花武担 第四章 四聖(三)

 春秋は風のように過ぎ、いつしか暦の上では秋になっていた。だが、処暑も終えたというのに、成都は暑いままで、霧が出る日も多く、うっとうしい日が続いている。

「濡れた布団を被っているような」

 と姜維などは、蘭がいないときにこぼした。

 乾燥して明朗な空気の涼州で育った姜維には、水気の多い成都の空気はやりきれない。また、蜀人の南国的な怠惰さや、放埒さといったものも、気質にあわないようだった。そのため、誇り高い性格もあるのだろうが、他の諸生たちと折り合う事が出来ず、太学での友人も少なかった。しかし、それでも二人ほど、仲の良い友達が出来ていた。

 一人は、広漢の名族、羅氏の子供で、名を憲、字を令則という。羅憲は、大柄な少年で、年は十五で、姜維や張嶷より一つ上なだけだが、身の丈はすでに七尺七寸ある。腰回りも雄大で、腕は丸太のように太く、太紐のような立派な縒りが出来ていた。育ちのよさが、健やかに人格に反映されていて、肉置きが豊かすぎて、二重にくびれた顎を、人からからかわれても、言われた当人が一番おかしそうに笑っているというような、陽気で朗らかな子供だった。彼の側にいるものは、日向に出たような気持ちになった。

 もう一人は柳隠(りゅうおん)、字は休然。年は姜維や張嶷と同じ十四歳で、成都出身の子供だが、城内で生まれたわけではなく、東南三里ほどいったところにある柏合村が産である。とくに家柄がよいわけではないのだが、彼の家族が、作人として孔明の桑畑を管理していた関係で、特例で太学に入れてもらっている。羅憲とは対照的に小柄で、張嶷と同じくらいしかない。河原に転がった石のようにゴツゴツした顔に、張り合いのない目鼻がショボショボという感じで並び、身ごなしも、油の刺していない馬車のように、どこかギクシャクとしている。着ている服も、そちこちすり切れ、袖は鼻をふいたあとで、いつもてかっていた。貧乏くさい少年で、自分の身に突然湧いた幸運を取り扱いかねている様子だった。

 まず羅憲が、姜維に話しかけて仲良くなった。

「李縊を、やっつけたそうじゃん。俺も、あいつ嫌いだから、すっきりしたよ。でも血を流すまで殴りつけるのはよくないな」

 彼はそう言って、姜維の肩を抱いた。李縊との一件以来、太学で腫れ物のように扱われていた姜維に、初めて屈託なく話しかけたのが羅憲だった。

 柳隠は、家柄のよい若様連中から苛められがちなところを、何かと羅憲からかばってもらっていて、いつも金魚の糞のように彼のあとをくっついて歩いていた。そのため、羅憲と姜維が親しくなると、自然彼も姜維と話すようになった。

 外見も性格もまったく違う三人だが、どこか馬が合うのか、いつの間にか、太学では、いつも一緒に過ごすようになった。

 ある日、講義も終わり、三人で太学内の市場前の、槐の木陰でおやつの甘蔗をかじっていると、羅憲が姜維に、何故太学が終わった後、簡雍の屋敷に遊びに行っているのか理由を聞いた。

 簡雍という、羅憲が私淑している殿中無双といわれる博士、譙周を打擲したうえ、太学の誇りだった蔡ようの石碑の半分以上を一人で破壊した老人は、諸生達の間では魔王のように畏れられていた。

「張嶷っていう同じ年くらいの友達が、簡老師の家にいるんだ」

 姜維は答えた。

「どんな子なんだ?」

 羅憲は、その張嶷という子に興味を持ったらしい。

「ちっちゃくて、女の子みたいな顔して、止むこと無い雨だれみたいにお喋りな子だよ」

 姜維は、張嶷について、いくつか話しをしてあげた。巴西の出身であること、幼少期先帝の庇護下にあったということ、崩御後は牂牁太守馬忠の養育を受け、今は成都での遊学のため簡雍に預けられていること。

 あの微妙な問題もあったが、事情があって去勢され、通常の体でないことについては、むきつけな言葉は使わず、察することの出来る程度の表現にして、姜維は伝えた。無愛想な少年だが、その程度の心遣いは出来る。

 羅憲も柳隠も、常よりは感の敏い子供で、その辺りの機微については、たちどころにさとった。そして、別にそのことで、まだ見ぬ、未知の少年の重りの目方を変えるような子供では、二人ともなかった。羅憲と柳隠は、張嶷に会いたがりだした。

「面白そうな子じゃん。それに簡老師も有名な爺様だから、会ってみたい」と羅憲。

「簡老師は、雲長様(関羽)や益徳様(張飛)にも遠慮しなかった人というけど、大丈夫かな?でも、その張嶷って子には会ってみたいかな」と不安げに、こちらは柳隠。

 あまりに二人が、うるさく張嶷と簡雍に会いたがるので、姜維は簡雍邸まで連れて行ってあげることにした。

 羅憲と柳隠が初めて簡雍邸を訪ねた時、張嶷は白地に桃色の縁取りの錦衣を着、腕には藍が染みた絹の香袋をかけ、足に赤色の糸履(しり)を穿いていた。簡雍邸の門が開き、この姿が、羅憲と柳隠の目に飛び込んだ時、二人は、大輪の花束が突き出されたように感じた。

「わぁっ、どなた?」

 張嶷は、羅憲と柳隠を見ると、大きな目を瞼からこぼれそうなほど見開き、嬉しそうに二人の手を取った。

「ひょっとして、姜維の友達?良くこんな無口な子の友達になれたね。ほんとに喋らないでしょ?」

 二人が、どぎまぎしている間も、張嶷は休みなく話しかけ、勝手に笑い出す。羅憲も柳隠も、もうこのときには、太陽が舞い降り
たような張嶷という少年の虜になっていた。時折まじる軽口も、猫がじゃれて、甘く肉に食い入る爪のように心地よい。

 少年達四人は、すっかり意気投合した。その日は、簡雍邸で、日が暮れるまで話し、遊び続けた。

 夕陽が、下西門にかかるころ、ようやく皆帰ろうとしたが、別れ際、張嶷は、また羅憲と柳隠の手を取った。

「また、来てね」

「うん、また来るよ」

 羅憲と柳隠は約束した。

「毎日来てね」

「毎日は分からないよ」

 羅憲は言った。

「ううん、毎日来て」

 張嶷は言った。大きな瞳が潤み、ひとりでに大きくなっている。

 羅憲と柳隠も、また次の日から毎日簡雍邸を訪ねるしかなくなった。

→ 花武担 第四章 四聖(四)


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花武担 第四章 四聖(二)

 朝飯がすむと、姜維は簡雍宅を出て、太学に向う。

 あれほど、簡雍が骨を折って、張嶷を入れることが出来なかった場所だが、丞相孔明と、鎮北将軍魏延の肝いりで、あっさり通ったらしい。簡雍こそいい面の皮のようだが、中国という文明の持つ一面で、異民族が自己の文明を学ぼうとするときは、孫に菓子をねだられた好好爺のように、顔を溶け落としそうにして喜ぶところがある。

 それでなくても、今、中国という領域は、三つの国に分かれている。そのうちのもっとも小国の教育機関に、羌族という強勢な蛮族の若様が入りたがり、実際に入ったということは、もうそれだけで、強力なプロパガンダだった。

 姜維が太学に行っている間、張嶷は花江の向こう岸を見ることが多くなった。

 正直、太学で学べることは嗜好にあわず、入れなかったということもさほど骨身に響いていなかったのだが、友人は行けて自分は行けないとなると、話が別である。

 簡雍も敏に、その辺りの機微は読んで、申し訳なさそうに、

「まぁ、あちらの奴らのものじゃからな」

 と、蘭のよく言う「北の人」と似た調子の言葉を使って、太学のことを表現した。

 張嶷は、そんな簡雍の言葉を聞くと、いつも悲しくなった。

 美しい成都の街が、花江のこちら側と、あちら側で、冷厳と世界が分かれているように、自分と姜維の間にも、花江が流れていて、実は世界の違う人間なのだろうか。

 蘭は、張嶷の悩みを聞くと、

「当然じゃない。貴族なんて、そんなものよ」
 と言い捨てた。

 蘭は都会の商売人の娘らしく、考え方が、サバサバしている。

 何より、今まで独り占めしていた張嶷が、あの涼州から来たという貴族に取られるのが嫌だった。

 蘭の言葉を聞いて、張嶷は、姜維に対する不安を抱いたりする。が、姜維の方は、何も気付かぬ風で、太学が終わった後も、簡雍宅を訪ねた。その時は、必ず太学の書庫の書籍をいくつか借りて来て、張嶷に渡してくれた。

 太学の正式な課程における、講義は午前中には終わってしまう。これは、朝廷の会議が、午前中に終わってしまうのと同じである。

 諸生の多くは、私淑する博士を見つけ、個人的に教えを請うことで、学問を進めて行くのだが、姜維はまだ尊敬にたる師を太学のなかに見つけていなかった。それで、講義が終わると、早々に退散し、簡雍邸にまた遊びに来る。

 大体、日昳くらいの時刻になるのだが、この時間、張嶷は大抵、昼寝中だった。成都は、すり鉢上の鍋の底のような地勢で、しかも四川という名に相応しく水気が多い。夏の昼頃は蒸し暑くて、とても活動できず、多くの住民は昼寝を取った。

 今日も、張嶷は、正門の両闋の上の、風通しの良い楼閣に竹製の茣蓙を持ち込み、蚊帳をつるし、ひんやりした感触が心地よい玉の枕に頭を乗せて、スヤスヤと眠っている。

 姜維は、その楼閣に登ってきた。この少年は、朝も昼も、張嶷を起こすために、簡雍宅を訪ねているようなものだった。 

 蚊帳に入り、枕元に、持ってきた書籍を置くと、その音で、張嶷が目を覚ました。舌を出し、恥ずかしそうに笑った。

「ありがとう」

 張嶷が言うと、姜維はコクッと頷いた。

「日が陰るまで昼寝していきなよ」

 張嶷が言った。

「でも、眠くないよ」

 涼州出身の姜維には、避暑のため午睡を取る習慣は、珍奇なものに見えていた。

「姜維は、馬術を教えてくれたから、僕は昼寝を教えるよ」

 張嶷が、言った。薄目になっている。また眠たくなってきたのだ。

 姜維は、クスッと笑った。張嶷の言葉と、枕と友達であるかのように、すぐ寝入ってしまうのがおかしかったのだ。

「また、笑ったね」

 張嶷は、最後に言うと、もう寝息を立てだした。

 姜維も、仕方なく張嶷の横に長々と寝そべり、目をつぶった。この時間は、成都中が、海の底に沈んだかのように静かになる。聞こえてくるのは、わずかな音。隣で寝ている張嶷の愛らしい寝息、蒸し暑い空気の中、時折流れる涼風。家の前を静かに通り過ぎていく馬車の轍の音。

 姜維も、いつしか眠っていた。二人の少年が眠る楼閣を、蝉の音が包んでいた。

 そのように、姜維と張嶷は、日がたつにつれ、親しく睦まじくなっていたが、蘭と姜維の間というのは、ちっとも縮まらなかった。この二人は、水と油のように、徹底的に相性があわない。いや、姜維の方は別に蘭のことをどうとも思っていないのだが、蘭が一方的に嫌うので、その当然の反作用として、姜維も蘭のことを苦手にするようになった。

 ただ、幸いというか、蘭は実家の仕事を持っているから、遊びに来るのは、午後から夕刻、一方姜維は早朝に昼間と、いわば活動時間があわない。それで、二人が顔をつきあわせる頻度というのは、そんなには多くなかった。

 しかし、運悪く、わずかに時間が被り、屋敷内ですれ違ったりすると、天敵にあった猫のように、蘭が牙を剥く。それで、自然と、張嶷は蘭とは庭園で会い、姜維とは院子の方で過ごすというふうに、棲み分けが出来るようになった。

 そのように、張嶷の方では、相応の会釈を蘭に対してしているつもりなのだが、彼女は姜維の存在が許せないようだった。この日、酒の配達という口実で、夕餉の時間に簡雍邸にやってきて、そのまま御相伴に預かっていたのだが、ご注進、ご注進という感じで、姜維の太学での不行状を、簡雍と張嶷に告げ口した。

店の客が噂していたこととして、蘭の語ったところ、姜維は太学で瞬く間に目立つ存在になっているらしい。

まず、彼の評判の一としてあげられることは、古文、鄭玄の学の、学殖の豊かさであった。

 儒教には、使うテキストの違いによって、古文と今文という二つの学派がある。テキストの違いは、秦の焚書坑儒をきっかけにして生まれた。

 秦が滅んだ後、前漢は、儒教を国学として復活させようとした。しかし、書物は、全て始皇帝に焼かれてしまっている。そこで経典を暗記している学者を呼び出し、改めて筆授させた。それらは、漢代の通用字体である隷書で書かれているため、今分経書と呼ばれた。

 ところが、伝説めいた話しだが、後になって、孔子の旧居の壁から秦以前の本が発見された。焚書から逃れるため、誰かが隠したらしいのだ。これらの経典は、秦以前の古い字体である篆書で書かれていたため古文経書と呼ばれるようになった。

 古文と今文は、字体が異なるだけでなく、内容にも違いがあり、「周礼」や「春秋左氏伝」などは古文にしか存在しない経典である。古文を正式経典とする学派を古文学派と呼び、今文を正式経典とする学派を今文学派と呼んだ。

 最初は、今文学のほうが漢王朝の政府公認学派とされていた。

 しかし、今文学は、その成り立ちから政治的動機によって作られたものである。今分経書を筆授した学者が、時の権力者におもねった記述をした可能性はないか?また、長く政府の御用学問としての役割を果たしてきたことにより、学問に必要な批判精神を失なっていないか?

 政治的な手垢が、ベタベタついている今文学にあきたらなくなったラディカルな若者達は、古文学を目指すようになった。後漢末から三国にかけては、鄭玄という大儒が古文学者として現れたこともあり、古文学の優勢が決定的になった。

 鄭玄には、信奉者が多く、有名どころをあげるだけでも、何進、袁紹、孔融、陶謙などがいる。姜維も、またその一人で、太学では鄭玄の学を好んで学んだ。鄭玄は、劉備とも縁があった人物で、劉備の師盧植は、鄭玄と馬融門下で兄弟弟子の関係だったし、劉備草創期の名外交官であった孫乾は鄭玄が劉備に紹介した人物である。

 姜維は、鄭玄の学について、母からの薫陶によって、学者顔負けの知識を身に付けているらしく、時に講師が答えにつまるような鋭い質問を発した。美貌と、当節流行の鄭玄の学に対する知識の豊かさで、姜維は太学中の注目の的になった。

 しかし、彼の評判のうちで、最たるものは、タフな喧嘩屋というものだった。

 李縊というものが太学にいた。孔明に次ぐ実力者、李厳の遠縁のものである。ニキビが浮いた巨漢の少年で、勉学には全く励まず、都会での浮華な暮らしをするためにのみ太学に通っているような様子であった。しかし、怪力無双な若者でもあったため、皆これを恐れていた。

 この李縊が、太学の中庭で姜維に絡んだ。

「お前、天水の出らしいな?」

ことさら横柄に聞いてきたらしい。

「あぁ」

姜維は短く答え、あまり相手になろうともせず、さっさと立ち去ろうとした。

 だが、李縊は、その前に立ちはだかり、

「ちょっと学問が出来るからといって調子にのるなよ。涼州の夷が、漢族の猿真似しやがって」

 と罵った。

 侮辱し、なぶってやるつもりだったのだろう。

 しかし、その言葉が終わるか終わらないうちに、姜維の拳骨が、李縊の顔面を捉えた。太学中に、その掌の音が響くような凄まじい一撃だった。李縊がたまらず前のめりになった拍子に、姜維は、彼の冠をはらい、その髻をつかんだ。

 喧嘩は、髻をつかまれた方の負けである。華奢で小柄な姜維のどこにこんな力があるのか、李縊は全く顔をあげれなくなった。その李縊の顔に姜維は容赦なく拳を浴びせた。ついには、李縊は鼻や口から血を流し、声を上げて泣き出した。

 泣き出して初めて姜維は、李縊を放してやり、そのまま立ち去った。うずくまる李縊には目もくれない。今の世代の、豪族の若様というのは軟弱なもので、洛陽の流行を真似て、白粉をしているようなものまでいる。血まみれの喧嘩に恐れをなし、皆声もなかったという。

 蘭から、姜維の太学での乱闘の件を聞いても、張嶷はなかなか信じられなかった。

 張嶷の知っている姜維は、馬や鄭玄の学のことになると多弁だが、それ以外は、物静かで、優しげな少年だった。大体乱闘したという日は、いつなのだろう。毎日姜維は、簡雍宅を訪ねているが、そんな様子を見せた日は一度も無かった。

「そんなこと言ったって、涼州出身で、しかも羌族なのよ。乱暴に決まってるわ」

 蘭は言った。涼州は、多数の民族が錯綜する土地であることから、上古から戦乱が絶えず、そのため優秀な軍人を数多く輩出した。後漢末から今にかけても、皇甫嵩、董卓、韓遂、張繍、馬騰、馬超、龐徳といった戦うために産まれて来たような男達を生んでている。

 特に董卓の率い、姜維の父親も参加した涼州軍の破壊力は凄まじく、彼らが後漢の花薫る都洛陽で行った所業は、いまだ記憶に新しい。羌族など多民族の混成軍隊でもあった董卓軍は、洛陽を灰燼に帰し、瀕死の後漢の息の根を完全に止めてしまった。

「わしは、悪い奴じゃないと思うけどな」

 簡雍が口をはさんだ。蛍石で出来た杯で、葡萄酒を飲んでいる。涼州はシルクロードの玄関口でもあり、簡雍が今飲んでいる葡萄酒も、涼州を通じ西域から輸入されている。

「いいえ、悪いやつよ。阿嶷は、あんな不良と、遊ばない方がいいと思うな」

 蘭は、松の実の殻を割ってやりながら言った。夕餉は終わったのだが、簡雍の晩酌に付き合うという名目で、腰を据えてしまっている。

「そうかなぁ」

 張嶷も簡雍のために、松の実の殻を割ってやっている。何故、蘭は、姜維を嫌うのだろう。もっとも仲良しで大事な友達は、この二人なのだから、仲良くして欲しかった。

「自分の生まれた土地や人を馬鹿にされたんじゃろ?怒って当たり前じゃ。身震いできなければ男の子じゃない。わしは、あいつの行動は間違ってないと思うぞ」

 簡雍は、松の実を口に放り込みながら言った。

 蘭は、頬をふくらましたが、よく考えたら簡雍は、人生のほとんどを乱闘騒ぎの中で過ごした様な爺さんである。姜維の乱暴にも共感するところがあるのだろう。

「阿嶷は、どう思う?」

 蘭は、張嶷に話を向けた。

「血は嫌だな」

 張嶷は、ポツリと言った。血を流しながら泣き声をあげるなど悲惨な光景である。その情景を思い浮かべるだけで、張嶷は鼻の奥が酸っぱくなるような、悲しい気持ちになった。

「将軍、阿嶷は血は嫌ですってよ」

 蘭が勝ち誇ったように言うと、

「それも間違ってない」

 そう簡雍が答えたもので、透かしをくらったようになった。

「先帝も、曹公も、血に淫するような人間ではなかった。勇気は、人の痛みに無頓着になることとは違うからな」

 簡雍は、いつになく真面目そうだった。

「姜維の乱暴も間違ってない。血が嫌っていう阿嶷も間違ってない。じゃあ、正しいのは何?」

 蘭は、聞いた。

「唯だ杜康(お酒だけ)」

 簡雍は、今度は、いかにもふだけた調子だった。曹操の短歌行の一節である。

 蘭は、あきれた。

 この爺様は、いつもこの調子である。真剣な風になっても、肝心な所は、必ず混ぜっ返す。

「さぁ、喧嘩の話は、もうよしなさい。井戸のハミウリが冷えたはずじゃ。童らはそれを食め」

 簡雍は、手を叩いて李夫妻を呼ぶと、甜品として、子供達にハミウリを切ってあげた。月の明かりで金色に輝く果肉に歯を立てると、甘い匂いがたちこめ、かなしいほど美味い。張嶷と蘭は、一口食べて嬉しさで、お互い顔を見合わせた。

 ハミウリも西域の産物で、涼州を通じて、四川に持ち込まれる。流血やまない土地で、これほど甘やかで、美味な果物が収穫できるのは不思議なことではあった。

→ 花武担 第三章 四聖(三)


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花武担 第四章 四聖(一)

 姜維という少年は、馬市のことがあった翌日から毎朝、簡雍の屋敷を訪ねるようになった。まだ、戊夜、東の空がうっすら明るみ出す頃、簡雍邸の門を少年は叩く。張嶷が、馬術を教えてと頼んだためだが、当の本人は、血圧が低く、姜維が屋敷に着いてもまだ夢のなかにいる。

 それで、姜維は、張嶷が起きるまでの間、内庭の井戸のたもとに的を置き、弓の練習をして時間を潰した。腕前は見事なもので、矢の的に当たる音が、朝靄を小気味よく打ち払っていく。

三十射もしてから、ようやく張嶷が、透かし模様の入った紗の寝巻き姿で、東廂房からよろばい出てくる。しどけない姿で、盲人のように両手を前にさまよわせ、口元によだれをひき、量の多い髪は鳥の巣のようにあちこち跳ねていた。

「おはよう。顔を洗っておいで」

 姜維が短く言うと、

「ん」

 と、張嶷はおとなしく従い、李負の持ってくる、温かいお絞りで顔を拭き、井戸の水を汲んで口をすすぐ。それから、房に戻って髪を梳き、衣装を選ぶのだが、これにも時間がかかる。

それで、姜維は、その間、厩に行って、張嶷の馬に馬具をつけてやる。馬市で買ったあの白馬は、張嶷によって「快活」というとんでもない名前がつけられていた。

 たっぷり四半刻ほどもかけた後、張嶷は、服を着替え、髪もお気に入りの形に結い上げて、姜維のもとにやってきた。

「おはよう」

 遅ればせの挨拶を言いつつ、張嶷は、一仕事終えた姜維の顔を見ると、バツが悪そうに、舌を出した。照れると舌を出すのは、彼の癖だった。

 その後、二人は朝寝中の簡雍に挨拶するため、簡雍の寝室に向かう。寝台の元に二人でひざまずき、挨拶すると簡雍は、布団の中から手だけ出し、訳の分からない呻き声と共に、さっさと行って来いというように手を振った。

 遠乗りの先は、その日、その日の気分で、南にくだってすぐの乍橋門へ向かうこともあれば、ひっそりと寝静まった花街を抜け東の小東門の方に向かうことも、あるいは、まだ店舗の戸が下ろされている小城を過ぎて下西門へ向かうこともあった。

 姜維の乗馬も白馬だが、こちらは馬幅が闘犬のように広く、気性も虎のように猛々しかった。色も深く、乳のように粘りがあって、姜維は、これをガンルンと読んでいた。羌語で、雪山という意味である。

 いずれかの門を過ぎて、羅壁の外に出ると、岷江や錦江の河川敷で馬を走らせる。張嶷はまだ腕が未熟なので、姜維が並んで走りつつ、手綱を取ってやる。なかなか厳しい先生で、

「腰が踊ってる。馬の動きにあわせて」

 とか、

「目が下がってる。たてがみは見ない。馬と同じ方を見て」

 など、容赦ない檄が飛ぶ。

 馬にとっても、姜維は手ごわい先生で、半刻もたつと、まだ若い快活は肩で息をするようになる。そこで、二人は馬を川のほとりへ連れて行き、水を飲ませながら、河川敷の草原の上で一休みした。

「ねぇ、伯約の家って、羊飼いなんでしょ? 家に羊は何頭いるの?」

 袴をたくし上げ、白いはぎもあらわにしながら、足を川に浸していた張嶷は、ある日そう訊いた。

 姜維は少し困った顔をした。もともと、牧畜民というのは、自分の財産である家畜を、農耕民のように数えたりはしないものだ。それで、姜維は、張嶷の質問に対して、

「雲のように」

 と、詩にして答えた。

「ふふ」

 張嶷は笑った。

「武担みたい」

 神話のなかの彼女も、秦嶺山脈から、雲のように羊をまつろわせながら、蜀の地に降りたった。そして、武担の故地、武都は、姜維のやってきた天水とは隣り合わせの郡になる。

「武担?」

 不思議そうに姜維が聞くと、

「ううん、なんでもない」

 と張嶷は謎めかせた。

 翠の毛氈の上での語らいは、大抵、張嶷のほうがお喋りで、張嶷が百語話す間に、姜維が、二、三語話してくれたらよい方だった。それでも、この会話のなかで、張嶷は姜維に関する様々なことを知ることが出来た。

 姜維、字は伯約は、張嶷と同じ十四歳で、天水における羌族の大姓、姜氏の出だった。といっても、既に祖父の代から、功曹として県の役所に出仕していたため、彼の氏族は、地元の天水では漢族の名士と同等に扱われていた。この辺り、中国の名士の規定は厳格なようで鷹揚で、後漢代から中原に移住してきた南匈奴の貴族たちも、似たような会釈を受けている。

 姜維の父の姜冏は、学問好きで、詩経を好くし、それでいて騎射にも達者という、後漢末に中原世界に参加した異族出身の人物の典型のような男だった。体つきも雄偉で、文明化して萎縮した漢族のものとはまるで違っていた。

 彼は、董卓が洛陽に進出した際、他の多くの涼州における羌族戦士と共に付きしたがい、やがて、そこで漢族の娘を一人得た。後宮の女官だった女性で、名を艶という。これが姜維の母親だった。略奪同然の嫁取りで、班昭の女誡をおさめ、詩賦も読む、齢十七の才女だったこの娘を、姜冏は馬上伸び上がってヒメリンゴをもぐようなたやすさで、洛陽の巷にさらい、そのまま妻にした。

 彼もいわば漢化してから二代目にあたるわけだが、この辺り、まだまだ蛮としてのぎらついた逞しさは失われていなかったもののようだ。

 姜冏は董卓による長安遷都にも付き従ったが、王允によって、董卓が殺されると、牛車に洛陽と長安で得た宝物を積み、さっさと長安を脱出した。もちろん、宝物の上には、姜維の母親を乗せてである。

 艶からしたら、これほどの悲劇はないが、その後、中原にしろ、関中にしろ、人口のうち十に九は失われるという戦乱が待っていることを思えば、難中に福を得たといってもよいのかもしれない。

 姜冏も求婚こそ乱暴なものだったが、天水に帰還後は、彼女を宝玉のように大切に扱った。艶もそれに答え、三人の娘を産んだあと、やや間隔を置いて、一人の男児を産んだ。これが姜維である。

 姜冏は、魏の夏侯淵による羌族討伐の際、ちょうど漢族と羌族の対立に巻き込まれるようにして、命を亡くすのだが、艶は彼の死後も、よく一族の太母として、天水の山谷に散らばる支族も含めれば、その口数は千を超えるともいう、姜氏をまとめあげた。

 また、同時に、かつて才女と詠われた自分の才智をかけて、一人息子の教育につとめた。自分の膝下で、物心ついたときから、詩経を暗誦させ、それが終わると、尚書、そして六経と進ませた。姜維が、あの馬市の際に見せた、美しい洛陽の音も、母親からの薫陶だったのである。

「凄いお母さんだね」

 この話を聞いたとき、張嶷がそう言うと、姜維は顔を伏せ、陰のある表情をした。

 彼は、母親を天水に置いて、成都にやってきたのだ。

 街亭で敗北後、総退却になった蜀軍に、姜維はありったけの羊をまつろわせて、自らを投じた。偶然、征討将軍である魏延の部隊だったが、蜀の首脳は、天水四大姓と言われる姜氏の嫡男の投降を喜び、そのまま、魏延の庇護下に置くことにした。そして、姜維が、成都遊学を希望したため、今は、成都に置き捨ての状態にされている魏延の屋敷から太学に通っているのだった。

「お母さんのことは心配じゃない?」

 張嶷が聞くと、姜維は首を振り、

「いいんだ」

 と短く答えた。

 ぴしりと戸を閉ざすような語気で、張嶷はそれ以上強いて聞く気をなくした。

 蜀に身を投じたのは、魏による羌族征討のせいで命を落としたような父の仇討ちのためということだったが、それ以外にも、母との何事かが関係しているようだった。

 馬はもう水を飲み終わり、河川敷の若草を食んでいた。姜維は、その草原の草を千切り、風に吹き散らさせた。

「柔らかいね。涼州とは全然違うな」

 そう言うと、お尻についた草を払いながら立ち上がり、ひらりと雪山にまたがった。

 おくびにも出すことではないが、張嶷と同じペースで走らせなくてはならない鬱屈があるのだろう。彼は、簡雍の屋敷へ引き返す前に、自分の馬だけ早駆けさせるのが常だった。鞭を左右に打ちつつ、掛け声をたて、雪山を責め立てる。その時の、鎖を外して貰い、野を駆け回る犬のような嬉しげな表情は、彼のなかに確かに流れる騎馬民族の血を思い起こさせた。

 帰る頃になると、出店をあけるものや、農作業のため近郊の田畑に向うものなど、人出が多くなる。溺街では、前夜の遊蕩のあとを、妓楼のものたちが、晴れぼったい目をしながら片付けていて、街全体に、酒宴のあとのような、白っちゃけた雰囲気が漂っている。

 姜維と張嶷は、口を開けて転がる空の酒壺や、たわむれに地面に叩きつけられた杯の欠片や、痛飲した酒客が残した見苦しいものなどをよけながら、馬を進ませていく。姜維は、遠心的な目を落とすことなく、自家の荘園を散策する若様のように貴族然として、張嶷は、ことことと飴玉でも含んでいるように微笑みを絶やさず、顔見知りなどに会うと、気さくに朝の挨拶なども交わす。

 このタイプはまったく違うのに、二滴の水玉のようにそっくりな雰囲気をまとった美少年二人は馬上並んでいるだけで、人をドキリとさせ胸騒がせるものを持っていた。溺街の人間は彼らが、何かに祝福され、何事かを約束された存在であることを確信した。

 簡雍宅まで戻ると、老人もようやく寝床から抜け出し、李翁と李負が朝食を作って待っている。姜維は、市場の出来事の翌朝から、毎日、御相伴するようになっていた。貴族の若様の凄い所で、ご馳走になっておきながら、礼も言わない。

 人が自分に奉仕するのを当然と思っているのだろう。しかし、一方で、自分の能力で人を助けるのも当然の義務としていて、毎朝張嶷に馬術を教えているが、恩着せがましいことは一度も言わない。

 貴種とは大したもんだ、と簡雍も感心する思いだった。牧民貴族として磨き上げられたような子供だった。李夫妻も、礼も言わずに朝飯を食べていく子供に文句の一つも出そうなのに、その高貴な雰囲気に打たれて、喜んで奉仕している。

「姜維、魚を、また残そうとして」

 簡雍が、注意した。フナの膾を残そうとしていたのだ。姜維は、顔を曇らせ、困った顔をした。こうした所だけ見ると、普通の子供と変わらない。遊牧民は、一般に、あまり魚を食べない。姜維もそうで、魚も、四川で良く使われる香草の類も苦手だった。

「じゃぁ、僕が食べる」

 横合いから張嶷が手を出した。姜維の膾を箸で取り、自分の皿に移した。

「甘やかしたら、いかんぞ」

 しかし、張嶷はもうペロっと食べてしまった。クスクスと笑いながら、舌を出す。

「だって、美味しそうだったから」

「こいつ」

 簡雍は苦笑した。

 姜維はほっと救われた顔で、竹の杯を取る。満々と溢れるように、四川の特産である、水牛の乳が注がれている。姜維は、唇に白い輪を作りながら、それを飲み干した。

 今度は獣乳の苦手な張嶷が困る番で、見るのも嫌というふうに顔を背けている。

「ほれっ、張嶷。お前も、牛乳を飲め。大きくなれんぞ」

 簡雍が張嶷に矛先を向けると、姜維も牛乳のもう一度注がれた杯を張嶷に差し出した。

 張嶷は、まるで毒液を見るような目で、その白い液体を見て、

「大きくなれなくてもよいから、絶対に飲みません」

 と叫んだ。その必死な様子がおかしくて、簡雍が吹き出し、給仕をしていた李夫妻も笑い出した。その時、姜維も、ユルユルと頬を緩め微笑んだ。すぐ元のすまし顔に戻ったが、意外と優しげで温(ぬくみのある笑顔を、張嶷は見逃さなかった。

「ねぇ、今笑ったでしょ?笑ったよね?もう一度笑顔を見せて」

 と言ったが、姜維は何も答えず、冬の夜のような静かな表情のまま、また、牛乳を飲み干した。

→ 花武担 第三章 四聖(二)

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花武担 第三章 姜維(九)

 馬市のまわりには、人だかりの輪が出来ていた。馬種は様々で、まだらの駁(ばく)や、漆黒の驪(り)、黄色と赤の混じった騅(すい)に、雪のような駱(しろ)。それら、色とりどりの馬が、四方に延びる紐につながれているのは、氐族の五色の祈祷旗、タルチョーのようだった。

 張嶷は、あまり馬になれていなかったが、彼ら、彼女たちの美しい毛並みをこわごわ触ったり、甘噛みを肩に受けたりしているうちに、段々、表情がもとのように明るくなってきた。

「嶷、この馬などいいんじゃないか?」

 簡雍が、鹿毛の顎をつかみ、歯を見せながら言った。もう買う気になっている。

 鹿毛は、馬幅が大きく、寸詰まりで、足が短かった。羌族の馬の特徴で、もっさりした見た目だが、こちらの方が丈夫で、凹凸の多い山岳部を走るのに向いている。

 が、張嶷は首を振った。

 鹿毛は、なかなか気性が荒いようで、激しく首を振って、簡雍の手から逃れようとしていた。そのときの表情の猛々しさが気に入らなかったのだ。

「そうか、じゃぁ、こちらはどうだ?」

 そんな風に、老人と少年は、馬を取り替えながら、物色を続けていく。蘭も、馬など毛ほどの興味もなかったが、張嶷が気を取り直したのが嬉しく、ことことと微笑みながらあとに続く。

 やがて、

「これがいい」

 と張嶷がある馬の前で止まった。

 透き通るような白馬で、首の辺り、血が浮いて、ほんのり桃色になっている。

「ふむ」

 簡雍は顎をつかんで歯を見た。まだ、二歳くらいであろうか。羌族の馬には珍しく、華奢で、馬幅が狭く、足が長い。

(平地ではよくても、山谷ではもろそうな)

 と、簡雍は思ったが、白馬は顎をつかませたままじっとしている。よく光る黒色の瞳も聡明そうだった。

(大人しそうな馬だな。これなら、未熟な者が乗っても、逆らわないかもしれん)

 いつの間にか、羌族の商人が側に来ていた。蛮語で何やら話しかけてくる。

 言っていることはさっぱり分からなかったが、身振りも交えつつ、鞍を置けと言うと通じたようで、商人は鞍を置き、手綱を簡雍に渡した。

「乗ってみる」

 老人とは思えぬ身軽さで、ひらりと馬上の人になると、手綱をさばき、馬を駆けさせた。人だかりにどよめきが起きたほど見事な乗りこなしで、この辺りさすがは千軍万馬の将軍だった。河川敷を岷江に沿って、風のように走り、たちまち簡雍と馬は小さな点になった。

「将軍、さすがね」

 蘭の言葉にうなずきつつ、張嶷は小さな胸をときめかせていた。

 あの清らかな白馬が自分のものになる。

 南中では、あまりよい馬がおらず、馬に乗る機会が持てなかった。自分の馬を持つことは、張嶷の夢の一つだったのだ。

 やがて、簡雍は戻ってきた。だいぶ責め立てたようで、人馬ともに満身汗みどろになっている。馬は紐につながれつつ、昂揚の余韻で、足摺をした。

「気に入った。こいつにしよう」

 簡雍は袖で汗を拭いつつ、そう言うと、羌族の商人と値段の交渉を始めた。言葉が分からないので、筆談である。地面に線を引き、その数で値段を表す。商人が屈んで幾本も線を引いていくわけだが、端から簡雍が足で消していく。消すことで、負けろという意志を伝えるわけである。二人は、引いては消し、引いては消しするのを、幾度も繰り返していた。

 蘭が、まどろこしいやり方に苛立ってきて、張嶷に聞いた。

「違う民族の言葉でも喋れるんでしょ? 羌族の言葉は分からないの? 通訳してあげたら?」

「羌族とは、あんまり話したことないんだ。イ族の言葉と似ているような感じだけど」

 張嶷は、首を振りながら答えた。

 交渉は、難航している様子だ。通訳がいればと思ったのだが、張嶷が出来ないとなると、どうしようもない。どうしたものか?と蘭が思っていると、ふっと野次馬の中から一人の少年が現れ、簡雍の隣に立った。

 肌の色は、白皙を超して青白く、唇が血のように赤い。磁器のようにつるりと秀でた額と、高く際立った鼻を持ち、奥二重の切れ長の目の奥に、漆のようによく光る瞳を住まわせている。

悽愴な感じがする美少年だが、眉間の辺りに独特の険があり、目元に紅でもさしたように血が昇っているのが、どこか狐に憑かれているもののように見える。

蘭は、背中にゾッとするものを感じ、思わず目を背けた。

 同じ美貌でも、張嶷の美しさは、菜の花畑に降り注ぐ春の柔らかい日差しを思わせたが、その少年の美しさは、凍てついた夜を切り裂く厳冬の月の光だった。

 少年が、通訳を買って出てくれた。どういった事情からか、羌族の商人がひどく、遠慮している。どちからといえば、華奢で小柄な少年だが、自然な迫力があって、人を従わせる何かを持っているようだった。

「何か、嫌な感じね。すかしてる感じ」

 蘭が、張嶷にささやいた。

「そう? でも、とても綺麗な子だよ」

 蘭はムキになって言い返す。

「貴方のほうが、ずっと綺麗よ。きっと何か悪巧みしてるに違いないわ。」

 そうかなぁと張嶷は、首をひねった。張嶷は、その少年に惹かれだしている。

 少年は袖のユッタリした漢族風の長衣を着ていたが、頭には藍色の頭巾、腰には長剣と号角という、漢族と羌族が折衷したような格好をしていた。半漢半蛮という珍奇な格好だったが、彼の美貌と不思議に調和し、洒落て見えた。

 号角とは、牛の角で出来た笛で、別名「胡角」とも呼ばれる。羌族の民族楽器で、彼らは他民族と戦うときは、これを吹き鳴らし、自らを昂揚させるとともに、敵を威嚇しながら突撃した。羌族に襲われたことがある漢族にとっては、狼や虎の遠吠えより恐ろしいもので、その音を聞いただけで、卒倒するものもいるほどだった。

「彼は、その値段では、少し安すぎると言っています。もう少し妥協しては、どうですか?」

 少年の通訳は、達者なもので、簡雍と商人の間で、意志が渋滞することがなくなってきた。もう地面に線ではなく、少年の指で、値段を示すようになっている。

 少年は、最初四川の言葉で話していたが、簡雍が華北出身の人間であることが分かると、驚くことに華北の音で簡雍に話しかけるようになった。洛陽で、素読の先生が出来そうな綺麗な発音である。

 張嶷は、ますます感心し、蘭は、ますますいけ好かない奴と憤った。

 四半時ほど、少年は簡雍と商人の間で指を曲げたり伸ばしたりしていたが、遂に商人の方が根負けし、交渉は成立した。三千銭程度で収まったので、馬の値段としては、まずまずであろう。ちなみに、大人の男性が一ヶ月暮らせるだけの金が、三百銭程度である。

 簡雍は、少年に礼を言った

 「童(わらし)のおかげで、助かったわ。ありがとう」

 少年は、目礼でそれに答えた。元々は寡黙な子供らしい。

「ありがとう。華北の言葉も話せるなんて、どこから来たの?」

 張嶷も話しかけた。いつの間にか少年の手を取っている。人と話すときの癖で、話し終わるまで決して離すことがない。

 少年は、急に手を取られて驚いたようで、頬を赤くした。それまでのすました様子と違い、急にあどけない顔になった。

「涼州から……」

 少年が、口を開きかけたときに、簡雍が割って入った。

「いやいや、良い得物であったわ。童、改めて礼を言うぞ。ささっ、張嶷。鞍も置いたぞ。轡もくわえさせたぞ。早速乗ってみよ」

 白馬に馬具がもう備え付けられていた。先ほど簡雍に走らされたときの高ぶりがまだ残っているのか、しきりに首を振り、足掻いている。張嶷は、不安を感じた。

「老師。阿嶷は、馬は、そんなに経験ないのよ。いきなり乗れなんて無理よ」

 蘭も、心配になってそう止めたが、簡雍は一笑に伏した。

「ここは、爺さんのいうことを聞くもんじゃ。時間は、あるようで、無いもの。良いときも、若いときも、あっという間に過ぎて行く。機会は、逃してはいかん。さぁさ、乗った、乗った」

 簡雍は、張嶷の手を取った。張嶷と少年の手は、離れ、少年の言いかけた言葉も、空に消えた。

 張嶷は、困った。馬を買ってもらったものの、すぐに乗るなどとは考えていなかった。まずは簡雍宅に持って帰ってから、慣れていくつもりだったのだ。しかし、この積極性の塊のような爺様に、そんな悠長な考えが通じるとも思えなかった。

 今も、買い与えたものを、張嶷が乗るという図を早く見たいらしく、目を子供のように輝かせている。老人の希望もかなえてあげたいし、仕方が無いと、張嶷も、腹を決めた。

「じゃぁ、乗ります。でも、しっかり見ててね」

 そう言うと、商人と、簡雍の介添えの元、鞍にまたがった。蘭は、木登り中の子供を見守る母親のように、ハラハラした顔をしている。一方、少年の方は、少し離れたところで、静かに様子を見守っていた。

 体が安定すると、張嶷は、鞍の上で、背を伸ばした。天性の美貌である。それだけで、一幅の絵のようになった。

「やぁ、張嶷、見事じゃ。おのこらしく見ゆる」

 簡雍が、心底嬉しそうに言った。

 張嶷も、よい気持ちであった。馬上だと、視線が高い分だけ、気持ちも大きくなる。不安がっていたのが馬鹿らしくなってきた。蘭が心配そうに、こちらを見ていたが、大丈夫だよと手を振った。

 少年も、こちらを見ていた。

 大人びた深沈とした表情である。

 張嶷が微笑みかけると、少年は、眩しげに目を細めた。

 そういえば、話がまだ途中である。もっと話しがしたい、と張嶷は思った。

 老師が満足するまで馬に乗ったら、また少年の所に行って、話しの続きをしよう。そして、友達になるのだ。きっと、優しく親切な子に違いない。だって、信じられないほど、綺麗な子なのだから。張嶷は、少年に対して手を振ろうとした。

 と、少年の顔が、急に曇った。おやっと張嶷が思うのと、馬がむずがりだし、後ろ足を足掻きだすのが同時だった。羌族の商人が、あわてて轡を抑えようとした。が、振り払われ、商人は馬の足元に倒れた。

 足元に人が倒れたので、馬はさらに恐慌し、ついに簡雍の手も離れ、張嶷を乗せたまま、駆け出した。野次馬も逃げはじめる。蘭は悲鳴をあげた。

「誰か止めて!」

 野次馬が逃げ惑う中、簡雍だけは、暴走する馬を追いかけた。さすがに、劉備と共に幾千という戦場を駆けた古強者だったが、馬は、どんどん速度を上げていき、なかなか追いつけない。

「絶対に手綱は放すなよ」

 簡雍は、追いかけながら、叫んだ。張嶷は、馬の首にしがみついて、何とか落馬を避けている。

「だから言ったのに。だから言ったのに」

 蘭は、泣きべそをかいた。

 その蘭の横を、鼬のように何かが駆け抜けた。それは、あっという間に、簡雍を追い抜くと、馬に追いつき、手綱をつかんだ。しばらく、並走しつつ、呼吸をはかっていたが、「ヤッ」と掛け声をあげると、馬に飛び乗った。

 暴走する馬に、飛び乗るなど、神業といえる。簡雍も、蘭も、野次馬たちも息を呑んだ。

 馬は、いきなり騎乗者が二人になったので、走りを止めた。ますます混乱し、前足、後足と交互に跳ね上げ、最後は棒立ちになって、乗っている二人を振り落とそうとする。

 しかし、少年は、左手で張嶷の腰を抱き、右手で手綱をさばき、その馬術は硬軟自在、馬の思うようにさせない。

 そのうちに、馬は疲れはじめ、動きが目立って衰えてきた。

少年は、かまわず馬を責め立て続ける。

 少年と馬の体から飛ぶ汗が、日の光に照らされ、金色に輝いた。蘭は、その時少年が、笑うのを見た。赤い唇が割れ、心底この危険を楽しんでいるようだった。その表情に、蘭は、狂気のようなものを感じた。

 やがて、主従は完全に逆転し、遂に馬は屈服した。溶けそうなほど汗みずくになり、降将のように首をたれている。一方、少年の方は、張嶷を左手にしっかり抱きつつ、息も切らしていない。馬上胸を張り、まるで凱旋将軍のような様子であった。野次馬は、歓声をあげた。

 簡雍と蘭は、少年と張嶷の元に駆け寄った。

 少年が先に馬を降り、次に張嶷が少年の首にしがみつくような感じで降ろしてもらった。

「大丈夫?怪我はない?」

 蘭は、少年から、張嶷を奪い取ると、顔を触り、肩や肘、手や腰をさすって怪我が無いか確認した。

「大丈夫か?大丈夫か?」

 簡雍もかたわらでうるさく尋ねてくる。蘭はちょっと睨みつけた。元は、皆この爺さんの無理のせいである。

「大丈夫。どこも怪我してないよ。この子が守ってくれたんだ」

 張嶷は、ちょっとフラフラしていたが、他に異常はなさそうだった。

 簡雍は、少年に礼を言った。

「童、何度も助けてくれて、ありがとう。わしの舎弟が無事ですんだのは、全てお前のおかげじゃ」

 少年は、また何も言わず目礼だけした。

 そのまま、立ち去ろうとしたので、張嶷が、その手を再びとらえた。

 しっかり向き合ってみると、少年の方が、半尺ほど背が高い。張嶷は、ちょっと小首をかしげ、見上げるようにしながら言った。

「ホントにありがとう。名前は、何? 僕の名は張嶷。字は伯岐というの」

 蘭は、二人の様子を見て、胸がうずき、心が曇るのを感じた。それは嫉妬の醜さからだけではなかった。張嶷に手を取られて、あどけなくはにかんでいる少年の背後に広がる、初夏の田園の美しい景色が、一瞬だけ、全て灰色に色を奪われて、羅壁よりも高く積み上げられた人の死骸の山の幻視に、代わって見えたのだ。

 少年は、しばらく考えている風だったが、やがて短く答えた。

「性は姜。名は維。字は伯約」

→ 花武担 第三章 四聖(一)

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花武担 第三章 姜維(八)

 一刻も小城にいると、三人ともさすがに人酔いしてきて、人波がまだましな長順橋の草市の方に行こうということになった。

 長順橋は小城を西に出、さらに成都の外郭を囲う羅壁に穿たれた下西門を抜けた先にある。

 下西門を出ると、景色が一気に広がり、窓を開けて新鮮な風を胸に入れたような心地になった。

 豊かに澄んで光る岷江の流れが見え、その向こうに、初夏の水田の翠が、地平線まで溢れそうに広がっている。田植えの遅早(おそはや)が、濃い淡いの綾をなし、風が吹くたび、若い稲の群れがいっせいに揺れる。女神が透明な手で、大地のビロードを撫でているるような、光と色の、波のうねりだった。

「豊かな土地だな」

 簡雍が思わずつぶやいた。

 今、見えているものこそが、四川盆地でもっとも豊かな、肉で言えば脂身にあたる景色なのだ。

「いい場所でしょう」

 蘭が得意げに言うと、簡雍は少し考えたあと、

「そうだな」

 と言った。

「阿嶷もそう思うでしょう」

「うん」

 張嶷は両手を羽のように広げて元気よく答えた。

「とってもよい場所。僕大好きになっちゃった」

「よし」

 満足そうに蘭はうなずいたが、ふと南の方へ目線を向けてみて、顔をしかめた。

「見て」

 蘭が指差した方を、簡雍と張嶷が追うと、下西門から南へ少し下ったところに、羅壁に沿うようにして、石作りの粗末な家の群れが出来ていた。まだ、作りかけのものも多く、その一角では、肌は白く、手足が蜘蛛のように長い、蜀の人間とは明らかに違う人種の人々が、忙しく石を積み重ねている。

「羌(チァン)だわ」

 背景の水田の翠のみずみずしさもあり、石作りの家は、妙に白っぽく見えた。家の裏手の壁に、シロアリの巣でも見つけたような感じで、蘭は言った。

 羌は、中国西北に広く分布して住む種族で、馬に乗り、羊を追って暮らす遊牧民である。四川という盆の北や西の縁(へり)にあたる、大巴山脈にも住み、ときに平地に雪崩れ込んで、街を襲い、天災のような災害をもたらす。

「天水のやつらではないか」

 簡雍が取りなすように言った。

 失敗に終わった北伐だったが、唯一の成果として、隴西・南安・天水といった土地の男女、数千人を拉致し、蜀や漢中に移住させている。彼らも、その一部なのだろう。

「ふん」

 蘭という、この郷土愛の強い少女は、時に情が勝ち過ぎることもあるのだろう。成都という街のあるべき美観を犯すものは、なんであれ、許せないようだった。

「見苦しい家だわ。羌なんて皆追い出してやったらいいのよ」

 履いている赤い履で、蹴り出してしまいそうな勢いで言った。

 簡雍と張嶷は顔をみあわせ、虎の尾を踏まぬようふっと息をひそめた。

 草市は、小城のような官設の市とは違い、街の郊外で、藪蚊が湧くようにしてたつ、いわばバザーである。店も塼作りの立派なものなどはなく、木作りの屋台様のものか、茣蓙の上に商品を並べただけのものばかりだった。

 雲南からやってきた旅商人のたてた市のため、行き交う人も蛮人が多い。赤銅色の毛脛もあらわな屈強な彝族の男、百合のようにほっそりとした泰族の女性、日に焼けて色黒な氐族、彫が深く茶色の瞳の羯族など、民族の交差路のような態を見せている。

 売られている品は、犀の角や、豹の胎児の干し物、瑠璃の破片を綴った首飾り、翡翠や瑪瑙、芳しい香木や乳香などで、貴州か、そこを経由した身毒の物産が多い。

 もちろん、日常の品も売られている。

「これ買って」

 と、張嶷がせがんだのは、甘蔗(さとうきび)だった。

 簡雍が銭を出し、蘭と張嶷に渡してやると、蘭はすぐに熊猫のように奥歯で先をかみつぶしたが、張嶷は、西瓜の種のように小さな前歯で何とかしようとするものだから、文字通り歯がたたない。

「ちょっと貸しなさい」

 見かねて蘭が張嶷の甘蔗を取ると、石に打ちつけて、ささくれを作ってやった。

「蘭の方がよほど男らしい」

 簡雍はそう言って笑った。

 蘭は怖い顔をして簡雍をにらみつけたが、その袖で、張嶷は大人しくささくれをしゃぶっている。

 草市の文物は珍奇なものが多かったが、やはり、官設の市である小城に比べると、品がやや下がった。市としての長さも、下西門から長順橋の間までと短かい。

 長順橋まで歩ききると、こんなものかと、どこか物足りない気持ちに三人はなった。

 足元には、岷江が流れていて、河面は、初夏の日を吸って、ふっくらとふくらみ、ものうげな波を打ち立たせている。

 まだ初夏だが、気のはやい子供達が、川のなかで水遊びしていた。中原と比べれば、蜀の風俗は鷹揚で、なかには、もう少年や少女といってもいいような年の子もいるが、男や女としての兆しも露わな部分を、別段恥じることもなくむきだしにしている。

「大らかなものだな」

 幽州出身の簡雍はそう笑ったあと、蘭をからかった。

「蘭も混ぜてもらってきたらどうだ? つい二、三年前までは、乳も膨らみだしてたのに、庭池で泳いでいただろうか」

 蘭は顔を真っ赤にして袖で簡雍を打った。

「やぁ、蘭が怒った」

 老人は、年甲斐もなく、大仰な仕草で頭をかばいながら、橋の上を逃げ回る。

 それを追いつつ、蘭は、自分の御転婆に対する、張嶷の反応はどうか心配になって、そっとその顔色を伺った。

「……!」

 常になく、寂しげな顔で張嶷は、川の子供達を見つめていた。

 心にいつも日の照っているような、陰りのない子だが、あのことはやはり、血膿の流れ続ける古傷になっているようで、彼は、今にも泣き出しそうにして、初夏の澄んだ日の下でしなやかに弾む、欠落のない子供達の五体を見ていた。

 簡雍も、はっと張嶷の様子に気づき、二人は真剣な顔で目交ぜしあった。

 何か、気を取り直させるものはないかと、しばらく回りを見渡したが、やがて、

「あれは、馬市ではないか?」

 と、簡雍が目ざとく言った。

 子供達が川遊びしている場所から、少し南に行ったところに、岷江が大きく東にうねって出来た、広い河川敷があって、そこに、二丈ほどの高さの柱が幾本も打ちつけてあった。柱からは四方に紐が伸び、末は地に打ちつけられ、馬が何十頭と繋がれている。

「行くぞ」

 簡雍は、ぼんやりしている張嶷の背中を咳き込むほどに叩くと、先頭にたって河原へと降りていった。

→ 花武担 第三章 姜維(九)


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花武担 第三章 姜維(七)

 街亭での敗報が成都に届いてから、すでに一カ月がたっていた。

 一時期は、哭礼の声が巷にやまず、街全体が潮垂れたようになっていたが、日常の慣性というのは凄いもので、無数の壮夫の死も飲み込んで、また、もとの、肥えた貴婦人が帳の奥で午睡を楽しんでいるような、成都特有の気疎い雰囲気に戻っていた。

 壷のなかの油のようにとろりと温そうな花江の流れを見おろしながら市橋を渡ると、東の大城の豪壮な宮殿群がのしかかるように迫ってくる。玉の垂木頭に飾られた、翠の甍の波の群れはうねりながら、果ては霞むほどに続き、その下では、蜀の誇る文吏たちが灰色の脳を働かせているはずだった。

 それらの宮殿群を右手に見ながら、太学のある区画を過ぎ、さらに半里ほど進むと、宮殿を囲う大城に接して、城壁の高さが半分ほどの、もう一つの小さな城が目の前にあらわれる。

 木で出来たいかにも軽そうな門扉は外側に広々と開けられていて、城壁の上の兵達も、大城のもの達のようには、鋭さがなく、姫垣に腰をかけて、ノンビリ弁当を使っている。

「ここが小城よ」

 蘭は誇らしげに言った。

 門を潜ると、沸き立つ鼎の蓋を急に開けたように、熱気がむんと張嶷の鼻をついた。四方から響く商人と客の取引の声が、鐘のなかにでも入ったように頭を揺らす。成都には珍しい、塼作りの店が軒をつらね、その間を、この地特有の一輪車を推して商品を運ぶ苦力が、縦横に行き来し、轍の綾をつくっている。

「詩に言うのよ」

 蘭はませた胸を張った。

「隧を列ぬること百重、店を羅ぬること巨千って」

 確かに蘭の言う通り、お店の数は千を超えるほどありそうだった。そのどれもが、店頭に山と商品を積み、おやじやおかみが行き交う人の袖をとらえては、やっきになってものを売り込もうとしている。

 売りものは、蜀の特産が多い。真珠を含んだカラス貝や、紐でくくられたスッポン、ヤブミョウガやサソリといった薬材に、広漢の漆園で作られた藍色に輝く漆器、さらには、西域の大夏にまで輸出されるという筇竹があった。

「ご老人、こいつは杖にいいよ」

 その筇竹を売っているおやじが簡雍に声をかけてきた。

 半丈ほどの長さに切って揃えた筇竹を束にしたものにおやじは腰かけていたが、一節、そこから引き抜くと言った。

「ほら、根元の方を叩いてみて。ねっ、普通の竹と違って身をつまってるのが分かるでしょう? それに、この通り、全然しならない」

 おやじは、筇竹を地に突き刺し、両手で握って、体重をかけてみせた。

「弓にはむいてないかもしれないが、物干しや杖にするにはぴったり。価は五銖銭で百でどうです」

 簡雍は親父から竹から受け取ると、自分で叩いてみたり、弓に弦をかけるときのように、しならせてみたりしたが、やがて、むくむくと悪戯心が湧いてきたらしい。

 やにわに「やっ」と竹を空高く放りなげた。

 そして、大刀を抜くと、電光のような速さで、空中で一閃、二閃させた。

 竹は二度、両端を切り落とされながら跳ね上がり、空で回転していたが、やがて、簡雍の足元に、見事に垂直に突き立った。杖には手頃な長さになっている。

 沿道の客達が「おおっ」と歓声をあげると同時に、「ひえっ」とおやじが腰を抜かした。切り落とされた前髪の束が二つ、はらりはらりと地に落ちる。

「気に入った。ほれ、お代だ。釣りはいらん」

 簡雍は、紐でつづった銭を数えもせず、おやじに放り投げると、杖を肩にかついで歩み出した。

「将軍、あんな、乱暴、どうかと思うわ」

 あとに続きながら、蘭が注意する。

「わしを杖がいるほどの年寄りと見よった」

「でも、欲しかったんでしょ?」

 そう、張嶷もかぶせると、

「ものはよかったからな」

 簡雍はまんざらでもなさそうに、二、三度、地に杖をつき、カラカラと笑った。

 小城をさらに進むと、筇竹の筒に収められた苧麻を紙よりも細く編んだ黄潤、華麗に染め上げられ光沢が波のようにうねる蜀錦の山、山椒魚や、ヤツメウナギ、カジキ、鮪、鱒などを入れた瑠璃の水槽、「天府の国」の異名にふさわしい文物が次々とあらわれる。

 老人と少年は、気の向いたものにすぐ引き寄せられていくので、蘭は、じゃれ癖のある小犬を二匹散歩させるときのように、終始、手綱を引き絞らなくてはならなかった。

「あ、あれ、凄いよ」

 少女と誤解した悪少年達にからまれているのを、蘭が襟首つかんで引きはがしたところだったが、張嶷は驚きの声を上げた。

 蘭が張嶷の指差す方を見ると、人だかりの向こうで、火が天高く吹き上がっている。

 簡雍はどこかへ消えてしまっていて、二人、近づいてみると、半裸の男が、大人の腕ほどもある太い竹筒を抱えていた。

 その先から、ちろちろと蛇の舌のような火が出ている。

「火井ね」

 なぁんだという風に蘭が言った。

 いわゆる天然ガスである。

 易経に「沢中火有」とある通り、天然ガスの噴出という現象は、中国では古代から認められていたが、特に四川に多く、この地特有の風物の一つになっていた。なかでも、臨邛県のものが有名で、塩井も伴って湧く場合が多いので、製塩業者が古代から燃料として使用している。

 半裸の男の抱える竹筒の根には、棒の軸が挿入されている。

 別の男がそれを持つと、ぐいと押し出した。

 ボウッ。

 と、再び、竹筒の先から、龍の吐くもののような炎が吹き上がる。

「幾らかな。買って帰ったら、李負が楽になるかも」

「駄目よ」

 蘭は、ちょっと回りを伺ったあと、かがんで張嶷に耳打ちした。

「すぐ気が漏れちゃうの。勢いも安定しないから、炭の方がずっといいわよ。回りをご覧なさい。成都の人は一人もいないでしょう」

 確かに、人だかりをよく見ると、土地のものは少なく、あおぐように背の高い山東の人間や、華奢で眼裂の切れ上がった呉の人間が多いようだった。

「このお店も本当は金物屋なのよ。火井は客引きでやってるだけなのよ」

 言っているうちに、呉人らしいものが、銭を払い、栓をされた竹を受け取った。家で待つ妻への土産にでもするつもりなのだろう。満腹したような顔をしている。

「建業についた頃には、ただの竹の筒ね」

 そう言ったあと、蘭は張嶷に片目をつむってみせた。

 二人はクスクスと笑い合った。

「おーい」

 はぐれていた簡雍が戻ってきた。

「どこへいっていたんだ。迷子になってはいかんだろうが」

「老師、それ……」

 蘭が、呆然として簡雍の持っているものを指差した。

「おお、これか。いい買い物をしたわい。火井もこうやって竹に詰めたら持ち帰れるわけだな。李翁も、李負も喜ぶぞ」

 簡雍は、竹筒を振ってみせた。

「あぁ」

 蘭は頭を抱えてしゃがみこみ、その傍らで張嶷は腹を抱えて明るく笑った。

 ボウッ。

 と、また火井の炎が、空高く吹き上がり、三人の顔を橙色に照らした。

→ 花武担 第三章 姜維(八)

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花武担 第三章 姜維(六)

 学問については、結局、最初蘭が言ったことが正しかったようだった。

 別に体系だった教程や師がなくても、張嶷は、自分で興味を見出したことを、自分なりにやり方を組み立てて、勝手に学んでいく。

 医術は簡雍が強奪してきた書籍を熱心に読み、分からぬことがあれば、溺街にいる医者で、姚子牙というものに聞きに行った。

 姚子牙は、節だらけの樫の木の柱にぐるりと巻き付けた葦簀が、壁でもあれば、屋根でもあるという、犬も嫌がるような家に住み、昼間から酒臭い息をはき、お代も酒でしか受け取らないという人物だが、見立ても投薬も確かで、溺街のものは、妓楼の妓女も含め、何かあればこのものを頼った。時折、張嶷は、教えに請うついでに、処方の手伝いなどもさせられる。

 その際、姚子牙は、薬草や硝石をくべて、怪しげな赤色や緑色の煙の立ちこめる掘っ立て小屋のなかで、

「本当に医者になる気なら、いつでも来い。お前は筋がいい。これだけで食べていけるよう仕込んでやる」

 と言うのが常だった。

 算学の方も暇さえあれば、例の帳面を開き、様々な図形と数値を書き込んでいる。簡雍にも、蘭にもまったく理解できない世界だが、新しく手に入れた周髀についても、どんどん読み進めていっているらしく、帳面に書き込まれる図は、日を負う事に複雑になり、呪詛の文様のようにも見えるようになってきた。

 概して、張嶷という少年は、発明や規矩のことが好きで、政治学である経学には興味の行きにくい性格をしているようだった。

 学問の本道から逸れることになるのだが、簡雍も、太学の一件以来、それも無理がないと思うようになっていた。

 何せ、経学を学ぼうとすると、栗も言っていたように、その階梯の第一歩で自分を否定する文言が出てくるのである。もともと知的好奇心の強い子だが、これでは興味が失せてしまうのも仕方がない。

 簡雍は、これだけは自分も一家言を持つ、春秋経を手ずから講義してやることで、経学を学ばせる代わりとした。思弁に思弁を重ね、宙に空論を追うような他の経と違い、春秋は歴史書のため、古代の人間がどう生きて、どう死んだかが、具体的に書かれている。戦闘描写も秀逸なため、軍記物として読むことも出来、市井の哥哥(あんちゃん)でも、愛読して、一席打てるいるというものも案外多いのだった。

 呉の呂蒙も、孫権に学ぶよう促されて、最初に手に取った書籍が春秋経だった。

 ただ、学問の方はそれでいいかもしれないが、このままでは学友というものに巡り会うことが出来ない。

 人なつっこい子だが、溺街の同年代の少年達は、どうもその美貌に気後れするらしく、なかなか打ち解けてくれないようだった。

 もちろん、蘭は善良なうえ聡明な少女だが、鉄は鉄で打てばこそ鍛えることが出来る。

(同年代でよい男友達が出来ないものか)

 簡雍が、そう考えているときに、蘭が、成都西北の長順橋の当たりに、草市がたっているという話を持ってきた。

「羌族や、南蛮族の行商人がやって来て、色々珍しい物を売っているらしいわ。ちょうど小城も通るし、そこも冷やかしながら、遊びに行ってみましょう」

「小城って何?」

 この日、簡雍は朝から、関節痛が出て、張嶷に按摩をしてもらっているところだった。こわばりは強く、張嶷程度の手の力では歯が立たない。それで、張嶷は、寝そべった簡雍の上に足で乗り、背中の痛みを踏みつけて、追い出そうとしていた。

 蘭はいつもより高いところにある張嶷の顔を見ながら答えた。

「小城は、市橋を渡って北に半里くらいの場所にあるのよ。大城とは西に接して、別の城壁に囲まれてて、たくさんのお店が入っているの」

「面白そう」

 張嶷が思わず背中で飛び跳ねたものだから、簡雍は短く悲鳴をあげた。

「おいっ、もっと老人は大事にせい」

「ごめんなさい」

 慌てて張嶷は、簡雍の背中から床に直接飛び降りた。その弾みで、また、簡雍が「グゥッ」と蛙が踏まれたような声をあげる。

「ねぇ、二人で行って来ていいでしょ?」

 簡雍の許可を仰ぎつつ、もう蘭はその気なようで、細かい襞がさざ波のように光る、お気に入りの蜀錦の裙を穿き、頬にうっすらと紅を刷いていた。市場は、娘にとって、女を誇るいわば戦場なのだ。

「好、好」

 枕に突っ伏しながら、簡雍は言った。

「よかった、じゃぁ、行きましょう」

 蘭が、張嶷の手を取ろうとしたところで、

「いや、わしも行く」

 がばっと簡雍は起き上がった。額に、玉のような汗が、無数に浮き上がり、麻の襦の背中がびっしょりと濡れている。

「えっ、リュウマチなんでしょ? やめておきなさいよ」

 蘭は張嶷と行きたいわけで、老人のことがうるさい。

 しかし、簡雍は、のぼせたような顔を、白布でごしごしこすりながら、

「いや、嶷のおかげですっかり楽になった。あの薮が褒めておったが、案外空言でもないようだな。悪い汗が皆抜けたみたいだ」

「ありがとう」

 張嶷は嬉しそうに言うと、黄帝内経を取り出し、経穴の頁に書き込みをくわえた。

 一方、蘭は面白くない。

「すぐぶり返すかも」

「何を言う。ほら、腕もこの通りだ 」

「結構歩くわよ」

「はは、泰山だって一またぎだ」

 簡雍は立ち上がると、壁に掛けていた片刃で幅広の山賊が持ちそうな佩刀を取り上げた。そして、鞘から抜くと、部屋の中で、風が起こるほどに振り回し、激剣の型も幾つか見せ、最後に役者のような見栄をきった。

「な、達者なもんだろう。子供だけで銭を持って歩くなど危ない、危ない。わしも行く」

 要は自分も行ってみたいのである。面白がりの性格は七十になっても変わらない。

 張嶷は、蘭の気圧が低くなってきたのを目ざとく読むと、素早く、二人の間に身を差し入れ、両人の手を取った。

「じゃぁ、三人で行こう。友連れは多い方がきっと楽しいよ」

→ 花武担 第三章 姜維(七)

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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