まどかマギカ[新編]叛逆の物語 考察 -ビューティフルドリーマー-

10月26日。

前回劇場版からほぼ一年。再び魔法少女達がスクリーンに戻ってきました。

待ちに待った日でした。しかし、一方で、テレビ版があまりにも綺麗に風呂敷を畳み、全きな完結を見せていただけに同時に不安でもありました。「見るんじゃなかった」そう後悔するんではないかと……しかし、そんな心配は杞憂に終わりました。

映画「まどかマギカ[新編]叛逆の物語」は、テレビ版を超克し、彼方にさらなる物語世界の地平を示す驚くべき作品になっていたのです。見終わって数時間がたちますが、まだ体の奥で何かが震えているようです。御覧になってない方は、是非まずは自分の目で映画の結末を確かめてください。絶対、後悔はしないはずです。

注意!

本ブログ記事の内容は、映画「まどかマギカ[新編]叛逆の物語」に対する重要なネタバレを含んでいます。まだ見ていない方は、映画を見てから以下の記事を読むようにしてくださいまた、以下の論考を読むにあたっては、前回テレビ版まどかマギカを考察させてもらった記事「まどかマギカ 考察 ―エディプスコンプレックスの物語として―」を先に読んで戴くと理解がスムーズになるかと思います。



◆叛逆の物語

多くの人が、この作品を見終わって感じるのは得体の知れない居心地の悪さではないでしょうか。バッドエンドなのか、ハッピーエンドなのか、それすらも分からない。ただただ、もやもやしたもの、かといって後味悪いとは言い切れない不可思議なものが、心の奥に残って、いつまでもいつまでも複雑な倍音を響かせ続けている。この映画を見た人は皆そんな感覚に襲われると思います。

しかし、結論から言うと、この映画は凄くシンプルな映画です。タイトルの通り、叛逆を描いた映画。少年ほむらによる父キューべー、そして母アルティメットまどかへの叛逆を描いた映画です。

この作品の後半でほむらの見せる決断、そしてその後の展開のなかで見せる不穏な表情によって、ほむらが豹変したと感じる方は多いかもしれません。しかし、テレビ版、映画版通して、彼女のキャラクターはぶれていません。彼女は、というより、彼、少年ほむらは少年のまま、男性原理の陽の部分を背負い、その陽を背負ったまま暴走し、あの結末となったのです。
少年ほむらは、その熱情のまま父を踏みにじり、母親を己が未生以前の存在にまで貶めて我が物としようとしたのでした。

乱暴な分析を許して貰えるならば、男性原理の陰の部分の暴走を描いたのがテレビ版で、男性原理の陽の部分の暴走を描いたのが映画版と言っていいのかもしれません。

◆キューべーとほむら

いきなり分けの分からんことを結論づけられて何のこっちゃという人ばかりだと思うので、まずはキューべーとほむらの関係を整理してみましょう。

前回記事で、はゆまはキューべーとほむらはこの作品世界に登場するただ二人の男で、片方は陰、片方は陽を象徴するコインの表裏であるとともに、父子なのだといいました。下記は前回の記事からの抜粋です。

男性原理(陽):暁美ほむら
 (情熱、恋、システムからの自由、冒険、歌、踊り、狂的な興奮、ゼウス)

男性原理(陰):キューべー
 (非情、理知的な判断、父権システム、システムへの服従、法律、選別、切断、裁判、クロノス)



テレビ版の最終回、聖なる処女母まどかは我が身を投げ出し、父なるものを象徴するキューべーの作った非人道的で血の通わぬ世界の仕組みを、非効率ではあっても、もっと温かみのある穏当で持続可能な仕組みへ再編成しなおします。女性だけが収奪の対象となる仕組みから、魔獣を通じて、男女が共同でエネルギーを生み出す仕組みへ。はゆまは、このことをキューべーとまどかの結婚と表現しました。そして、この結婚を通じて、少年はゆまも、また母まどかの息子となったのでした。

この結婚を通じて、血みどろの戦いを繰り広げていた、父キューべーと子ほむらも最終回のビルの上でリラックスした語らいを見せるまでに和解したかと思われたのですが、少々その考えは甘かったようです。

あくまで宇宙の延命にこだわるキューべーは、魔法少女→魔女システムにより産み出されるエネルギー生産の異常な効率性にひかれ、ソウルジェムの限界まで戦ったほむらに結界を張って餌とし、その罠のなかにアルティメットまどかをおびき寄せようとします。円環の理システムを破壊するためにです。

父親が自分に再びかしずかせるために、息子を人質に母親をおびき出そうとしている。そう説明すると、この陥穽の邪悪さが分かるかと思います。

◆一つ目の夢(1) 怖い夢を見ていたのよ

本映画の出来事はほとんどがほむらが夢見る世界のなかで起きていることです。そして、その夢は二つあります。

一つ目が、前編、ほむらがキューべーによる結界のなかで夢見ている世界です。構造としては、母まどか→父キューべー→子ほむらという順序の入れ子空間になっています。

この空間では、消滅したはずのさやか、神になったはずのまどか含め、マミ、杏子、ほむら、全ての魔法少女が勢揃いして、多分イタリア語に堪能な少女が命名したのあろう「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテッド」という名前のチームを組んで日夜ナイトメアと戦っています。

魔女や魔獣と比べれば、ナイトメアはただの少女の悪夢ですから、たわいない相手でしかありません。戦いの描写もふんわりファンシーで、緊張感がまるでありません。しかし、だからこそ、魔法少女達は少女性を失わず、お互いの交流を楽しみながら、幸せに暮らしています。

しかし、一方でこの世界は色々な部分がそんざいで、ほころびの目立つ世界です。見滝原の街より外へはいけず、ほむらと面識があった人以外の顔は書き割りです。また、実は他の魔法少女達とまともにコミュニケーションを取った形跡のないほむらは、彼女達のプロフィールをほとんど把握していないのでしょう。魔法少女達への記憶の改ざんの点でも、つじつまのあわない点がありました。

夢の世界は、ほむらなりに少女達が幸せになれるよう配慮されてはいるのですが、実は彼女達への本質的な理解抜きに成り立っている世界なのだということは注意しておかなくてはなりません。

◆一つ目の夢(2) 三つ編みを結ぼうとするまどか

パンフレットによると、一つ目の夢の世界のなかのまどかも、偽りのまどかではないそうです。ほむらの夢に誘い込まれた、神様になった記憶を置いてきた本物のまどかです。まどかは、みんなと離れるなんて耐えられないという本心を、美しい花畑のなかでほむらに吐露します。

この言葉がその後のほむらの行動に繋がるわけで、重要かつ感動的なシーンなのですが、まどかは本心を言う間、何故かほむらの三つ編みを編もうとしていました。しかも、そのときのまどかの指の動きと、ほむらの髪の動きの描写はどこか不気味で、演出側の悪意すら感じました。

ほむらにとって三つ編みはかつて無力だった存在のときの自分。嫌で嫌でたまらなかった、まどかに守られていたときの自分につながります。そこへ戻させようとするまどかの無意識な手の動きというのは、子供の退行を願う悪しき母親のものに近いのかもしれません。

そのため、このシーン、後々の衝撃的なほむらの決断につながるシーンには、実は二つの意味がこめられています。一つ目は少女としてのまどかの願いを少年ほむらが聞いたという意味。もう一つは聖母神まどかへの反発を息子ほむらが感じたという意味です。

◆◆一つ目の夢(3) 夢の終わり

夢の世界の正体と、キューべーの企みを知ったほむらは、例え永遠にソウルジェムのなかで呪われた存在になるのだとしても、まどかを守るために魔女化し、自己の夢の世界を破壊しようとします。

それを救わんとする、マミ、さやか、杏子、まどか、そして元シャルロッテのなぎさ達の戦いはとにかく感動的で、空から降り注ぐ幾万本の矢によって粉砕されるキューべー達の姿とともに最もカタルシスを味わう場面なのですが、すぐ大ドン伝返しが待っています。

ほむらを救済するためについにやってきたアルティメットまどかの手をほむらがつかみ、ただの普通の少女まどかを引きはがした後、悪魔となって、世界を再々編成するのです。この世界がアルティメットまどかの世界と並行して存在するものなのか、それとも内包されているものなのかは、まだよく分かりません。いずれにせよ、ほむらは悪魔ほむらとなり、アルティメットまどかと対立する存在、もう一つの神になりました。

前節に書いたように、花畑のシーンで、ほむらのまどかに対する思いは、少女まどかに対する愛情と、聖母神アルティメットまどかに対する反発に分裂しています。そのため、ようやく会えたアルティメットまどかに対する行動も、彼女を引き裂くという行動にならざるを得なかったのです。

また、このシーンでもう一つ注目すべきことは、ほむらもまたキューべーと動機は別であれ、同じような発想の策、おびき寄せてかどわかす、をやっているということです。二人は男性原理のポジとネガなので、結局行動は似たようなものになるのですね。

◆◆美しい悪魔の見る夢

悪魔となったほむらは、「人間の感情を利用するのは危険すぎる」と恐れをなして逃げようとするキューべーを捕らえ、まだまだのろいのために働いてもらわなくちゃと言います。少年ほむらがついに父を超えたかに見えるシーンですが、何故か溜飲はさがりません。

この辺りから、ほむらは歪んだ笑みと、目の下に隈のある危うい表情ばかりを見せるようになります。

新たに再編成された世界は、一つ目の夢のような破綻が見られず、細部まで細工が行き届いた世界です。からくりを知っているさやかも当初は反発を見せますが、恭介や仁美と再会すると、記憶が薄れ行くこともあって、新しい世界を受け入れる姿勢を見せます。

マミもなぎさも杏子も、魔法少女達は皆幸せそうです。

たった一人ほむらだけをのぞいて。

あたりまえですね。情報を隠蔽して駕籠のなかの鳥にえさを与えるように、幸せを一方的に与える人は、その幸せから孤立せざるを得ません。

◆敗北するエディプス

さらに悲惨なことには、ほむらはまどかからすら拒否されます。転校生としてやってきた引き裂かれた方のまどかに、ほむらは「秩序と欲望のどちらが大切か?」質問しますが、まどかは「秩序」と答えてしまうのです。先の記事の抜粋をもう一度あげます。秩序と欲望、どちらが何を象徴しているかは、直ぐに分かると思います。

男性原理(陽):暁美ほむら
 (情熱、恋、システムからの自由、冒険、歌、踊り、狂的な興奮、ゼウス)

男性原理(陰):キューべー
 (非情、理知的な判断、父権システム、システムへの服従、法律、選別、切断、裁判、クロノス)



つまり、この映画で父母に叛逆の限りを尽くし、エディプスコンプレックスの相克のすえ、ようやく母を自分のものにしたかと思えた少年ほむらは痛烈にふられたのです。お父さんの方がいいよと言われてしまったのでした。少なくとも、この時間軸では、永遠の恋人にして聖母神、まどかに対する、ほむらの恋は成就しなかったのです。

これは当然の帰結です。先に書いた通り、ほむらはまどかを含む魔法少女達を本質的には理解していません。例え、みんなと離れたくないということが、少女まどかの本心だったとしても、その最も大事なものを犠牲にしたことに、彼女の願いの崇高さと尊さがあるのです。自分の手元に置きたいからという理由で、彼女からその最も崇高なものをもぎ取ったとしても、それは到底ほむらがキューべーに言った「愛」などといえる代物ではないのでした。

このシーンの後、ほむらは奇妙な動きの「踊り」を踊ったあと、あの花畑でキューべーを徹底的に暴行します。そして、半月の闇に向かって身を投げます。痛々しさのあまり、思わず目をそむけてしまったシーンです。テレビ版で、安定した地平に落ち着いたかに見えたエディプス的相克は、映画版ではもう修復不能なものに思えるほど悪化してしまいました。

◆ほむらの姿が象徴するもの

また、ちょっと余談になりますが、本作によってまだまだまどか作品は閉じたものにならず、二次創作も含め、さらなる新しい作品がプロアマ問わず、どんどん出てくることになると思います。しかし、このラストのほむらの姿。自分の閉じた世界のなかで、父を小間使いに、母親を愛人のようにかしづかせようとしながら、都合のよい幸せを享受する美少女達を愛でる少年というのは、この作品の派生作品を作り見ていく人たちに突きつけられた自己の戯画なのかもしれません。

こうした自己批判的な部分も内包しているのが、魔法少女まどかマギカという作品の持つ凄みになっていると思います。

◆それでも

ちょっと話がそれましたが、しかし、それでも、はゆまは前記事でも書いたとおり、永遠の少年ほむらと永遠の少女まどかの恋は最後には成就するものと思っています。

EDで見せた二人が手を繋いで光へと走っていくシーン。

それが見れるのは次回作なのか、それとも別の魔法少女達の活躍を描いた作品をを経てなのかは分かりませんが、いつまでも、夢見るようにはゆまは待とうと思っています。

そして、最後にこれだけは言わせて下さい。

今回も安定して杏子ちゃんは聖女だったね。

「日本を降りる若者たち」と「アル中病棟 失踪日記 2」

「日本を降りる若者たち」と「アル中病棟 失踪日記 2」を続けて読了。

思ったのはある種の人達にとって日本で生きていくのは本当に大変なことなんだなということ。

日本人のひしめくコミュニティのなかで普通に働いたり暮らしたりするのがとてもとても難しく、プライドや心を守るためにお酒に逃げたり外国に逃げたりする。

ただ、人に傷つけられた傷は、人のなかでしか癒されない。逃げた先にもやっぱりコミュニティがあって、彼等はそのなかに加わり生活していく。二つの本ではその様子が描かれているのだが、はゆまは正直楽しそうだなと思ってしまった。

アルコール依存症専門病棟であれ、タイのカオサンであれ、そこにいる人たちはある種の傷を前提にしている。だから、外こもりの青年も、アルコール依存症の人も、うまくやっていくことが出来るのだろう。

「アル中病棟 失踪日記 2」では、吾妻氏がレクレーションの幹事を張り切ってやる様が生き生きと描かれていた。吾妻氏は、漫画の大家といっていい人だが、ささやかな会の幹事として評価されたのがとても嬉しかったのだろう。恐らく、こうしたコミュニティのなかでは、些細なことでも承認されるような仕組みが出来ているのだと思う。

もちろん、しょーもないことや、人間関係のぎすぎすもあるのだろうが、それでもはゆまにはこの二つの本で書かれているコミュニティが桃源郷のように思えた。それは、きっとはゆまもまた彼等と同じような生きづらさと危うさを抱えているからなのだろう。勿論、作家なんて「いやー人生薔薇色っすよ!」なんて人のやる仕事ではないが……

お金の産まれる場所

お金の産まれる場所に行ったことがありますか?

はゆまはあります。

昼間のお仕事の関係で桜の通り抜けを過ぎ造幣局に行ったのですが、それは本当に何というか、非現実的というかシュールレアリスムな体験でした。

そもそも要件自体がシュール。

お金を作るのに幾らお金がかかるかを把握したいという、原価管理システムの設計開発のお仕事だったのです。

明治浪漫という言葉を連想させる門を潜って、工場に入ると、まず人がほとんどいません。持ち逃げを防ぐためということでしたが、ここまで人がいない、シンとした工場というのは初めてでした。ただただ、ガラス張りの向こうで、様々な工作機械が黙々と動き、お金を打ち出していきます。世界が終わった後も、無言で打刻を続けていくんじゃないか、そんなことさえ思いました。

「作業工程で、人が関わることはほとんどありません」

担当者の方の言うことを聞きながら、じゃぁここの人は何して働いてるんだろうと思っていると、終業のチャンネルが鳴ります。そうすると、出るわ、出るわ、いかにも毛並みの良さそうな人達が、爽やかな笑顔で退社していきます。何でも、残業はほとんどなく、社内サークルも盛んなので、局所有のテニスコートで一汗流していく人も多いとのこと。まるで、ソ連のプロパガンダ映画のような話です。レーニンやスターリンが夢見た労働者の天国は、こんなところ、資本主義の最も進んだ国の、そのまた聖地のような場所にあったのですね。

さて、結局、この時の仕事は要件定義だけで、そこまで深く関わらなかったのですが、お金というのは、本当にシュールというか不思議なものだと思います。例えば、冒頭の原価管理の仕組みでいえば、実は一円玉を作るのには一円以上のお金がかかります。多分四円くらいだったと思います。

また、現在のアルミ市況は1gあたり1.7円ですので、もし皆さんが一円玉を一万円分集め、それを溶かしてイゴットを作り、売り飛ばせば一万七千円の価値になり、利益を得る事が出来ます。もちろん、その後、おまわりさんがやってきて逮捕され、ついでにはゆまままで逮捕されますので、絶対やってはいけませんが、お金というのを突き詰めて考えていくと、こんな風にシュールなことになります。

結局、お金というものは大きな嘘というか幻想に基づいたものなのですね。そのため、国はこの嘘を暴かれたり、ちゃかされたりするのを異常に嫌います。実際、昔、ミスターマリックというマジシャンがテレビのなかで硬貨に穴を空けたところ、即座にトリックを見破られ、警察から厳重注意を受けたそうです。ミスターマリックは元々は超能力者という触れ込みでデビューしたので、「ハンドパワーです」と言ったそうですが、一顧だにされなかったというところに、国の本気度が伺えますね。

また、この話は、お金の価値を保証するもの一つとして、国からの強制力・暴力というものが、まぎれもなくあるということを示しています。

今、アメリカがデフォルトするかもと心配している方も多いと思いますが、決してしません。アメリカは世界最強の軍事力、つまり暴力を所有した国です。国家は色々と忙しく嘘をつきますが、お金がお金であるという、このフィクションだけは、いかなることがあっても守るはずです。多分、来週には普通に方がつくんじゃないかな。

無論、アメリカが将来その力を失ったとき、ドルがどうなるかについては、また別の話になりますが……

マレーシアに出張したり、所属する著作権エージェント会社のアップルシードさんの13周年パーティに参加するために東京に行ったりと、このところ何かとバタバタしている。

忙殺というか心休まるときがなくて、わずかな空いた時間に部屋でぼーと虚脱状態になっていることもあるのだが、ブーチンの「ニャン」という鳴き声にはっと救われる。猫といえば、マイペースで身勝手というイメージが強いが、実は猫は相当に人の顔色を読む。

人間は自分では分からないが、感情によって、発する匂いや皮膚の味が変わるらしい。だから、猫は匂いを嗅いだり、舐めたりして、飼い主がどういう精神状態にあるかを必死で読み取ろうとする。大声で笑ったり、泣いたりしている人のことは嫌いだが、声もなく涙にくれる人を見るとき、猫の心はとても優しくなる。顔を押し当て、手を舐め、何とかして涙を止めようとする。

考えれば、リビアの砂漠で放浪の旅を続ける人類の前に、この美しい種族があらわれ、友人の契約を結んで以来、どれほどの裏切りが重ねられてきただろう。投石機で城塞に投げ入れられたり、魔女の手先と濡れ衣を着させられて手当たり次第に虐殺されたり、動物実験のために美しい毛並みに硫酸を塗られたり……身勝手なのはどちらの種族の方だったのだろうか。シンプルで何の裏表もない猫の愛情に対し、いかほどのものを人類は返したというのだろうか。

夜はすっかり秋めいてきた。膝の上にブーチンの温もりとささやかないびき。有り難いなと感じつつ、ふとそんなことを思った。

ブーチンこたつした

なぜ子供を投げ捨てるような人がリーダーに選ばれるのか?

項王は西のほうに廻って、簫から夜明けに漢軍を撃ち、東して彭城に行き日中大いに漢軍を破った。漢軍がみな逃げ出すと、追撃して穀水・泗水に入り、漢卒十余万人を殺した。漢王は道で孝恵と魯元に会い、自分の車に載せた。楚の騎兵が追って来たので、漢王は危急になると孝恵・魯元を車の下に推し堕とした。夏侯嬰はそのたびに拾い上げて車に載せ、このようにすること三度であった。夏侯嬰は「いくら危急で早く駆けつけることができないからとて、どうして棄てるわけにいこう」と言った。こうしてついに逃れることができた。


上記は、劉邦について書かれた書物なら、大抵どんなものにでも載っているエピソードである。

拙著「劉邦の宦官」でも取り上げたが、ひどい話だ。あきらかな児童虐待だし、投げ捨てられた子供達がどれほど傷ついたかということを考えるといたたまれない気持ちになる。しかし、ここで疑問に思うのが、なぜ子供を投げ捨てるような人がリーダーに選ばれるのか?ということだ。

一つ提起できるのが下記の仮説。

「昔と今では価値観が違う」

司馬遼太郎氏は劉邦の行動について、儒教的価値観からすれば、子供はいくらでも産めるのに対し、親には代わりがない。この状況の場合、むしろ子供の方が親のために積極的に自分の身を捨てるべきで、劉邦は自ら手を下して、儒教の求める親孝行を実施させたに過ぎず、彼の行動にはなんの問題もないのだと擁護していた。

が、元々劉邦自身儒者の冠をひきむしってはおしっこを引っ掛けていた人だし、付き従う子分たちも老荘思想の方に強い共感を覚える楚出身の人ばかりだ。劉邦含め、彼らの日常的価値観のなかに、子が親のために犠牲にならなくてはならないなどという儒教的なものはない。(そもそも、儒教も厳密に言えば、ここまで極端に子供の犠牲を強いる思想であるとは思えない)当時の一般的な感覚から言ってもやはり親が子供を投げ捨てるべきではなく、親は子を守り愛おしむべきものだったのだ。

しかし、このエピソード後も、夏侯嬰含め、劉邦を支える子分達の忠誠心が揺らいだような形跡は一つもない。それで、また、冒頭の疑問に戻ってしまう。

「何故、子供を投げ捨てるような人がリーダーに選ばれるのか?」

その答えをカリスマというキーワードを元に(wikiを参考にしながら)説明していこうと思う。

まず、カリスマとは劉邦のように、人々を魅了したり信服させるある種の人格上の特質や魅力のことを指す。カリスマは、宗教社会学における「聖なるもの」と、その非合理な点において似ている。宗教社会学において「聖」とは人間の社会生活の中で例外的に世界の根底にある究極的秩序にふれているものとして、日常的秩序を支え、あるいは破壊し新たな秩序を創造する性格をもつとされる概念である。カリスマは、宗教上の神や偶像のように聖性を帯びている。

また、カリスマは、善悪という価値判断からはまったく自由、価値自由な存在である。

動乱期の軍事集団、つまり劉邦と共に旗揚げした沛集団にとって望むことは、現在の戦乱の原因となった日常的価値観を徹底的に破壊し、新たな秩序を作ることだった。そのためには、自分たち衆愚のものには見えない世界の根底にある究極的秩序に触れえる特殊な人間を選ぶ必要がある。

逆に言えば、子供を投げ捨てるような人なのにリーダーに選ばれるのではなく、子供を投げ捨てるような人だからこそリーダーに選ばれるのである。

「兄ぃが息子さんを馬車から投げ落としたそうだぜ」

という噂が広まったとき、沛出身の子分たちは、困惑の表情を浮かべるとともに、内心では満足の気持ちを抱いたはずである。自分たちのリーダーが、退屈でくだらない善悪の判断からは遠く離れた価値自由な存在であることに、半神的、あるいは怪物的驚異を感じ、「さすが兄ぃ」と快哉を叫んだと思う。

また、集団のカリスマというのは、実はその属員の誰よりも、集団に対する忠誠心、帰属心を強く求められる。あの敗走のとき、劉邦はその集団から、神から自分の息子をいけにえに捧げるよう求められたヤコブのように、自分の息子を差し出せと試されたのである。

カリスマ的リーダーというのは最も自我の強い存在であるとともに、最も自我の弱い存在である。彼らの自意識はトランス状態の巫女のように無防備で、集団と自己との境がない。真のカリスマが集団の真に求めていることを見逃すことはない。

劉邦は、そのテストを見事にクリアした。

ただ、一方で、投げ捨てられた子供達をいちいち戦車を止めては拾い上げた、夏侯嬰という中程度の才能を持った苦労皺の多い戦車隊隊長がいたことは、カリスマを最終的には日常的地平のもとに落ち着かせる存在もまた、動乱期の軍事集団には必要だということを指し示しているように思う。

英雄の本音

英雄には、衆を引きずっていくという積極的な側面ともう一つ、衆に押し出されるという受け身の面もまたあるように思う。

例えば、武田信玄といえば、強権を持って、他国を侵略した独裁者というイメージが強いが、当時の甲斐は、農業の技術革新に成功し、人口が急激に増加していた。信玄の軍事行動の多くは、膨れあがった人口に、突き動かされての面が実は強い。信玄は、放っておいたら、何をしでかすか分からない、若い次男坊以下の面を引き連れて、必死で口減らしと彼等のエネルギー発散のために、他国を荒らし回ったのだ。

隆慶一郎も指摘していたが、「我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方に発向して軍慮を廻らし」という長宗我部元親の言葉は、多くの戦国大名にとって、本音であると共に悲鳴であったと思う。彼等は敵以上に、狼のように迫る味方の吐息を背中に感じていたのだ。

甲府盆地に水が満ちるように民衆があふれ、その人の群れの洪水の真っ先に押し出されていく人物。冷や汗と脂汗にまみれつつ、洪水から逃れるように駆けていくその人こそが信玄だったように思うのである。

日本の男をレディーファーストにする方法

「日本の男は海外と違ってレディーファーストじゃない」

以前、年配の女性からこう言われたことがあります。日本の男としてはなかなか耳に痛い限りで、普段なら、

「本当にそうですねぇ。困ったもんです。僕たちも努力しているんですがねぇ。むにゃむにゃ」

程度でお茶を濁すのですが、その時は、酒も入っていたこともあり、つい言い返してしまいました。

「確かにそうですが、結局、日本の男は皆、日本の女のお腹のなかから生まれてくるのですよ。日本の男が育児に協力的じゃないということは、逆に言えば、日本の男をいかようにも、育てることができるということじゃないですか。自分の腹で産み、育てた日本男児が、レディファーストじゃないというなら、それは、もう日本の女の責任なんじゃないですか?」

今、振り返ってみると、誠に汗顔のいたりで、人生の先輩に対して、大変無礼な口をたたいてしまったものです。が、幸いなことにその方も出来た人で、こう言って、はゆまの言葉をある程度、受け入れてくれました。

「そう言われてみれば、そうねぇ、私も自分の息子をちゃんと女性を敬うように育てたかしら。蝶よ花よで、甘やかして育っててしまったような気もするわ」

さて、はゆまの持論として、基本的に人を変えることは出来ません。なので、今から成人した日本の男をレディーファーストにしようとしても不可能です。

また、西洋式のレディーファーストは、かつて女性が争った末の戦利品だった時代の名残が濃厚に残っているので、単純に真似るのもどうかと思います。日本には、日本ならではのレディーファーストを作らないといけないと思うのですが、そのヒントとなる友人がいます。

大学からの友人なのですが、その子は本当にレディーファースト。しかも、上辺だけ真似ている人たちと違い、嫌味がなく、男の目から見ても、爽やかなのです。料理も大変に得意で、顔立ちはさほどイケメンというわけでもないのですが、女性からは嫌というほどもてていました。

そうした態度がどこから出てくるものか、ずっと不思議に思っていたので、ある飲みの席で思い切って聞いてみました。すると、彼は、やや照れくさそうに、

「実は母が足が不自由でね。それで、子供の時から介添えをしていたんだ」

彼の母親は軽度の身体障害者だったのです。その上、故あってシングルマザーで、女手一つで彼のことを育てていました。そのため、彼は物心ついた頃から、母親が出勤する度に、特別仕様の車まで介添えし、運転席を開け、座らせてやるというところまでやっていました。

もちろん、帰ってきたら駐車場までお迎えします。雨の日も、風の日も。

別に送り迎えだけでなく、日常生活のなかで、母に助けが必要なときは、自然に体が動くようになっていたそうです。小学生も高学年になり、火を扱えるようになると、料理も一つずつ覚え、洗濯も掃除も自分でできるようにしていきました。それで、中学の頃には、家事ならほぼ全て任せられるようになり、母親は仕事だけに専念すればよいようになっていました。

なんでも、かんでも、母親任せで、いわゆる蝶よ花よで育てられたはゆまたち、一般の日本の男と比べ、何たる違いでしょう。

「母さんのことが好きだったからね。別に大変なことをやっている気なんてなくて、全部自分にとっては当たり前のことだった。だから、女の子が困ってたりすると、助けてやろうって体が勝手に動くんだ」

後に彼は本当に美人で気立ての優しいムスメさんと結婚しますが、その式場で、「母親としていたらぬところが多かったと思う。ごめんなさい」と泣いて謝る母親と、「こんな素敵な人に育ててくれてありがとう」とこれまた泣いて感謝する嫁が抱き合う場面では、涙を流さぬ人はいなかったそうです。

先にはゆまは、人を変えることはできないと言いましたが、育てることはできると思います。

世のお母さん方、日本の男について愚痴る前に改めることがあるのではないでしょうか。

自分が洗濯や掃除をしているときに、息子が寝転がってゲームしているのを許したりしていませんか?蹴飛ばしましょう。

仕事で疲れて帰ってきたのに、ねぎらいの言葉の前に、ご飯を要求されたりしていませんか?ぶん殴りましょう。

母親の奉仕と献身を当たり前と思う精神こそが、女性に対する奉仕と献身の心を奪うのです。心を鬼にして、びしばし、息子を自分に奉仕させなさい。そうすれば、きっと、紹介した彼のように、自然に女性に対する奉仕と献身、そして尊敬の念を抱いた、新しい日本の男が誕生するはずなのです。
三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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