魏延文長 知られざる守護者(2)

◆劉備の死

219年、劉備は漢中王となり、その領土も旧国名の区分でいうと巴蜀に漢中、さらに楚を兼ねるという広大のものとなりました。人材も、帷幄で策を練る謀臣に孔明、法正、黄権、馬良、李厳、劉巴、爪牙となる猛将に関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠、そして魏延と、粒ぞろい。まさに人生絶頂のときでしたが、その栄華も長くは続きませんでした。

はやくも翌220年、関羽が魏へと侵攻し、一時は曹操に遷都を考えさせるほど勢いも盛んだったのですが、同盟を組んでいた呉の裏切りよって敗北します。関羽はなんとか義兄のいる蜀へ逃げ延びようとしたのですが、麦城で呉軍に補足され、万夫不当を謳われた豪傑もあえない最後を遂げました。

激怒した劉備は復仇の軍を起こします。しかし、これも出立まえから宿将趙雲の大反対にはあうし、軍の要だった張飛は事故のような感じで部下から殺されるしで、ケチ続き。

当初こそ快進撃でしたが、結局呉のダークホース陸遜が登用されると、その勢いも止まり、結局夷陵で敗れます。殲滅といっていいもいいような被害でした。蜀は軍需物資並びに、何よりも貴重な次代を担う中堅の指揮官を失いました。

命からがら逃げ延びた失意の劉備は白帝城で寂しく亡くなります。代わって台頭してくるのが孔明です。この頃には、魏延を可愛がってくれた叩き上げの猛将達、関羽、張飛、黄忠は既に亡くなっており、残るは趙雲ばかりになっていました。

◆孔明との関係

北伐開始前の孔明と魏延の関係はよくわかっていません。しかし幹部同士ですし、派閥としては同じ荊州閥に属しますから、まさかまったくの没交渉ということはなかったと思います。

百九十二センチという大リーガーみたいな体躯、山東人らしい精悍で秀でた容姿、優れた弁舌と頭脳、先祖には司隷校尉、今で言う首都知事みたいな役職をつとめた諸葛豊もいる孔明は、魏延から見れば世のなかのど真ん中の道を堂々と歩んでいける、まばゆいような名士でした。

ただ、孔明は名士でありながら、関羽や張飛といった叩き上げの庶民上がりの武将ともフランクに付き合えた人ですし、もし魏延が新野時代から劉備に臣従していたとすれば、広い意味での同期ということになります。年も似通ってますから、案外若いころは棒組になって飲み歩いた仲良しだったかもしれません。

孔明が劉備から跡を託されたと聞いても魏延は、

「まぁ順当なとこかな」

くらいのもので、反発も感じなかったでしょう。

◆初めての対立

しかし、北伐がはじまり、孔明が丞相府を漢中に移すと、徐々に二人の関係はギクシャクしだします。

まず魏延は漢中太守から外されました。これは孔明が直接軍事基地としての漢中を運営するための施策でやむを得ないことではあるのですが、それまで掌中の玉のようにして守り育ててきた漢中を辞令一本で取り上げられた、魏延の無念は察してあまりあるものがあります。。

ただ、その代わりに督前部(前線部隊司令)、丞相司馬、涼州刺史に任命されました。丞相府の軍事の統括と、主に戦場になるであろう涼州の行政長官ですから、これはかなりの出世です。やはり孔明にとっても、政戦両方まかせることのできる魏延は頼みとする存在だったのでしょう。臍を曲げられないよう、色々と気を使ったようでした。

孔明との長いつきあいの魏延もその辺りの人事の機微は理解できたはずなので、任免についてはまぁなんとか飲み下したのではないでしょうか。

しかし、最初の決定的なすれ違いは第一次北伐まえの軍議の席で起こります。ここで魏延は、後年、「子午谷の奇謀」として知られる長駆急襲策を提案します。

魏略によれば、その内容は、

「精鋭五千と兵糧五千石をお貸しください。子午谷を通って長安まで十日で踏破してみせます。長安の守将、夏侯楙は曹操の婿というだけの青二才ですから、私があらわれたら必ず逃げ出すでしょう。あとは御史と京兆太守がいるだけですので、長安横門の食料貯蔵庫と逃散した民衆の穀物とで軍糧は十分にまかなえます。魏が軍勢を集めるには二十日はかかるでしょうから、公は斜谷を通っておいでになるには、十分に余裕があるに違いがありません。こうすれば、一度の行動で咸陽以西を平定することが出来ましょう」

というものです。魏延は先述の通り、漢中太守時代、防衛網を構築するために秦嶺山脈を駆け巡っていました。その間、魏の関中方面の情報も収集していたはずで、そのなかで、案外、守りが手薄になっているという感触をつかんでいたのでしょう。

三国の勢力圏を示した白地図を見ると、線引きされた領土内はどこでも同じ影響力を持っているように見えますが、実は地方によって濃淡はかなり異なります。魏はその国名が表すとおり、洛陽や許昌、?など、黄河中流域の諸都市を中心にした国で関中は遠い外地でした。

当時、魏の蜀への印象は「劉備が頑張っているだけで、それも死んだから、そのうちに降伏してくるだろう」というものでしたから、案外、強行していたら成功したかもしれません。

しかし、残念ながらこの策は取り上げられませんでした。

一つには全滅か大成功かというイチかバチかのかなり危険性の高い作戦だったということがあります。もう一つは、長安という重要都市をとってしまった場合、この戦争の規模がどれほどのものになるか読み切れなくなるということがあったように思います。

孔明の頭のなかには、この戦争の範囲と規模に対して明確な枠組みがあったようです。

実は、孔明の北伐の目的は本当に魏を倒してしまうというより、益州と経済的な結びつきの強い、へい州・涼州を攻略するということへの比重の方が高かったのです。

北伐を文字通りの字義、漢王朝再興のための聖戦として捉える魏延と、蜀という国の経済を安定させるための施策として捉える孔明とでは、そもそも考えの立脚点がまるで違うのでした。

孔明は「五千の兵員の命を掛け物にする危険な策だね。安全を保って平坦な道を取り、無理をせず朧右を奪うべきだ。その方が万全の必勝策で危険がなくてよいだろう」と、北伐の真の目的をかすかに匂わせながら魏延の策を却下しました。

しかし、魏延にはこの辺りの考えのずれがよく理解できなかったのでしょう。漢中を取り上げられた上に、長年練ってきた作戦を無視された、そんな恨みだけが残りました。

◆第一次北伐から第三次北伐まで

結局、魏エンの策を無視して実行された第一次北伐は、孔明の一番弟子馬謖の信じられないようなポカミスで失敗に終わります。

健在なことを示すためにすぐ第二次北伐が実行されるのですが、こちらも孔明の出方を完全に読み切っていた曹真が作った陳倉城とその主将カク昭のために行く手を阻まれ、撤退の最中に突出して追撃してたき王双を切る程度の戦果で終わります。

北伐を続けてもなかなか成果につながらない年月が続き、この頃は魏延もやきもきしていたと思います。

しかし、二二九年、陳式という部将単独で行われた第三次北伐では、迎撃に出た郭淮も追い払い、武都・陰平の二郡を占領することに成功します。この直前、魏は蜀の官吏すべてに向けて降伏勧告の声明を発表していますから、その向こう面を張り倒すような壮挙でした。

当然メンツを潰された魏からは強力な仕返しが待っているはずでした。

当時、魏の蜀方面の戦線を担当していた将軍は、曹真、張コウ、そして司馬懿と、当代第一級の面々ばかり。魏はそのすべてのカードを切って、漢中に押し寄せてくることが予想されました。

どう防衛するか?

それを決める軍議の席で、孔明と魏延の意見は再び対立します。そして、この軍議の場で、蜀の滅亡に至る階梯の第一歩を踏む決定がなされてしまうのでした。

◆漢・楽二城

軍議に向かう道すがら魏延の足取りはいつになく軽いものでした。いよいよ、自分が構築した防衛網の真価が問われる日が来ようとしているのです。脇には、秦嶺山脈に蜘蛛の巣のように張り巡らされた諸陣営の地図が抱えられています。何十年も取りかかっていた傑作のお披露目会に向かう芸術家のように魏延の胸は高鳴っていました。

しかし、軍議の場で、孔明か、あるいは丞相府の参謀の誰かからいきなり切り出された発言は、耳を疑うようなことでした。

「来るべき魏の侵略に備え、漢中盆地内に新しく、漢・楽という二つの防衛用の城を構えようと思う」

魏延は唖然としたはずです。法正が図案を引き、自分の作った防衛網の堅固さは魏延自身がよく知っていました。

たとえ魏が、切りうる最良のカード、曹真、張コウ、司馬懿の三枚を同時に切ってきたとしても(実際にそうなるのですが)おさおさ破られるものではないと確信していたのです。

それが何故、先述の防衛思想「衝立をいくつも立てて、敵を通せんぼするよ」を
否定するような城を立てるのか?

怒りをこらえつつ、魏エンは軍議の席で、孔明側の席に座る白面の選良達に城を建設する目的を聞きました。するとしれっとした顔でおそらく楊儀辺りが返してきた答えはこうでした。

「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、新しく漢中盆地内に築城する二城に兵を集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊し撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう」

実は、上記は、正史姜維伝からの姜維の発言を一部変えただけで、ほぼそのままのものです。姜維の発言はかなり後年になってからのものですが、この時期、既に姜維は孔明の秘蔵っ子でしたから、漢・楽二城がどのような防衛思想の下に作られたものであるかを示したものと思ってよいかと思います。

それはすごくかいつまんで言うと下記のようになります。

「それじゃ手柄立てられないじゃん。衝立は後ろに下げて敵を麓に引き込んで殲滅しようよ」

◆魏延の怒り

魏延は赫怒しました。魏延にとって漢中とそれを守る防衛網は自分の全精力をささげた作品のようなものでした。また、曹操は漢中は放棄する際、住民の多くを拉致しています。そのため、ほぼ空になってしまった漢中に益州や荊州の住民、もしく羌族といった異民族達を移住させ、土地に馴染むよう慰撫する仕事も魏延はしてきたはずです。

それを血まみれの戦場にする?

しかも、五千の兵卒の命を掛け物にするのかと、自分の作戦を否定した連中がそれを言ってきたのですから、怒りはひとしおでした。

魏延は二城建設に対して絶対反対の立場を取りました。後々の顛末を考えると、魏延だけでなく、蜀の武官のなかで戦上手ということに関しては魏延と双璧だった王平も反対の論陣を張ったでしょう。ただ、こちらは板楯蛮出身で漢語があまり得意ではないため、ぼそぼそと「わ、わたしも反対……」程度を呟くだけで、あまり頼りにはならないのでした。

そのため軍議の席では魏延だけが必死に発言することになりました。その席で魏延は、向こう側の席に座る面々を見て、「なんなんだ、こいつら?」という感覚を覚えたでしょう。

第一次北伐が終わった直後に趙雲も死んでいますから、いつのまにかたたき上げの武将は魏延だけになっていました。身一つで乱世を駆け巡った庶あがりの豪傑たちが去ったあとの空席は、皆名士あがりの武将や文官がうめていきます。例えば、先祖に三公を出した家柄の張翼や、光武帝の元勲の子孫である鄧芝といった面々です。孔明直属の文官である蒋?や費?、楊儀なども、皆代々官僚を輩出してきた家柄でした。

溌剌とした壮士集団であったはずの劉備軍は、いつの間にか冷たい選良たちの指揮する組織に変わってしまっていたのでした。

「ここはどこだ?」

いくら意見を主張しても、いっこうに響かない場の冷ややかさに、魏延はそう感じる瞬間も多かったのではないでしょうか。

そんな軍議の様子を末席で澄まし顔で見守っている若者がいました。白皙の薄く透き通った肌に、ほんのりと桜色の血がのぼり、唇はあくまで紅く、髪は濡れ羽ガラスのように艶やかな、一見少女のようにも見える若武者です。

彼の名は姜維といって、出身は羌族ですが、代々学問を好み、地方官を輩出してきた家柄の出でした。彼は武芸のみならず、学問とくに儒学を好み、しかも蜀に自分の栄達のチャンスがあると見ると、母親を弊履のように棄てて寝返ってきたという珍種としかいいようのない若者でした。彼は劉備など一度も見たことがありません。そんな世代も蜀に加わるような時代になっていました。

魏延文長 知られざる守護者(1)

小学校六年のとき初めて三国志という物語に出会って以来、気になって気になって仕方がない武将がいます。

その名は魏延。

大体、三国志というか、中国古典小説の登場人物というのは、良い人間はあくまで良く、悪い人間はあくまで悪い。一色で塗られた書き割りのような人格の持ち主ばかりなのですが、孔明に対し逆らったり、文句を言ったりしながらも、命懸けの奮戦も見せれば、「丞相の蝋燭消しちゃった」と時に殊勝な態度も見せる魏延は、ちゃんと屈折と奥行がある、いわば近代的自我を感じさせる唯一のキャラクターでした。

まぁ、当時からはゆまはひねくれものだったので、同じくひねくれものの魏延に共感したということもあるでしょうが……

そもそも大体初対面で「こいつ人相悪いから斬っちゃいましょう」とか言われたら、誰だってひねくれちゃいますよね。

で、魏延は日本ではその不器用な生き方に共感する人も多く割と人気があるんですが、中国ではまじで嫌われています。毛沢東から裏切り者の比喩として使われたこともありますし、お墓も壊されちゃって、今はその上を鉄道が通っているほどです。

生前は主に孔明のせいで、死後も主に孔明のせいで踏んだり蹴ったりの人ですが、正史に記述に基づいてちょっと弁護を、特に漢中防衛ラインの構築という面で、していこうと思います。

◆生い立ち

魏延は荊州義陽郡出身の人です。春秋戦国の区分で言うと楚、現在で言うと湖北省と河南省の境あたりで、今でも激情家で無鉄砲な人が多いと言われる土地です。また、光武帝を輩出した南陽郡の近くで、いわば後漢王朝の故地でもあります。そんな風土が、向こう気の強く、同時に後漢王朝に強いこだわりを持つ彼の気質を形作っていったのでしょう。

出生年についてはよく分かっていません。言動から判断すると、孔明と同世代か、それよりも五、六歳下くらいでしょうか。いずれにせよ、劉備や関羽の世代とは親子ほども年は離れていたようです。

出自も詳細は不明なのですが、そんなに高くはなかったでしょう。後に、魏延は悲劇的な死を遂げますが、その際ライバルの楊儀が首を踏みつけ「傭奴」(奴隷野郎め)と罵っています。まさか奴隷ではなかったと思いますが、精々が小規模の自営農家くらいの家柄でしょうか。

◆雄飛

魏延が史料にはっきりあらわれてくるのは入蜀の戦いからです。身分は既に部隊長でした。一兵卒でないところを見ると、魏延の産まれ育った義陽郡は新野のすぐ近くですから、劉備が劉表の客将だった頃には既に臣従していた可能性があります。

いずれにせよ魏延は入蜀の戦いでたびたび戦功をあげ、牙門将に任じられました。

推測ですが庶民出身で、向こう気の強い魏延は同じような境遇の古株の将軍、関羽や張飛や趙雲や黄忠達から可愛がられていた可能性があります。素寒貧だった劉備軍もこの頃になると孔明をはじめとする名士層の武将や文官が増えてきて、彼らたたき上げもときに浮き上がってしまうことが多くなっていました。そんななか、かつての自分達と同じく何の背景もなく身一つで奮闘する息子ほどの年の若武者は可愛くて仕方なかったかもしれません。

魏延もそうした先輩達からの期待に素直に答えるいわゆるいいやつだったのでしょう。少なくともこの頃は小説のネタになるようなひねくれた一面など微塵も感じられません。

やがて張魯をくだした曹操と漢中を巡っての争いがはじまります。正史に詳細は書かれていませんが、魏延は張飛か黄忠の麾下で大活躍したようです。その働きぶりをじっと見ているものがいました。

漢中争奪戦の作戦を主導した法正と主君劉備です。二人は先輩達と張り合いながら、むきになって仕事する新進気鋭の将軍に、それまでのたたき上げの武将とは違う側面を見出したようでした。

漢中争奪戦は、黄忠が夏侯淵を斬り、さらに曹操もまた陣地を固く守る劉備に手を焼いて、鶏肋という言葉を残して去ったことにより劉備陣営が勝利をおさめました。漢中は劉備が初めて曹操を破って手に入れた土地になりました。漢中は東に肥った頭を西に細い尾を向けたなまこ型の盆地です。南西の益州盆地を守る要衝の地であるとともに、来るべき北伐の際には関中侵攻の策源地となる重要な場所でした。

もう一つの重要拠点、荊州は関羽が守っていましたから、漢中太守は張飛がつとめるものと皆が思い、本人もそう思っていました。しかし、劉備が漢中王になったとき、多くの下馬評を裏切って漢中太守を任命されたのは魏延でした。一軍皆驚きましたが、任命にあたって劉備が「今君に重任をゆだねるのだが、君は任にあたってどう考えているのか」と抱負を聞くと、魏延は胸を張って「もしも曹操が天下の兵をこぞって押し寄せてきたならば、大王のためにこれを防ぐ所存。副将率いる十万の軍勢が来るならば、大王のためにこれを呑み込む所存です」と答えました。人々はみなこの言葉を見事と思い、劉備もよきかなと満足したそうです。

この辺りの劉備の期待と、魏延のそれに報いようとする一途さは、父子関係に近いものを感じさせるところがあります。
督漢中、鎮遠将軍、漢中太守、堂々たる役職をもらった魏延は、このとき三十代半ばほど、最も体力・気力ともに充実する壮年の季節でありました。

◆漢中防衛網

魏延が漢中太守時代にした仕事で最も重要なのは防衛網の構築でした。

青写真は性格は最低だったが、軍才は最高だったもう一人の天才軍師法正が描いたもののようです。

先にも述べたとおり、漢中は南西の益州盆地を守る要衝の地です。関中から出発した軍は蜀を攻めるには必ずこの土地を通らねばならないのですが、そのためにはまず標高平均二千~三千メートルの秦嶺山脈を越える必要がありました。この山脈自体が天然の長城のようなもので、強力な防壁になっているのですが、河川に削られて出来た自然道など、所々に綻びが見られます。

そして、一旦敵を漢中盆地に入れてしまうと、防衛することは難しいということを法正は経験上痛いほど知っていました。

そこで、法正はこうした綻びに、交錯した複数の陣営、いわば縦深陣を構え、敵が漢中盆地に雪崩れ込む前に通せんぼしてしまおうとしました。敵はこの複雑に入り組んだ陣営に入ると、腹背に攻撃を受け突破する前に痩せ枯れるか、嫌になって撤退するかどちらかしかありません。

人間としてはクズでしたが(しつこい)、こと戦争に関してなら天使だった法正らしい防御網でしたが、惜しいことに彼は漢中争奪戦の決着のついた翌年には死んでしまいます。そのため、実務のほとんどは魏延が行いました。

元々、建物を作るとか、堤防を作るとか、道を作るとかいったふうな、大地に壮大な跡を残す工事はやり出したら止まらない、蠱惑的な魅力があるようです。それは何故か山の稜線に築かれている万里の長城を見ても、土木マニアと称される皇帝が幾つも生まれていることからも、分かる通りです。

魏延もこの仕事を壮年期の精力をかけて夢中になってやりました。

できばえは見事なものだったようで、魏延が構築した防衛網は蜀が滅びるそのギリギリのときまで有効に機能しつづけます。というより、この防衛網を自から外してしまったとき、蜀滅亡のカウントダウンは始まったのでした。

重要なのでもう一度、めちゃくちゃにかいつまんで法正が企画し、魏延が構築した防衛網のことを説明すると下記になります。

「衝立を幾つも作って山の中で敵を通せんぼするよ。敵は決して麓には降りさせないよ」

スケープゴートとしての平家

古代ローマで共和制・帝政を通じて行われてきたお祭りに「王の放逐」(Regifugium)というものがあります。王制最後の王「傲慢なタルクィニウス」の追放を擬したと言われる一種の儀式的な競走ですが、その起源を遡ると、かつては本当に王が参加して他の参加者と競走していたようです。このお祭りで王様は走力が抜群であることを見せつけ、自分の肉体的な強さを誇示するという、いわばマウンティングの儀式でした。

もし、王様が負けちゃったら?

その場合、王様は肉体的・霊的力が弱まったものとして殺され、王権は王様に勝った者に譲り渡されます。

奇妙な話のようですが、実は王を殺したり、一定の年限がくると退位させる風習は、世界各地の古代社会で見られることでした。古代南インドでは王は在位十二年後に犠牲に供されましたし、古代スウェーデンの王も任期の九年を過ぎると殺される宿命でした。

日本でも有名な卑弥呼の死期は皆既日食の時期と被っていて、太陽の死と共に民衆に殺されたのでは?という説があります。また、古代中国で殷を創始した湯王は日照りの際に、積み上げた薪の上に座り、自分の身を焼いて雨を降らせようとしました。湯王の場合は儀式の途中で雨が降ったので助かりましたが、古代中国では本当に王が焼き殺される例もたくさんあったのだと思います

王様が祭祀王でもあった時代、力の弱くなったり、干魃などの災害を招いた王様は「祟り」をもたらすものとして殺されるのが一般的でした。

しかし、時代が下るつれこうした慣例は段々抽象化・儀式化されてきて、冒頭の「王の放逐」のような象徴的なお祭りになるか、あるいは身替わりのものが殺されようになりました。バビロニアでは毎年五日間の年次祭の時は死刑囚に王衣を着せ、王様の身替わりをさせたそうです。その間彼は王様同様に大事にされ、後宮の女と寝ることさえ許されるのですが、夢のようなひとときが過ぎると、鞭打たれたあげくに縄で吊されるか槍で突かれるかして殺されるのでした。

さて、タイトルの平家の件ですが、どうもはゆまには平家のあっという間の栄達と没落が、このバビロニアのスケープゴートと重なるのです。

平安末期それまで日本を支配してきた公家社会は、明らかに統治者としての能力を失っていました。奈良時代の貴族は体が頑健で気宇も大きいものが多いのですが、平安時代の貴族は仏教・神道両方の禁忌に心身ともに絡め取られ、体は不健康で小さくなり、まともな政治を行う力も意志も無くしてしまっていました。代わりに台頭してくるのが武士です。繁田信一氏の「殴り合う貴族達」という本には、平安末期の情けない貴族と、それとは対照的な凛とした武士の姿という構図を示す象徴的なエピソードが紹介されています。

治安三年(1013年)後一条天皇の時代のことですが、天皇の寝所の清涼殿を二人の若者が無断侵入した上に、派手な暴力沙汰を起こすという事件が発生します。二人の若者は、少将と称される内裏女房の息子で、母親を迎えに来ようとして、清涼殿に無断侵入したのでした。このとき、藤原永職という蔵人が二人を見とがめ誰何します。しかし、逆に二人から大声で威嚇されて怯み、警護の武士を呼びに行きます。無断侵入した二人も二人なら、怒鳴られた程度で怯んでしまう永職も永職です。

それで藤原友良という武士が駆けつけてくることになるのですが、こちらは見事な手並みで二人のうち一人をたちまちのうちに取り押さえます。しかし、さすがに二人同時というのは難しかったらしく、一人は取り逃してしまいます。友良は、まずは捕らえたものの身柄を確保して、ということで若者の一人を柱に縛り付けはじめるのですが、その間に一度は逃げたはずのもう一人が兄弟を助けようと舞い戻ってきました。手には抜き身の刀が握られています。この馬鹿者はあろうことか宮中で抜刀したのです。

しかし、凶器を持っても所詮公家は公家です。友良は取り押さえた方を柱に抑えつけつつ、空いた手の方でもう一人のくせ者を白刃をものともせず取り押さえてまいます。そのうちに、他の武士達も駆けつけ、二人のくせ者は柱に縛り付けられます。これにて一件落着のはずでしたが、この期におよんで馬鹿息子二人の母親少将が現場に駆けつけます。そして息子達の無断侵入と抜刀の罪を棚に上げて、二人を逮捕した武士達をさんざんに罵倒したのでした。

この話には後日談があります。これほどの騒ぎを起こしながら少将の二人の息子は母親の七光りで罰せられることはありませんでした。それを僥倖と思えばよいのに、そう思わないのが、甘やかされ思い上がった人間というもの。彼らは初めに自分達を誰何したあの臆病者の蔵人藤原永職を逆恨みし復讐することにしたのです。自分達を直接取り押さえた藤原友良を標的にしなかったのは、とても叶わないという思いがあったからなのでしょう。

で、二人の息子の内一人が再び宮中で抜刀し永職に斬りかかりました。しかし、これまた幸いに、側に永職の同僚で検非違使でもあった平孝成という武士がいたため事なきを得ます。孝成は、弓で息子の胸をつき、突き転ばして簡単に取り押さえてしまったのでした。

少将の馬鹿息子二人に比べて、藤原友良、平孝成、二人の武士の立ち居振る舞いの見事なことといったありません。また、二人は貴族を取り押さえる際に、貴族の繊弱な体というものを知ってしまったはずです。「こいつらは弱いし、その気になったら簡単に殺せる」ということを肉体的に実感したはずでした。その上で、友良などは少将に罵倒されているのですが、そのとき全身を駆け巡った血も凍るような怒りというのはどれほどのものだったでしょう。

恐らくこうした類似の事件は数限りなく起こっていて、その度に武士は貴族を舐めるようになっていき、次代の政権を担うものとしての自信をつけていったのだと思います。

ただ、武士に対する世間の目というのは複雑な面もあり、平治の乱の際、藤原信西を討ち取った武士の行列を見物する群衆は彼らに対しえんがちょを切っています。また、平家は平正盛以降時代の寵児として貴族社会に深く関わっていき、最後にはその大手道を歩くようになりますが、京都での本拠地は六波羅のままでした。

六波羅は洛中の東の外れにあり、京都の住民の葬地でもある鳥辺野の入り口にあたります。腐りかけの死骸が転がり、時に間引きのための捨て子の泣き声響く、障り多い場所です。平清盛は太政大臣になり、また娘・徳子を高倉天皇に入内させるなど栄華を極めますが、結局のところ厳密な意味ではあの洛中の碁盤の目に足一本踏み入れることが出来ませんでした。

公家社会には「位打ち」という言葉があります。位をどんどん高めることで、その人物の精神の平衡を奪い人格をつぶしてしまうことを差すが、はゆまにはこれとバビロニアの死刑囚に着させられた王衣が重なります。

政権担当者としての能力は失った公家ですが、権威者としては生き残るために、王たる者達が最後に果たすべきこと、薪の上に座って焼き殺されること、あるいは縄で吊されること、はたまた槍で突き殺されることを、全部平家に押しつけたのでした。平家は公家社会の最後の最後に登場し、ほんのわずかな一瞬貴族にしてもらったというだけで、それまでの矛盾と憎しみを一身に背負うことになったのです。

寿永四年(1185年)源義経が壇ノ浦で勝利し、平家は一族から出した念願の天皇、安徳天皇も含め全てが海の底へと沈み絶滅します。一方の公家社会はしぶとく生き残りますが、日本人の心に強く焼き付けられたのは、真の意味で貴族的だった平知盛、平重衝、平維盛ら、平家の公達達の美しい夕陽の最後の残照にも似た滅び行く様だったのでした。

高い城の男

高い城の男読了。

映画「ブレードランナー」の原作になった「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の著者、フィリップ・K・ディックの最高傑作ということで、最初身構えていた部分もあったのだが、普通に面白く読むことができた。

本作は、第二次世界大戦で日本とドイツが勝利し分割支配されているアメリカが舞台だ。大雑把に言うとニューヨークをはじめとする東海岸がドイツ、サンフランシスコ・シアトルなどの西海岸が日本領域になっている。

で、はゆまはSFものでアメリカ人の書いた作品だから、きっと圧政にあえぐアメリカ人がとてつもない科学兵器かなにかを発明し、ドイツと日本をやっつける話だと思っていた。

だが、そうではなかった。作中のアメリカ人は、ささやかな反発を覚えながらも、異民族からの支配という現実を「まぁ、ほどほど」という感じで受け入れ、その上で生活をよりよくしようとする、ある意味、良心的で優しい人たちだ。

これは、支配者側の主要人物、日本人たちもそうで、ちょっとアメリカ人を見下したところもあるが、皆概ね礼儀正しく、サディスティックな憲兵的権力を行使するような人は一人もいない。それどころか、あとがきによると、この作品で一番ディックの書きたかったヒーローは、ドイツとの関係に汲々と気を遣いながら、最後の最後でヤクザ映画の高倉健を思わせる大立ち回りをし、ユダヤ人をお前たちなんかに引き渡せないとドイツ人相手にたんかを切る田上らしい。

この作品は確かに歴史改変された世界を舞台にしているという意味では、SFなんだけど、普通のSFのようなとんでもない大破壊とか、あるいは逆の唐突な救済みたいなことは起こらない。強いていえば、作品の後半になって暴かれるドイツが日本を核攻撃しようとする計画、たんぽぽ計画くらいだけど、これも結局止められたのか、止められなかったのか曖昧なまま、田上の奮戦と倒れるまでを描いただけで終わる。

ディックは何を書きたかったのかなぁと色々考えてみたが、これは結局、運命に巻き込まれる側の人たち、つまり歴史の大きなうねりのなかで、否応なく敗者になったり、あるいは否応なく勝者になったりする、私たち大部分の身の処し方を書いた作品なのだ。運命に対する無力さということを強調するために、おそらく主要人物は皆、易に自分の未来を委ねようとしているのだろう。

一方、それらと対照的なのが、ドイツ人。やけに好意的に描かれる日本人に対し、ドイツ人は作中コテンパンに極悪人として書かれているのだが、そのドイツ人、特に指導者層のメンタリティを評してバイネスはこういう。

「彼らの観点――それは宇宙的だ。ここにいる一人の人間や、あそこにいる一人の子供は目に入らない。それは一つの抽象的観念だ――民族、国土。フォルク、ラント。血。名誉。りっぱな人々に備わった名誉ではなく、名誉そのもの。栄光。抽象的観念が現実であり、実在するものは彼等には見えない。善はあっても、善人たちとか、この善人とかはない。時空の観念もそうだ。彼らはここ、この現在を通して、その彼方にある巨大な黒い深淵、不変のものを見ている。それが生命にとっては破滅的なのだ…彼らは歴史の犠牲者ではなく、歴史の手先になりたいのだ。彼らは自分の力を神の力になぞらえ、自分達を神に似た存在と考えている」

作中のドイツ人だけでなく、歴史のなかで転轍機を握ってきた人々のある型を表現したまことに秀逸な言葉だ。

ディックは、歴史を作ってきた人間達がどのような人間だったかこう定義したうえで、そうでない無力な人たちのささやかな抵抗と魂の美しさを丹念に描く。世界がどうあるべきかでも、指導者がどうあるべきかでもなく。

先述のバイネスの言葉はこう続く。

「彼らが理解できないもの、それは人間の無力さだ。おれは弱くて、小さい……だが、どうしてそれが悪い? そのほうがましじゃないのか?」

第二次世界大戦の勝敗が逆になっていたり、作中、連合国側が勝った世界が舞台の仮想戦記小説が流行っていたりするのは、大きな歴史のうねりがどちらに転ぼうが、人どうあるべきかという根幹のところは決して変わらないということをディックが強調したかったからではないだろうか。

日本人の書かれ方が変に持ち上げられすぎてこそばゆい部分もあるが、この小説が発行された当時、1963年(東京オリンピックの一年前)の日本人はディックにはこう見えてたのかもとか色々想像して面白い。是非是非、読んで欲しい小説。

蛮族たち

ドーリア、スキタイ、キンメリア、ゲルマン、ガリア。匈奴、犬戎、西羌、狄、東胡。

東西どちらの文明でも蛮族とされた民族の名称ってとげとげしく、いかにも洗練されていない響きで聞こえるから不思議だ。特にゲルマン民族のなかでも、キンブリ族、テウトネス族なんかは、もう蛮族以外の何ものでもないって感じで素敵。

実ははゆまはこの蛮族達が大好きだ。

迷信深く、考えは足りず、憎愛いずれにも血が濃く、幼児のように光ものを好み、何よりも命知らず。

ゲルマンの黒い森で、ウクライナの金色の草原で、シベリアの凍てついたタイガで、大漠の熱い砂漠で、チベットの高原で、大興安嶺の密林で育まれ、飢饉や、カリスマ的な英雄を持ったことをきっかけに、怒濤の如く中国やローマといった文明地帯に押し寄せる彼等。中国の長城やローマのレギオンに、巌に砕ける波のように、敗れ去ることがままあっても、蛮勇が知恵を、感情が理性を、野蛮が文化を上回り、取り澄まし穢れた文明を血で洗い清め、新たな秩序を打ち立てる。

その最後の例が、明清革命だったのだろう。それ以降、先述の蛮族の揺籃地は皆文明の光源のさらすところとなった。世界史的には進歩だったのだろうが、歴史書をひもとき、今はなき彼等の名前を見つけると「歴史は寂しくなったな」と極東のまつろわぬ蛮族、倭族の末裔は思うのだった。

文楽へゆるーく行ってみよう♪

11月9日(土)千日前の国立文楽劇場で「伊賀越道中双六」を見てきた。

「伊賀越道中双六」は、「曾我兄弟の仇討ち」「赤穂浪士の討ち入り」とともに日本三大敵討ちに数えられる「鍵屋の辻の決闘」をモデルにした壮大な復仇劇でとにかく長いのだが、今回は通しで観劇することに挑戦してきた。朝十時半から夜八時五十分まで一日中文楽の世界に浸りきってきたのだ。

「伊賀越道中双六」の具体的な感想については、また文楽かん劇日誌に書かせてもらうので、このブログではまだ文楽に行ったことがない人向けに、文楽の世界への手引きというか、文楽劇場の使い方について書かせてもらおうかなと思う。

◆まず最初に

まず、貴方が初めにすべきことは、下記の国立文楽劇場のHPにアクセスすることだ。そして、上演情報を調べよう。歴史好きの人なら有名な人物をモデルにした時代物が公演中かもしれないし、普段テレビドラマしか見ないっていう人も恋愛の極地である心中をモチーフにした世話物をやっているかもしれない。

友人に文楽に詳しい人がいれば、何がおすすめ?と聞いてみてもよいと思う。とにかく自分が興味もてそうな題目は必ずあるはずなので、それを調べよう。何といったって文楽というのは、江戸時代の大衆達、つまり貴方や私達のなかで育ってきた演芸なのだ。いってみれば、江戸時代の映画であり、テレビであり、漫画であり、アニメだったのだ。貴方を楽しますことの出来る演目は絶対にあるはずだ。

あっ、でもいきなり一日中ぶっ続けで見る通し狂言にチャレンジはやめようね。初めは「見取り(みどり)」といって、みどころ場面をいくつか上演するスタイルのものにしておくのがおすすめだ。

◆チケット購入

見たい演目は決まっただろうか。そしたら早速チケットを購入しよう。先ほどのサイトからも買えるし、チケットぴあやローソンなんかでも売っているみたい。当日券を文楽劇場の窓口で買う事も出来るが、売り切れている場合もあるだろうから、先に買っておくのが無難だろう。

◆劇場到着

国立文楽劇場は、大阪日本橋駅七号出口から徒歩一分。裏手がラブホ街というなかなかに微妙な場所だ。千日前通りという、大通り沿いなので何か魂胆がなければ絶対に迷わない。もし貴方が女性で、連れてきてもらった彼氏が「あれ、迷ったな」と、劇場に着く前に言ってきたら、そいつは色々と見込みがない。回し蹴りでも喰らわせたあと、自力で劇場までたどり着くようにしよう。

◆劇場に到着したら

さて、国立文楽劇場には上演開始の出来れば一時間前、最低でも三十分前には到着しておいて欲しい。というのも、上演前にパンフで予習をしてもらいたいからだ。買い方にもよるだろうが、チケットの発券が必要な場合はそちらを済ませたあと、一階の売店でまずこのパンフレットを買って欲しい。650円だ。床本という台本集もついてこの値段なのでなかなかお買い得と言っていい。

購入後は、ちょっとお高いが施設内の文楽茶寮でおうすセットを頼んでもいいし、さっさと二階にあがってチケットをもぎってもらったあと、大劇場前のロビーでゆっくりしてもいい。重要なのはパンフレットを読んでおくことだ。まず見るべきなのは鑑賞ガイド。これで演目の流れをざっくり掴んでおこう。そして次に見るべきは段ごとの梗概と役名、かしら名などを書いた解説。人物相関図が書かれている場合もあるから、これで物語の大枠をしっかり把握するのだ。

あれあれネタバレになるんじゃないの?と思う人もいるかもしれないが、そこはやはり平成を生きる我々の悲しさ。江戸時代だったら誰もが知っている英雄や史実も、またまさにニュースだったであろう、世話物のモデルとなった事件も何も知らない。文楽を最大限楽しもうと思ったら、どうしてもこの作業が必要なのだ。また、当然だが、謡も台詞も江戸時代の言葉になる。後ほど詳述する字幕もあるし、案外分かるものだが、それでも前もってこういう話かと分かっていると、理解度は段違いに高くなる。

最新の研究では、ネタバレが作品の根幹の面白さに関わることはないそうなので、ここは割り切って先にストーリーを把握するようにしておこう。そして、恐らく、もうこの時点で貴方は現代の映画やテレビではあり得ない過激な展開があることに気付き、愕然としているはずだ。出来たら、その愕然とした部分に線を引くのもいいかもしれない。集中力をあげていくべきところがどこか分かるからだ。

◆席につこう

さて、トイレも済まし、売店でコーヒーなりペットボトルなりを買ったら、開演十分前くらいに二階の大劇場に入ろう。チケットは例えば「中央座席11列12番」みたいな感じで座席名が記されてある。まぁ迷わないとは思うが、うっかりもののはゆまは中央座席という部分を見落として右側座席に座ってしまったことがある。不安なら案内の人もいるので聞いてみてもよいかもしれない。

席についたらざっくりとまわりを見渡そう。前方真ん中に大きな垂れ幕の降りた舞台があり、その上に字幕のあらわれる細長い液晶ディスプレイがある。舞台左手には時計と休憩時間に入ったら残り時間を示す電光掲示板。そして右手の壁から客席を見下ろす感じで張り出しているのが物語を語る太夫や三味線の座る場所で「床」という。彼等がどう登場するかは楽しみの一つ。ここでは語らないので実際に自分の目で確かめて欲しい。

◆劇中

さて劇がはじまった。初めのうち貴方は「あれ?人形浮いてない?」とか「人形動かしている人顔出てるやん」とか色々違和感を感じるかもしれない。だが、心配ご無用だ。アニメや漫画で鍛えられた日本人には、誇張や省略など、あるものをなしとし、ないものをあるとする独特の眼力がある。しばらくすると、ただの書き割りのまさに人形にしか見えなかったものが、血の通った確かな存在感を持った人間に見えてくるのだ。それまでにかかる時間は個人差はあるだろうが、十分から三十分ほどだろうか。とにかく、劇場に入れば感覚が変質する瞬間が必ずある。そのことを信じて、最初の違和感については耐えて欲しい。

人形が人間に見えるようになってきたらあとはしめたものだ。三味線の玄妙な響き、太夫の地の底から轟くような神韻たる語り。そうしたものに、貴方の魂はもみくちゃにされながら、物語世界の底へと引き込まれていくだろう。そこは現代日本では通常ありえぬ、夢のような、そして一種のおどろおどろしさも秘めた呪術的な祝祭空間だ。

勿論、言葉も使った演劇である以上、どうしても理性を働かせ台詞の意味も理解しなくてはならない。そのためには、舞台上方の字幕、また舞台、ときにパンフ付属の床本など、視線が忙しくなるだろうが、これも慣れだ。回数を重ねるにつれ、段々に上手になってくる。また全ての台詞を全部しっかり把握する必要も決してない。時に分からないところは、分からないままで放っておいて、物語世界へまず全身で浸りきることのほうを大事にしてもらいたい。

◆ちょっと疲れたら

とはいえ、見所だけ抜き出した「見取り」でも最低二時間かかるように、文楽の演目の多くは長丁場。余りの情報量の多さに集中力が途切れたり、時には眠くなってしまうこともあるかもしれない。そこで無理して、いやいやこれは高尚な伝統劇なんだからしっかり見なきゃと、変な使命感に駆られる必要はないと思う。

何度も言うが、文楽は大衆のなかから産まれた芸術だ。つまりはわたしや貴方のものだ。江戸時代は八百屋の八つぁんや、魚屋の鉄や、団子屋のおとよちゃんが夢中になって見ていたものなのだ。彼等は佐敷に座って時に弁当を食べたり、お酒を過ごしたりして、適度に気を散らしながら、長丁場の舞台を見ていたはずだ。

文楽の脚本もよく出来ていて、必ずギャグパートというか、ふっと気をゆるめていい筋がある。江戸時代は、お客もその辺の呼吸はよく心得ていて、そういった節に劇がさしかかったら、おしゃべりしたり、弁当を使ったりしていたのだと思う。なので、疲れたり、集中力が途切れたりしたら、貴方もあまり気にせず字幕や床本を見て疲れた目を休めたり、座席で見苦しくならない程度に、ストレッチしてもよいと思う。

◆惨劇

劇がクライマックスに進んでいくにつれ、大劇場のなかは、舞台と観客席、一体となって緊張が高まってくる。それは嵐の前の、不穏な空気にもどこか似ている。不思議なもので、前節に書いたように途中途中ちょっと集中力が途切れたとしても、クライマックス間近になると自然と自分の意識は舞台に向けて収斂されていく。それが、数百年、練磨に練磨を重ねた脚本の妙であり、太夫・三味線・人形遣いの方々の卓越した技量なのだ。

文楽の脚本には必ず、一つか二つ、ひ弱な現代的良識では考えられぬ、酸鼻を極めた展開が含まれる。祝言の宴の横で括り殺される子供、ようやく会えた父親によって喉を抉られる嬰児、焼きごてを自分の顔に押しつける貞婦。

パンフによって予習した貴方は、これまでの展開ですっかり感情移入した人形達がどんな運命を辿るかを知っている。しかし、貴方の血はざわざわと妖しく騒ぎ、本来なら目をおおって避けたいはずの惨劇を見たくてたまらなくなっている。

その感覚は、剣闘士同士の試合の勝敗が決まった後のローマのコロッセウム、幾本もの剣を受けさしもの猛牛も膝を折ったときの闘牛場、数ヶ月に及ぶ饗宴の後美々しく着飾った壮健な少年と少女が生贄の台へと昇っていくアステカの祭壇、これらの観客達に似たものだ。

やがて、床に幾人もの太夫と三味線が並び、惨劇の幕が開く。貴方の顔に驟雨のように人形達から流れる血が降り注ぐ。

◆劇が終わったら

劇が終わり、席から立ち上がる。貴方は昂揚し、すっかり満足した自分に気づくはずだ。この後は、ちょっと値は張るが、併設の文楽茶寮で昼食か夕食を食べ、イタリアンスーツを着たリーゼントの紳士が着物姿のお姉さんを口説いているという文楽劇場ならではの光景を眺めてもよいと思うし、恋人か友達と来たなら居酒屋なりバーなりに行って、劇の感想を言い合うのもよいかもしれない。

何にせよ、文楽はかび臭い博物館の奥に陳列された骨董品ではない、生々しい毒も孕んだ生きたエンターティメントだ。一度行ってみれば、必ず貴方なりの楽しみ方を発見できるはず。奥深い文楽の世界に、一人でも多くの人が参加してくれることを願う。

マレーシア

先週、一週間出張でマレーシアに行って来た。

10月のクアラルンプールは雨期。突然降ってくるスコールをのぞけば、涼しく、雨が降ったあとなどはかすかに秋の気配さえ感じるほどで、一年で最も過ごしやすい季節だ。こうした気候が、東南アジアのなかでは異色な落ち着いて静かな国の佇まいを形作ったのかもしれない。

一緒に働いた華僑の同僚達も、明・清時代にこの地にやってきた先祖の姓を忘れず、名刺に漢字を入れているほどだが、気質は混血を重ねてエキゾチックになった顔立ちとともに、本土の仲間達とはまるで違う。物静かで淡々と仕事を進めていく感じ。

おかげさまでプロジェクトは順調で、これといったトラブルもなく無事納品することが出来た。タイ・シンガポール・香港・中国・オーストラリアと、色々な国の人たちと仕事してきたが、一番楽だったかもしれない。つうか日本よりも楽。

お仕事のあとは、楽しいお食事。
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たっぷりつまった蟹の身に、東南アジアでは珍しい甘辛くこくのあるタレを搦めて食べる。蟹を食べると無口になるのは万国共通。色々な肌色の人たちが口をつぐんで一生懸命、蟹の分厚い殻に金槌を叩きつける様は面白かった。

奥に写ってるのはサティと呼ばれる豚の串焼き。ピーナッツベースのタレをつける。こちらもピーナッツの風味が効いて、なかなかに美味しい。

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お店を出ると変な匂いが漂っていた。見るとドリアン屋台。元気いっぱいのドリアン親父が威勢よく呼び込みして、人だかりが出来ていた。一つ二十リンギット(600円)となかなかに高く、酒も入った後だったが、ドリアン親父が「かまうもんか。ビールくらい何だ」と言ってきたので買うことにした。

種のまわりにベタベタと少し黄みがかった白い果肉がまつわりついているのを、歯でこそぎなから食べる。初めてだったが案外口に入れると匂いは気にならない。クリームチーズとバニラを和えたような濃厚な甘さで、ついつい顎がゆるみ、奥歯が溶けてしまいそう。果物の王様という異名もなるほどの美味しさだった。

ちなみに先に「酒も入った後だったが」と書いたのは、ドリアンとお酒は食い合わせが悪く下手したら死ぬと言われているため。ただ、日本に帰ってよく調べてみると、これはほとんど都市伝説で悪酔いはするものの、死ぬまでには至るケースはほとんどないとのこと。ちゃんとソースに当たるって大事だね。

最後の写真は、最終日オープンテラスのレストランでシーフードヌードルすすってたら「なんかくれよー」と寄ってきた猫ちゃん。つみれあげたら喜んでがっついてた。トラとなづけてやることにした。

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また、帰ってくるからそれまで元気でね、トラ。
三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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