1) 怖い夢を見ていたのよ

本映画の出来事はほとんどがほむらが夢見る世界のなかで起きていることです。そして、その夢は二つあります。

一つ目が、前編、ほむらがキューべーによる結界のなかで夢見ている世界です。構造としては、母まどか→父キューべー→子ほむらという順序の入れ子空間になっています。

この空間では、消滅したはずのさやか、神になったはずのまどか含め、マミ、杏子、ほむら、全ての魔法少女が勢揃いして、多分イタリア語に堪能な少女が命名したのあろう「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテッド」という名前のチームを組んで日夜ナイトメアと戦っています。

魔女や魔獣と比べれば、ナイトメアはただの少女の悪夢ですから、たわいない相手でしかありません。戦いの描写もふんわりファンシーで、緊張感がまるでありません。しかし、だからこそ、魔法少女達は少女性を失わず、お互いの交流を楽しみながら、幸せに暮らしています。

しかし、一方でこの世界は色々な部分がそんざいで、ほころびの目立つ世界です。見滝原の街より外へはいけず、ほむらと面識があった人以外の顔は書き割りです。また、実は他の魔法少女達とまともにコミュニケーションを取った形跡のないほむらは、彼女達のプロフィールをほとんど把握していないのでしょう。魔法少女達への記憶の改ざんの点でも、つじつまのあわない点がありました。

夢の世界は、ほむらなりに少女達が幸せになれるよう配慮されてはいるのですが、実は彼女達への本質的な理解抜きに成り立っている世界なのだということは注意しておかなくてはなりません。

◆一つ目の夢(2) 三つ編みを結ぼうとするまどか

パンフレットによると、一つ目の夢の世界のなかのまどかも、偽りのまどかではないそうです。ほむらの夢に誘い込まれた、神様になった記憶を置いてきた本物のまどかです。まどかは、みんなと離れるなんて耐えられないという本心を、美しい花畑のなかでほむらに吐露します。

この言葉がその後のほむらの行動に繋がるわけで、重要かつ感動的なシーンなのですが、まどかは本心を言う間、何故かほむらの三つ編みを編もうとしていました。しかも、そのときのまどかの指の動きと、ほむらの髪の動きの描写はどこか不気味で、演出側の悪意すら感じました。

ほむらにとって三つ編みはかつて無力だった存在のときの自分。嫌で嫌でたまらなかった、まどかに守られていたときの自分につながります。そこへ戻させようとするまどかの無意識な手の動きというのは、子供の退行を願う悪しき母親のものに近いのかもしれません。

そのため、このシーン、後々の衝撃的なほむらの決断につながるシーンには、実は二つの意味がこめられています。一つ目は少女としてのまどかの願いを少年ほむらが聞いたという意味。もう一つは聖母神まどかへの反発を息子ほむらが感じたという意味です。

◆◆一つ目の夢(3) 夢の終わり

夢の世界の正体と、キューべーの企みを知ったほむらは、例え永遠にソウルジェムのなかで呪われた存在になるのだとしても、まどかを守るために魔女化し、自己の夢の世界を破壊しようとします。

それを救わんとする、マミ、さやか、杏子、まどか、そして元シャルロッテのなぎさ達の戦いはとにかく感動的で、空から降り注ぐ幾万本の矢によって粉砕されるキューべー達の姿とともに最もカタルシスを味わう場面なのですが、すぐ大ドン伝返しが待っています。

ほむらを救済するためについにやってきたアルティメットまどかの手をほむらがつかみ、ただの普通の少女まどかを引きはがした後、悪魔となって、世界を再々編成するのです。この世界がアルティメットまどかの世界と並行して存在するものなのか、それとも内包されているものなのかは、まだよく分かりません。いずれにせよ、ほむらは悪魔ほむらとなり、アルティメットまどかと対立する存在、もう一つの神になりました。

前節に書いたように、花畑のシーンで、ほむらのまどかに対する思いは、少女まどかに対する愛情と、聖母神アルティメットまどかに対する反発に分裂しています。そのため、ようやく会えたアルティメットまどかに対する行動も、彼女を引き裂くという行動にならざるを得なかったのです。

また、このシーンでもう一つ注目すべきことは、ほむらもまたキューべーと動機は別であれ、同じような発想の策、おびき寄せてかどわかす、をやっているということです。二人は男性原理のポジとネガなので、結局行動は似たようなものになるのですね。

◆◆美しい悪魔の見る夢

悪魔となったほむらは、「人間の感情を利用するのは危険すぎる」と恐れをなして逃げようとするキューべーを捕らえ、まだまだのろいのために働いてもらわなくちゃと言います。少年ほむらがついに父を超えたかに見えるシーンですが、何故か溜飲はさがりません。

この辺りから、ほむらは歪んだ笑みと、目の下に隈のある危うい表情ばかりを見せるようになります。

新たに再編成された世界は、一つ目の夢のような破綻が見られず、細部まで細工が行き届いた世界です。からくりを知っているさやかも当初は反発を見せますが、恭介や仁美と再会すると、記憶が薄れ行くこともあって、新しい世界を受け入れる姿勢を見せます。

マミもなぎさも杏子も、魔法少女達は皆幸せそうです。

たった一人ほむらだけをのぞいて。

あたりまえですね。情報を隠蔽して駕籠のなかの鳥にえさを与えるように、幸せを一方的に与える人は、その幸せから孤立せざるを得ません。

◆敗北するエディプス

さらに悲惨なことには、ほむらはまどかからすら拒否されます。転校生としてやってきた引き裂かれた方のまどかに、ほむらは「秩序と欲望のどちらが大切か?」質問しますが、まどかは「秩序」と答えてしまうのです。先の記事の抜粋をもう一度あげます。秩序と欲望、どちらが何を象徴しているかは、直ぐに分かると思います。

男性原理(陽):暁美ほむら
 (情熱、恋、システムからの自由、冒険、歌、踊り、狂的な興奮、ゼウス)

男性原理(陰):キューべー
 (非情、理知的な判断、父権システム、システムへの服従、法律、選別、切断、裁判、クロノス)



つまり、この映画で父母に叛逆の限りを尽くし、エディプスコンプレックスの相克のすえ、ようやく母を自分のものにしたかと思えた少年ほむらは痛烈にふられたのです。お父さんの方がいいよと言われてしまったのでした。少なくとも、この時間軸では、永遠の恋人にして聖母神、まどかに対する、ほむらの恋は成就しなかったのです。

これは当然の帰結です。先に書いた通り、ほむらはまどかを含む魔法少女達を本質的には理解していません。例え、みんなと離れたくないということが、少女まどかの本心だったとしても、その最も大事なものを犠牲にしたことに、彼女の願いの崇高さと尊さがあるのです。自分の手元に置きたいからという理由で、彼女からその最も崇高なものをもぎ取ったとしても、それは到底ほむらがキューべーに言った「愛」などといえる代物ではないのでした。

このシーンの後、ほむらは奇妙な動きの「踊り」を踊ったあと、あの花畑でキューべーを徹底的に暴行します。そして、半月の闇に向かって身を投げます。痛々しさのあまり、思わず目をそむけてしまったシーンです。テレビ版で、安定した地平に落ち着いたかに見えたエディプス的相克は、映画版ではもう修復不能なものに思えるほど悪化してしまいました。

◆ほむらの姿が象徴するもの

また、ちょっと余談になりますが、本作によってまだまだまどか作品は閉じたものにならず、二次創作も含め、さらなる新しい作品がプロアマ問わず、どんどん出てくることになると思います。しかし、このラストのほむらの姿。自分の閉じた世界のなかで、父を小間使いに、母親を愛人のようにかしづかせようとしながら、都合のよい幸せを享受する美少女達を愛でる少年というのは、この作品の派生作品を作り見ていく人たちに突きつけられた自己の戯画なのかもしれません。

こうした自己批判的な部分も内包しているのが、魔法少女まどかマギカという作品の持つ凄みになっていると思います。

◆それでも

ちょっと話がそれましたが、しかし、それでも、はゆまは前記事でも書いたとおり、永遠の少年ほむらと永遠の少女まどかの恋は最後には成就するものと思っています。

EDで見せた二人が手を繋いで光へと走っていくシーン。

それが見れるのは次回作なのか、それとも別の魔法少女達の活躍を描いた作品をを経てなのかは分かりませんが、いつまでも、夢見るようにはゆまは待とうと思っています。

そして、最後にこれだけは言わせて下さい。

今回も安定して杏子ちゃんは聖女だったね。

この記事へのコメント

- chet - 2014年06月08日 09:17:27

わたしは見ることができなかったよ。

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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