孔明のファッション

ひとが衣服を着る動機のひとつに、アイデンティティーの明示というものがあります。ひとは服やアクセサリーを身にまとうことで、職業・地位の表示、集団所属の明示、価値観・性格の明示といったメッセージを所属する社会に対して発します。

このとき、こめられたメッセージは、そのファッションを選択したものが属する社会の文脈のなかで読み解かれなくてはなりません。例えばアウンサン・スーチー女史は常に頭に花をつけていますが、これは決して女性性を強調しているわけではなく、ミャンマーでは女性が頭に花をつけるのは、私は変わらないという意味なのです。頭に花を飾ることで彼女は、民主主義者としての自分の決意を表明しているのですね。

ちなみにミャンマーのおかまも必ず、頭に花を飾っています。これもおかまとして決して変わらないという断固たる決意を表明しているわけです。以上、西原理恵子ネタでした。

さて、話はがらりと変わって、三国志の孔明の話。孔明というとイメージするのは、葛の冠をかぶり、ゆったりと羽毛扇をあおぐ仙人のような格好ですが、あれは演義の空想ではなく、典拠のあることです。

東晋の裴啓が著した『裴子語林』に『诸葛武侯与宣王在渭滨将战,武侯乘素舆,葛巾,白羽扇,指挥三军』という記述があります。孔明と仲達が渭水で対峙したとき、孔明は白木の輿に乗り、葛巾(綸巾)をかぶり、白羽扇を持って三軍を指揮した、としっかり書かれてあるのですね。

さて、この独特な格好によって孔明は自分の指揮する軍、そして敵対する仲達に対して、どんなメッセージを発したかったのでしょうか?

孔明は琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)の出身で、光和4年(181年)に生まれました。同年代には漢のラストエンペラー、献帝がおり、劉備や曹操とは一回り下の世代です。今でも山東半島は、山東大漢という言葉の通り、大男の産地として有名ですが、孔明もその例に漏れず、身の丈八尺、晋尺でいうと192cmに達するという長身の持ち主でした。

容貌もはなはだ優れていたと記録にあり、北方人士特有のきりっとした、男性的で精悍な顔立ちだったようです。家柄も、先祖に前漢元帝の時に司隷校尉をつとめた諸葛豊がおり、いわゆる三公を出したぴっかぴっかの名士の出でした。司馬懿も一応は名士の家ですが、精々が群太守を勤めれば上出来の家柄で、家格としては随分劣ります。蛮族とさげすまされることさえあった、蜀の人々からすれば、まことにコンプレックスを刺激される人物だったはずです。

史書をひもとくと、孔明のような格好をした人は他に何人かいます。袁紹、崔エン、また周瑜も三国志演義が出版されるまでは、綸巾をかぶり、白羽扇を持ったイメージで語られていました。いずれも、代表的な名士出身の家柄の人物です。

もともと、綸巾・羽扇のワンセットは、漢代から読書階級の間ではやりだしたもので、当時時代の主役だった名士の人からすればナウい格好でした。

今の感覚からすれば仙人じみた、脱俗的な感じを受ける格好ですが、当時は時代の最先端をいくファッションだったわけです。この格好を名士という枠からは随分外れている、曹操・劉備・孫権がしたら、陰でクスクス笑われてしまっていたことでしょう。

鎧も兜もつけずに、綸巾・羽扇をまとうだけという格好は、孔明にとって武装する以上に戦闘的な意味合いを持っていました。寸鉄も帯びない戦闘服だったわけです。

「僕は背が高くてイケメンで、頭もよくて、おまけに中原のやつらも、特に司馬氏なんか目じゃないくらいの名家の出なんだよね。お前ら逆らったらぶっつぶすぞ」

茶目っ気もけれん味も十分にある性格だった孔明が、装いにこめたメッセージは実は上のようなものでした。

このように、歴史上の服装やスタイルは、当時の文脈から読み解いていかないと駄目なのですね。現代の価値基準で判断すると、誤読してしまうのです。結構老練な作家さんのなかでもミスしてしまう人が多いので、はゆまも気をつけたいところです。

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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