花武担 第五章 友というもの(二)

 後漢代から、重陽節には「登高」といって家族や友人と小高い丘や山に登り、開花時期にあたる菊を観賞して過ごすのが慣わしとなっていた。

「うん、いいよ」

 柳隠は、快諾した。

「よかった。どうやって過ごそうかって令則(羅憲)と話してたんだ」

 賑やかな日だけに、家族から離れて異郷に居るものには、よりいっそう孤独が染みる日でもある。

「一人ぼっちだったら、どうしようかと思ってたの」

「老師もついてくるかもね。菊酒を飲むために」

 柳隠が、言った。

「節句じゃなくったって飲むのにね」

 張嶷も話しをあわせると、二人は、顔を見合わせコロコロと笑った。

 この頃には柳隠の憂鬱は、すっかり消え去ってしまっていた。

 いつしか二人は、孔明邸はじめ、高級官僚が多く住む場所を抜け、太学の近くまで来ていた。後は、太学の壁を右手に通り過ぎ、花江にかかる市橋を渡ったら、簡雍の家まで、もうすぐである。

「すごいお屋敷ばっかりだったね」

「宮城の近くで、出仕しやすい場所だから、偉い方達は、皆あそこに住むんだよ」

「でも、何だか、ひっそりとしてたよ」

「そりゃ、北伐のために漢中に出払ってる人が多いからだよ。右将軍の家も、僕のほかは、あまり人がいなかったでしょ」

「北伐かぁ」

 孔明の内治のよろしきもあって、成都には戦時中という雰囲気は、あまり無い。そのため、今の張嶷には、北伐と言われても、遠くで聞こえる太鼓のようにしか聞こえなかった。

 と、柳隠が急に立ち止まった。

 張嶷が、いぶかしげに柳隠を見ると、顔が青くなって、固まったように前方を見ている。視線を辿ってみると、薄ら笑いを浮かべながら、シャナリシャナリと近づいてくる四人組の若者がいた。皆、錦の豪奢な服を着て、甘ったるい香水の匂いをプンプンと漂わせている。張嶷たちより、一、二歳ほど、年上のようである。

「おい、隠じゃねぇか」

 若者の一人が、殊更横柄に、呼びかけてきた。

「ちょっと、こっち来いよ」

 そういうと、柳隠の首に乱暴に腕を回してきた。そのやり方は、ひどく権高で、ヒヤッとする残酷さが感じられた。

 太学で柳隠を苛めている連中らしく、腕を回された柳隠の首が雨に濡れた稲穂のように垂れている。

「何だ、これ?汚い蜜柑と林檎だな」

 別の一人が、柳隠の抱えている袋の中をのぞいて、馬鹿にしたように笑った。他の三人も、それに合わせて、ゲタゲタと笑っている。

 柳隠は、唇をかみ締めていた。四人の若者は、巴西の周氏、蜀郡の杜氏、義陽の来氏、梓潼の李氏といった名族中の名族の子供達である。皆栄養の行届いた血色の良い顔をして、大柄である。かなうわけがなかった。

「ちょっと食べてみようぜ」

 四人は、柳隠の袋を取り上げると、てんでに手を突っ込み、蜜柑や林檎を取り出しだした。

「ちょっと、やめろよ」

 柳隠が、恐々抵抗しようとした。すると、いじめっ子の一人が、口の端だけ曲げ、ひどく意地悪そうな顔をしながら、耳の後ろに手を当てた。

「あっ、何だって?今何て言った?」

「それは、簡老師に渡す束脩なんだ。だから、触らないで」柳隠の声は震えている。

 束脩という言葉を聴くと、四人は、爆ぜたように激しく笑い出した。

「これが束脩だって!?」

「俺は、豚に餌をやりに行くのかと思ったぜ」

 口々に好き勝手なことを言う。

 それでも、柳隠が何か言い返そうとすると、若者の中で、一番体が大きな者が、柳隠を突き飛ばし、太学の壁に押し付けた。その若者は、体も顔も大きいが、目だけは線で描いたように細く、まなじりが吊り上がっている。いかにも、酷薄そうな人相だった。

「黙ってろ!馬鹿が」

 彼は、そう言うと、柳隠の横の壁を、どんと殴った。その拳と殴った時の音の大きさに、柳隠は震え上がった。他のものは、その様子をニヤニヤ見ながら、取り上げた蜜柑や林檎をかじっていた。

「やめてあげなよ」

 黙って、様子を見ていた張嶷が、口を開いた。

 若者達が、何だ?と張嶷の方を向いた。張嶷は、この日、鶏冠花の模様が入った着物を着、長い袖に薫陸香の香袋を入れていた。鶏冠花の鮮烈な紅色と、薫陸香のあえかな匂いで、人の形をした燃え上がる花束のようだった。

 いじめっ子達は、このただただ美しい存在を、どう解釈したら良いか分からず、少し気圧されたようになった。

 張嶷は、薔薇色の頬に、さらに血を登らせて、腹を立てていた。何て人達だろう。名門の子供らしいが、姜維のような高貴な責任感も、羅憲のような大らかな優しさも彼等からは感じられ無い。感じられるのは、甘やかされた思いあがりと、無慈悲な傲慢さだけである。

 スタスタと、壁に押し付けられたままの柳隠の側に歩いていくと、彼の手を取った。

「こんな人達放っておいて、さっさっと行こう」

束脩の入った袋を、引っ手繰るようにいじめっ子から奪い返すと、さっさと歩き去ろうとした。

「おい、ちょっと待てよ」

 例の、一番大柄で酷薄な顔をした少年が呼び止めた。

「誰か知らんが、お前には関係ないだろうが」

「関係あるさ。柳隠とは友達だもの」張嶷は言い返した。「君たちみたいな乱暴な子と遊ぶ気はないの」

 このっ、と大柄な少年は怒鳴ろうとした。が、その前に他のいじめっ子が、大柄な少年に何か耳打ちした。耳打ちする間ずっと、張嶷の方を見て、何やらにちゃにちゃとした、嫌な笑いを浮かべている。

 大柄な少年は、聞き終わると、にたりと笑った。笑ったというより、ぐしゃりと顔の輪郭や部品が崩れたような、何とも陰険で陰惨な表情を取った。

「お前、簡雍老師の所の腐貞だろう」

 大柄な少年は、あざけるように言った。

 貞とは、宦官の中でも、性徴が始まる前に去勢されたもののことを言う。腐をそれにつけると、宦官に対する侮蔑語になった。去勢された後は、しばらく排尿の調節が聞かなくなり、召し物を汚すことが多々あるため、宦官は罵られる時は腐と呼ばれていたのだ。

 張嶷は、身体的なことを言われるのを非道く嫌う子で、回りに居る人間も、張嶷の身体のことについては成るべく触れないようにしていた。成都に来てから、これほど無造作に、そして不注意に、傷口に触れられるのは初めてだった。

 張嶷は、怒りと恥ずかしさで、頭がボゥッとなった。

 いじめっ子たちは、もう毒気をすっかり取り戻し、何がおかしいのか、またヒヤヒヤと笑い始めた。

「あの老革様も、耄碌したもんだ。色子遊びかね」

「隠も情けねぇな。五体満足でもない、男ですらない人間から助けてもらう気かよ」

 老革とは、老いぼれの兵隊といった意味である。簡雍のような、創業者劉備の友人で、蜀建国のために命を的に働いた人間でも、名士層の間では、裏でこのように言われる扱いでしかなかった。

→ 花武担 第五章 友というもの(三)

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花武担 第五章 友というもの(一)

 柳隠は、道を歩きながら、ふっとためいきをついた。

「どうしたの?ためいきなんかついて」

 かたわらを歩く張嶷が、いぶかしげに聞いてくる。

 くすぶっているような夏の埋火も去り、ようやく四川の足の遅い秋も深まりだしていた。二人は、ハンノキの落葉を踏みながら、簡雍の家へ向っている。脇には蜜柑や林檎が入った袋を抱えていた。

「いや、何でも無い」

 柳隠は、そう答えると、袋を担ぎ直した。そして、ソッと張嶷の横顔を盗み見る。

 柳隠のような思春期の少年が、こうあれかしと願う少女の容貌(かたち)が、そこにあった。

 絞りたての牛乳に薔薇の滴を浮かべたような肌、陽にあたると虹色に輝く碧の黒髪、大きな目は目じりが少しだけツンと尖り、その瞳は太陽を閉じ込めた黒曜石。あどけない顔立ちの中、唇だけは官能的で、良く実った果実のよう。

 柳隠が、しばし見とれていると、張嶷が視線に気付いて、パッとこちらを向いた。

「僕の顔、何かついてる?」

 柳隠は、顔を赤らめ、視線を逸らした。

「ううん、何でも無い」

 そうごまかしつつ柳隠は憂鬱だった。その憂鬱さは、こうして張嶷と並んで歩いていると、ますます深まってくる。理由は、はっきりしていた。

 棒組になって遊んでいる四人の中で、自分だけ取り得が無いのだ。

 張嶷の花のような可愛らしさも、姜維の美貌と勁さも、羅憲の朗らかさと膂力も、自分にはいずれも無かった。おまけに家柄も大したことが無い。

 姜維も羅憲も張嶷も、自分に対して十分な会釈はしてくれる。しかし、それでも三人とも余りに衆に秀でて目立つから、羽を広げたクジャクの群れに、一人濡れ雀が交じっているようで、時々地味な自分が惨めになるのだ。、しかも、そんな思いを感じることが、最近、頻繁になってきている。

 一方、張嶷は柳隠の憂い顔を、濃い睫毛に飾られた目をぱちくりさせて、不思議そうに見つめていた。

 が、急にニンマリしたかと思うと、柳隠に自分の身を寄せ、肩と肩をトントンとぶつけた。彼は、聞いて欲しいことがあるときは、いつもこの愛らしい仕草をした。

「ねぇ、さっきから思ってたんだけど、この袋の蜜柑、一個べちゃっていい?」

「えぇっ」

 柳隠は、返事に困った。

 この果物は、柳隠の両親が、お世話になっている簡雍へと、遅ればせながら、束脩(入門料)代わりに送ってくれたものである。量が多いということで、張嶷が運ぶのを手伝いに柳隠の住いまで来てくれたのだ。今、二人は、それを簡雍の家へ持っていく最中である。

 実は、これも憂鬱の原因の一つであった。束脩に果物というのは、あまりにも庶民じみているだろう。羅憲の親は、束脩として広漢の漆園で作られた豪奢な漆器を送ったというし、姜維は、天水の実家から、西域の素晴らしい海堂花文の羅紗を十匹送らせたという。

 それに比べて、自分の束脩は泥の付いた蜜柑や林檎である。安価なものではないが、結局の所、ちょっと高価な日常品である。それを、どう引き伸ばしたって、広漢の漆器や、西域の羅紗にはたどり着かないだろう。

 やはり、住む世界が違うのか。

 そうした柳隠の気鬱さに気付いているのかいないのか、張嶷は、袋をゴソゴソやって、もう蜜柑を一つ取り出してしまった。そして、悪戯っぽい微笑みを浮かべながら、その太陽色をした皮に爪を入れた。

 シュッと切ないほどの香気が立った。張嶷は、フフッと笑うと、柳隠を見つめながら舌を出した。

「爪を立てちゃった。もう、これは食べなきゃね」

張嶷は、唖然とする柳隠を横目に、クルクルと蜜柑の皮をむきだした。白いお菓子のような手が器用に動く。

 むき終わると、皮を、側で繋がれていた水牛の鼻先に放った。水牛は、しばらく眠そうな目で、皮の匂いをかいでいたが、やがて長い舌を出して皮を巻き込み、ペロリと飲み込んだ。

 張嶷は、水牛が皮を食べたのを見ると、柳隠の方を向き、小首を捻って、笑いかけた。

 そして、蜜柑の房を一つばらすと、自分の小さな口に入れた。よほど美味しいらしく、噛むごとに身悶えするような仕草をする。

 房を六個程食べてしまった所で、張嶷が、柳隠の方を向いた。何やら口をパクパクやっている。口を開くたびに、川底で輝く白石のような歯が覘いた。どうやら、口を開けろということらしい。

 柳隠が口を開けてやると、張嶷は、蜜柑の房を放り込んだ。柳隠も、やむを得ず噛んだ。黄玉(トパァズ)色の香りが口に広がる。切ないほど甘く美味い。

 最後の房を柳隠の口に放り込むと、張嶷は、その大きな黒い瞳に柳隠の顔が、すっかり写るくらい顔を近づけた。悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「蜜柑二人で食べちゃったね。ツマミ食いしたのは、僕と休然。二人は、共犯だよ」

「伯岐が、勝手にむいて、むりやり食べさせたんじゃないか」

柳隠は抗議した。

 しかし、張嶷は、キラキラ笑うばかりで相手しない。

 ひとしきり笑った後、

「でも、蜜柑ホントに美味しかったと思わない?老師も、きっと喜ぶよ」

と言った。

「そうかな?」

「絶対そう」

張嶷は答えた。

「自信持って良いと思うよ。素敵な束脩だね」

 ふんわりと微笑んだ。生まれてから一度も嫌な事に会ったことのない少女のような可憐な微笑みだった。

 その微笑みによって、さっきまで心に引っかかっていたものが、氷が溶けるように消え去っていくのを柳隠は感じた。

「それにしても、休然の家って大きいね」

「あれは、僕の家じゃないよ。右将軍の家さ」

右将軍とは、蜀の最高権力者、諸葛亮孔明のことである。先の北伐の失敗により、自ら降格を申し出たため、現在の位階は丞相ではなく、右将軍になっている。

「あんな宮城の近くの良い場所に、家を構えられるわけないじゃないか。僕の家族の家は、別の所にあるよ。太学に通うには遠いから、住まわせてもらってるんだ」

「えっ、丞相の家だったの?」

張嶷が目を丸くした。果物を受け取りに行ったとき入った孔明宅を、ずっと柳隠の家と思っていたらしい。
 柳隠は、吹き出した。
「閣楼も隅櫓も望楼まである御屋敷だよ。僕の家のはずがないよ。それと丞相じゃなくて、右将軍」

「孔明様は、丞相と呼んだほうが、おさまりが良いよ。じゃぁ、休然の本当の家は、どこにあるの?」

「城の中にはない。外壁の外、濯錦橋を東に渡って、丘を一つか二つ越えた所にあるよ」

「どんな所?」

「どんなって、普通の農家だよ。桑林があって、田んぼがあって、交替で菜の花を植えたり、菊を植えたり、蕎麦を植えたりする畑があって。全部が僕の家のものじゃなくて、右将軍からお借りしている土地もあるけどね」

太学では諸葛家の奴僕と陰口を叩かれることもあるが、柳隠の家はれっきとした自作農で、小なりとはいえ宗族も百を超える。

「菊畑があるの?」

張嶷の顔がパッと輝いた。

「菊畑があるのなら、重陽節の時、柳隠の家に遊びに行ってもいい?伯約も、令則も、蘭も一緒に」

 重陽節とは、旧暦九月九日晩秋の節句のことである。古典「易経」では奇数は陽の数とされる。陽数の極である九が重なる日であることから、この日は「重陽」と呼ばれていた。陽の気が強すぎることから、この日は不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれる。

→ 花武担 第五章 友というもの(二)

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花武担 第四章 四聖(五)

「好きになれそう?」

 張嶷は、三人を市橋まで送りしな、振り返ってそう聞いた。

 もう時刻は夕方を過ぎていて、このころになると、娼妓たちが、蝶のようにふわりふわりと、溺街に姿をあらわしはじめる。まだ夏のほてりは路上から去っていない。皆胸をくつろげ、風を入れたりして、少年には眩しすぎるような白い肌を襦袢の襟から見せている。

 通りかかった妓楼の前の榻には、二人の妓女が腰をかけ、飯を食べていた。饂飩に麻辣をかけたものをすすり、丸のままの胡瓜を黒味噌を盛ったものに突き刺してはかじっている。幕が開く前の舞台裏の役者のように殺気立っていて、その姿は飼い葉に鼻面を突っ込む馬のようにあさましく、生き物生き物していた。

「阿嶷」

 そのうちの一人が箸を止め張嶷を呼んだ。

「待っててね」

 張嶷は、質問の答えは聞かぬままに、三人を道の真ん中に置いて、妓女達の方へ走っていった。

 若作りはしているが、笑うときに出来る目元の小皺で、三十近いと思える年増の妓女は、たもとから真菰の葉で包んだカタミズアメを取り出すと張嶷に渡した。

「謝謝」

 張嶷は、膝をかがめて、弾むような拱手の礼を捧げた。

「老将軍に最近つれないねって言っておいて」

 もう一人はまだ二十にも届かぬような若い妓女で、ふくふくと肉置きが豊かで、蜀錦の深衣のうえからでも、胸や尻のありどころが確かだった。彼女は、語尾のしつこく粘る甘ったるい声でそう言った。

 二人とも客である簡雍を通じて、張嶷とは顔なじみで、別に乱れもない彼の襟や、帯をつくろってやったりと、むやみに構いたがって、なかなか離さない。

 その間、姜維は妓女達などいないように遠心的な目を行く手の方に向け、柳隠は真っ赤になってうつむき、羅憲はというと、「俺にも飴をくれてもいいもんじゃないか」と年にも似合わず果敢に妓女たちをからかおうとしてうるさがられ、蹴る真似をされたりしている。

 やがて、妓女たちを振り切り、張嶷が三人の元に戻ってきた。

「お待たせ」

 少年たちは、もらったカタミズアメを分け合いつつ、歩き始めた。

 歩く列は自然と決まっている。

 姜維と羅憲が先頭を競うようにして進み、その後ろを守られるようにして柳隠が肩を落としてトボトボと歩く。張嶷はというと、三人の回りを、前へ行ったり、後ろに行ったり、蝶のごとくして自由に飛び舞う。

 歩きつつも、少年達は、先ほどの議論を続けていた。

「好きになれそう?」

 張嶷は重ねて聞いた?

 劉備とは、どういう人であったのか?

 議題はそれだった。

「信じられないくらいお優しくて、格好の良い人だったんだよ。老師も、おっしゃってたでしょ」

 張嶷が、三人の前で後ろむきに歩きながら言った。頬に血が昇っている。張嶷にとって幼年期の庇護者であった劉備は、神にも等しい人である。

「でも、狡猾で計略が得意だったって話しも聞くよ」

 姜維が言った。人物評が盛んだった時代である。子供ながら評価の目は厳しい。

「そりゃぁ、敵が曹公に、孫公だもん。狡猾にもなるさ」

 羅憲が、口を挟んだ。

「他にも、呂布に、袁術、劉璋もいるよ」

 柳隠が付け足した。劉備が戦った相手たちである。これを、劉備に裏切られた相手たちと言い換えることも出来る。そこが、この人物の底知れぬ恐ろしさだった。

「あぁ、皆も一度会えたら良いのに。そうしたら、僕や老師が言ってることが分かるから。どんなに僕達が話しても、皆は先帝を知ることは出来ても、分かることは出来ないよ」

 張嶷は、残念そうに言った。

「でも、太学で聞かされる話しよりは、ずっとましだよ」

 羅憲は言った。太学でも、蜀という国の成り立ちを聞かされるが、その中での劉備は、儒教風に身の丈を削られ、チンマリとしていた。それと比べたら、簡雍の話しのなかの劉備は、伸び伸びとし、幾分悪党(ピカレスク)ではあったが、ずっと魅力的だった。劉備に纏わる話しは、男の子ならワクワクするもので満ちているようだった。そこには、戦争があり、恋があり、友情があり、裏切りがあった。狐もだます策謀が、業火に包まれる城が、幾千もの剣戟の音が、地平線を埋め尽くす馬蹄の響きがあった。

「なぁ、そうだろう?」

 羅憲が、姜維に聞いた。

「うん。まぁ、そうだね」

 姜維が答えた。

「好きになれそう?」

 張嶷が言葉を重ねた。

「あぁ」

 姜維はうなずいた。張嶷は、その答えを聞くと、微笑みを顔中に広げた。花が咲いたような美しさだった。


 少年たちの後ろ姿を、先ほどの二人の妓女が見守っている。

 年増の方が、往来に立て膝で、白い脂のとろりと乗った脛を見せつけながら、

「あの子たちのことどう思うかえ?」

 と若い方に聞いた。

 当代、妓女ほど女の身で自由なものはない。それは、蕩児の口車に乗せられて深窓の奥様になったかつての妓女が、「昔娼家の女たり」と過ぎし日の艶やかなあれこれを思い出す古詩が残っていることでも分かる。また、そのまさに娼家の女であった女性を正室にした曹操は彼女たちのことを金石の樂にたとえてたたえた。

 社会から高い地位を認められていた彼女たちは、気位が高く、気に入らない客なら肘鉄砲を食らわす権利も有している。当然、男に対する評価はすすどい。

「どうって、姉さん、まだねんねじゃないの。あと、十年はたたないと使いものにはならないわ」

 若い方がそう答えると、

「馬鹿だね。あんたは」

 と年増がキュウリをかじりつつ言った。

「あたしたちは、男に住んで、男を着て、男を食べる商売をしているんだよ。青田を見て、秋の景色を読むくらいでないとどうするのさ?」

「じゃぁ姉さんはあの白魚たちが鯉になるか泥鰌で終わるか分かるとでもいうの?」

「鯉どころか、滝を登って龍になるかもしれないわよ」

「あらあら、馬鹿馬鹿しい。姉さんが、そんなに男に気の長い方とは思わなかったわ」

「ふん」

 二人は話がそこまで煮詰まると、箸を置き、肩を揉んだり、腰を拳で叩いたりしながら立ち上がった。往来にちらほらと赤灯がまたたきはじめている。顔に油を浮かべた蕩児たちの姿も往来に現れだした。

 花街の長い夜がはじまろうとしていた。

「四聖」

 と、年増の方がぽつりと言った。

 それが、いつの間に溺街の妓女たちの呼ぶ、四人の少年の総称になっていた。

「はやく、あの四聖たちもはやくあたしたちの客になってくれたらいいのだけどね」

 年増の妓女はそうぼやきつつ、妓楼のほうへ歩き出した。緑の門をくぐるとき、ちらりと少年たちの方を見た。彼らは、もう市橋の辺りまで歩いていて、その姿は小さくなっている。しかし、その影は、傾いた夕陽に引き延ばされ、大人のもののように長かった。

「四聖」

 その後、ながく成都の住民たちからは溢れるような尊敬と愛情をもって、魏と呉の人士たちからは畏れと戦慄をもって、そう呼ばれることになる少年たちは、橋のたもとで、

「また、明日」

 と、言ったようだった。

→ 花武担 第五章 友というもの(一)

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花武担 第四章 四聖(四)

 さすがに早朝の馬術の練習までは付き合わないが、太学が終わったあとは、姜維と一緒に、書物を持って簡雍邸に遊びに行く。

 子供が四人も毎日簡雍邸に居りびたるようになったので、簡雍が私塾を開いたという噂がたち、溺街の連中から塾の名前まで勝手に付けられた。豫塾と呼ばれている。四人は、簡雍が開いた覚えもない塾の門下生ということになった。街のものたちからも親しまれ、姓に朗(若様)をつけられ、姜朗、羅朗、柳朗といった風に呼ばれた。張嶷だけは、若干差別され、阿嶷(嶷ちゃん)のままである。

 その四人は、今日も、簡雍邸の楼閣で涼んでいる。楼閣は四方一間くらいの広さで、四人入るのには狭いのだが、高い場所にあるので風通しがよい。

 張嶷は、羅憲のぽやぽやとした膝を枕に寝そべり、羅憲は、張嶷の頭を膝にのせたまま、譙周の書籍を読んでいる。姜維は、欄干に腰をかけ、矢筒から矢を取り出し、一本一本矢羽の角度を確認していた。柳隠は、やや学問が遅れていて、今さら論語の素読をしている。一字一句ゆるがせにしない読み方で、実直で不器用な彼の性格が出ていた。

 やがて、馬車の音が近づいてきた。簡雍が乗っている。木製で屋根も無い、質朴な物なので、厳しい風体の簡雍が楼閣からよく見えた。

「老師が帰ってきたぞ」

 欄干に腰掛けていた姜維がいち早く気付き、四人ともワイワイと楼閣から階段を伝って降り出した。簡雍は、礼儀を煩く言う人間ではなかったが、自分が帰ったとき門下生が出迎えないと不機嫌になる。

 階段から降りると、四人は中庭に整列した。

「間に合ったか?」

 羅憲が息を切らしながら言った。

「大丈夫、大丈夫」

 張嶷は笑い、羅憲の肥満した腹をつねった。

「少し、やせないとね」

「僕は、いいんだよ、これで。阿嶷のほうこそ、もう少し食べなきゃ。老師からも、言われてるじゃないか。肉を少ししか食べないからいけないんだよ」

「牛乳も」

 姜維が付け足した。

「嫌いなものは嫌いなんだもん」

 張嶷は、舌を出した。

「しっ、もう老師が来るよ」

 柳隠が言った。李翁が門をあけようとしている。

 四人は拱手の礼を取った。簡雍が門から入ってくると、

「老師、お帰りなさい」

 と元気良く言った。

「おうおう」

 簡雍は、目を細めた。

「悪餓鬼共が、また来ておるな」

「勉強するなら、楼閣ではなく、母屋のほうでやるんじゃぞ。お前らは、すぐ高いところに登りたがるんじゃから」

 簡雍は、馬車から降りながら、そう注意した。

 四人は、素直に、書物を手に手に持って、正堂に向った。正堂では、もう簡雍が上座に座り、脇息にもたれて胡坐をかいている。
この格好で酒壷を引き寄せ、手酌で飲んでいる様は、山塞に潜む山賊のようで、怪物じみていた。

 その回りを四人が囲んだ。それぞれ、書物を持ち出し、素読や写本を始める。皆礼儀はよろしくない。柳隠はまだましだが、他は簡雍と同じで胡坐をかいたり、腹ばいになって寝そべるものさえいた。

 師弟ともに、自由気儘というのが、豫塾に流れる空気だった。

 張嶷は、周髀算経を読んでいる。以前簡雍が強奪してくれたのは、実は一巻だけで、続きを読むことができなかったが、今は、姜維達が、続きを順々に持ってきてくれている。

「また、算学の本を読んでるのか?」

 羅憲が、言った。

「だって、面白いんだもん」

 周髀算経には、垂直に立てた棒の影の長さから、太陽との距離や、北極星までの距離をはかる話が出てくる。この書籍のなかでは、太陽までの距離は、十万里とされていた。

「数ばっかりで頭が、こんがらがるよ」

 羅憲は、頭を振った。羅憲には、こんな数字の迷路のような書物を面白いという張嶷の感覚が分からない。

「この書物だって、官吏になりたいなら、必須だよ。暦を読み間違えたら、どうするの? 打ち首だよ」

 張嶷が、おどけて、羅憲の首に手刀をチョンと落とした。

「このっ」

 羅憲も、たわむれて、張嶷に組み付くと、板敷きの床に押し倒した。羅憲は大柄である。張嶷は、たやすく組み敷かれた。

「君子は器ならず。計算は、出来る人間に任せたらいいんだよ」

 羅憲は、言った。

 張嶷は、羅憲の下で、抜け出そうとウンウンうなっている。ホツレ毛が頬にかかり、頬は紅潮している。不思議な色気があった。羅憲が何やら奇妙な気分になり、力を抜いた瞬間、スルリと張嶷は抜け出した。今度は、張嶷が羅憲の上になった。

 たわむれとは言え、組み敷かれた時、強く体をぶつけられたので、頭に来ている。羅憲の肘を背中で完全に決めてやった。羅憲が「トン(痛い)、トン(痛い)」と悲鳴を上げるほど捩じ上げながら、

「周礼に曰く、君子を養うに道あり、すなわち礼楽射御書数の六芸なり。ちゃんと、数学は君子の必須条件になっているじゃないか。器ならずの言葉だって、一つの知識に偏るな、幅広く学べという意味だってあるでしょう?」と言った。

「分かった、参った、参った」

 羅憲は、降参した。

 簡雍は羅憲が難渋している様子を見ると、苦笑しながら、上座から歩いてきて、平手でピシャッと張嶷と、羅憲の頭を叩いた。

「こりゃっ、お前たちは直ぐ暴れて、大人しゅう勉強せんか」

 口では、叱っているが、目は笑っている。自分も、関羽や張飛といった連中とともに、大陸中を暴れまわった人間である。元気のよい少年達が、子犬のようにじゃれついて暴れているのは可愛くてしかたない。

 張嶷は羅憲の肘を離してやった。そして、まだ背中にまたがったまま、

「老師、勉強も飽きてきちゃった。また、先帝のお話を聞かせてください」

 と言った。

 最近、張嶷は、男友達が増えたからか、随分腕白になってきている。やはり、少年は同性の友人にこそ磨かれていくものなのだろう。

「先帝は、学問は好きでしたか?」

 羅憲が、張嶷の下敷きになったまま聞いた。

「いやいや」

 しぶい顔で簡雍は手を振った。劉備は、後漢の大儒であり、名将でもあった盧植の塾に、折角親戚の援助で入っていながら、まるで勉強せず、馬やお洒落にばかり現を抜かす道楽者であった。学生の見本にはならない。

「どのような御姿だったのですか?」

 姜維が聞いた。姜維は、涼州産まれなので、劉備の姿を人づてにさえ聞いたことがない。

「若き時は、それは涼しげな美丈夫であったよ」

 簡雍は、まぶしげな目をして答えた。若き日の英姿を思い出したのだろう。

「こんな風に」

 張嶷が手を広げた。

「手が長くて、背も高いの」

 劉備は、手を垂らすと膝まで届いたという記述が正史に残っている。また、背丈は七尺五寸(約184ンチ)あった。

「僕等ぐらいの年のときは、どんな人だったんですか?」

 柳隠が聞いた。

「たくさんの友人に囲まれておったよ。わしも、その一人じゃった。懐かしいのう」

 簡雍は、遠い目をした。

「先帝の近くにおると日向に出たような気分になるんじゃ。太陽のような人だったかな。わしらは、その回りを巡る遊星といったところかの。しかし、太陽が昇ると星が消えるのとは違った。先帝は、星ぼしを、さらに輝かせる太陽じゃった」

 張嶷は、羅憲の背中から降りると正座し、真剣な顔で簡雍の話しを聞きはじめた。思い出の中の淡い劉備の面影を、簡雍の話しの中に見つけようとしていたのだ。

 幼い日、欠け物の体をかかえ、独りぼっちだった自分に、居場所を与えてくれたのが、劉備だった。黒一色の世界から、光と暖かさに満ちた世界に連れ出してくれた。老人とは思えぬガッシリとした膝に乗せ、大きな大きな手で頭を撫でてくれた。

 劉備の膝の上ほど、暖かく安らぎに満ちた世界を張嶷は知らない。簡雍が言った日向に出たようなという言葉を、張嶷は心の中で何度も繰り返していた。確かに、幼児だった張嶷には全世界にも等しかった劉備の膝の上は、陽の匂いに満ちた世界だった。

「強かったですか?」

 姜維が質問した。いつの時代でも、男の子が最も興味を持つ事柄だろう。

「さて?」

 簡雍は、首を捻った。劉備は、必ずしも戦歴は良くない。

「正直、戦上手とは言えなんだな」

 簡雍は、正直に答えた。劉備は良く言われるように戦争に関してまるで無能というわけでは無かったが、曹操や陸遜といった時代を代表する名将には、敵わなかった。戦術面はともかく戦略というものに関する致命的な欠落が、この人物にはあったようで、曹丕にその布陣を馬鹿にされたことさえある。

「何度、逃げたことか」

 簡雍は苦笑いした。劉備軍には、景気のよい戦勝の記録は少ない。戦っては逃げを繰り返しながら、大陸中を渡り歩いたというのが実情である。

「一つの豆の葉粥を、すすり合ったこともあったよ」

 簡雍は、笑いながら言った。景気のよい武勇伝を聞きたかった子供達は、物足りない顔だ。

「それほど苦労なされたのに、何故老師は先帝から最後まで離れなかったのですか?」

 姜維が、質問を重ねた。取り様によっては、きわどい質問だ。

「それは、お前」

簡雍は答えた。

「好きじゃったからじゃよ」

「さっきも言ったじゃろ。そばにいると日向に出たような思いがしたと。何というかホッとさせるものがあったんじゃ。確かに、あの方より強い人間も、知恵のある人間も幾らでもいた。でも、あの時代、人に居場所を与えられる人間は、あの方以外おらんかった。お前達は知らんじゃろうが、黄巾の乱からの騒ぎといったら、ホントに酷かったんじゃ。お前達にだって話せない話しが山とある」

 簡雍は、ここで言葉を切った。四人は、シンと静まりかえって、簡雍の話しの続きを待っている。

「ありとあらゆる酷い事を見てきたよ。自分だって、それと無縁という訳じゃないがの。墓まで持っていかなければならない秘密も幾つも出来てしまった。人が人を憎み、恨み、嫉み殺し合う時代じゃった。強者が弱者を虐げ、虐げられた弱者が自分より弱いものを見つけ、また虐げる」

 簡雍は、姜維、羅憲、張嶷、柳隠の顔を一人一人見ながら、話しを続ける。

「親兄弟を殺された子供達が、生きんがために自分自身が殺人者になる。まだ、お前達くらいの年なのに、必要以上に嫌な物を見てしまい、ゾッとするような目をした子供達を何百人とわしは見てきた」

「そんな時代で、あの方だけじゃったんじゃ。一緒に居て安らぎを与えてくれたのは。雲長も益徳も、わしと同じ思いだったはずじゃ」

「あの方に統べられる民は幸せに違いない。わしらの思いは、それに尽きた。そのために、曹公とすら戦ったんじゃ。今、長人(ノッポ)が魏と大戦しようとしているが、それは、あいつも同じことを願っているからじゃ」

 長人とは、蜀の丞相、諸葛亮孔明のことである。孔明は、長身で有名だった。

 簡雍は、ここでフッと息を継ぎ、グッと酒を飲んだ。

「ちょっと飲みすぎたかの」そういうと、ゴシゴシと顔を擦った。「話しすぎたようじゃ」

「私も、同じ思いで魏と戦います」

 感動屋の羅憲が叫んだ。張嶷も目が潤んでいる。姜維と柳隠も、うなずいた。

 簡雍は、優しげに微笑みながら、呟いた。

「君子は器ならず」

「えっ?」

 羅憲が聞き返した。

「君子は器ならず。この言葉の真の意味が分かるまでは、戦うなど百年早いわ。古い詩にもあるじゃろう? 踊れぬ男に刀を持たせるな。お前達がやらなくてはならないことは、他に幾らでもある」

 簡雍は、そう言うと立ち上がった。

「お話しの続きは?」

 張嶷が、ねだった。

「酔ったわ。寝る」

 簡雍は手を振ると、奥の間に去って行った。

→ 花武担 第四章 四聖(五)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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