二代目猫

名前をつける間もなく、脱走した一代目猫に代わり、二代目猫が我が家にやってきた。

もちろん、近くの公園で再び拾ってきたのである。

今回は、前回キャリーの外が丸見えだったため、猫ちゃんを怖がらせてしまった反省を踏まえ、目隠し用の半透明のビニール袋を持って行くことにした。さらに肩掛け用のバンドもキャリーに取り付ける。前は、持ち帰る時、両手だけでキャリーを支えていたため、結構揺らしてしまったのだ。このことも、猫ちゃんの心をあんなにも閉ざしてしまった原因になっていたと思う。

寒くないように、キャリーのなかに敷くタオルにはホッカイロもはり付け、勿論、餌にまたたびも持って行く。前回をはるかに越える充実した装備のもと、公園に向かう。

早速、木の根元にたたずむサビ猫を発見すると、近寄ってキャリーの蓋をあける。そして、猫がじりじりと近づくのを待っていたところ、おばちゃんに話しかけられた。公園によくいる猫の餌やりおばちゃんだ。

「どうしたの? ひょっとして、その子もらってくれるの?」

「はい、そのつもりです」

「あら~、ソマリちゃんよかったわね」

言うがはやいが、おばちゃんは、ソマリの首根っこをつかみ、キャリーのなかに押し込んだ。

「さっ、はやく閉めて」

目にも止まらぬはやわざである。なんとか脱出しようとするソマリとかいう猫の引っ掻き攻撃を、結構くらっているのだが、おばちゃんは動じない。

「あ、ありがとうございます」

礼を言いつつ、蓋をしめる。とんとん拍子に話が進んでしまった。おばちゃんが登場してから、猫をキャリーに入れるまで五秒もかかってないと思う。

「この子は2年前くらいに捨てられてきてね。避妊手術済みのメス。飼い猫だったから、性質も大人しいし、人によくなつくわよ。優しい人に拾われてよかったわね。ソマリちゃん」

キャリーを、目隠しのため、ビニール袋で包む間、おばちゃんがソマリの生い立ちを教えてくれた。餌やりの人達は、横のネットワークもあるため、本当に猫に詳しい。興信所並である。

「3LDKだったら、あと一匹くらい飼えるんじゃない? 今年の冬は寒いでしょ? 冬を越えられない子も出てくるだろうし、出来たらたくさん拾っていってほしいんだけど」

有り難い言葉だが、一匹の世話だけでも大変だ。また、余裕が出てきたらということでお茶を濁し、丁重にお礼を言ったあと、立ち去った。去り際、おばちゃんが、「ソマリちゃん、幸せにね~」と声をかけてくれた。

……で、写真が現在のソマリの状態である。完全にリラックスモード。膝の上で寝たり、こたつのなかでヌーディストビーチのフレンチ娘のように仰向けになり、遠赤外線を浴びたりしている。たった一日で完全に野性を忘れてしまった。

太学時代、寮のアイドルだったが、自治会の連中に保健所に連れ去られ、非業の死を遂げた猫がいた。メスにも関わらずニャオスケといった彼女と、ソマリは毛並みがそっくりだ。そこで、ソマリの下に彼女の名前も追加し、ソマリ=ニャオスケと命名することにした。これからよろしく、ニャオスケ。

20130129220134.jpg

カバー完成

「劉邦の宦官」のカバーイラストが編集者さんから届いた。
作画は、漫画家の黒娜さかきさん。自分の書いたキャラクターが、プロの創作者によって解釈され、絵として顕現したことに、いいようのない昂奮を感じている。作った人形に、血の気がのぼり、魂が宿ったときに覚える感動とでも言おうか。とにかく耽美かつ美麗な素晴らしいイラストである。この表紙だけでも買う値打ちがある。是非いろんな人に手にとって読んでほしい。
ryuhoukanngan.jpg

引っ越し、そして猫脱走

ほぼ引っ越し完了。

本棚に本もおさめ、大分部屋らしくなってきたので、さっそく近所の公園に猫をつかまえに行く。キャリーにタオルをしき、またたびの粉末をかける。餌も中に仕込み、準備完了。

これで、目当ての猫のところに向かったところ、十匹以上の猫に囲まれた。もってもて状態である。

で、なかの一匹、目当てでもなんでもない猫が勝手にキャリーの中に入り、出てこないので、仕方なくこいつを飼うことにした。家に持って帰る途中、またたび酔いから素に戻り、少し暴れたが、キャリーを脱獄するほどの力はない。なきわめくのにも疲れると、キャリーのなかで、しょんぼりしていた。

家のなかに入ると、さすがに緊張気味。しっぽを巻いて、おびえていたが、段ボールに毛布をしき、湯たんぽを置いてやると、うとうとしはじめた。あんまり、いじくるよりは、一匹にさせ、落ち着かせようということで、新居では長さが足りないことが判明した物干し竿を近所のスーパーに買いに行った。

色々と妄想しながら、リードや、爪切り、ブラシ、猫用シャンプーも購入。

で、帰ってきたら、もう猫はいなかった。

本棚の本が少し落ちていた以外はあらされた形跡もなく、本当に雲か霞のように消えた。ベランダの窓の鍵をかけていなかったので、ここから逃げたとしか思えない。しかし、まさか、自分で窓をあけて逃げ出すとは……

新居一代目ペット猫、在籍期間、わずか……一時間……引っ越し早々、なにかに負けた。

引っ越し前夜

引越し前夜。

長年過ごしたこのアパートとともおさらばである。

隣が幼稚園で、土日は元気な子供たちの声で目を覚まし、ドアを開けるとグラウンドを子犬のように園児たちがかけめぐっていた。春は園庭の桜が咲き乱れ、秋は秋で紅葉が実に美しかった。

そうそう、酔っ払って、ドアの前で力尽きてひっくりかやっていたとき、幼稚園の保母さんに起こされたこともあったっけ。色々な思い出があるアパートである。しかし、それとも明日お別れ。なかなかに感慨深く、さびしい。

まぁ、部屋も服と同じで、サイズがあわなくなったら変えなくてはならないとうことなのだろう。減ることなく、ひたすら増殖していく本のためにも、 また、これからおつかえするニャンコ様のためにも、引越し時なのだと思う。新居では、どんな思い出がつづられていくのだろうか。今から楽しみだ。

板橋雑記

板橋雑記を読了。

明末・清初の動乱の時代を生きた、余懐が、明が滅びた後、妓女達との青春を振り返り書いた随筆だ。往時の南京秦淮の妓楼の賑わいや、列伝形式で描かれた名妓たちの艶姿に、滅びた前王朝への限りない思慕・哀切が重ねられている……と評価されている。

が、訳文のせいか、地の文がもともと悪かったのか、正直面白くない。明末の風俗を知るという点では役にたったが、要は、かつての高級官僚が、守れなかった国や女たちを、メソメソ・グダグダ振り返っているだけのことなので、しょうもないといえば実にしょうもないのだ。

名妓たちのエピソードも、一部をのぞけば、たわいないものばかりだし、余懐の友人たちの行状も、風流を感じるというよりは、単なる堕落にしかみえなかった。支配階級の人間がこんなに遊びまくってたらそりゃ国は滅びるだろう。

引っ越し準備

段々、段ボールで部屋が埋め尽くされてきた。
テトリスみたいだ。

隙間に、うまいこと布団敷いて眠っているが、地震起きたらこれ確実に死ぬな。

桜宮高校体罰事件に言寄せて

昔、スクールウォーズというドラマがありました。wikiを引用させてもらうと、京都市立伏見工業高等学校ラグビー部と同部監督で元日本代表フランカーの山口良治をモデルとして、作家・馬場信浩が執筆したノンフイクション『落ちこぼれ軍団の奇跡』を基に制作されたフィクションドラマです。

母がこのドラマがとにかく好きで、再放送がある度に、一緒に見ていました。また、中学生のとき、このモデルになった先生が学校に講演に来てくれたことがあったのですが、これもまた絶対に会いたいと目を輝かせる母と共に見に行ったものです。

さて、このドラマのシーンに、109-0という大差で負けたラグビー部員全員を、主人公の泣き虫先生が殴りつけるというものがあります。「おれはこれからお前たちを殴る!!」という名言と、泣き虫先生の涙に濡れた拳骨が、視聴者の心に深く刻みつけられる名場面でした。はゆまの母は、血の出る映画やドラマは絶対駄目な平和主義の人ですが、そんな母もまたこのシーンが大好きだったりします。

もともと人間の社会は体罰を前史時代からずっと許容し続けてきました。現在でも、法に基づく刑罰という名目で、処刑も含めた体罰は行われています。原始的な部族社会はシンプルな社会なので、法はありませんが、その代わり刑罰の対象になる男の基準があります。それは「やるべきことが分かっているのにやらないやつ」というものです。

子供のときに「やるべきことが分かっているのにやらないやつ」に当てはまる振る舞いをすると、体罰によって矯正しようとし、大人になってから「やるべきことを分かっているのにやらないやつ」だということが判明すると、部族の男達がそのものをさらい、森のなかにある戦士達の家に連れて行って殺すのだそうです。

日本語は便利なもので、東西南北どの部族社会でも刑罰の基準となり、そして最大の侮蔑語になる「やるべきことが分かっているのにやらないやつ」を一言で表す言葉があります。それは「卑怯者」というものです。

スクールウォーズで泣き虫先生が殴りつけたラグビー部員達も皆「卑怯者」でありました。泣き虫先生から、指導を受け、本気になって戦うことの大切さを教わっていながら、強豪校の迫力に圧倒され、もとの落ちこぼれ精神に戻り、へこたれ、勇気を見せませんでした。試合後の彼らのふてくされた顔からは、自分の怯懦に居直った、醜い心の有り様があらわれていました。だから、泣き虫先生は激怒したのです。

力不足に怒ったのではなく、彼らが「やるべきことが分かっているのにやらないやつ」だったから、怒り殴りつけたのです。プリミティブな社会だったら、彼らは大人になってから、戦士達のコミュニティに入られず、最も不名誉な形で殺されてしまいます。だから、ぶっ飛ばし必死で矯正しようとしたのです。

人間の記憶には、皆忘れていても、部族社会のような生活をしていたときの記憶が、深いところに眠っています。だから、母のような暴力反対の人でも、スクールウォーズの先生が体罰をふるうシーンを見て、共感してしまうということがあり得るのでしょう。

さて、巷間話題になっている桜宮高校での体罰事件について。はゆまも、ネットで調べて分かる情報くらいしかつかめていないので、そこから判断するほかないのですが、まず問題となっている先生は、さほど悪い人のようには思えません。サディスティックな欲求に基づいて手前勝手に生徒を罰するような人ではないと感じるのです。

多分飲み仲間とかになれば、彼の仕事への思い入れの強さをややもてあましつつも、楽しく過ごせるのではないでしょうか。勝手な想像ですが。

今回学校OBや、生徒からも教師をかばう言葉が出てきています。多分、本当にこの先生が振るった体罰によって、矯正出来た子もいたのでしょう。

ただ、それでも彼の体罰は、先に書いたように、体罰にシンパシーを感じるはゆまから見てもアウトだったと思います。だって、自殺した生徒さんはどう考えても「やるべきことが分かっているのにやらないやつ」ではなかったから。

報道からは、主将としての責任感が強く、怯懦に居直るような子では決してなかったことがうかがえます。彼はやるべきことを何とかしてやろうとしている子でした。もちろん、それは人間であり、まだ子供なわけですから、いくらか至らぬ部分もあったのでしょう。でも、だったらすべきは、映らない一昔前のテレビのようにバンバン叩くのではなく、助言と励ましの言葉を送るのが、指導者としての勤めだったはずです。

そこが、自殺した生徒さんは勿論、体罰を振るった先生のためにも、残念でなりません。

今回のことで、体罰が全面NGになるかどうなるかは、もう政治もからんできて、皆目検討もつきませんが、はゆま的には「やるべきことが分かっているのにやらないやつ」かどうか、これが体罰の善し悪しを判断する一つの基準になるのではないかなと思います。そして、スクールウォーズの生徒達が殴られても、むしろ感謝し、そこから奮起することが出来たのも、この基準を守っていたからだと思うのです。

「東京暮色」

「東京暮色」を見る。

小津作品のなかでは、異色のとにかく暗い作品。彼の映画の特徴の一つである、日本の美しい原風景も影をひそめ、代わりに退廃的な工場やどぶ川の光景が描かれている。麻雀やBAR、パチンコなど、他の作品では、向日的にとらえられている戦後の新風俗も、本作ではどこか暗く、影がある。

1957年の作品だが、小津が最後に取ったモノクロ映画で、前後の作品に、1956年の「早春」、1958年の「彼岸花」がある。

どうも小津は、この作品で、「早春」に見るような戦後の新しい青年達の風俗と、「彼岸花」で描いたような父娘ものの融合をやりたかったようだ。だが、不倫をテーマにしていながら、夫婦関係も、そして青年同士の友情も破綻せず、むしろ強いつながりを印象づける「早春」や、勝手に縁談を進めた娘に対する父の憤懣を描きつつ、最後には和解を予感させるラストで締める「彼岸花」とも違い、本作では人間の絆がもろく、そして人を救わない。

若者達が、ボロアパートに集まるのは「早春」と一緒だが、彼らは花札や麻雀にうつつを抜かし、仲間内の恋愛で次女が妊娠していることを知っても、積極的に関わろうとはせず、むしろ面白がっている。夫婦関係は、母から逃げられた父、出戻りしてきた長女に見られるように、危機にあるか、既に崩壊済みである。小津の作品では、常に強固なものとして描かれる、父と娘のつながりも弱く、妊娠した次女は、最後まで父の子であることを疑い、そして、そのために非業の死を遂げる。

小津自身が失敗作と振り返ったように、本作では、会話の妙などの、いつもの小津の冴えが見られない。小津の目指した戦後の新しい青年達の風俗と、父娘ものの融合というテーマは失敗に終わったようだ。少なくとも、小津作品に一般に求められることを、求めた人が本作を見たら失望するだろう。だが、それでも、この作品には、一見の価値がある。気づくと、小津ワールドに取り込まれているという、小津作品の最低のラインはクリアしているからだ。

また、本作の失敗のため、小津は戦後の新しい青年達を描くのはきっぱりとやめ、得意の父娘ものなどの人情ものに注力していくのだが、もし本作で試みたことが成功し、「早春」の路線を進んでいったら、どんな小津世界が展開されていったたのだろうか、そう想像しながら見るのも一興のように思うのだ。

新居

新居の鍵を、不動産屋から受け取る。新居の広さは58平米。旧居ではもう置くところがなくなってしまった本も、ここならまだまだ余裕がある。がんがん書いたしていきたい。

ペットが飼えるのも嬉しい。なんばに用があって出掛けたついでに、ペットショップを覗いてみたが、やはり高い。猫一匹に十数万円する。スコティッシュとか、ペルシャとかは、敷居が高いし、やっぱり飼うとしたら、公園の野良猫だな。いかにも雑種ってやつがいい。耳とかちょっとちぎれてるとたまらない。

ゲージとか買って、なんとかとっつかまえる算段を立てないと。

宮崎鵬翔高校優勝!!

宮崎鵬翔高校優勝!!!
宮崎では有名な名門校だが、まさか優勝するとは思わんかった。郷土の若人達の偉業に祝福するほかない。本当に、おめでとう~

しかし、高校生の若者同士の対決は美しく爽やかだった。ファールしても、お互い気遣いながら握手する姿は、素晴らしかった。健闘した京都橘にもエールを送りたい。

それに引き替えテレビ局は、編集してカットしたやつを時間遅れで流しやがって……もう、スタジアム一つ一つが複数視点のカメラそなえつけて、それをyoutubeでも、ニコニコ動画でも流せばいいんじゃないだろうか? 

イカ娘 13巻

相変わらずの出来である。漫画としてとにかく程度が低い。

やっぱり、この人は漫画家ではなく、イラストレータなのだと思う。一枚絵のクオリティの高さとは対照的に、コマ割りがとにかく下手。

とくにひどいのはコミック書き下ろしのカラーページ。一緒に乗っているスキーのリフトからイカ娘が落ち、それに驚く栄子の見返りの表情を真正面から捉えたコマがあるのだが、その次のコマがなんとリフトを見上げるモブスキーヤーの視点になっている。

普通というか、絶対にこれは栄子からの視点でないとだめである。話のオチは触手でリフトの下にもう一つリフトを作ってという、この漫画ではお決まりのパターンなのだが、モブの見上げる視点になっているために、最後のコマでのイカ娘の表情も栄子の表情も小さくてわからず、迫力のないものになっている。こんなところに、作者の致命的な漫画センスの欠如を見る。

デビュー当時から指摘されていた話もまったく上達しないまま。ネタ自体面白くないうえに、展開の仕方もひどい。ストーリーといえるようなストーリーもないくせに、なぜ話がギクシャクするのか、そのコツを逆に聞きたいくらいである。

でも、じゃぁ、この作品がコンテンツとして何の価値もないかというと、そんなことはない。コマ割は下手、ストーリーはつまらない、展開もひどい、でも、だからどうした、イカちゃんはかわいいじゃないか。そういわれると、だまらざるをえない。そんな不可思議な、理不尽な力がある作品なのである。

だからこそ、はゆまも毎回、毎回「これはひどい!」と絶句しつつも、出版されるたびに買い、今も全巻そろった本棚を見て、ついニヤニヤしてしまうのだろうと思う。

壮行会

先々日は、行き着けのバーのバーテンダーさんの壮行会。映画留学で海外に行くらしい。

最近、時世か、海外に旅立つ人を見送ることが多い。少しさびしいが、若い人が才能を生かして、世界にチャレンジするのはめでたいことだ。クロサワ とかオヅに匹敵するような立派な監督になって戻ってきてほしい。

バーのなかは満員で、みんなに慕われていたバーテンダーだったことがわかる。上映会もあった。短編だが、劇中の広河原の松上げ火 祭りの映像には魅了された。なんでも、京都からバスで90分かかる秘境の祭りだそうで、日本は本当に広大な奥行きを持った国だ。最 初のバスの映像が胎内回帰を連想させたため、無数の火が巨大な松明の上に投げ入れられる、土俗的、幻想的な映像に、先祖帰りしたような気持ちにさ せられ、トリップしそうだった。

上映会後、最近通えてなかったので、常連の人と「おひさです」と挨拶しつつ、バーテンダーさんに激励の言葉をかける。見知らぬ土地へ行く不安をこ ぼしつつも、嬉しそうだった。大体こういうのは、希望や野心に顔を血膨れさせている方が危ない。気負わず、てらわず、静かに、穏やかに、闘争心を 燃やしている感じが、かえって頼もしかった。これならきっとやり遂げてくれることだろう。どんな映画が生まれるか楽しみだ。

東京旅行

先週の三連休を利用し、日月に東京に行ってきた。大学のゼミ仲間との小さな同窓会のためである。メンバーの一人が2月からタイに転勤になるので、その壮行会も兼ねている。

場所は新宿のサントリー系列のバー・イーグル。

初めて行ったが、いかにも昭和という感じの内装で、小津映画のおじさん連中が通うようなバーを思い出す。バーテンダーたちも皆しぶく昭和、髪型もオールオールバックである。カクテルも堅実に美味く、料理も一つ一つ凝っていて、特にかに味噌バターをコイン上に冷やして固めたものを、クラッカーに載せていただくおつまみは絶品。終始ほくほく顔で、久方振りの仲間たちとの再会を楽しむことができた。また東京に用事あったときは来ようっと。

翌日はあわよくば国立競技場で鵬翔高校の応援をしようかなと思っていたが、あいにくの大雪。ていうかしゃれにならないくらいの大雪。高校 サッカーの決勝自体が延長になってしまった。観光どころでもなさそうなので、宿を借りた友人と丸ビルでランチした後、大阪行きの新幹線に乗った。

車中でも、窓の外の雪は途絶えず、静岡あたりまで来て、やっと雪は雨になった。僕が動くと、すぐ日本の天候が大崩れに崩れるのは何とかならないものか。

鵬翔決勝進出!!

宮崎の高校が、サッカーで決勝進出なんて信じられない。
このまま、優勝まで突っ走れ!

がんばれ宮崎!!!

AKB48と詩経

白川静さんの、詩経を読了。

一度挑戦したことはあったのだが、そのときは、詩の読み下し文が頭に入らず、挫折してしまった。今回は、創作中の作品のため、漢文のシャワーを浴びている最中なので、すんなり文章が頭のなかに入り、無理なく最後まで読み進めることが出来た。

説話的解釈に終始し、儒教的価値観のなかで窮屈に窒息してしまっていた古代詩を開放し、古代中華民族の感情の発露を、今の世によみがえらした白川静氏の偉大な業績を、まずは賞賛せずにはいられない。はゆま的には詩経のなかで一番好きなのは、

「摽有梅」

摽(なげう)つに梅あり
その実七つ
我を求むる庶子
その吉なるに及べ

摽(なげう)つに梅あり
その実三つ
我を求むる庶子
その今なるに及べ

摽(なげう)つに梅あり
頃筐に尽きたり
我を求むる庶子
その今なるに及べ

だろうか。

来月出す本のなかでも使わせてもらったが、歌垣を交わす乙女のみずみずしい感情が、文中にあふれている。しかし、よく考えると、この詩は、うら若い娘さんが、男に向かって、情けを喚起するために、歌った歌詞で、その意味では、「AKB48」とか「おにゃんこ」とか「モーニング娘」とか、そういった系譜の起源と考えてよいはずである。それが、読み下し文で読むと、実に堅苦しい。

もちろん、読み下し文の荘重さも独特の魅力があり、決して人類史から消してはいけない響きだとは思う。中国の儒者たちが、この詩篇を経典として有難がる様を、その様ごと、翻訳しようとしたら、こうした訳し方しかなかったのだろう。

だが、たとえて言えば、現在の「会いたかった」とか「ヘビーローテーション」とかの歌詞を、数百年後の子孫の、しかもよいおっさんが、正座で大事そうに読み上げている読み方とすれば、こんなこっけいなことはない。

白川氏は儒教的解釈に封じられていた、古代詩の生な感情を、その研究によって解き放つということで、多大な業績をあげられた。だが、どうそれを日本語で読みあげた際の音律のなかに甦らせるか、翻訳するという部分での仕事には手をつけないままであった。

白川氏の志を継ぐ人、疾くあらわれよ。そう願わずにはいられない。

にほんブログ村 小説ブログ 小説家志望へ
にほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

孔明の北伐と秦の東進

今、書いている小説のため、中国関係の資料を読み直している。で、創元社の「中国文明史図説4 雄偉なる文明」の秦の遷都ルートを見ていたら、これが、孔明の第一次北伐のルートとそっくりなことに気づいた。

孔明の第一次北伐は馬謖の失態により、街亭で潰えるのだが、街亭は秦の三つ目の首都だった秦亭のすぐ隣である。もし、馬謖の失敗がなく北伐が続いていたら、天水・南安・安定、かつて秦が関中進出前に勢力を扶植した土地を安定させた後、秦遷都の跡を追って、汧、汧渭の会、平陽、雍城、そして長安というルートを辿ろうとしたに違いない。

また、秦の東進は、周の東進の跡を追ったものでもあった。三国志の時代、殷周革命以上に正義の戦争はなく、日本の武将が、東海道を西進して、源頼朝・義経が平家を逐い天下を握ったのを真似したがったように、孔明もまた武王・太公望の正義の師を再現させたかったのだろう。孔明のファッションでも書いたが、孔明は痛烈なほどのかっこつけである。その思いは、ひときわ強いものであったように思う。

そうした観点から見ると、北伐開始時、どのルートを辿るかを巡る孔明・魏延の論争もまた違った色合いで見えてくる。純軍事的には最適解だったろう、最短ルートの子午谷を通り、長安を長駆奇襲しようという案を提出した魏延は孔明のことが分からなかっただろうし、軍事は政治のためのページェントでもあると考える孔明には魏延のことが分からなかっただろう。

ある時代の事象と類似のものを、別の時代に見出し、その両者の比較・類推をもって、考察を深める。歴史を学ぶ楽しみの最たるものはここにある。

にほんブログ村 小説ブログ 小説家志望へ
にほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

「早春」 昭和30年の青春群像

連休最終日。はじまる前は永遠に続く、いや永遠に続けと思っていた連休にも、やっぱり終わりが来て、明日からはまた社畜生活。

はやく小説を書くことが、野々村真にとっての「世界不思議発見」のように、僕の天職になってくれないかなぁ。そんなことを思いつつ、小津の「早春」を見る。

小津といえば、定番の親娘ものだが、今回は違う。出てくる登場人物の大部分が20代後半から30代前半の若者達。そして、この映画が発表されたのも、昭和三十一年。日本が、ひょっとしたら、もっとも気力・体力とも充実していたのかもしれない時代、若者の時代だった。

それは冒頭、主人公達が駅のプラットフォームで通勤電車を待つシーンにも顕著に表れていて、活力に満ちた若者達が縁までぎっちり詰まり、現代のように眠そうにまぶたをはれぼったくさせている者など一人もいない。会社の愚痴を言いつつも、週末の合同ハイキング(昔は合ハイと略されていた。要するに合コンの起源ですな)の予定を、楽しげに語り合うなど、とにかく元気だ。

この映画のテーマの一つは、主人公杉山(池部良)と、通勤仲間の千代(岸恵子)との不倫なのだが、小津がとっているせいもあるのだろうが、微塵も暗さを感じない。それよりも、杉山と妻昌子の復元力の強い結びつき、そして杉山を中心とするコミュニティの絆の強さのようなものを感じた。

劇中、杉山のコミュニティは、大きく三つ描かれている。一つは毎朝同じ電車に乗り合わせることから、いつとはなく親しくなった通勤仲間達、二つめはかつて死線を潜った戦友仲間、三つ目は仲人の小野寺や会社をスピンアウトしてバーを経営している河合(山村聡)のような会社仲間。

三つ目は主に上役達で上下の縦関係だが、一つ目と二つ目は今現在の視点から見ると面白い。単に同じ電車で乗り合わせる程度の縁で仲間が出来るということもそうだし、そのコミュニティの仲間達が、勤め先も学歴もまるで違うという点も興味深い。特に戦友仲間達は、丸ビルにつとめるエリートサラリーマンの杉山に対し、鍋工場の経営者や、ラジオの組み立て工など、ほんとバラバラ。しかし、そうした人間達が集まって、あまり階層の違いを感じさせずに、楽しげにお喋りしたり、飲んだり、麻雀したり、合ハイしたりしているのだ。

多分、この時代は、こうした階層の違う人間が、それでもフラット感を失わずに、集まれる若者のコミュニティが幾つもあったのではないだろうか。そして、こうした集まりは、遊びという面だけでなく、ビジネスにおいても、有効に機能していたものと思う。また、誰彼が出世し格差が生じたとしても、同じコミュニティの仲間として、嫉妬や怒りを抑え、社会治安を安定させるという点で、実に重大な役割を果たしていたに違いない。

昭和三十一年は、水俣病が公式に確認されるなど、高度経済成長の矛盾もあらわれだした時代だった。しかし、斜陽の老いた日本で今を生きるはゆまには、早春という不倫をテーマにした映画に、どうしても国力と社会基盤の強さ、そして人々の結びつきの確かさを感じてしまうのでした。

にほんブログ村 小説ブログ 小説家志望へ
にほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

新年の抱負

今日は軽くジョギングして汗を流した後、いつもお世話になっているご夫妻と、近所の居酒屋とんがらしへ。河豚のてっさ、はまちの刺身、湯葉の湯豆腐、たこの酢のもの、どれもすばらしい味付けがされてて、美味い。とくに、シマアジのかま焼きは、よく脂が乗っていた。とろりと舌の上で溶けた油が塩と絡み合ってたまらない。また、来ようっと。

ただ、お世話になった人が病気で、食が進まなさそうなのが気になった。奥様も大変心配している御様子。普段、元気いっぱいな人が、体をこわして、調子悪そうだと、こちらも辛く悲しくなってくる。はやく、元気になってくれればよいのだが……

帰ったあとは、小説の資料を読む。詩経をもういちど勉強しなおしているのだが、やっぱり白川静さんの文章はいい。それにしても、別に中国だけではないのだが、文明の光の届く際にチラチラとあらわれる蛮族達は、なぜあんなにも魅力的なのだろうか。中国だったら、羌、苗、戎、ローマ・ギリシャだったら、サルマタイ、キンメリア、そしてスキタイ、フン。二千年後の東海の倭国の人間にも、ちゃんと異族・異種っぽく耳に響く言葉になっている。勝手に壺なのが、楚の初期の王達の名前。熊繹、熊艾、熊毋康。古代華夏族に、これらの言葉がどれほど畏怖をもってささやかれていたか、考えただけで興奮してしまう。我ながら、因果な性癖である。

さて、タイトルになっている、今年の抱負。三つある。

1)小説を一冊書き上げる

これは、今年だけでなく、今後、毎年続けていきたい。やはり、文を書くという能力は、筋肉と同じで、日常的に使っておかないとなまる。単語をピッキングするスピード、プロットをくみたて長いストーリを構築する体力、そういったものが弱まってくるのだ。なので、今年も必ず一作書き上げる。

2)ダイエット

最近太り過ぎた。ジョギングしてても、体が熱くならず、汗がなかなか出ない。年々、シフトアップするスピードが遅くなっているような気がする。せめて、5kgは体重を落としたい。

3)古典を読む

ヘロドトスの「歴史」や、プルタルコスの対比列伝などの、歴史書の古典を読もうと思う。勿論、日本のものも、万葉集や、古今和歌集、日本書紀など、まだ通して読めていないものを読み込んでいこうと思う。アウトプットだけでなく、インプットも、創作には欠かせない。

4)映画を50本見る

huluに登録していることだし、どんどんよい映画を見ていこうと思う。本当は百本と言いたいところだが、昼間の仕事もあるし、ちょっと抑えめの目標設定。

こんなとこかな。今年の年末、一年を振り返ったとき、きちんと目標達成出来ていますように。

にほんブログ村 小説ブログ 小説家志望へ
にほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

海の上のピアニスト アメリカへの夢

新年初買い物ということで、鶴見の三井アウトレットパークに行って来た。シャツにパンツをお買い上げ。明日、飲みに行くから、早速着て行こうっと。

帰ってからは、huluで「海の上のピアニスト」を見る。

監督は「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ。廃船直前のヴァージニア号から、タキシード姿の1900が出てくる幻想的なラストシーンといい、ストーリーは少々難解だが、美しい映像、美しい音楽、それらに身を預けているだけでも十分楽しめる作品になっている。

しかし、一応はゆまも物書きのはしくれなので、解釈的なものを言わせてもらうと、1900は旧大陸が新大陸に抱いた幸せな夢の象徴なのだと思う。この物語の主要な部分は、コーンと1900がヴァージニア号で出会う1927年から、コーンが下船する1933年までの五年間だ。

この五年間はアメリカにとって、最も幸福な時代だった。リンドバーグが大西洋の単独無着陸飛行に成功し、ミッキーマウスがロサンゼルスのスタジオで生まれ、ヤンキースタジアムではベーブルースがホームランを量産、ニューヨークではスコット・フィッツジェラルドがゼルダと共に遊び狂いながら小説を書き散らしていた。勿論、作中出てくるように、ニューオリンズでジャズが全盛の時代でもある。

第一次世界大戦で誇りを傷つけられたヨーロッパにとっては、まばゆく仰ぎ見るような国だった。何百、何千万という人々が、まっさらな夢を抱きつつ、大西洋を越えていった。また、父親代わりのダニーを失った1900に「ongaku」とささやく日本人女性が登場するように、そのなかには日本人の姿もあったはずである。

移民船でもあったヴァージニア号に産み捨てられた1900は、いわばそうした何百、何千万という移民全員の子供であり、彼らの抱いた夢の落とし子だった。しかし、アメリカへの夢は、挫折であれ、成就であれ、到着してしまえば消えてなくなってしまう。ただ、永遠に米国にたどりつかない移民ともいえる1900の身の内にだけ、その夢は不滅のまま息づいている。

そう考えると、不可解にも思える1900の下船の決断を下しながらそれを翻しNYに背を向け船に戻るシーン、またコーンの忠告を断り、海上で爆破解体されるヴァージニア号と運命を共にするシーンも納得できる。1900が陸に降り立つことは、夢の終わりなのである。

コーンが下船するのは1933年。世界恐慌への対策としてロンドンで行われた世界経済会議は失敗に終わり列強のブロック経済への傾斜はますます激化、ドイツではナチスを率いるヒトラーが首相に選ばれる。日本もまた、国際連盟から脱退。世界中がお互いに背を向け始めた時期だった。そして、コーンが楽器店にトランペットを売りに訪れ、1900の物語を語るのは、第二次世界大戦による大いなる破局の直後だった。

この間に、旧大陸がアメリカへ抱いた夢の形の一つは終わりを迎える。だから、1900もまた大戦直後のこの時期に、ヴァージニア号と運命を共にしなくてはならなかったのだ。では、それでアメリカへの夢は終わってしまったのだろうか?

否。

売り飛ばされた1900のピアノのなかから見つけ出されるレコード、そして語り続けられていく1900の物語と同じく、アメリカの夢は形を変えながら永遠に生き続けていくのだ。「人生は無限だ」そう叫ぶ海の声に引き寄せられる何百万という人々の心のなかで。

にほんブログ村 小説ブログ 小説家志望へ
にほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

あけましておめでとうございます

あけまして、おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

双葉社さんから二月に出す、はゆまの本が出版スケジュールに載りました。
http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/calview/2013/02/

劉邦の宦官というタイトルです。中国古代史好きの方、少し時代は離れますが三国志好きな方、またちょっと腐入っている方、気に入ること間違いなしです。是非是非、ご笑覧の程を♪
三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ご意見、ご感想はこちら。必ず返信します

名前:
メール:
件名:
本文:

works
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR