「小犬たち」バルガス・リョサ

ジュンク堂で何気なく手にとって買って読んだ「ラテンアメリカ五人集」の中の「小犬たち」が面白かった。作者は、2010年、ノーベル賞を取ったバルガス・リョサ。60ページほどの短編で、様々な見方があると思うが、はゆまは、これをピーターパンや星の王子様などに代表される「永遠の少年もの」として読んだ。

永遠の少年とは何かというと、ユング言うところの、心理学的原型の一つだ。花のような美貌、疲れを知らぬ瑞々しい活力に満ちた体、不正を許さぬ清浄で明晰な精神といった特性を持っている。先に述べたピーターパンや星の王子様のほか、日本人が大好きな桃太郎や金太郎、一寸法師なども、この元型に属するヒーローである。

彼らはいわば太陽の子供で、世の不正を暴き、悪を打ちのめす。あるいは、無限の勇気と活力によって、信じられない冒険をやり遂げ世間をあっといわせたりする。

だが、光あるところには必ず影あり、彼らは以下のような病理も持っている。

・現実世界への憤慨や抵抗が強すぎ、大人としての社会的役割や責任を果たすことが出来ない
・性的欲求を前提とした異性関係を汚いと感じ、恋愛や性愛を成就させることが出来ない

また、ユング研究者で心理療法家の故河合隼雄氏によると、この元型に取り付かれた患者は、様々なことに次々とチャレンジし、そのなかにはすばらしいアイデアも確かにあるのだが、結局やりきることが出来ず、単なる思い付きで終わってしまうことが多いという。

「小犬たち」の主人公、クエリャルも、また、この元型に取り付かれた少年だ。「みんな半ズボンをはいていて、僕たちはタバコも吸わず、サッカーが何より好きで、波乗りの練習も始めたばかり」という世界に居た語り手の少年達の前にクエリャルは転校生としてあらわれる。彼は育ちがよい上に容貌も美しく、勉強もスポーツも得意な、衆に優れた子供として描かれる。また、クエリャルと語り部の五人の人間関係は、スタンドバイミーのような女の子を完全に排除したいわば少年ギャングの関係性だ。まだ、下半身が目覚めていない少年達の結びつきはサッカーやおしゃぶり飴、キャラメル、<ドノフリオ>のアイスクリームなどによって強固なものとなる。

だが、ある日、悲劇が起こる。サッカーの試合後、更衣室でシャワーを浴びているさいに、檻から逃げ出した学校の飼い犬ユダに、クエリャルが局部を噛み千切られるのだ。

この凄惨な去勢劇によって、クエリャルはほかの仲間達と違う道を歩まされることとなる。

我田引水となるが、拙著「劉邦の宦官」も同じく去勢が重要なモチーフとなっている。だが、去勢の扱われ方は、「小犬たちの犬」と「劉邦の宦官」でまるで違う。「劉邦の宦官」では、主人公の小青胡が去勢後、少女のような体つきになり、性格も女性(というか女の子)により近いものになるのに対し、「小犬たちの犬」ではむしろ去勢後、健康的な活力に満ちた体、強い冒険心などの特性は強まっている。つまり、去勢が少年性の強調として描かれているのだ。その意味で、去勢の解釈としては、宦官となってから主人公春児が諸芸に熟達した万能の存在となる「蒼穹の昴」の方に近い。

クエリャルは仲間達からこう賞賛される。

「君、ターザンになったな、一日、一日、いい身体になっていくみたいだぜ」

だが、男の中の男というか、少年の中の少年となったクエリャルと、その仲間達のもとにある影、他者が忍び寄ってくる。

そう、女の子である。

クエリャルは、グループの仲間に彼女が出来ていくことに対し、激しい拒否反応を示す。水滸伝の李逵は、親分の宋江が女に関心を持っただけで怒り狂うが、洋の東西と時の古今を問わず、少年ギャングのなかにあっては、女の子はご法度なのである。クエリャルは、時に腕力をふるってまで、恋愛という要素をグループのなかから排除しようとする。そして、自らのグループの価値観を、昔のまま、恋愛などというなよっちいことではなく、波乗りや峠攻めで示す勇気といったものにとどめておこうとする。そのために、彼は無軌道な非行を続けるが、このあたりの描写は本当に痛々しい。

だがそんなクエリャルにも、好きな女の子があらわれ、彼女をゲットするために、スーツを着込みネクタイを締め、エルビスプレスリー風に髪を決め、毎週日曜日にはちゃんとミサに通う。お相手のテレシータもまんざらでない様子。クエリャルはというか、永遠の少年達は、その活力と、規制の概念にとらわれない自由な知性から、その気になったらいくらでもチャーミングな存在になれるのだ。仲間達もほっと胸をなでおろす。

しかし、クエリャルは女の子をものにするための、最後の一歩を踏み出せない。

それは、身体的な欠陥によるコンプレックスもあるが、それ以上に精神的なもの、つまり先に述べた性的欲求を前提とした異性関係への嫌悪感のせいだ。結局、待ちくたびれたテレシータは、別の平凡な男に横取りされ、クエリャルは、彼らの前で、ナイアガラの滝よりも高い波に乗ってみせるという、哀れな意趣返しを果たす。

あとは、永遠の少年の負の要素が一気にクエリャルを押し流し、彼はイカロスのごとく転落する。無茶なレースの真似事をして交通事故を起こし、一回り年下のジャリ達と遊びだす。仲間達は、ため息とともに、

「もう、だめだ、どうしようもないな、ホモだよ」
「あんまりあいつと一緒のところを見られると、同類だと思われてしまうぜ」

というが、実際には、クエリャルはもう一度少年ギャング、下半身のまだ目覚めていない、そして自分の無鉄砲で幼稚な冒険を賞賛してくれる男の子のグループを築こうとしただけのなのだ。

しかし、就職や進学、そして結婚など、地道に(ある意味では平凡に)人生の基盤を築き始めた仲間達には、もうクエリャルの言動を理解することが出来ない。彼らの亀裂はいつしか決定的なものとなり、最後悲しい別れを迎える。

以上、小説の大筋を、永遠の少年というキーワードでたどってみた。ネット上の他のレビューを見ると、性器を失った男性の悲劇という意味合いで書かれているものが多いが、この小説が描こうとしているのはもう少し深い。

改めて、この小説の形式について触れると、一人称複数形という珍しいものになっている。ポリフォニックに四人の仲間達が、友人、クエリャルについて、語っていくのだが、クエリャルの印象の深さに比べ、四人の仲間の個性の別はほとんど感じられない、彼らの成長の仕方や成功もひどく類型的だ。

実はここに仕掛けがある。

彼らは皆読者、多くの元少年達の分身なのだ。そのために、あぁありそうだなという平凡なキャラ付け、平凡なその後の設定がされている。

はゆまを含め多くの元少年が、この小説を読んで、心揺さぶられるものを感じるのは、クエリャル的な存在というのが、実はどんな少年のグループのなかにも一人はいて、大人になるプロセスのなかで彼らとの別れを経験しているからである。これは、仲間の一人というだけでなく、自分の内なる存在としても言える。

最後、仲間達は、振り返る。

「ずいぶん苦しんだ」
「つらい人生だったろうな」

だが、鏡のなかの自分の顔に、日常が刻みつけた小さなしわを見つけたとき、ふと思うのである。果たして、クエリャルは本当にかわいそうな存在だったのか、と。そして、万巻の思いと、喪失感をこめて、思い出す、クエリャルと過ごしたあのまばゆい少年時代を。みんな半ズボンをはいていて、僕たちはタバコも吸わず、サッカーが何より好きで、波乗りの練習も始めたばかり」の日々を。

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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