風雲児たち 幕末編 22巻

風雲児たち22巻読了。

今回は、前巻で、熱を入れて書かれた桜田門外の変の後日談と、咸臨丸渡米の様子がメイン。

幕府の見栄の取り繕い方の見苦しさと、咸臨丸上の若き日の勝海舟、福沢諭吉らの溌剌とした活躍ぶりが対照的。

前巻で非業の死を遂げた井伊直弼や、安藤信正、一色直厚といった幕府側の人々も、本来優位な人材だったと思うが、どれほど個人ががんばっても、一度ヤキが回った組織というのは駄目なんだな。

ちなみに興味を持って調べてみたところ、咸臨丸の咸臨の意味は、『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味するらしい。こんなところにも、権威の落ちた幕府のおもねりみたいなものを感じる。

また、咸臨丸の実質的な指揮官だったジョン・ブルックの描写も秀逸。日本人の誇りを守るため、記者会見では「日本人乗組員達は十分な技術を有していた」とフォローし、実態の書かれた航海日誌を五十年公開させなかったという。この人についても調べると、深海の測深に重大な貢献をする装置を発明し、それが後の大西洋横断海底ケーブルの敷設につながるなど、発明家としてもすごい人だったらしい。アメリカには色々言いたいことはあるが、草創期の日本に対して惜しみなく人材を供給してくれた点は、素直に感謝したいと思う。

ハワイのカメハメハ大王などについての寄り道話も楽しかった。自分の銅像を作る際に、ハンサムな家来を指名してモデルにしたという逸話には大笑い。やっぱり南海の王様というのは、おおらかなんだな。

それにしても、1979年からはじまった本作の連載も、ついに34年を突破。まだまだ先は長いが、前方にかすかにゴールが見えてきた感じだ。この本のタイトルが「風雲児たち」である以上、最終回は、最後の風雲児が斃れたときになると思うが、それは誰なのだろうか? 今から楽しみだ。そして、もう66歳の作者の健康だけが心配である。

鎌倉のイケメン達

先日、知り合いの女性と宗教談義になった。

それまで、そういったイメージは全くない方だったのだが、マレーシアでコーランの祈りを聞いた経験を語ったところ、目を輝かせて、実は自分も、最近浄土真宗で得度を受けるために修行をしているんだと、目を輝かせて話し出したのだ。

今の日本では、どうも宗教というと、ちょっと正面向いて語れない雰囲気がある。はゆまも、一瞬ひやりとしたのだが、その女性は、なかなか思考の分の厚い、バランス感覚の優れた方で、宗教に対する思いはファナティックなところは少しもなく、温厚でやさしかった。もともと、はゆまの宗旨も真宗で、幼少期から、あの念仏の独特の節回しに包まれて育ってきた。それで、真宗の話題で結構盛り上がったのだが、改めて、鎌倉時代に、次々とあらわれた、法然、親鸞をはじめとする仏僧達は偉かったなと思った。八百年後の若い女性にも理解でき、そして救われる教えを作り上げたのだから。

泥にまみれた庶民が、刀を持ち、葦の茂みを割って、名乗りをあげはじめたのが鎌倉という時代だった。置き捨てられて当然と思われていた心達が救いを求めて蠢動しだすや否や、即座に応える新興宗派が出来るのが、日本の面白さだ。この時代、法然、親鸞だけでなく、日蓮、栄西、道元、明恵など、世界史に出しても恥ずかしくない偉大な宗教家が幾人も産まれた。そして、彼らには、共通点がある。それは何か?

みーんなイケメンでした。そして、すごく声がよかった。山一つ隔ててもお経が聞こえるくらい。

もともと、それまでの既製仏教では、女三界に家なしといって、女性は不浄のもの、救われないものと言われていました。それが、「うんにゃ、救われるで」と、イケメン達が言い出したものだから、さぁ大変。彼らが説法に出ると、女性がわんさか集まってくるのですね。いわば、今でいうロックスターかアイドルみたいなもので、彼らのお経の声を聞いて卒倒する女性がたくさんいたくらいでした。

そのなかでも、一番、シンプルで分かりやすい教えだったのが、浄土真宗。誤解を恐れずに言うと、「念仏唱えとけばええねん。そしたら救われるねん」というものだったので、大ヒット。鎌倉新興宗教のなかでも、最大の勢力を誇ることになり、後に織田信長をどついたり、上杉謙信をどついたりするまでになりました。

もちろん、真宗の教えは、こんなはゆまの雑な説明で語り尽くせるものではなく、もっと奥深いものです。その奥深い襞に分け入って、若い女性が救いの道を探す旅に出ようとするのは(もちろん、今の生活や、将来やりたいことを犠牲にしない範囲でですが)とても素敵なことだし、頑張って欲しいなと思いました。

いつか、はゆまも鎌倉のイケメン達の葛藤や、新しい宗派が出来るまでのドラマを描く小説を書きたいなぁ。

公園の猫

長年、ガラケー派だったのだが、最近宗旨替えしてxperia Aを買った。でっかいなぁと思っていたが、色々カスタマイズして、自分色に染めていくと、こいつがなかなか便利。

特に素晴らしいのがRunKeeper。GPSで距離とタイムを記録し、走っている最中には自分のペースを声で教えてくれるのでジョギングがはかどる、はかどる。ジムに入ってから、足が遠のいていた長居にまた通うようになった。

六月は、春の桜とともに育まれた愛の結晶達が親元を巣立つ季節だ。ちょうど公園の入り口辺りに、黒ブチの子猫がいた。人間から一度も嫌な目にあわされたことがないのだろう。自分から寄ってくると、ごろんと寝転んで、お腹を見せた。
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撫でてやると、嬉しそうに喉を鳴らす。夜、外で見る猫は、皆瞳が目の縁から溢れそうなほど大きく可愛らしく見えるが、この猫は体の小ささと、仕草の愛くるしさがあいまって、抱き殺したくなるほど可愛かった。ちびと命名する。多分、すぐもらわれていっちゃうだろうなぁ。ブーチンと喧嘩しなかったら、持って帰ってやってもよいのだけど……

花金

金曜日は、同じくアップルシードエージェンシー所属の詩人、吉井春樹さんと寿司を食べに行きました。

はゆまとは対照的な、一点の影もない、明るく日当たりのよい詩を書かれる方で、その作品を読むと、人生を前向きに解釈して、明日もがんばろうという気持ちになります。吉井さんご自身も、作風を反映して、明るく、おしゃべり上手、それでいて苦味ばしった感じの、ダンディーなイケメンでした。デビューのきっかけが、奥様への誕生日プレゼントに本を贈ろうしてのことだったというのも素敵ですね。

造りの盛り合わせに、はまちやしま鯵の握り、珍しい鯨ベーコンなどをつまみのおしゃべりは、創作にかける思いなど、さまざまな話題がこんこんと湧き上がり、あっという間に時間が過ぎてしまいました。まだまだ話したかったのですが、奥様と赤ちゃんが待っておられるということで、吉井さんは十時くらいにスマートに帰宅。はゆまも素直に帰ればよかったのですが、のん兵衛なのでなんとなく飲み足りなく、お師さまのリズールと地元のバーをはしごして、帰ったのは翌朝三時でした。

お冠のブーチンをマグロスティックでなだめつつ、床につきましたが、目がさえ、なかなか寝付けませんでした。言葉とかアイデアがどんどん自分のなかで沸き起こっている感じ。こういうのをよい刺激を受けたっていうんだろうな。もっとがんばって、もっとうまくなろう、そしてよい作品を作ろう、そう思わせる出会いっていいですね。充実した金曜日でした。

雁のリーダー

雁についてのドキュメントを見ていたら面白いことを知った。

雁といえば雁行形という言葉の元にもなった独特の群れの形で知られる。両辺を持つか、片辺だけかの二通りあるが、斜めに少しずつずれながら飛んでいく形状である。群れのリーダーは当然、先頭を行く鳥で、彼が集団の行き先を決める。

この独特の群れの形には、実は科学的な理由があって、雁が羽ばたくとき、左右斜め後方に空気の渦が出来る。この渦が上方気流を作るため、雁は飛びやすいよう、仲間の斜め後ろ、斜め後ろに行こうとして、自然にああいった群れの形になるのである。

上方気流は、群れの後ろに行けば行くほど、渦の効果が重なり強くなる。そのため、群れの最後尾には、まだ若くて未熟だったり、年老いた鳥が配置される。彼らは自分の力よりは、仲間の羽ばたきに拠って、体を浮き上がらせることが出来る。

一方、ドキュメントでは、そこまで言及していなかったが、この理屈を延長していくと、最もつらいのは、先頭を行く雁ということになる。誰の渦に頼ることも出来ないうえに、彼の作る渦だけが、群れのすべての鳥が乗ることになるために、誰よりも強く羽ばたかなくてはならない。つまり、彼は自分ひとりのためだけでなく、群れすべてのために羽ばたくのである。

ドキュメントを見終わったとき、不思議な感動が身を包んでいた。秋にやって来る群れ、春に去って行く群れ、いずれを見るにせよ、これからは決して漫然と見ることはなく、必ずその先頭を駆る鳥に目が行くだろう。彼こそが、種を越えて、共通するリーダーの役割を、わき目もふらず果たしているものなのである。集団の方向を指し示すことと、集団の勇気を掻き立てること。その両方を。

マレーシアから帰ってきて

先日土曜日の早朝、日本に帰ってきた。クアラルンプール空港から関西空港までは、直行便でも七時間かかる。タラップ降りたときは、体ががちがちだった。

マレーシアについて、色々感じたことがあるので、思いつくまま、五月雨式に書いていく。

まず、道について。日本よりは劣るが、かなり綺麗。チクタクバンバン式に、考え無しで道を繋げていった結果、Uターン形のハイウェイというものまであるタイとは違い、都市をどういった形にしたいかというしっかりした戦略が感じられる。看板もあまりない。バンコク空港では、空港から一歩出た瞬間に、ところ狭しと看板が立ち並んでいたが、クアラルンプール空港では、しばらく行っても、サムスンの看板が二、三個あっただけだった。

料理は、全般的にスパイス抑えめ。タイだったら、日本のネギみたいに、どんな料理にでも投下されるパクチーもそんなに見なかった。はゆまはパクチー大好きなんで、ちょっと残念だったが、このカメムシをかみつぶしたような香草が苦手な日本人は多い。舌に爆竹のっけられたような青唐辛子の大量投下もないので、日本人の口にはあうものが多いと思う。

一緒に働いたスタッフはほとんどが華僑だった。ただ、現地マレー人との混血も進んでて、肌色は濃く、顔立ちもエキゾチックな感じの人が多い。それでも、名刺には、明代か清代にこの地にやってきた御先祖の姓が漢字で書かれてある。本籍地のこともしっかり覚えているようで、おとんが昔中国の広州で働いていたよと言うと、ITチームのスタッフの一人が
僕の故郷だと嬉しそうに言ってきた。

マレー人のスタッフもわずかながらいた。はゆまがおしゃべりしたのは、イスラムのフードを被ったマレー人女性。フードといっても、スカーフを軽く頭に被っているだけで、中東の女性の真っ黒で完全に顔を包んだフードのような威圧感は感じない。英語で冗談を乱発し、一人でにカラカラと笑う、元気おばちゃんだった。タイや、インドネシアで顕著な、経済的に成功をおさめている華僑系に対する、激しい敵愾心というのは、マレーシアではあまりないようだ。ブミプトラ政策により、公務員採用や、租税などでマレー人は下駄をはかせてもらっているからだろう。大部分が華僑系のスタッフのなか、彼女はチームのムードメーカーになっていた。

印象的だったのは、会議室に一人残り、事務処理をしているとき聞こえてきた、近くの寺院のコーランの声。鳥肌がたつほど凄い迫力だった。様々な音素が微妙にずれつつ、重なり合い、もの凄い「圧」をもって、体全体を包み込んでくる。本当に、飲み込まれるという感じ。寺院から少し離れた場所でこれなのだから、実際にモスクできいたら、本当に改宗しかねない力を持っているのだろう。

個性豊かな東南アジア馬鹿四兄弟、タイ、カンボジア、ベトナム、ミャンマーと比べ、そつなく、淡々とした国民性だなと思っていたが、その根っこのところには、やはり「イスラム」というものがあるようだ。優等生的で、ちょっと物足りないなぁと感じていたが、意外と奥の深い国なのかもしれない。次の出張も楽しみ。

マレーシアなう

はやいものでマレーシアに来てから三日が過ぎた。

ここまでの印象だと、国柄は落ち着いて上品な感じ。どこに行っても歌って踊ってる人がいるタイとは大違い。

皆無口で物静か、そしてシャイだ。多民族の共生が国是ということだが、それを実現しているというよりは、民族内で固まって、互いに迷惑をかけないようにおとなしくしている感じ。

料理の味付けも控え目。お昼に肉骨茶(パクテー)という豚肉を薬膳スープで煮込んだマレー料理を食べたが、それも東南アジア料理の本道を踏まえながら、スパイスをおさえ、落ち着いた、どっしりとした味付けだった。日本人の口にはよくあうと思う。何杯も皿に取ってしまった。

ただ、ホテルはよろしくない。wifiはつながらないし、サムスンのエアコンの室外機が、サムスンの洗濯機の上に二台重なって置かれ、そのせいで洗濯機は水浸しになっていた。アースもないし、これ感電するんじゃないのか……

ホスピタリティという点では、やはり微笑みの国、タイの方に軍配があがるかな。

夕飯は、地元の人がよく行くようなフードコートにチャレンジしてみた。フードをかぶった女性のいる店で、SOTOとかいうマレー料理を注文。カレーベースのスープに、ミーフンと里芋をもっと淡白にしてモチモチさせた芋のようなもの(キャッサバ?)が入っていた。かなりうまし。

ほくほく食べてたら若いアンちゃんから「ビアはいらないか?」と聞かれたのでタイガービールを注文。一人でしっぽりやってたら、やせた子猫が近づいてきた。足に勢いよく頭をぶつけてくる。お腹が減ってるのかなと思い、キャッサバ?を放ってやる。子猫の頭くらいある大きさだったが、彼はそれを口でつかむと、あっという間に夜の街に消えていった。

なでてあげたかったのにな。
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マレーシア出発前夜

昼間の仕事の関係で、明日からマレーシアに行って参ります。土曜15日帰国予定です。パッキングも完了。ブーチンも行く気満々ですが、残念ながら彼は居残りです。

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「小犬たち」バルガス・リョサ

ジュンク堂で何気なく手にとって買って読んだ「ラテンアメリカ五人集」の中の「小犬たち」が面白かった。作者は、2010年、ノーベル賞を取ったバルガス・リョサ。60ページほどの短編で、様々な見方があると思うが、はゆまは、これをピーターパンや星の王子様などに代表される「永遠の少年もの」として読んだ。

永遠の少年とは何かというと、ユング言うところの、心理学的原型の一つだ。花のような美貌、疲れを知らぬ瑞々しい活力に満ちた体、不正を許さぬ清浄で明晰な精神といった特性を持っている。先に述べたピーターパンや星の王子様のほか、日本人が大好きな桃太郎や金太郎、一寸法師なども、この元型に属するヒーローである。

彼らはいわば太陽の子供で、世の不正を暴き、悪を打ちのめす。あるいは、無限の勇気と活力によって、信じられない冒険をやり遂げ世間をあっといわせたりする。

だが、光あるところには必ず影あり、彼らは以下のような病理も持っている。

・現実世界への憤慨や抵抗が強すぎ、大人としての社会的役割や責任を果たすことが出来ない
・性的欲求を前提とした異性関係を汚いと感じ、恋愛や性愛を成就させることが出来ない

また、ユング研究者で心理療法家の故河合隼雄氏によると、この元型に取り付かれた患者は、様々なことに次々とチャレンジし、そのなかにはすばらしいアイデアも確かにあるのだが、結局やりきることが出来ず、単なる思い付きで終わってしまうことが多いという。

「小犬たち」の主人公、クエリャルも、また、この元型に取り付かれた少年だ。「みんな半ズボンをはいていて、僕たちはタバコも吸わず、サッカーが何より好きで、波乗りの練習も始めたばかり」という世界に居た語り手の少年達の前にクエリャルは転校生としてあらわれる。彼は育ちがよい上に容貌も美しく、勉強もスポーツも得意な、衆に優れた子供として描かれる。また、クエリャルと語り部の五人の人間関係は、スタンドバイミーのような女の子を完全に排除したいわば少年ギャングの関係性だ。まだ、下半身が目覚めていない少年達の結びつきはサッカーやおしゃぶり飴、キャラメル、<ドノフリオ>のアイスクリームなどによって強固なものとなる。

だが、ある日、悲劇が起こる。サッカーの試合後、更衣室でシャワーを浴びているさいに、檻から逃げ出した学校の飼い犬ユダに、クエリャルが局部を噛み千切られるのだ。

この凄惨な去勢劇によって、クエリャルはほかの仲間達と違う道を歩まされることとなる。

我田引水となるが、拙著「劉邦の宦官」も同じく去勢が重要なモチーフとなっている。だが、去勢の扱われ方は、「小犬たちの犬」と「劉邦の宦官」でまるで違う。「劉邦の宦官」では、主人公の小青胡が去勢後、少女のような体つきになり、性格も女性(というか女の子)により近いものになるのに対し、「小犬たちの犬」ではむしろ去勢後、健康的な活力に満ちた体、強い冒険心などの特性は強まっている。つまり、去勢が少年性の強調として描かれているのだ。その意味で、去勢の解釈としては、宦官となってから主人公春児が諸芸に熟達した万能の存在となる「蒼穹の昴」の方に近い。

クエリャルは仲間達からこう賞賛される。

「君、ターザンになったな、一日、一日、いい身体になっていくみたいだぜ」

だが、男の中の男というか、少年の中の少年となったクエリャルと、その仲間達のもとにある影、他者が忍び寄ってくる。

そう、女の子である。

クエリャルは、グループの仲間に彼女が出来ていくことに対し、激しい拒否反応を示す。水滸伝の李逵は、親分の宋江が女に関心を持っただけで怒り狂うが、洋の東西と時の古今を問わず、少年ギャングのなかにあっては、女の子はご法度なのである。クエリャルは、時に腕力をふるってまで、恋愛という要素をグループのなかから排除しようとする。そして、自らのグループの価値観を、昔のまま、恋愛などというなよっちいことではなく、波乗りや峠攻めで示す勇気といったものにとどめておこうとする。そのために、彼は無軌道な非行を続けるが、このあたりの描写は本当に痛々しい。

だがそんなクエリャルにも、好きな女の子があらわれ、彼女をゲットするために、スーツを着込みネクタイを締め、エルビスプレスリー風に髪を決め、毎週日曜日にはちゃんとミサに通う。お相手のテレシータもまんざらでない様子。クエリャルはというか、永遠の少年達は、その活力と、規制の概念にとらわれない自由な知性から、その気になったらいくらでもチャーミングな存在になれるのだ。仲間達もほっと胸をなでおろす。

しかし、クエリャルは女の子をものにするための、最後の一歩を踏み出せない。

それは、身体的な欠陥によるコンプレックスもあるが、それ以上に精神的なもの、つまり先に述べた性的欲求を前提とした異性関係への嫌悪感のせいだ。結局、待ちくたびれたテレシータは、別の平凡な男に横取りされ、クエリャルは、彼らの前で、ナイアガラの滝よりも高い波に乗ってみせるという、哀れな意趣返しを果たす。

あとは、永遠の少年の負の要素が一気にクエリャルを押し流し、彼はイカロスのごとく転落する。無茶なレースの真似事をして交通事故を起こし、一回り年下のジャリ達と遊びだす。仲間達は、ため息とともに、

「もう、だめだ、どうしようもないな、ホモだよ」
「あんまりあいつと一緒のところを見られると、同類だと思われてしまうぜ」

というが、実際には、クエリャルはもう一度少年ギャング、下半身のまだ目覚めていない、そして自分の無鉄砲で幼稚な冒険を賞賛してくれる男の子のグループを築こうとしただけのなのだ。

しかし、就職や進学、そして結婚など、地道に(ある意味では平凡に)人生の基盤を築き始めた仲間達には、もうクエリャルの言動を理解することが出来ない。彼らの亀裂はいつしか決定的なものとなり、最後悲しい別れを迎える。

以上、小説の大筋を、永遠の少年というキーワードでたどってみた。ネット上の他のレビューを見ると、性器を失った男性の悲劇という意味合いで書かれているものが多いが、この小説が描こうとしているのはもう少し深い。

改めて、この小説の形式について触れると、一人称複数形という珍しいものになっている。ポリフォニックに四人の仲間達が、友人、クエリャルについて、語っていくのだが、クエリャルの印象の深さに比べ、四人の仲間の個性の別はほとんど感じられない、彼らの成長の仕方や成功もひどく類型的だ。

実はここに仕掛けがある。

彼らは皆読者、多くの元少年達の分身なのだ。そのために、あぁありそうだなという平凡なキャラ付け、平凡なその後の設定がされている。

はゆまを含め多くの元少年が、この小説を読んで、心揺さぶられるものを感じるのは、クエリャル的な存在というのが、実はどんな少年のグループのなかにも一人はいて、大人になるプロセスのなかで彼らとの別れを経験しているからである。これは、仲間の一人というだけでなく、自分の内なる存在としても言える。

最後、仲間達は、振り返る。

「ずいぶん苦しんだ」
「つらい人生だったろうな」

だが、鏡のなかの自分の顔に、日常が刻みつけた小さなしわを見つけたとき、ふと思うのである。果たして、クエリャルは本当にかわいそうな存在だったのか、と。そして、万巻の思いと、喪失感をこめて、思い出す、クエリャルと過ごしたあのまばゆい少年時代を。みんな半ズボンをはいていて、僕たちはタバコも吸わず、サッカーが何より好きで、波乗りの練習も始めたばかり」の日々を。
三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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