男子厨房に入るべからず?

男子厨房に入るべからずという言葉があります。

女性が料理し、男は食べるだけというのが、日本の伝統的家族生活であるという印象を、この出典不明な言葉は作り上げてきました。

で、今、はゆまの手元には「幕末下級武士の絵日記」という本があるのですが、このなかの絵を見ると、男は厨房に入りまくっています。別に厨房でなくても縁側に長火鉢を置いて豆腐田楽を焼いたり、芋汁をよそったりと、結構、昔の武士は気さくに料理したり、配膳したりしていたようです。

大体戦国時代に遡っても、伊達政宗は「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」と言っていますし、由緒正しい室町武士の気質を残した細川幽斎も料理が大好きでした。イメージと違い、武士はひょこひょこ厨房に顔を出していたようです。

ただ、これまたはゆまの手元にある「中世の家と性」という本によると、厨房のなかに男女共いる場合、まったくジェンダーがなかったかというとそうでもないようで、野菜や果物は女性が小さなまな板を使って切り、肉や魚は男性が大きなまな板を使って切っていました。そして煮炊きなど火を使うのは女性で、意外なことに、お櫃を手元に置いて家族全員にご飯をよそってあげるのは男の役割でした。

「かぁちゃん、おかわり!」

じゃなく、

「とうちゃん、おかわり!」

だったのですね。

何にせよ、家事は男女分担というのが、実は日本の古きからの伝統でした。

じゃぁ、いつから男子厨房に入るべからずになったのかというと、どうも明治時代からのような気がします。男が女に厨房での仕事を押しつけたというより、富国強兵を国是とした近代国家が厨房から男を取り上げたのですね。

なので、男が料理をするのは草食化でも新しい家族の形でも何でもなく、長いスパンで日本の歴史を見ると実に当たり前な、むしろ保守回帰なことだったりするのでした。

文楽かんげき日誌に寄稿させてもらいました

国立文楽劇場さんの「文楽かんげき日誌」に寄稿させてもらいました。

ブログでも何度か紹介させてもらっていますが、文楽は、博物館の奥でショーケースに入れられたいわゆぶ「文化」ではありません。スマホを操る私達現代人も面白がらせたり、怖がらせたり、泣かせたり、そして興奮させたりする生きたエンターティメントです。

決して、敷居は高くないので、皆様、是非文楽劇場へ足をお運びくださいますよう。

http://www.ntj.jac.go.jp/bunraku/diary/25/diary37.html

平野に降りていく戦国武将

もし、戦国時代から江戸時代にかけての人の動きを、俯瞰形ゲームのシヴィライゼーションやAOEのように見ることが出来たら、盆地や山岳地帯から海側の開けた平野にぞろぞろと人の群れが動いていくのを観察出来たかもしれない。

豊臣政権から徳川政権にかけて、全国の有力な地方武将は拠点をそれまでの山岳地から海側の開けた平野に移動している。毛利輝元は元就以来の吉田郡山から広島へ、長宗我部元親は岡豊から高知へ、伊達政宗は岩出山から仙台へという感じだ。

日本の代表的な平野は大河の堆積作用によって出来た沖積平野がほとんどなので、平野部の開発は常に治水とワンセットになる。平野部に拠点を構えられるようになったのは、平和になったからというのもあるが、大規模な治水を可能に出来るだけの権力が、検知や刀狩りを通じて地方大名達に備わってきたということだ。

一方、濃尾平野を拠点にした織田家、大阪平野を拠点にした豊臣家、最初は岡崎平野に次に関東平野に拠点を移した徳川家は、最初から平野に降り立った大名だった。他の戦国武将達は彼等の仕様を見て、一つ真似してみようかと、平野に降りてきたのである。

平野は怖い

はゆまの実家のある宮崎平野は、結構広い平野なのですが、本格的に開発されたのは明治時代以後で、それまでは民家がたった五軒ある程度の荒野だったそうです。真ん中を大淀川という大河が流れていますし、幾らでも水田を作り放題だったろうになぁと思うのは、素人考えで、実は平野部の開発というのは、ハイリスク・ハイリターンな事業なのでした。

まず、平野部は盆地や山岳部と違い身を守るものが何もありません。また、山岳部で棚田を作るのと違い、平野部での灌漑事業には、一キロで数十センチほどの傾斜の水路をつくるといった高度な技術力がいります。そして、東日本大震災での記憶が新しいように、海川、両方からの水害に誠に弱い。

大阪平野でも、四天王寺や住吉大社、また難波宮といった古い建造物が、全て上町台地の上にあるように、昔の人は海際の平野は危ないということを経験から知っていました。東日本大震災でも、昔の城や街道があった場所は、ほとんどが無事だったそうです。

どうも人類が農耕という技術を身につけてから、それを平野部で展開するまでには、無数の挑戦と失敗があったように思います。ナイル、メソポタミア、華北、文明発祥のいずれの地でも、ノアの洪水伝説に似た神話を伝えています。山岳部で細々と焼き畑や棚田式の農耕を行っていた集団が、大河の畔で新しい農業の仕方を展開しようとして、集落を作ったのも束の間、洪水によって全滅する、そういったことを繰り返していた時期が人類にはあったようです。ノアの伝説は、「だから、平野に降りていったら駄目だぞ」という戒めのために語られていたのでしょう。

ただ、そうした戒めもむなしく、勇気と知恵、そして起業家精神に満ちたリーダーに率いられた大集団が、好運にも恵まれ、大河をコントロールし、目の届く限りの地平を埋め尽くす水田や畑を作ることに成功します。それは都市、顔見知りでない者同士が一つ所に住んでいる場所の誕生、そして文明の誕生と同義でした。

翻って宮崎平野のことを考えると、結局、旧国名で言うところの日向の地に、この平野の隅々まで満たすほどの大権力があらわれなかったのが、ほったらかしの原因だったのだと思います。戦国の伊東氏は十分成長しきるまえに島津氏に倒され、江戸期も日向国は幾つかの大名によって分割統治されていました。宮崎平野を本格的に開発できる大権力が宮崎に現れるまでには、明治近代国家の誕生を待たなくてはならなかったのです。

延岡学園準優勝!

延岡学園が準優勝!

これで、今年、宮崎はサッカー、バスケで優勝、野球で準優勝したことになる。いつの間にか、スポーツ強国になったな。何にせよ、選手の皆様はおめでとう、そして、お疲れ様でした。

しかし、大人って勝手だな。自分の高校時代、どんだけいい加減に生きてたかは棚に置いて、純粋な高校球児なるイメージを選手達に押しつけようとする。花巻東のカットバッティングもサイン盗みも、ルールの範囲内でやってるんだから別にいいじゃないか。

それよりも、非人道的なスケジュールの方をどうにかしろって。

宮崎帰省の思い出

14日から16日まで故郷の宮崎に帰省していました。

色々美味しいもの食べてきたので写真をup。ちなみに、下の写真は、母方の実家から撮ったもの。見て通りのど田舎ですが、山一つ隔てて海が近いので意外と海産物が豊かだったりします。
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まずは、これ。はゆまも初めて食べた亀の手という貝です。磯の岩やテトラポットによく張り付いているそうで、名前の由来は、そのまま亀の手に似ているから。

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手の部分は固いので、岩やテトラポットにひっつくのに使われる吸盤の部分を引きちぎり、専用の金具で肉をほじくり出して食べます。身の部分は少ないのですが、あっさり淡泊でなかなか美味しい。DSC_0091.jpg

もう一つ食べた貝は、ニナ。これははゆまも子供のころからよく食べていました。爪楊枝で身をほじくり出すのですが、亀の手とは対照的に濃厚な味わいで、ビールや焼酎なんかによくあいます。写真の奥にある赤霧島はこれで全部空けました。

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締めはデザート。父方の叔父さんの作っている葡萄。一つ一つの玉がとにかく大きく、瑞瑞しい。黒いのはブラックビートという品種で、甘みと酸味のバランスが絶妙。一番美味しかったです。赤い果肉が舌の上で何度もはじけました。
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最後は、近所の道の駅で食べたプリン。どこかで見たような名前が……
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美味しいものを食べて、美味しいものを飲んで、御先祖さまの墓参りもしっかり出来た有意義なお盆でした。

SNSと変身願望

最近、twitterをはじめた。まだ使い方はよく分からないが、なかなか面白い。人のつぶやきを見ているだけでも楽しいし、簡単に自分の近況を伝えることができるのはなかなか便利だ。バルス祭も楽しませてもらった。皆が盛り上げようとしていることに、素直に乗っかって、盛り上がるのもたまにはいいものだ。

twitterに限らず、facebook、mixiとか、他のSNSも使わせてもらっている。学生時代の友人と、また繋がりが出きて、本当に便利な時代になったものだ。旧友が頑張ってる姿を見ると、自分も頑張ろうと励みになる。

ただ、若干の不安もある。

いつも誰かと繋がっているという感覚は、人を強くもすれば、弱くもする。特に作家という職業は、一人で妄想を膨らませ、文章を連ねていく、孤独なものだ。必ず、身に繭をまとって、外界から背を向け、自分の世界にどっぷりと浸る時間がいる。というか、作家だけじゃなく、どんな職業でも、こういった時間は必要だと思う。

また、働くということに限らず、人生においては、一人、自分の内界に深く沈潜する時間が必要なときが、必ずあるんじゃないだろうか。特に自分の今の環境に納得できず、転職や引っ越しをしたいと思うとき、既存の友人とのつながりがその妨げになる場合が多い。

うちのブーチンは、はゆまが家に帰ってくると、必ず足につきまとい、匂いをかぎ、そして頭をこすりつけて、自分の匂いをつける。匂いを通じて、「あなたはあなたね。そしてわたしはわたしよ」ということを確認する毎日の儀式だ。基本的に、人間の友達同士のコミュニケーションも同じで、同窓会のときなんかは、それが顕著にあらわれる。みんな「いやー、変わらないなぁ」って嬉しそうに言うよね。

だから、自分を変えたいときは、大好きなはずの友達達とのつながりが逆にしんどくなってしまう。

親しかった友達から急にパタッと連絡取れなくなって、それっきり。こんなに極端じゃなくても、卒業とか引っ越しがきっかけで交流のなくなった友人というのは皆結構多いと思う。また、意識するしないに関わらず、貴方自身が友人の前から姿を消したと思われている場合だってあるだろう。でも、それはとても寂しいことではあるけれど、いちがいに悪いこととも言えない。人生のしかるべきときに、自分を次の段階に進めるために、繭をつくり、さなぎになって、変身を遂げたということなのだから。実際、はゆまも小説家修行中は、以前の友達達とは本当に一切連絡を取らなかった。

だが、それがSNSが常にあると、友人達とずっと繋がった状態のままになってしまう。「あなたはあなた。そしてわたしはわたしよ」という日常的に繰り返される儀式のなかで、いつしか変態の機会を逃してしまうのではないだろうか。はゆまのような大人はもういいかもしれないが。小学校のときから、スマホ片手に、LINEを操る今の子供たちのことは心配だ。

あまりいい例ではないかもしれないが、アメリカのスラム街「ハーレム」の住人が、貧しいまま世代を重ねていくのは、あまりにも住民間の結ぶ付きが強固なせいらしい。ストロングタイズというそうだが、子供のときにつきあっている人間と、大人になってつきあう人間の顔ぶれが変わらず、その仲間内同士での評価があるため、貧しくてもそこで自足してしまう。勿論、これは悪いことではないが、そのせいで、ハーレムの人達がつかむ権利のある機会を逃しているのだとしたら、とてももったいないことだと思う。

SNSの結ぶつきが、子供達をしばりつける、ストロングタイズとなって、変身の機会を奪ってしまう。何となく、そんな懸念を抱いてしまうのだ。だから、皆様、時々は、twitterでのつぶやきを一休みし、スマホも押し入れに放りこんで、一人旅などに出掛けられますよう。

なんて書いたブログの更新をtwitterでつぶやいてみる。

twitter はじめました

twitter はじめました!

https://twitter.com/hayumakurosawa

宮崎駿「風立ちぬ」考察(2)

今、ネットで、下記のような宮崎駿の発言が話題になっているようです。

人がいなければ日本はものすごくきれいな島だと思った。日本の国や日の丸が好きになったのではなく、 日本の風土というのは素晴らしいものだという認識を持つようになりました。


そもそもその土地の風土と、住む人は密接に結びついています。ドイツ人のいないドイツの風土というものが考えられないように、日本人のいない日本の風土というのもありえません。日本に松林が多くなるのは稲作の始まった弥生時代以降のことですが、それは、田んぼの堆肥にするために、せっせと原日本人が山に入り、落ち葉を拾ってきたためです。縄文時代に全盛を極めていた広葉樹は腐葉土がないと涸れますが、松は逆で、腐葉土がたまると涸れてしまうのですね。松に富士山、浮世絵でおなじみの光景は、日本人がいてこそのものなのでした。

ていうか、この程度の知識は間違いなく宮崎駿は持っているはずです。なんてたって、宮崎駿の対談本で上記の知識は仕入れたんですから。なので、上記の発言も、セルジオ越後が日本代表の悪口を言うようなもんだと思えばいいのですが、怒る人がいるんですね。ユーモアを介さない人というのは困ったもんです。

ただ、宮崎駿は若い頃は、本気で日本の風土、特に戦前のものが嫌いだったみたいで、日本の村を見ると、封建主義と迷信人身売買の巣窟だと感じていたといった類の発言をしています。

先日、はゆまは、宮崎駿の「空のいけにえ」を引用して、彼のなかで、飛行機に対する懐疑と、自分自身の職業に対する懐疑が重なりあっていると言いました。が、実は、もう一つ重なっているものがあって、それは日本の風土に対する懐疑です。愛してやまず、自分の創作者としてのルーツに他ならない飛行機と戦前の日本の風土、しかし、そのどちらもが、自分が最も憎むあの戦争へと行き着いてしまった。だとしたら、自分の作品も、いつか戦争に行き着いてしまうのではないだろうか。

「風立ちぬ」で、戦争の描写を飛ばし、その後の焼け野原の光景に、あえて関東大震災後と同じシーンを使っているのには深い意味があります。観客が、東日本大震災後のあの荒廃した光景と重ね合わせて見るようにです。「風立ちぬ」の主人公二郎は、設計者としてゼロ戦に携わり、そのことによって荒廃した日本を子供たちに残してしまった。そして、また自分自身も、アニメ映画監督として子供にずっと関わって生きていながら、結局同じ荒廃した光景の日本を残してしまっている。まだ戦争は起きていないが、ひょっとしたら、関東大震災後に戦争に突入していった戦前の日本のように、これからの日本もそうなるかもしれない。

だとしたら、自分は許されるのだろうか?

宮崎駿はそう何度も自分に問いかけたに違いありません。

そして、その問いへの答えが、この映画です。

映画のラスト、二郎の夢のなかで、ヒロイン菜穂子は、「許す」と言います。この許すは、様々な意味のこめられた「許す」です。

では、何が何に許されたのか?

これをキーに論考を進めて行こうと思います。

◆戦前の日本の風土と飛行機

黒船という西洋の先進テクノロジーへの衝撃から、明治維新は起こりました。そのため、戦前の日本の男の理想像も、それに沿ったもので、いわゆる「末は博士か大臣か」でした。一杯勉強し、よい大学に入り、、出来れば洋行と言われた海外留学をして、世界の進んだ技術を輸入して、理工系の博士になること。それが、当時の男の子の理想の一つとされていました。

劇中の二郎も、またモデルとなった堀越二郎もそうした理想をかなえた人物です。藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科をそれぞれ首席で卒業し、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社というのは、一万人に一人もいないエリートコースです。ヒロインの菜穂子は、まっさらなスーツを着た二郎のことを、白馬の王子様と言いますが、そう言われてもおかしくないような立場の人間でした。

ヒロインの話が出ましたが、戦前には、もう一つ理想がありました。これも、先の先進技術に対する憧れと同じく、ヨーロッパ、それもドイツから来たものです。ロマンチックラブというやつですね。もともと日本人は、他のアジア人と比べたら男女間の纏綿たる情緒を大事にしてきた民族ですが、源氏物語の複雑な恋愛模様を見れば分かる通り、一対一の関係を貫き通すのを是とする倫理感は持ち合わせていませんでした。それよりも、嫉妬や疑い、別離の予感といった、湿っぽい情緒も照り映えにしつつ、多対多、複雑な男女の織り模様を綾なす方が好きだったのです。

それが、ゲーテを初めとするドイツ文学によって、初めてロマンチックラブという概念が、日本に持ち込まれました。二郎と菜穂子の関係には、戦前流行したロマンチックラブをほのめかす描写がいくつもあります。そもそも、映画のタイトル「風立ちぬ」が堀達夫の、戦前ロマンチックラブ小説の代表的な作品から来ていますし、菜穂子と再会する山荘で、二人の恋の立会人になるカストルプはドイツ人です。彼は終始、「ここは魔の山」と、ドイツの代表的な文学者、トーマスマンの作品を引き合いに出しています。また、ヒロインの菜穂子の名の由来が、これまた堀辰雄の「菜穂子」という小説です。実は、この小説での菜穂子はロマネスクを完全に拒絶し、心の平和を求めて、愛のない結婚に走ったという人物ですが、わざわざこんなキャラの名をあやかって強調したかったことは明らかです。

西洋から来た、先進技術への憧れと、ロマンチックラブ、どちらも、戦前、日本人が追い求めた美しいものでした。しかし、こうした無垢な憧れは、戦争によって皆命を絶たれます。先進技術への憧れは原爆によって、ロマンチックラブは、日本の男は日本の女を守れなかったという冷厳な事実によって。

しかし、宮崎駿は、この映画で、戦前の日本人が追い求めた美しいものは、あくまで美しいものとして描きました。

そうすることで、彼は、自分が生涯をかけて憎み愛してきたこと、飛行機と、かつて、封建主義と迷信、人身売買の巣窟とまで罵った戦前の日本の風土を「許し」たのです。

◆二郎と宮崎駿

「風立ちぬ」の主人公、二郎はジブリのヒーローとしてはかなり特殊なキャラクターをしています。飛行機の設計ということに対しては少年のような情熱を持っていますが、現実世界に対してファナティックなところはほとんどなく、人当たりはよく、とても静かで、とてもやさしく、そしてとても強い人です。

飛行機を軍事に使われることには戸惑いを時々見せますが、機関銃を乗せなくてはならないという課題のためには、技術的妥協も割合あっさり受け入れます。美しい飛行機を作るという「夢」のためには、彼は不本意な「現実」とも折り合いをつけれる人物なのです。自分の出来ることと出来ないこと、責任の負えることと負えないこと、そうした限界を見極めつつ、ベストではなく、モアベターな選択を重ねていく彼は、欠片も不正を許せず、現実という固いガラス戸に真っ正面から飛び込んで、案の状傷だらけになる、これまでのジブリのヒーロー像、コナンや、パズーや、ルパンといった人達とはまるで違います。彼は戦略や交渉といったカードも切れる、あくまで「大人」の人物なのです。

「大人」なのは、ヒロインの菜穂子との関係からも分かります。印象的だった初夜のシーン。菜穂子は褥に二郎を誘います。二郎は病気の菜穂子の体を「でも」と気遣うのですが、菜穂子が重ねて「来て」というと、二郎は微笑んでそれに答えるのでした。勿論、明かりが消され、立ち上がっていた二郎の体が下に消えてゆくという、小津的嗜みに描写は留められてはいますが、それにしても、ジブリの映画で、ここまで濃厚に性的行為がほのめかされたのは初めてです。二郎は性的エナジーを所有し、そしてそれをコントロールできるという点でも、大人なのです。彼はヒロインを「抱きしめる」だけでなく、「抱く」こともできるのでした。

二郎は、宮崎駿の分身です。これまでのジブリの主人公達も皆宮崎駿の分身でしたが、それは彼の少年の部分の分身でした。しかし、二郎は、宮崎駿の大人の部分、子供の部分、全てひっくるめた総体としての分身です。(まぁ、美化されすぎてはいますが)

宮崎駿もアニメ映画を作ることに対して少年のような情熱を燃やす一方、お金を引っ張り出すためには、スポンサーや広告代理店、また鈴木敏夫プロデューサなどに対し、老獪な駆け引きをしてきました。また、結婚して、子供もいる、家庭人でもあります。

この分身たる二郎に対し、菜穂子に「許す」と言わせることで、宮崎駿は、自分自身の、創作家としての半生を許し、肯定したのです。

◆許すということ

しかし、この「許す」というのは、免罪とは違います。責任もつきまとう重い「許す」です。

菜穂子は、「許す」の後に、「生きて」と言いました。

ひょっとしたら創作家としての創造的時間を終えてしまったかもしれない自分だが、そこで人生が終わるわけではない。今の日本、これからの日本に対する責任は死ぬまで背負い続ける。

だからこその「生きねば」で、だからこその、映画公開直後の、冒頭問題となっている文章もある「熱風」への記事寄稿だったのでしょう。

この映画に対する評価は、全般的な傾向として業界人には好評だが、一般の人には不評なのだそうです。業界人というのは、自分も創作に携わる人全般を指すのでしょうが、何となくはゆまにはその理由が分かるような気がします。この映画は、宮崎駿が創作家としての自分自身に真摯に向き合い、ほとんど、己のためだけに作った映画なのです。声優で参加した庵野秀明氏の言葉を借りると、完全にパンツ脱いじゃった映画なのですね。

そんな映画なのに、ちゃんと芸になってて、作品になってて、おまけにどんどんお金を稼いじゃう。うらやましいな~という気持ちもこめて、創作に携わる人達は、高評価を与えるのでしょう。

ちなみに、17年前に、まったく同じ動機で、同じようなことをした庵野秀明のエヴァンゲリオンは、面白かったけど、芸にも、作品にもなっていませんでした。そんな不肖な愛弟子を、この作品の主演にさせたのは、「いいか、これが芸ってものなんだぞ」という宮崎駿なりの教育だったのかもしれません。

その意味で、宮崎駿は、本当に全ての方面において誠実な人なんだなと思いました。この作品を作った宮崎駿、庵野秀明、ジブリを初めとする、全ての人に、はゆまはブラボーと言いたいです。
三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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