殿様!

時代劇で有名な「殿様!」という言葉。

実はこれ元々は、お百姓さんが庄屋を呼んだり、商家の丁稚が主人を呼んだりするとき、使われる程度の言葉でした。相対的に偉い立場にある人の呼称で、一時的に、その人の指示に従わなくてはならなくなった場合、例えば浪人が、属する組頭を呼ぶときにも使われたそうです。今で言うと「プロジェクトリーダー」などの語感に案外近いのかもしれません。

対して、武田家舞台の小説や映画でよく聞く「お屋形様」は、山賊とかの「親方」を連想させて、イメージが悪いですが、実はこっちの方が、室町幕府が本当に権威のある家、例えば佐竹家や上杉家くらいにしか許さない、封建的・絶対的な重みを持った、格調高い言葉だったりします。

殿様という言葉が流行しだすのは、どうも織豊政権下、特に豊臣政権下のことだったような気がします。織田、豊臣両政権下のもとで生まれた新興の大名家は、室町的な権威なんか知ったことではないですし、主家の成り上がりの雰囲気も反映し、彼等の身分が低かった頃呼ばれた「殿様」をそのまま使いました。また、そもそも、次代の勝者となる徳川家自体、「殿様」の三河方言「とのさん」で呼ばれる程度の家でした。

こういった状況を、織豊政権下でも生き延びることに成功した、上杉家や佐竹家といった古い家柄の大名が見た時、どう思ったでしょう。「貫目のないこと」そう感じたかもしれませんし、一方で、手垢のついていない言葉で呼ばれて、それで自得している同輩達に、新しい時代の風を感じたかもしれません。

しかし、江戸時代になると、「殿様」という呼称は幕府によって、家臣が主君を呼ぶときの言葉として、正式に採用されます。今でいえば、リーダー程度の、相対的・一時的な立場の上下を示す言葉が、絶対的な権威を持つ言葉に変わったのです。この時、戦国以来の下克上の夢は消え、硬直的な江戸的身分制度が、日本を覆うようになりました。「殿様」という言葉と共に、戦国時代は終わったのでした。

マレーシア 最後の夜

何気に、今、マレーシアにいる。

昼の仕事の関係で、月曜から出張だったのだ。打ち合わせをしたり、自分で開発したり、日本に指示を出したりと、大忙しだったが、無事、タスクもすべて完了し、ホテルでカールスバーグを一人飲んでいる。

窓から見えるのは、側にある旧王宮。クアラルンプールでは、九つの州のスルタンが、五年交代で王様を務めることになっている。その王がかつて住んでいた場所だ。モスクのような丸屋根を戴いた巨大な建物を中心に、白亜の城壁に点された灯りが、翼を広げたように連なっている。その灯りが、何ともいえず、優しい。

マレーシアの人は基本、穏やかで真面目で親切だ。勤勉でもあり、100リンギット札に、自動車工場の絵を描くほど、工業化された自国に誇りを持っている。

日本人と気質が似ているので、一緒に仕事するのは楽なのだが、やはり海外出張中は気が張っているのだろう、肩の辺りが重く、首も痛い。とにかく疲れた。

帰りの便は、明日の朝発。シンガポール経由での帰国だ。

ちょっと早めに出て、空港の免税店でショッピングするつもりなので、今日はお酒もほどほどにして早めに寝ようと思う。そう、決して、向かいの駐在員御用達のショッピングモールのなかにある、日本風居酒屋になんかは決して行かない。まして、スポーツバーになんか、はしごするなんてことは決してないのである。

宝塚歌劇場「春雷」

先週の土曜日、生まれて初めて宝塚歌劇場に行って来た。

自分もジェンダーパニックものの歴史小説でデビューさせてもらったが、宝塚は、女性だけで男女の恋愛を演じるという、いわば性倒錯の世界を、百年近くもの間、洗練させ続けてきた場所だ。前から興味があったのだが、今回、生徒の知り合いの方がチケットを手配してくれ、見に行くことが出来た。

阪急宝塚駅を降りて、歩いて数分、見えてきた建物は、赤い屋根に、白亜の壁。頭のなかにある、西洋のお城のテンプレを忠実に再現したような建物だ。日本女性にとっての夢の世界は、こういった場所で展開しなくてはならないのだろう。

演目は「春雷」。ゲーテの若きウェルテルの悩みが原作だそうで、小劇場で公演される。演じるのは雪組。花組、月組に続く三番目の組らしかった。

劇場に入ってまず驚いたのが、一人で来る女性の多さ。一般論として、女性は友達や彼氏と連れ立って遊ぶのが好きだ。それが、若い人からお年寄りまで、一人きりで、絨毯の敷き詰められた待合ホールをノンビリ散策したり、喫茶店でコーヒーを飲んでいる方が一杯。街で見る一人歩きの女性が、少し神経質になっているのと違い、皆、伸び伸びと自由な感じだった。多分、ナンパするようなお馬鹿な男は一人もいないのだろう。

小劇場ホールに向かうと、階段の登り口でひいきの生徒さんの名前を張り出した、私設ファンクラブの方が呼び込みをしているのに出くわした。階段を昇っていくと、登り口だけでなく、踊り場でも会員募集をしている人がたくさん。何故か大島弓子とか、1970年の少女漫画を思い出す。あの年代の少女漫画は、学校内の私設ファンクラブネタが一杯出てくるのだ。

入ってみると、小劇場ホールは滅茶苦茶大きかった。開演二十分まえにも関わらず、もうお客さんはギッシリ詰まっている。座ってる人がほとんど女性なのに、どこか体育会系的な行儀のよさと圧迫を感じる。ざわめきのなかに、緊張があった。連れ合いに聞くと、別に規約はないが、劇中に飲み物を飲む人なんてほとんどいないということだった。劇が始まる前の注意事項のアナウンスで、マナーを守らない方は最悪の場合退場もあり得ると言われたので、慌てて携帯の電源をオフにする。

やがて、幕が上がり劇が始まった。

正直、最初は「うーん」ていう感じ。よくテレビで見る、宝塚の物真似そのままなのだ。大袈裟な身振り、大袈裟な台詞。なかなか感情移入できない。

だが、はじまって三十分くらいしてだろうか。だんだんと、居心地の悪さがなくなり、劇の世界にのめり込んでいけるようになってきた。暖気運転ではないが、初心者の人は、宝塚の世界観になれるまでに、ある程度の時間が必要なようだ。

そして、独特の節回しさえ受け入れることが出来れば、宝塚の劇は、本当にきらびやかな夢の世界だ。髭を生やした執事でさえ、演じるのは美しい女性である。そこでは、女性にとって違和あるものは、全て注意深く取り除かれている。争いがあっても、全て、女性のために争われ、犯罪があっても、全て女性のために行われる。恋を争う二人の男はあくまで凛としてかっこよく、それでいながら男の持つ外貌的な圭角はない。

そして、ヒロインは、美しい男の狭間で、あくまで楚々として愛らしく、嘆きながらも、恋の戦利品としての自分を喜んで受け入れているように見える。女性が演じる男性の腕のなかだったら、ここまで、女性はやすやすと女性でいることが出来るのだろうか。それが、何だか不思議に思えた。

ウェルテル役の彩凪翔さんもかっこよかったが、恋敵のアルベルトを演じた鳳翔大さんがよかった。背が高く凛々しい。ウェルテルのように真っ直ぐに恋心を表現出来ない、不器用な法曹家の苦悩をうまく演じられていたと思う。ヒロインのロッテを演じた大湖セシルさんも、元男役らしいが、素晴らしく可憐だった。

最後、終わりの歌的な感じで、劇団員全員のダンスがあった後、幕が締まる。周りを見ると、観客の女性は皆満ち足りた顔をしていた。しっかりと女性が誰かに守られていると感じるときにする表情だ。彼女達は、この劇場のなかでは幾重にも庇護されているのだろう。何かから?というのは、まだはゆまには分からない。いずれにせよ、やはり、ここは徹底的な女性の世界なのだなと思った。


クラウドソーシングと孔子

孔子の『論語』にこんな言葉がある。

君子は器ならず。

一般的には、「君子は一つのことにかたよることなく、幅広くその能力を発揮するべきである」という意味に解釈されている。もっと端的に、器用貧乏になるなよって意味だという人もいる。

ただ、この言葉の意味はもっと深い。器はある用途のもとに作られた器物・道具の意味だ。これらが提供するのは機能だけである。例えば、弓。弓は矢を放つという機能だけを持ち主に提供する。放たれた矢が何に刺さっても、無力な子供や女性や老人であったとしても、弓自体は知ったことではない。関わった事項の結果責任を、器は決して取らないのだ。

孔子が言いたかったのは、そうした器・道具、機能の一提供者ではなく、仕事の結末に対しても責任を取れる全人的な存在となれ、ということだったと思うのである。

最近、クラウドソーシングについて興味を持って調べている。要するに、仕事を極小に細分化し、ネットの向こうの、クラウド(群衆)に発注するということのようだ。すでにアメリカのNASAやAMAZONなどが、この方式を採用して大きな成果を上げている。

クラウドソーシングは確実に、今後、世界の潮流となり、様々な人の仕事のやり方を変えていくことになる。はゆまみたいに人間関係の調節に時間を割くのを馬鹿馬鹿しいと思うタイプには願ったり、叶ったりのことのようだが、どうも懸念を感じてしまう。パソコンの前に座り、自分の技能のみを切り売りし、決して、人格的な評価を仕事から与えられない人々。そんな、先の言葉を借りれば、ただの器、断片化された人間達が増えていくということだが、それでよいのだろうか?

はゆま的には、いついかなる時代でも、社会基盤の根っこの部分は、結局のところ、報酬以上のものを仕事にかけている人々、全人的な存在として仕事に関わっている人々の踏ん張りで支えられていると思うのだが。器だけで、君子のいない社会、それがどういったものになるか、はゆまには想像もつかない。

twitter炎上と穢れ思想

ほぼ毎日のように、twitter炎上のニュースが、世間を賑わせている。多くが、店員や客の飲食店の備品を使っての悪ふざけに対するものだ。

悪ふざけ自体はたわいないもので、馬鹿だとは思うが、馬鹿なのが若者なんだから仕方ない。古今東西、元気はあるが、考えは足りず、仲間内で目立つことだけが生き甲斐の、若者という人種が一度は辿る道なんじゃないだろうか。程度の差はあれ、昔から、この程度の悪ふざけは、皆隠れてやっていたと思う。ただ、昔と違って、今は手元にスマホというものがあった。

和民かどこかでの飲み会の話の種にしておけば、5分くらい盛り上がって、それだけで終わっていた話だと思うと、ちょっと気の毒。まぁ、穏便に済ませてあげて欲しい。

ただ、被害を受けた飲食店の対応、ネットでの彼等への異常な攻撃の根底に、日本古来の穢れ思想があることが、興味深い。

だいたい、冷蔵庫に入ったり、裸で椅子に座った程度のことで、食中毒になんてならない。それなのに、飲食店側は、休業して洗浄消毒、フランチャイズの停止、中には店を閉鎖するようなところも。

鼠が床下を走り、ゴキブリを素手で叩き潰すおばちゃんの作る混ぜご飯を、毎日タイの屋台で食べてた自分には、正直、過敏すぎると感じる。(ちなみに洪水の次の日、道の真ん中に大きな水溜まりが出来ていたのだが、その中に取り残された鮒も、おばちゃんは唐揚げにして出してきた)

これはつまり、「よごれ」でなはく、「けがれ」に対する対応なんだろうな。

「よごれ」が一時的・表面的な汚れであるのに対し、「けがれ」は永続的・内面的汚れで、「物忌み」や「清め」等の儀式抜きでは、晴らすことが出来ない。過剰な洗浄消毒は清め、休業や、お店の閉鎖は物忌みなのである。そして、「けがれ」は伝染し、共同体の秩序を乱し災いをもたらす。だから、ネット民は怒り狂ったのだ。

また、日本の穢れは、西洋の原罪と違い、あくまで主観的な「感覚」である。誰も知らなかったら実は発生しない。ネット民の怒りには、わざわざネットでアップして教えやがってという含みもあるように感じる。

ネットという最新のテクノロジーと、日本人の古層にある思想や概念、それが出会うと大体不幸なことが起きるのだが、このtwitter炎上も、その例の一つなのだろう。
三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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