宮崎ナウ

午前11時、宮崎に着いた。天気が悪いのは残念だが、一年ぶりの故郷は大阪と比べるとぜんぜん温かった。「だりー」とか「なつかしーがぁ」といった宮崎弁のアクセントも懐かしく落ち着く。

実家につくと、早速番組表をチェック。明日の大晦日、ダウンタウンをやることを、すばやく確認、ほっと安心する。なんてたって、何年か前に、火サスの再放送を紅白の裏にぶつけてきたことがあったくらい、宮崎の民放は大晦日にかける情熱がないのだ。のんびり屋なのはいいが、もう少しやる気を見せてほしい。

ちなみに宮崎の民放は、二局しかないため、はゆまの実家では、チャンネルを変えてもらうとき、表つけて、裏つけてという表現で、指示を出していました。この表現は宮崎ではおなじみのもので、友達の家に行ったとき、TBS系列とフジテレビ系列、どちらが表かで、その子の親の気質が判断できたものです。

夜からは、幼馴染たちと、宮崎の六本木、ニシタチバナで飲み会。これから、準備していくところ。今日は、肉巻きおにぎりを作ってる極楽の山本に会えるかなぁ

クリスマスツリーと門松

日本人は季節の行事を大切にする民族です。それは四季のはっきりした日本列島に住み、種まきと収穫のタイミングを逃すことは決して許されない、米というスケジュールにうるさい作物を主食にしているためです。

同じ米を主食にしていても、常夏なので、いつ田植えを行ってもよく、いつ収穫を行ってもいいタイやカンボジアとはこの点条件が違います。ちなみに、タイやカンボジアの上空を飛行機で飛ぶと、田植え直後、刈り取り直前、刈り取り後の田んぼ、しかも日本のように形が揃っていない、がバラバラに並んでいて、緑と黄の端切れのパッチワークのようです。

しかし、それにしても、クリスマスから正月への年末の重大行事の立て込みかたは世界的に見ても異常かと思います。それが端的に表れるのは、デパートなどの商店の飾り付けが、12月25日を境に、クリスマスムードから一気に正月へと変わることでしょう。クリスマスツリーから門松へのディスプレイチェン人の鮮やかさは、日本人のせっかちさの象徴として、いつも外人の奇妙な感心の的となっています。

ただ、元々この二つの飾り付けが同根のものだということは、どれくらいの人が知っているでしょうか?

クリスマスの起源は、古代アーリア人がまだチュートンや北欧の森に住んでいた頃行っていた、冬至のお祝いにあります。もともとは、馬小屋で生まれた大工の息子の復活祭などではありませんでした。土着の聖人や行事を後付け設定で取り込むことにかけては天才的だったキリスト教によって取り込まれてしまったのでした。

古代人の想像力は豊かで、際限がありません。冬が深まり、昼は短く、夜が長くなっていくと、このままずっと日が昇らない時が来るのではないかと恐れました。だから、冬至という、一年で日が短くなる日は、夏と変わらず青々とした葉をつけるモミの木を飾って、もしくは、このモミの木で祭祀王を燃やして、太陽が再び生命力を取り戻すことを願いました。

この冬至の祈りとモミの木が西に行って、中近東で生まれたキリスト教のスパイスにからめられて出来上がったのが、クリスマスというわけです。

一方東に行ったものもありました。それはキンメリアやスキタイの草原をこえ、シルクロードを通り、羌族、周族、秦族など、中国西北角に盤踞する種族の手によって、アジアに伝えられました。そのため、中国の北部ではまだもとの習俗を残していて、正月にモミの木を飾るのだそうです。

さらにこの文化が南に派生すると、モミの木のような針葉樹林がありませんから、それとは違うもので代用しようとします。例えばブータンでは日本と同じく松を飾ります。要するに、冬でも青々と茂っているものであれば、なんでもいいのです。ただ、あまりに南、例えばタイ・カンボジアまで来ると、太陽が死に絶えるかもしれないという感覚がピンと来ないものになります。なんてたって、お前たまには休めよっていうくらい、いつも燦々と照っているわけですから。なので、この文化の派生南限は、ブータンまでのようです。

一方東限は、我が国になります。モミの木は、同じく年中青々として、生命力が充実し、しかも身近な植物、松と竹に変わることになりました。現実の冬至と新年は少し時期がずれていますが、それはクリスマスも同じ事。伝言ゲームではよくあることです。

しかし、となると、日本人は12月25日と新年という短い間に、太陽の復活を祈った古代アーリア人の行事を、二度立て続けに行っていることになります。しかも、ユーラシア大陸の西端と東端、それぞれに伝わった形で……

なんというか……忙しい民族ですね。日本人は。

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イングリッシュペイシェント

連休一日目、ついついダラダラと過ごしてしまった。ご飯も、昨晩どころか、おとといの余り物を温めなおしてすます。ノロウィルスなど、タイ出張で鍛えられた胃腸には怖くない。

あまり何もしないのもいかんなと、これまで長すぎて敬遠していた大長編映画を見ることにする。

イングリッシュペイシェント。

うん、まぁまぁ、面白かった。

でも、ここまで長くする必要があったのかという気もする。たかが不倫の恋愛を描くために、舞台設定も大きすぎる。砂漠にいるということと、不倫の必然性を結びつけられれば、クリスティン・スコット・トーマス演じるキャサリンに同情できたかもしれないが、この描き方だと、寝取られ男のジェフリーが可哀想という気しかおきない。この映画がきっかけで、ジェフリーを演じたコリン・ファースは、寝取られ男のオファーばかり来ているみたいで、それも可哀想。

あと全くどうでもいいが、看護士ハナと恋仲になるインド人キップが、一緒に仕事しているタイ人とそっくりで、それが気になって仕方がなかった。不発弾解体シーンでは、はらはらしまくり。死亡フラグが乱立していたし、絶対死ぬと思っていたのに、爆発しないでよかった。タイ人の方は、変数の設定値を勝手に変えて、サーバを吹き飛ばしたけど……

まぁ、ゆるやかな丘陵がどこまでも続く、女体のような砂漠は美しかったし、ヒロイン二人も綺麗だった。見て損した~という気持ちにはならなかったら、まぁまぁいい映画なんだろう。でも、ホント似てるんだよな~タワチャイとナヴィーン・アンドリュース。

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叙々苑

昨日は仕事納めだった。

定時後は、大阪伊勢丹三越十階の叙々苑へ。一番高いコース、雪会席を頼む。

やっぱり高い肉は美味い。前菜もこってるし、締めのスープが、急に上等のものを食べさせられてびっくりしている胃を優しくいたわってくれる。

しかし、今年は色々あった一年だった。まず昼間の仕事の方から振り返ると、危うくクビになりかけた。

新規プロジェクトのジョブ設計を任されていたのだが、そのジョブフローのドキュメント形式で上長と衝突。たかだか、パワーポイントの枠の中にもう 一つ項目を付け加えるか、付け加えないか程度のことで、椅子を蹴ってしまった。

幸い間に入ってくれる先輩がいて、薄皮一枚クビはつながったが、危ないところだった。小説の方に生活の主軸をおいてしまっているとはいえ、人並みに稼ぐことも大事。身分証明に今の会社の名前は結構便利だし、自分程度の技術力で、勤務時間に融通を利かせてくれ、わがまま放題も許してくれるありがたい職場だ。もう少し大事にしよう。

夜の仕事、つまり小説の方はというと、苦労も多かったが、楽しく、やりがいのある一年だった。エージェントを通じて、拾い上げてもらった原稿を、編集者さんの要望に従って改修するという作業を続けていたわけだが、この一年で、自分の作品が他人の目や手を通して、作りこまれていくというプロセスが分かってきたように思う。

はじめは、自分の作品が自分のものでなくなるような寂しさや、自分のペースで仕事を進められない苛立ちを強く感じ、戸惑った。今でもその違和感から完全に抜けきれたわけではないし、正直腹が立ったりもする。でも、これが好きなものを仕事にしようとするときに、どうしても通り抜けなくてはならないことなのだろう。

大好きな漫画「G線上ヘヴンズドア」の言葉を借りたら、嘘を売る商売なのだ。自分の嘘を流通ルートに乗せようと思ったら、様々なしきたりや、もっ と多くの人に買ってもらうための助言に従わなくてはならない。

来年は、2月15日に出版するやつと、出来ればもう一冊世に出せれたらいいなぁ。

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三国時代のインフレ

日本はもう十年以上デフレが続き、その退治のため、アベノミクスなんかが叫ばれていますが、後漢末から三国初期にかけてというのはインフレが大変な時代でした。

まず、魔王董卓が長安遷都後、何を思ったか、当時広く流通していた五銖銭を改鋳し、董卓五銖銭と称される粗悪銅銭を発行します。これは各種銅銭を打ち抜き、外側を削り小型化させたもので(磨辺銭、剪輪銭)、水に浮いてしまうほど薄く軽いものでした。

ちょうどその頃、通貨の原料である銅の最大の供給基地漢中と中原を結ぶ桟道を、劉焉が焼いて遮断してしまっていたので、それも影響しているのかもしれません。いずれにせよ、この改鋳というか改悪によって、貨幣としての 信用は地に落ち、私鋳銭が広く流通することになります。

また、後漢末は、寒冷化が進み、食料基地である農村の生産力がどんどん落ちていく時代でもありました。そんななか、戦いにあけくるう各地の群雄は、自衛のために、取り立てた穀物は我が城の倉庫に溜め込もうとします。董卓は三十年以上の食料を郿城にたくわえ、公孫瓚が築いた易京城には十年分の食料がありました。もちろん、こんなことをしていたら、市中に出回る穀物の量はうんと減ってしまいます。

こんな状態の市場に、水に浮き、打刻も満足にされていない冗談のような通貨が、どっと流れ込んだらどうなるか?
 
当然、ワイマール共和国末期も真っ青のとんでもないハイパーインフレーションが発生しました。記録では、穀物の値段は1石50余万銭まで跳ね上がったとされています。この傾向は、三国時代通じて続き、魏の曹叡の代になっても、洛陽の市場での取引は物々交換でされていたくらいでした。

革新的な施策を次々に打った曹操には珍しく、こと貨幣政策に関して、彼はほとんど無策でした。曹操が力の源とした青州兵と、彼らを養う屯田制は いわば管理経済だったので、それを乱す可能性のある、盛んな商取引は邪魔だと思ったのかもしれません。彼が集中したかったのは、荒れ果てた中原の生産力をまずは回復させることだったのでしょう。それは、彼の支持基盤である、潁川の名士層の利害とも一致していました。

魏の無策をついて、通貨の面で三国に覇を唱えたのは、蜀が鋳造した直百五銖銭でした。曹操の無関心とは対照的に、劉備は貨幣政策に積極的でした。帷幄に策を めぐらすことにかけては孔明以上といわれた劉巴の献策を受け、成都制圧後、すぐに貨幣鋳造に手をつけています。それは董卓の改悪以来、はじめて中国が手にした分厚く、打刻のしっかりした、品質の高い貨幣でした。

また、先に言ったように当時最大の銅山があった漢中をめぐる戦いについても、彼にしては珍しく粘っこい戦いを見せ、曹操を追い払っています。曹操には鶏肋といわれたりしましたが、銅の最大供給基地であった漢中を手に入れることは、現在で言えば中央銀行を手に入れるのに等しいことだったのです。この土地に対するこだわりの違いに劉備と曹操の価値観の違いがすけて見えるような気がします。

どうも劉備は、旗揚げ時に資金を出した馬商人、張世平・蘇双といい、流浪時代有力なパトロンだった大富豪、麋竺・麋芳兄弟といい、商との関わりが多いように思います。伝承によると、弟分の関羽は解県で塩の密売人だったそうですし、張飛も肉屋を商っていました。また、一時兄貴分だった公孫瓚は烏丸・鮮卑などの異民族との交易で大利を得、名士を軽んじ、代わりに裕福な商人を重用した人物でした。

そういったことから議論を展開というか飛躍させると、名士層の支持のなかったはずの劉備の情報通ぶりや、その不死鳥のような復活ぶりは、商人層の厚い支持のおかげだったのかもしれません。だからこそ、安定した地盤を得たとき、劉備が最初にやったのは、それまで負けても負けても援助し続けてくれた商人達に対する恩返し、安定した通貨の発行だったのでしょう。

良質な銅山を領土に持つ呉も独自の通貨を発行したりしましたが、三国時代通じて、最も流通した通貨は蜀の直百五銖銭でした。今でも、魏・呉の領土だった場所で、三国時代の墓を発掘すると、蜀の直百五銖銭が見つかることが多いのだそうです。魏・呉と比べ、領土的には一番小さかった蜀ですが、こと交易、商売においては、その存在感はかなり大きなものでした。

さらに小説家的に発想を飛躍すると、曹操の晩年、彼の手元には劉備の発行した直百五銖銭があったかもしれません。荒廃した中原の地味を回復させることに必死で、手をつけられなかった信頼ある通貨の発行を、かつての弟分がやってのけたことを、曹操はどう思ったでしょう。

小説家的妄想を許して貰えるのなら、直百五銖銭を手の平にのせながら、彼はこう言ったのだと思います。

「やはり君と余だけだったな」

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お茶漬けの味

クリスマスらしいことは、金曜と土曜にしたから、今日はイルミネーションに飾られた世間に背を向け、一人牡蠣鍋をつつきながら、小津を見る。

お茶漬けの味。

厳格な父親役の多い佐分利信が、優しく包容力のある夫を演じ、木暮実千代が恐妻役を演じている。小津といえば必ず出てくる笠智衆はいつ頃出番かな~と思ってたら、パチンコ台の裏からベレー帽被って出てきて、お茶を吹き出しそうになった。佐分利信の戦友という役どころだったが、こういう役でもやっぱり笠智衆は笠智衆。朴訥な訛りで歌われる軍歌がしみじみと心に染みた。

序盤、木暮実千代と友人達が旅先の旅館で、佐分利信のことを「どんかんさん」と揶揄しながら、鯉に餌を投げるシーンでなぜか心を抉られるような思いをしつつも、終盤の海外勤務をきっかけに和解した夫婦が、寄り添いあいながら台所で、お茶漬けを作る長回しのシーンが、そこはかとなくよかった。手を洗う妻の袂を持ってやる夫、ぬか漬けを切る妻の美しい手元、何度もかけあいあう「ありがとう」という言葉、老練な俳優同士の立ち回りは、舞を見るように美しいものでした。

しかし、まったくどうでもいいことだが、当時は、パチンコ、ラーメン、競輪が立派なデートコースだったのですね。旅立つ佐分利信を見送る羽田空港が、一面の荒野にしか見えないことといい、純朴で、幸せだった日本から、思えば遠くにきたものです。

それにしても、お茶漬けの英訳って、Green Tea over Rice なのか、他に何かなかったものか。sukiyakiが国際語になるんだから、そのままocyadukeでもいいような気もするんだが……

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花もて語れ

朗読漫画、花もて語れの五、六巻が出ていることに気づいてなかった。慌てて、ジュンク堂に買いに行く。

ビックコミックスピリッツに掲載誌がうつった影響か、しもぶくれで冴えない女の子のはずだった、ハナちゃんの萌え化が進んでいるのが気になる。朗読を通じて、自信と洗練された女らしさを身につけてきたという表現なのかもしれないが、顔の輪郭は高須クリニックでもいかなきゃ変わらないだろう。

ただ、この作者は相変わらず上手い。一枚絵の美しさではなく、漫画的表現が素晴らしく上手いのだ。五巻で太宰治の黄金風景を読んでるときに、ハナちゃんがやや見返りながら、「一生おぼえております」と女中の台詞をいう大ゴマは鳥肌がたった。セクシーボイスアンドロボ一巻のサーカスの少女と並んで、漫画の「二大流し目女の子表現」に勝手にランキングしておきたい。

今後は、折口先生への恋心を通じて、複雑になったハナちゃんと、満理子の友情の行方が描かれていくのだろうが、若干心配。作者が凄くよい人そうなので、そういったどろどろとした関係が上手く書けるのだろうかと思うのだ。変に綺麗にまとめようとすると、作品のスケールは小さくなってしまうだろう。朗読漫画ということで仕方ないのかもしれないが、ハナちゃんと真理子の思いのぶつかり合いが、あまりにも太宰や宮澤賢治など他の作品に仮託されているのも気になるところ。

まぁ、なんにせよ、今連載中の漫画のなかで、一番好きな作品なので、今後の展開を楽しみにしておきたい。

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風雲児たち 幕末編21巻

風雲児たち 幕末編21巻を購入。

風雲児たちは幕末を舞台に坂本竜馬など、志士の活躍を描いた漫画です。作家はギャグ漫画家のみなもと太郎。

幕末がテーマなのに、なぜ幕末編って書かれているのかというと、もともとはペリー来航から五稜郭陥落までを、十巻程度で描くはずだったのが、薩長の因縁や鎖国といった幕末の状況を伝えようと思ったら、江戸開府から書かないと分からないという作者の判断で、なんと関が原から物語はスタート。その後も、あまり描かれることのない、江戸時代中期から後期にかけてを、保科正之の清廉な政治、田沼意次の奮闘、蘭学者たちの栄光と蹉跌、大黒屋光太夫・最上徳内などの対外接触を軸に、一切手を抜くことなく記述。

それで、一巻扉絵に描かれた竜馬が出てくるまでに、連載開始の1979年から20年以上がかかってしまいました。おまけに掲載雑誌のコミックトムも2001年に廃刊。一時は、このまま未完で終わるのかとファンをやきもきさせましたが、コミック乱に拾われ、幕末編として再スタートと、内容と同じく、作品そのものも大河ドラマ的な人生を辿っています。

もともと、凄惨な描写の多い作品なのですが、ギャグ漫画家らしく処々に取り混ぜられた時事ネタやパロディ(20巻ではなんとまどかマギカネタが出ていた)が、これまで清涼剤になっていました。ただ、この幕末編21巻は、一巻丸々桜田門外の変についやされ、生々しい、紙面から血の匂いが漂ってくるような仕上がりになっています。

雪に散らばる無数の指、首を落とされる直前井伊大老の目に映る血膨れした暗殺者の顔のアップ、浪士たちに切り刻まれ飛び出る小河原秀之丞の目、瀕死の重傷を負ってももなかなか死に切れない水戸浪士側、井伊側双方負傷者の苦悶など、目を覆いたくなるような場面が続きます。

この事件はいわば井伊大老に対するリコール運動だったわけですが、まことに苛烈。これと比べたら、先日の選挙など、児戯に等しいといってもいいくらいです。昔は指導者をかえるには、こういったむき出しの力の行使しかなかったのですね。

中国の正史に残る歴代帝王は611人いるそうですが、そのなかで天寿を全うできたのは、たった339人、残りは全部戦死したり、暗殺されちゃったりしています。昔はやった100人の村でたとえると、もし中国の皇帝100人で出来ている村があったとしたら、そのうちの44人は悲惨な死に方をするということです。(ちなみに平均寿命は39歳で、25人は何らかの精神疾患をわずらっています。絶対住みたくありませんね)

さらに、先史時代まで遡ると、王は老いて力が弱まると、切り刻まれて焼かれ、神への生贄にされる運命にありました。ていうか、それが集団の団結と プライドを保つためにリーダーが果たさなくなくてはならない最も重要な仕事だったのです。

今回の選挙では、議員宿舎から追い出されたよ~とか、職を失っちゃったよ~とか、泣き言抜かしてる連中がいるようですが、指導層にありながら、知恵も勇気も根性も示せなかったくせに、何を言ってやがると思います。昔だったら、間違いなく民族の守護神を示すトーテムポールに縛り付けられて、蒸し焼きにされていたところです。命があるだけもうけもの。政権につけた責任を国民も負う民主主義で本当によかったですね。

知恵も勇気も根性も、当時の大名としては水準以上だった井伊直弼が亡くなったのは四十七歳。過酷な安政の大獄で有名ですが、民に対しては温かくいたわり深い君主だったようで、その大獄で命を失う吉田松陰が名君と褒め称えています。松陰が兄への手紙のなかで紹介した直弼の歌。「掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに」新君主として初めて任地に赴いた際、まだ何の実績もあげていないのに、領民が総出で温かく出迎えてくれたことを恥じて詠んだものだそうです。

追記:幕末編がはじまってからはや10年。21巻も出てるのに、まだ桜田門外の変。DQⅢでいったら、カンダタ辺りか。で、みなもと太郎先生は六十五歳……終わるのか、本当に……

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創作の時、便利なサイト

創作の際、便利なウェブサイトを整理がてら紹介。

1)weblio類語辞典

必須。なんか似たような表現が続いているなぁというときだけでなく、あぁ、この感じなんて言えばいい、○○に近いんだけどというときにも重宝する。

2)wikipedia

常識だろうが、これも便利。なにか調べたい人物や事項があったときは、ここのリンクを辿っていくだけで、おおよその概要をつかむことが出来る。また、正式なエビデンスとしても通用するみたいで、編集者さんから歴史考証のチェックがあったときは、ここの画面コピーを提示された。ただ、ネットの情報 はあくまでフロー、時間とともにうつろいゆくものだ。記事を全面的に信頼することは危険。必ず原典にもあたること。痛い目にあう。ていうかあった。

2)CiNii

サイニィと言うらしい。日本の論文や図書・雑誌などの学術情報で検索できるデータベース・サービスだ。2)で調べたいことの大枠を把握したあとは、このサイトにキーワードをぶちこんでみる。情報を掘り下げるというか、思わぬ視点からの分析を見ることが出来る。例えば、織田信長を入れてみると……「戦国三武将のパーソナリティに関する精神分析的探究--原子価論の観点から」こんなん出 てきた。なんのことやら意味はまったく分からないが、自分一人では絶対にたどりつけない視点だ。こういうのが意外と創作のヒントになる。

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「晩春」「秋日和」

小津定番の親娘もの「晩春」「秋日和」を見る。

やっぱりいいなぁ、小津。号泣するとか、泣き咽ぶとかいうように、激しく情感をゆすぶられるわけではないけど、気づくとほんのり胸の奥に温かいものが満ちている。小津の作品にはそんな力がある。

両方とも娘を結婚させるために、自力他力の違いはあれ自分の再婚話を進める親の話だ。1949年の「晩春」では父親役を笠智衆、娘役を原節子、それから11年後の1960年の「秋日和」では母親役を原節子、娘役を司葉子が演じている。

やや頭の固い娘が進歩的で活発な友人に諭される構図、結婚前の二人きりでの最後の旅行で娘が親へのコンプレックスを克服するシーン、そして娘を嫁に送り出した後一人ぽつんと部屋に残された親の姿でしめるラストなど、両作には幾つも共通点がある。

自分が一番印象深かったのは、娘の成長をうながすことになる友人だ。彼女が象徴しているものは、きっとアメリカ式の明朗な個人主義なのだと思う。 日本的なウェットな家族関係にとらわれている娘を、解き放ち自立させる役目を彼女は負っている。だが、両作とも、この友人が娘に、父母が親である 前に一人の男、女であることを気づかせることが、娘の自立のきっかけになっていながら、最終的にどちらの作品でも父は父であること、母は母であり 続けることを選択する。

そうして孤独になった親にラスト直前「私これから何度も寄らせてもらうわね」と声をかけるのもまたこの友人なのだ。

日本的情感とアメリカ的明朗さ、この二つの融和を小津は目指していたのだと思う。そして、だからこそ、小津の作品はエンタメの王道を行く黒澤と並び、世界に通じる普遍性を手に入れることが出来たのだろう。

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独ソ戦

2010年、ロシアチャンネルワン製作の大祖国戦争戦勝65周年記念特別番組、原題「大戦争」のドキュメントを見る。

第二次世界大戦の対独戦線は、米視点で語られることが多いため、なんとなく裏庭的イメージのある独ソ戦だが、実はこっちの方が規模がはるかに大きく、いわば戦争の決着をつけるチャンピオン戦でした。

無骨で意地っ張りの国同士のつぶし合いは、動員された兵力も、投入された資源も、犠牲になる命の数も桁違い。日本人的には結構大変だった記憶のある、太平洋戦争が線香花火に思えるほどです。

数百の重爆撃と、数千の巨大自走砲、数万の重戦車、そして数十万の生身の若者達。尋常ではない火力がかなでるオーケストラは、次々に画面に黙示録的な光景を繰り広げます。白人特有の執拗な検証によって再現される兵器や戦場の描写に、重々しく無骨なロシア語のナレーションもマッチして、終始息苦しくなるような緊張感がただようよいドキュメントでした。

BBCといいあちらの戦争ドキュメントは本当によいものを作りますね。同じくらいの予算をかけているにも関わらず、紙芝居を芸能人が読み上げる、馬鹿ドキュメントを作る日本の放送局は見習って欲しいものです。

四時間かけてこのドキュメントを見通したはゆまの思う、ソ連の勝因は「ロシア人はアメリカ人のように機械化され、アジア人のように人命に無頓着だったから」でした。翻って日本の敗因を言うと、「日本人はアジア人のように人力に頼り、アメリカ人のように痛がりだった」になるでしょうか。

カンボジアに旅行した際に、ガイドの言った「ポルポトが殺した国民の数は三百万です。これがどれほどの数か分かりますか?日本が太平洋戦争で失った人命と同じなんですよ」という言葉を思いだします。色々非難されることも多い戦前の政体ですが、人口の4パーセント程度の被害で白旗をあげた軍閥政治家たちは、共産圏と比べるとはるかに、自国民の命の損失に敏感な指導者層だったのです。

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はしご

昨日は、久々に記憶が飛ぶまで飲んだ。
つれと寿司を食べて、帰りにバーに寄り、さらにそこからインドネシア料理店へ。

そこで、ブラジル人と隣り合わせたところまでは覚えてるけど、その後の記憶がまったくない。とんてもないことをやらかしてなければよいのだけど。

「怒りの葡萄」「キャピタリズム」

「怒りの葡萄」を二週間くらいかけて読了した後、マイケルムーアの「キャピタリズム」を見ました。「怒りの葡萄」はちょっと古い翻訳だったので、読みにくいところがあったものの-レジが自動精算機って書かれてた-作品自体は面白く読めました。

「怒りの葡萄」は1930年代のアメリカを舞台に銀行や不動産会社に生まれた土地を追われる人々の悲しみと怒りを描いた小説で、「キャピタリズム」は2000年代のアメリカを舞台に銀行や不動産会社に生まれた土地を追われる人々の悲しみと怒りを描いたドキュメント映画です。

あれっ、同じだ。

「怒りの葡萄」から70年がたち、第二次世界大戦が起こり、長い冷戦の果て、ベルリンの壁が崩れ、ソ連が崩壊しても、アメリカ型の資本主義の根幹の問題は、なに一つ解決せず、いやむしろ共産主義陣営の自滅により、ますますひどくなっていくようです。

世界最強の経済大国であるはずのアメリカでなぜこのようなこと、誠実で実直で働き者の人達が、土地を追われ、今日食うものにも事欠くようなことが起こるのでしょうか?

少し話が変わるようですが、明治時代、福沢諭吉がpolitical economy という言葉を、日本語に訳しようとしたとき、候補は二つあったそうです。一つは今使われている「経済」もう一つは「理財」

economyは、1)資源・資本を投入して生産された財を、2)需要に応じて効率的に供給・分配する仕組みです。なので、理財でも決して間違いではないのですが、諭吉は理という文字の持つ冷たい響きと、財という字面の生々しさが嫌ったようです。また、理財では1)の営みにだけフォーカスされ、2)がおろそかにされる可能性もあります。それで、最終的に選択されたのは「経済」の方でした。

こうして、本来、冷徹で効率的な供給調整システムであるはずの、economyは世を経(たす)け民を済(すく)うためのものとなりました。ある文明圏の言葉が、別の文明圏の言葉に移植される際に誤訳は必ず生じるものですが、そのなかで最良の誤訳だったといえるでしょう。

よく他国の経済状況を伝えるニュースで、企業最高益連発、経済絶好調という記事と、経済不調で国民は借金地獄という記事が交互に載り、どっちやねん?と首をひねりたくなることがありますが、本来こう伝えるべきだったのですね。企業最高益連発、理財絶好調。でも、分配がうまくいかず経済は絶不調で、国民は借金地獄。

この文脈でいくと、アメリカも本来、世界最強の経済大国と表現すべきでなく、世界最強の理財大国と表現すべきなのかもしれません。

ちなみに狩猟採集を主とする原始的な部族では、理財は敏捷で勇敢な男が獲物を獲ってくる営みに比定されますが、優秀なハンターが獲物を我がものにすることは決してないそうです。自分の腕を誇ることもありません。老人、女、子供たちなどの足弱の輪のなかに、どかっと獲物を置くと、あとは隅っこに引っ込んで、恥ずかしそうにしているのが、常なのだそうです。

economyが「理財」を越え、「経済」に至るには、強者の謙譲が絶対必要条件なのでしょうが、そのモデルは、はにかみながら、自分の獲物が足弱達に分配されるのを見守る、原始部族の狩人にあるのかなと、はゆまは思ったりしました。銀行と不動産会社に爪の垢を飲ませてやりたいものですね。

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グッドウィルハンティング

仲の良い友人に対し、突然何を話せばいいか分からなくなった経験は、誰にでもあるかと思います。昨日まで屈託なく付き合えていたのに、急に距離を感じてしまう。段々、疎遠になり、やがて道で会っても、会釈する程度の仲に。

小学校のとき川原の葦を束ねて一緒に秘密基地を作ったあの友達、中学校のとき真夏にとんでもない距離を自転車でこいで冒険したあの友達、大学時代同じ寮の部屋を借りて毎晩毎晩あきもせずふざけあったあの友達。もうみんな、連絡先すら分からない。

でも、それは友情がもろかったからではないのだと思います。

深沢七郎さんの美しい言葉に下のようなものがあります。

「友情は季節に咲く花のようなものだと思っています。季節が終われば花は枯れる。そこを立ち去って次の花に出会うだけだ」


また、スティーブンキングのスタンドバイミーにも、

「友人というものは、レストランの皿洗いと同じく、ひとりの人間の一生に入り込んできたり、出ていったりする」


はゆまもきっと、誰かの人生のなかで一時期席を占め、そして出ていったことがあるのでしょう。誰かの心のなかで、散った花として懐かしく思いだされることがあるのだと思います。

タイトルのグッドウィルハンティングもまたそうした友情の循環を描いた映画です。

ウィルの天才という設定には特にこだわる必要はないと思います。あくまで、この作品のテーマは男同士の友情です。

ウィル(マットデイモン)とショーン(ロビン・ウィリアムス)の交流で友情の誕生を、ウィルとチャッキー(ベン・アフレック)の別れで友情の終わりを描いています。

チャッキーがウィルに自分達のもとを去ることを促すシーンは印象的です。

「20年経ってお前がここに住んでたら俺はお前をぶっ殺してやる。お前は俺たちとは違う。お前は自分を許せても俺は許せない。俺は50になっても工事現場で働いていてもいい。だがお前は宝くじの当たり券を持っていて、それを現金化する勇気がないんだ。お前以外の皆がその券を欲しいと思ってる。それを無駄にするなんて俺は許せない。」


時に誰かが成長するためには、友情を捨て去らなくてはならないことを、この言葉は示唆しています。

無論、一度終わった友情が、そのまま永遠に失われたままなのかというと、そうではありません。かつて親友でありながら、功名心に対する考え方の違いからたもとを分かった、ショーンとランボー(ステラン・スカルスガルド)の葛藤と和解で友情の再生も、またこの作品は描いています。

一度散った花びらの下から、また咲きほころぶ花もまた格別に美しいのでしょうね。

もうすぐ正月。帰省の際に会う、故郷の友人達が懐かしく思い出されるはゆまなのでした。

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武士道 狼のルール

武士道について、あれは江戸時代に官僚化した侍が作ったもので戦国時代の血膨れした武士とは別物だとか、いやそもそも新渡戸稲造がねつ造したもので日本にそのような美徳は最初からなかったという人がたまにいます。

しかし、武士道を「儀礼化したディスプレイによって攻撃衝動を抑える仕組み」と定義すると、それは平将門の時代からありました。

そもそも野性動物は皆「儀礼化したディスプレイによって攻撃衝動を抑える仕組み」を本能的に備えています。狼はどれほど激しい喧嘩を行っても、相手がお腹を見せたら攻撃をやめますし、猿も勝者が敗者にまたがって、マウンティングの体勢をとればそこで闘争は終わりです。

これは相手を完全に滅ぼし尽くす、バトルロワイヤル的闘争をやってしまうと、群れ総体の力が弱まってしまうからで、敗者は劣位にはおかれますが、放逐されることなく、体面をそれなりに保った形で、群れのなかで遇されることにます。

ただ、ボスが負けた場合は別です。狼も猿も、多くの場合、敗北したボスは、群れから追放されるか殺されます。劇的なのは山羊の場合です。山羊のボスは、挑戦してきた若者に敗れると、群れから背を向け、急峻な崖の斜面に立ちます。そして、そのまま何も食べず、何日も何日も立ち続けるのです。やがて、空腹と戦いの傷で力尽きると、彼は崖から転がり落ちるという形で、自らの命を絶ちます。これは数少ない野生動物の自殺の例なのだそうです。

このように野生動物は、儀礼化したディスプレイによって攻撃衝動を抑え、勝者と敗者の立場を決め、群れのなかに取り込む、あるいは追放する仕組みが、本能にプログラミングされています。

ただ、人間は大脳の過剰発達によって、本能がこわされてしまいました。そのため、どこで矛をおさめるか、勝者は敗者をどういたわるか、敗者は勝者にどう服従するか、といった問題は、本能ではなく、文化の形で規定しようとしました。

なので、どんな原始的な部族でも、人間の集団なら皆、ある程度の戦いのルールは持っています。ただ、それが極度に洗練され、道といわれるまでのレベルに至ったのが日本だけだったということです。

これは民族集団が出来た初期の段階から、自分達の世界を狭い島国と認識していたこと、そして人種的にはかなり多様でありながら、政治的には高度に統一されていたことに起因するのだと思います。群れのなかでの闘争だという意識が常にあったということですね。ユーラシア大陸的感覚から言えば、まだ勝負がついていない段階で、さっさと腹を切ってしまう、いさぎよい武士達の姿は、崖の斜面に立ち続ける山羊のボスを想い起こさせます。

ひるがえって、現在の世界をかえりみると、輸送機器の発達で世界は狭くなり、人間の持つ武器は巨大になり過ぎました。武士道という名称でなくとも、「儀礼化したディスプレイによって攻撃衝動を抑える仕組み」を、全人類共有の文化として持つべきなのではないでしょうか。

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噛まれた

このクソ寒いなか、一時間も膝貸してやったのに、撫でかたが悪いと噛まれた。

三回も。

しかも、見てよ。この太々しい態度。噛んだ後も全然のこうとしないし、一切反省してないよ。あんまりだよ。ひどすぎるよ。

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女性の名前について

前回の記事で丁夫人について「名は伝わっていません」と書きました。別に他意なく書いたことですが、ニュアンスが誤って伝わるといけないので、補足します。

歴史書に女性の名が残っていないのは、中国だろうが日本だろうが、はたまた西洋だろうがよくあることです。これは男尊女卑で女性が軽んじられていたからだという解釈が一般的ですが、この問題は実は少し微妙なのです。

まず、古代社会では東西問わず実の名を呼び捨てにすることは禁忌でした。名をよばれるというのは、魂をわしづかみにされるのと等しい行為で、悪くするとのろいの対象になってしまうからです。そのため、三国時代の英雄達もみな名前のほかに字を持っていて、通常こちらで呼び交わしいあいまし た。

「おい、劉備」なんて呼び方はしないということですね。「おい、玄徳」と字の方で呼ぶのです。また、役職を持っている人の場合はそちらの方を使い ます。だから、曹操は仲がよかった時代、劉備のことを「劉豫州殿」と呼び、劉備も曹操のことを「司空殿」とよんでいたはずです。

じゃぁ、名前は誰が使うのかというと、お父さんお母さん、もしくは塾の先生のように、魂を特定されてもかまわない存在の人たちが使います。また、 何がしかのトラブルがあって、相手の魂をどうにかして消滅させたい、端的に言うとぬっころしやりたいと願っている人も名前を使います。だから、曹操と劉備も、宿敵同士になったあと は、「備!」「操!」と、ダウンタウンの黒人のように名を呼び交し合う仲になっていたはずです。

さて話は戻って女性の場合。女性は巫女とか魔女とか魔法少女とかになったりすることから分かるとおり、魔に近く、のろいをかけやすく、またかけら れやすい存在と思われていました。そのため、本当の名前については、男性よりももっと厳密に守る必要があります。1950年代に「君の名は」とい うドラマがありましたが、昔は本当に「君の名は」と女性にたずねることは求婚と同じ意味でした。いや、それどころか、父や夫に伝えるものすら仮の名で、 本当の名前は母しかしらないというケースもあったのです。

こうした価値感のなかでは、「貴方のお母さんの名前なんていうの?」と聞くのは、「お前の母ちゃんの裸見せて」というのと同じくらい失礼なことで した。司馬遷や陳寿のような歴史家が気楽に聞き取れることではなかったのですね。また、後代まで残る歴史書に実際の名前を書かれることは、女性にとっても裸の写真がずっと記録されるのと同じことで、ありがたくもなんともなかったのです。

前漢劉邦の妻の呂太后は、珍しく雉という名前が残っていますが、これも彼女が劉邦没後、代わりに政治を取った偉大な女政治家だったから記録されているというより、死後その一族が族滅の憂き目にあってしまったために、秘すべき族母の名前も公になってしまったと見るべきでしょう。

こんな風に過去の出来事を見る際に、性急に今のものさしで計ろうとすると、当時の心情や感覚を無視して、まったく事実と違った結論を導くことがよくあります。特に女性の扱いについては、昔は男尊女卑の世界だったという固定観念があるので、誤読しやすいのですね。

はゆまも別に昔の女性に対する取り扱いがフェアだったと言う気はありませんが、過去は過去で、霊的にも身体的にも女性を保護し尊重しようという営みはちゃんとありました。そのなかには、女性の時代と言いながら、実は女性性というのは微塵も尊重されていない現代よりも、よほどうまく出来た仕組みが幾つもあったのです。

はゆまは歴史小説を書いていくことで、そうしたいつの間にかどこかに置き捨ててしまった宝石を拾い上げ、ほこりを払ってやる作業をしていきたいと思います。

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丁夫人

三国志はタフでマッチョな男の時代であるとともに、そんな強い男達に伍して、強烈な個性を発揮した女性を次々に生み出した時代でもありました。

武装した侍女を従えて嫁入りし千軍万馬の劉備を震え上がらせた孫権の妹孫尚香、暗殺された夫孫翊の 仇を元配下の男達を指揮してとった徐氏、息子姜叙と楊阜を激励して馬超との戦いに立ち上がらせ、自らは「父に背いた逆子、君を殺した凶族 め。天も地も、どうしてお前を許しておこうか。どの面を下げて人を見るのか」と馬超を罵って殺された姜叙の母などなど。烈女と呼ぶべき女性が数多います。

が、ここではゆまが紹介したいのは、彼女達のように、男の世界に勇気と知恵を持って積極的に関わった女性ではなく、あくまで女の世界から静かで穏やかな抵抗を見せた女性のエピソードです。

彼女は丁夫人。あの三国志の覇者、曹操の正夫人だった女性です。名は伝わっていません。

出身地、生没年ともに不詳ですが、後のエピソードから推測すると、年齢は曹操と同じか少し下、新興の豪族であった曹家と釣り合いの取れる程度の家の出であったかと思われます。

彼女は妊娠しにくい体質だったらしく、曹操との間に子供が出来ませんでした。そのため、側室の劉夫人が早世すると、その息子曹昂を引き取り、 わが子同様というか、それ以上に愛情をこめて養育しました。曹昂もそれに答え、やややさしすぎるところはあるものの、曹操のあと継ぎとして恥ずかしくない青年へと成長していたようです。

が、197年。悲劇が起きます。

董卓軍の残党で、当時宛を根拠地としていた張繍(驃騎将軍張済の族子)の降伏を曹操は受け容れたのですが、その際に美人で評判だった張済の未亡人と密通したのです。うん、曹操が悪いですね。

後の行動を見ると、本気の降伏だったはずの張繍がこれに激怒。反乱を起こします。奇襲を受けた曹操は絶体絶命 のピンチに陥るのですが、このとき、曹昂が父に自分の馬を差し出したことで、虎口を逃れます。が、その代わりに曹昂はこの戦いで戦死してしまいました。また、甥の曹安民もともに命を失っています。うん、弁解の余地が1mmもないくらい、早々がわるいですね。

当然、丁夫人は赫怒します。事あるごとに「私の子を殺しておきながら、平気な顔をしているとは」と曹操を罵ったといいます。曹操も手を焼き、 一度気持ちを落ち着かせるためにと、丁夫人を実家へ帰らせました。

しばらくしてから、もう落ち着いて話せるくらいにはなったろうと、曹操は丁夫人の実家をたずねます。そのとき、丁夫人は機織の最中でし た。曹操は妻の背中をなで声をかけます。「さぁ、もう機嫌をなおして。一緒に帰ろう」が、丁夫人は口をつぐんだまま、夫の方を向こうと はしません。ただ、機織のパタンパタンという音が聞こえるばかりです。曹操は沈黙に押されるようにして後ずさりします。「まだ許してくれない のかい」答えはありません。また長い沈黙、そして機織の音。うなだれる曹操と背を伸ばしてはたきに向かう丁夫人。やがて、自分のなかの何かを断ち切るようにして曹操が言います「じゃ、 ほんとうにお別れだ」

こうして曹操と丁夫人は離婚します。当時機織は女の仕事の代表的なものでしたから、自分と息子を裏切った夫に対し、静かに女の仕事をつとめつつ向けた背中は、曹操には十万の軍よりも大きく重いものに見えたのではないでしょうか。

子供の出来ない体でありながら、正室のままにしていたところをみると、それなりの愛情を曹操は丁夫人に感じていたようですが、その背中を見て遅まきながら惚れ直したのではないかと思います。

女は切れるとなるとはやいものですが、男はいつまでもぐちぐち過去をひきずるもの。曹操もご他聞にもれず死ぬ直前まで、丁夫人のことにはこだわっていて「別に思い残すこともないが、あの世に行って、子攸(曹昂)から母はどうしたのですか?と聞かれたらどうしよう」と繰り言を言っています。

また、離婚後、正夫人の地位は、歌妓上がりの側室卞氏がつぐのですが、もともと仲が悪かった、というより、一方的に丁夫人が卞氏のことを嫌っていた、二人がこれをきっかけに親しく交際するようになりました。卞氏は丁夫人にお金を送ったり、曹操が居ないときを見計らって、家に招いたりしていたそうです。聡い曹操 がそのことに気づかぬはずはないので、見てみぬふりをしていたのでしょう。恐らく曹操は二人の妻に手をあわせたい気持ちになっていたのではないでしょうか。

以上が、曹操の火遊びからはじまった離婚話の顛末ですが、一連のエピソードのなかで偉大に見えるのは二人の女の方で、軍事・政治・文化いずれの分野でも時代の主役だったはずの曹操が随分小さく姑息に見えます。また、はゆま的には冒頭の活力に満ちた女性のエピソードよりも、別れ際に英雄に見せた丁夫人の静かな背中のほうが、女の凄みと迫力を感じ、胸を打つのでした。

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顓頊暦

古今東西の歴史を調べていると、現在日本の風習との奇妙な符号に気づき、そこから新たな発見を導くことがある。

例えば、項羽と劉邦の時代の小説を書くために、顓頊暦について調べていたときのこと。
顓頊暦は、秦から前漢の元封六年(紀元前百五年)まで使われていた太陰太陽暦の暦法なのだが、年の初めが一月ではなく十月になっていた。

そのため、月と年号の関係が分かりにくく、歴史考証の際にだいぶてこずった。これは自分達のような後代の作家だけでなく、史記の作者司馬遷も苦しんでいたようで、その苦闘ぶりは「『史記』二千年の虚実」に詳しい。

素直に一月を年の初めにすればいいじゃんと、ぶつくさ文句を言っていたのだが、ふと気がついた。

あれ、そういえば、今の日本でも、会社や学校の年度では1月でなく四月を年の初めにしているな。

これは明治時代に西洋の太陽暦を導入しながら、今まで使っていた太陰暦の季節感を残そうとしたためで、いわば旧暦の名残だ。

ということはだ、顓頊歴の月と年号の開始のずれもまた、新旧二つの暦の融合の所産なのに違いない。そもそも秦は、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産で功績を挙げ、嬴の姓を賜ったのが国の起こり。元々は牧畜を生業とする遊牧民族だった。彼らは周が西進するのを追うように、西に遷都し続け、その度に牧畜から農業へ生業の度合いを濃くしていった。そして、ど こかのタイミングで完全に農業民となったのだが、そのときに農耕に便利な顓頊暦に改暦したのだろう。

ただ、遊牧民だったときの季節感も忘れることが出来なかった。日本人が桜ほころぶ頃に新しい年の息吹を感じるように、古代秦人は秋草で馬が肥え太り、冬支度に気を引き締める頃、新年の新鮮さを感じ、その感覚を捨てることが出来なかった。それで、十月が年のはじめとなる奇妙な暦が出来上がった、と思うのである。

松本清張さんは、「本は横に読め」といったというが、こんな風に歴史書を読んで見つけた事項が、別の事項と時空を超えて結びつき、物事の本質や古代人の心情が、すとっと胸の腑に落ちたときは、なんともいえない快感があります。この感覚が忘れられなくて、きっとはゆまは毎日歴史書を読み、小説を書いているのでしょうね。

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三国時代の幕府

三国志の正史を読んでいると、日本史で見慣れた「幕府」という言葉がちらほら出てきます。

例えば、蜀書李厳伝には、李厳が、魏の司馬懿が幕府を開いて属僚を招聘しているので自分にもそうさせて欲しい、と孔明に願い出たとあるし、孫権が孫策の跡をつぎ、討虜将軍となったときも、呉に幕府を開いたと記述されています。

他にも曹操の丞相府や魏王府、また孔明が漢中においた丞相府も幕府と表現されることがあります。群雄割拠の時代だった三国時代は、各地に幕府が乱立した時代でもありました。

もともと幕府という言葉は春秋戦国時代からあるのですが、当時は単に出征中の将軍の軍営を指す言葉でした、これが転じて、朝廷とは別の行政機関の意味あいを持ち出すのは、前漢の時代からです。まず、李広や衛青らが匈奴討伐のために前線に設けた占領地統括機関が幕府と表現されはじめます。そして、もう少し時代が下って後漢明帝の御世、東平王蒼が驃騎将軍となって自己の政庁を置き、天子を輔佐するのですが、この時彼が設けた政庁のことも幕府と表現されました。

前漢から三国時代にかけて作られた幕府は、朝廷からのある程度の独立性を持ち、支配地における「司法」「立法」「行政」の三権を有しています。また、東平王蒼の場合や、曹操の魏王府のように、朝廷の支配地と幕府の支配地が完全に被っているケースもあります。

一方、公的な権力機関である朝廷と違い、幕府は祭祀権を有しません。権というより義務といってもよいかもしれません。いわゆる社稷を保つ義務は、朝廷、公的機関の方が負っているのですね。

となると、日本の幕府と大体一緒だなということに、少しでも歴史に詳しい人は気づかれるかと思います。似ているというより、中国の幕府の仕組みを恐らく大江広元辺りがパクリ、源頼朝の耳に入れたのですね。京都からは手出しできない関東の独立王国を作るということが夢だった頼朝にとっては渡りの船の提案だったのだと思います。

ただ、日本の幕府が鎌倉、室町、江戸と数百年にわたって続く長期政権になったのに対し、中国では下記の三つの場合でしか使われませんでした。

1)領土拡大により公的な仕組みでは掌握できない地域が出来た場合
2)公的な仕組みが衰え、それをサポートする補助的な政府機関が必要となった場合
3)遠征、あるいは防衛戦といった国家プロジェクトのため、公的な仕組み外で、人材を集め管理する必要が出た場合

1)は李広や衞青のケースですし、2)は曹操や東平王蒼のケースですね。2)は多くの場合、現在の朝廷に取って代わり次の政権の母体となります。3)は北伐を実行しようとした孔明と、そのカウンターアクションとしての司馬懿の幕府のケースです。

日中共通ですが、幕府には下記の利点があります。

a)あくまで私の機関なので、因習に縛られず機能的な組織を作ることが出来る
b)朝廷の役職と幕府の役職を組合せることで論功行賞の幅を広げることが出来る
c)祭祀の義務を負わないため、リーダーの負担が少ない

a)は曹操や孔明の幕府のもと伸び伸び働いていたスタッフ達の活躍を思い起こしてもらえばよいかと思います。曹操や孔明は朝廷のしきたりに縛られず、様々なテクニカルワードを産み出しては、人材を当てはめ、組み合わせ、彼らの才能を限界まで絞り出しました。

b)については、魏延の役職を例に説明しましょう。魏延の役職は北伐開始時、督前部・丞相司馬・涼州刺史というものでしたが、このうち督前部・丞相司馬が丞相府で、涼州刺史が朝廷の役職です。

まず督前部・丞相司馬は前線司令官兼丞相軍参謀とでも訳せる、名前と役目が一致した具体的な「役職」でした。一方の刺史は地方長官の意味ですが、このとき涼州は魏の制圧下にあったため、有名無実のものということになります。

ただ、魏延のような当時第一級の蜀の将軍を涼州刺史に任命することは、内外に次に涼州を攻めるぞと喧伝することでした。これは信長が明智光秀に日向守という役職を与えることで、次は光秀を使って九州を征伐するぞとアピールしたことを思い起こさせますね。

また魏でいうと四品官クラスの職位を与えることで、漢中に丞相府が出来たことにより、漢中太守の役目を失った魏延のメンツをたててやることにもなりました。いわば、朝廷の役職の方は、実態を伴わない位階として利用したのです。

c)についてですが、そもそも神に仕えるプリーストと、効率がよく機能的な政権運営をする政治家を両立させることは不可能なのですね。曹操が最後まで幕府の長のままでいて皇帝の位につくのを嫌がったこと、劉備の皇帝即位後の急速な消耗振り、孫権の即位後の別人のような耄碌振りを思い出してもらえばよいと思います。

イザヤ・ベンダソンは、幕府のことを日本という政治的天才の発明と表現しましたが、三国時代の幕府を調べると、その萌芽は中国で既に芽生えていたように見えます。しかし、その成果が花開いたのは日本ででした。中国の幕府は先に述べた1)、2)、3)いずれのケースであれ、必ず朝廷に吸収される運命にあり、いわばワンポイントリリーフとして使われることはあっても、恒久的なものとして続くことはありませんでした。

それはなぜか?

これはあまりも広い国土に雑多な民族の散らばる中国では、支配者に絶対的な超越性が求められたからなのだと思います。「司法」「立法」「行政」の三権を振るう根拠として、軍事力の他に、祭祀長として天と直接つながっていることを証明することが必要だったのですね。

一方、島国で単一民族であり、また基本同格の戦士階級のなかから相対的に一番強いものが盟主として選ばれる日本では絶対的な超越性は求められません。家康が神主の真似をはじめたら伊達政宗や加藤清正から、お前誰もそこまで偉くなれとは言ってないと突っ込みが入ったでしょう。

このことは日本にとっては幸いでした。相手を滅ぼし尽くすという大陸式の戦いをしなくても、相手より自分が強いということさえ証明すれば、幕府を開き、天下を取れるわけですから。政権を取るまでの過程に流れた血は、あくまで中国と比較すればですが、ずっと少ないもので済みました。

ひるがえって、現在、薄熙来政変での中国中央政権の弾圧の過酷さと、日本の維新の会の石原・橋本さんを中心とするある意味ノンビリした政局との対比を見ると、中国で政治をするということの難しさと、日本の幸せを感じずにはいられません。

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「ホテルハイビスカス」

映画「ホテルハイビスカス」を見ました。監督の中江裕司が以前撮った「ナビィの恋」も大好きでしたが、この作品もよかった。

もともと宮崎出身のはゆまは、南国ものの映画を見ると、ほっとした気持ちになります。特に沖縄と宮崎は、「テゲテゲ」大概大概という方言が共通なように、気質的に似通っているところがあるせいか、沖縄を舞台にした映画は全てはゆまを故郷に帰ったような気持ちにさせてくれるのです。

抑揚の少ない間延びした沖縄言葉を聞いていると、子供のころ、さっぱり分からなかったおじいちゃん、おばあちゃんの諸県弁を思い出し、とにかく懐かしかった。暑さや湿気を防ぐため、土間から高く差し上げた板間も、はゆまの田舎ではよく見る部屋の構成でした。黒潮の運んだ文化なのでしょうね。

何度も洗って色あせたキャラクターもののシャツ、駄菓子屋のベンチで吸うチューペット(宮崎ではパンちゃんという名でした)、子供たちだけでの藪を分け入っての大冒険、地平線からもくもく沸き起こる輪郭のはっきりした入道雲、なぜか飼っている山羊、そして木の精霊、お盆に帰ってくる先祖の霊達。全てはゆまが子供のころ、宮崎の田舎で囲まれていた世界でした。

ただ、たった一つ違うのは、劇中、時折聞こえてくる銃弾の音や、ジェット機の轟音。主人公の女の子、美恵子がそれらの音に一切反応しないことから、かえって基地の島という悲劇性が強調されています。元気で無邪気な女の子にとっても当たり前の日常の音でしかないのかと。

ミリオタも入っているはゆまにとって、オスプレイにまつわるごたごたは安易に反対派に与しがたいものがあるのですが、沖縄の人達が日本の安全保障のために、血を流しているのも事実。デージ(大事)、デージ(大事)が口癖で、はちゃめちゃにおかしかった沖縄出身の中学校のときの友人を思い出すにつけ、同根の友人達の肩の荷を少しでも軽くしてやるために、何か出来ないか考えずにはいられないのでした。

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「カクテル」「ハックフィンの大冒険」

そろそろ部屋が本で手狭になってきた。12月か1月くらいに思い切って引っ越そうと思う。不動産屋に行って、3LDKで58平米、猫OKのマンションを紹介してもらった。実際に物件も見に行って、大家さん側で特に問題なければ、もう決めてしまうつもり。これでようやく人も呼べるし、書斎も作ることが出来る。家具も、あれ買って、これ買ってとわくわくしてきた。

不動産屋さんから帰ってきてから、映画を二本見る。一本目はトムクルーズ主演のカクテル。1988年の映画で、30代のはゆまには、当時の根拠のない楽観主義が何だかむずがゆい。興行成績の割りに、ゴールデンラズベリー賞に作品賞と脚本賞で選ばれたりもして、単なるアイドル映画として扱われることが多いということだったが、見てみると、うん、アイドル映画だった。

ほぼ同時期の1989年、勝新太郎が自ら監督した「座頭市」が勝新太郎のグラビアビデオだったように、これもトムクルーズのグラビアビデオだったといってよいだろう。でも、そういったところに目をつぶったら、ちゃんと青春映画の王道は踏んでいて、そんなに悪くない。エリザベス・シューも可愛かったし。ただ、ど派手なフレアバーテンディングで出来るカクテルがことごとくまずそうに見えるのは何とかならなかったのか。

二本目は「ハックフィンの大冒険」まだ子役だったころのイライジャウッドが妖精のように可愛らしく、特に少女に扮装するシーンでは本物にしか見えないほど。美形すぎてハックにはミスマッチかもと一瞬思ったが、悪戯っぽく口の端をあげる表情は、ちゃんと小憎らしくて、野生児のハックになっていました。

ディズニー配給のため、原作の毒や深さはことごとく漂白されてしまっていたが、1時間40分の映画としては仕方なかったのかもしれない。それなりに、ワクワクどきどきしながら楽しめました。原作でも無駄としか思えなかったトムソーヤのくだりを全面カットしたのもGOOD。ただ、ジム役のコートニー・B・ヴァンスが、ダウンタウンでYO,YO,言っているイケてるラッパーにしか見えず、奴隷の悲哀を微塵も感じることが出来なかったのが、惜しいところ。

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公園の猫達

いつものように公園を散歩していたら、仲良しのぴーが他の人の膝に乗っていた。一瞬、顔をあげ、はっとした顔をしたが、すぐ素知らぬ顔でそっぽをむいた。本妻を置いて、浮気しやがって許さんぞ。

仕方なくぶらぶらしていると、茶猫と目があった。試しに口笛をふくと一目産に寄ってくる。

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歩道の縁石に座ると、なぜか写真のように、はゆまのポケットに頭を突っ込もうとしてくる。元気いっぱいのようだが落ち着きがない。足を持ち上げて、またぐらをのぞいてやるとやはり雄だった。通知表に○○君は活発ですが、落ち着きのない子ですと言われるタイプだ。ニャオスケと命名する。

ニャオスケと別れ、進んでいくと、もう一匹猫と出会った。木の根元でしきりにうなっている。どうしたんだろうと、その視線、木のてっぺんの方を見ると、鳩の群れが枝に止まっていた。どうも、これが気にくわないらしい。

やがて、シャッと鋭く鳴くと、すごい勢いで木を昇っていった。が、鳩もすぐ逃げ、いっぴきも捕まえることができなかった。写真はそのときのもの。
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どうも降りることまでは考えていなかったらしく、ナァーナァーと情けない声を出していた。煙と何とかは高いところが好きということで、スモークと名付けた。こいつも雄のようだった。猫でも人間でも、後先考えない馬鹿は雄と相場が決まっているのだろうか。
三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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