花武担 第五章 友というもの(六)

 姜維と羅憲が、風のように走り去った後、急に簡雍の屋敷はガランとなった。それまで、二人の少年が発していた何か充実したものが、彼等と共に去っていったようだった。

「で、君は誰じゃ?」

 簡雍は、泣きじゃくる張嶷の側にいるタイ族の少年に声を掛けた。

少年は首をひねる。

燕の訛りの強い簡雍の言葉が分からなかったのだ。

 代わりに、蘭が答えた。

「阿嶷達が、乱暴されていたときに助けてくれたの。この子も、殴られたのよ」

 簡雍は、タイ族の少年に、頭を下げた。

「そうか。わしの舎弟が迷惑をかけたの。この通り礼を言うぞ」

 タイ族の少年は、老人から頭を下げられたので、ちょっと戸惑ったようで、そんなに気にしないでくだいという風に手を広げた。

「名前を聞いてよいかな?」

 簡雍は、少年の名前を聞いた。
 
 これは察したらしく、 

「マウクワク」

 と少年はタイ族の音で答えた。簡雍には、どこまでが姓で、どこからが名前か分からない。

「どんな字を書くの?」

 今度は、蘭が聞いた。

 すると、少年は蘭の手を取り、その掌に字を書いた。同世代の男子が苦手なはずの蘭が、少年の仕草が、あまりに自然だったので、黙って掌を差し出してしまっている。少年は、雲南高原に吹く風のような微笑をたたえたまま、蘭の柔らかな手の上に、褐色の指先をすべらした。

「孟獲」

 と少年は書いた。

「建寧の、孟家の子かね」

 簡雍が言った。孔明の南蛮征伐後に異民族でありながら、蜀漢政府から土豪として認められ、支配機構の中に組み入れられた八つの一族があった。建寧八大姓と言われる、焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李の八家である。孟氏は、この八大姓の一つであった。

 ちなみに、この八大姓の中の李家は、馬超を劉備に帰順させたことで有名な李恢の一族である。彼は、孔明の南蛮征伐時にも、一軍の大将として馬忠と共に大活躍したが、同胞相手の戦にやり過ぎてしまい、戦後しばらくしてから、漢中に移住してしまっている、ということはすでに書いた。孟獲は、その李恢の去ったあとの空き家に寄寓しているらしい。

「勉強をしに来たよ」

 彼は、そう言うと笑ったが、このような異族の大姓の子供を、成都に置くのは、人質の意味もある。その点では、張嶷が、成都に来た時に、連れていた酋長の息子達と同じである。しかし、彼からは、そういった境遇にいるという悲愴感は、あまり感じられなかった。自由気儘に、大都会での生活を楽しんでいるようで、全く屈託というものがない。

「あまり、男の子が泣かないよ」

 孟獲は、まだ泣きじゃくっている張嶷の頭を撫でた。

「だって、僕のせいで、休然が。それに、伯約も文則も、喧嘩に行ってしまったし」

「あなたのせいじゃないよ。悪いのは、殴ってた奴ら。泣かないで」

 孟獲は、励ました。慈しみの心が強い少年らしい。

「そろそろ、私は行くけど、元気だしてね。倒れてる子にもヨロシク」

 立ち去ろうとする孟獲に、張嶷が声を掛けた。

「助けてくれて、ありがとう。ごめんね。君も殴られたみたいで」

 孟獲は、気にするなという風に、首を振った。

「また、会えるかな?」

 張嶷が聞いた。

 孟獲は、瞳を上にあげて、ちょっと考える風だった。

「僕、君達の言葉しゃべれるよ」

 張嶷が、言葉を重ねた。

 孟獲は、驚いたようで目を丸くした。その後、

「プアン」
 と言った。

 自分と張嶷を交互に指差す。プアンは、タイ族の言葉で、友達という意味である。

 張嶷は、それに答えて「プアンクラップ」と言った。友達ですよ、という意思を告げたわけである。

 孟獲は、それを聞くと、また例の魅力的な微笑を、その褐色の顔に浮かべた。自民族の言葉で話せる人間がいるのが、嬉しかったのだろう。

 孟獲は、最後に、「パイレーゥナクラップ」と言うと、立ち去っていった。パイレーゥナクラップ、タイ族の言葉で、また会いましょう、という程の意味である。

 張嶷、孟獲。この二人の少年は、後に雲南高原を舞台に、片方は中華の文化・文明の光彩を背負って、片方は南中の数十の民族の誇りをかけて、大地を割るような、ほとんど神話的な戦いをすることになる。世に伝えられる、孔明の「七縱七禽」の故事の真の主役は、彼等であった。


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花武担 第五章 友というもの(五)

「一体、何があったというんじゃ!?」

屋敷に、葬列の群れのような、悲しみに包まれた一団が着いた時、簡雍は思わず怒鳴り声をあげた。

 張嶷は、鶏冠花の美しい着物を泥まみれにして泣きじゃくっており、顔を赤黒く腫らした柳隠は荷車に載せられている。その荷車を、見知らぬタイ族の少年が引いていた。彼は、簡雍と目を合わせると、まるで自分がしでかしたことのように申し訳なさそうに笑った。

「太学の近くで、たちの悪い連中から乱暴されていたの」

 張嶷の手を引いてやりつつ、蘭が説明した。

 姜維と羅憲も血相を変えて飛び出してくる。二人は、柳隠と張嶷が持ってくるはずの、林檎と蜜柑を今か今かと待ち構えていたのだ。羅憲は、荷車に載せられた柳隠を抱きかかえると、正堂に運び、李婆がひいた布団の上に寝かせた。

 簡雍が、吸飲みから水を飲ませようとする。

しかし、傷に沁みるのか柳隠はすぐ吐き出した。

「隠、この指を見ろ」

 簡雍は、人差し指を立てると、それを柳隠の顔に近づけたり、遠ざけたりした。瞳孔に異常がないかジッと見る。戦場上りであるため、怪我人を手当てするのは慣れていた。

「吐き気はあるか?」

 柳隠は、苦しそうだったが、首を振った。

「どうやら、臓腑と骨まではやられてないようじゃ」

 簡雍は、ひとまず安堵の溜息をついた。念のため、李翁を医者の姚子牙のもとに使いにやった。そして、羊の胃袋で出来た水筒に水を詰めた。氷嚢代わりである。

「誰にやられた?」

 羅憲は、簡雍から水筒を受け取ると、柳隠の顔にあてがい、叫ぶように言った。眉の間が、狭まっている。珍しく怒りを露にしていた。

 柳隠は、黙っている。もし、犯人を言えば、羅憲と姜維の気性だ。きっと復讐に駆け出すだろう。友達に、そんなことはさせたくなかった。

 だんまりを決め込んでいる柳隠に、羅憲が苛立ちだした。

「はやく言えって」

 ついには怒声をあげ、床に拳を叩きつけた。

 すると、それまでだまって様子を見守っていた、姜維が口を開いた。

「休然、僕達と君は友達だ。だから、嘘は言わないでくれ」

低いささやくような声である。

「これから、質問をする。答えたくない質問は、答えないでいい。だが、嘘は言わないでくれ。いいね」

 柳隠は、頷いた。

「やったのは、韓黄か?」

姜維は、ある太学の諸生の名前を言った。胡瓜が服を着て座っているようなひ弱な人間である。柳隠は、首を振った。

「では、張育か?」

また別の生徒の名前を言った。暇さえあれば、背中を丸めて書写ばかりしている顔色の悪い男で、到底こんな悪さをする人間ではない。柳隠は、また首を振る。

 姜維は、この調子で、次々に太学の生徒の名前を言っていった。皆、どちらかと言えば、大人しめで、こんな無法をする人間ではない。柳隠は、首を振り続ける。羅憲は、怪訝そうな顔をして姜維を見た。

「では、広漢の周隠か?」

犯人の一人の名前を姜維が言った。それまで、リズム良く振られていた柳隠の首が止まった。

「杜育」「来去疾」「李晋」

姜維が、犯人の名前を言っていく。柳隠は、うなずかなかったが、首も振らなかった。

 実は、姜維は最初から犯人の目星はついていた。柳隠の優しい気性から、誰か?という質問では絶対に答えないだろうと思い、このような回りくどい質問をしたのだ。羅憲は、姜維の機知に舌を巻いた。

「ありがとう、休然。君は、嘘も言ってないし、告げ口もしていない。僕が勝手に、犯人を、この四人とするね」

 姜維は、柳隠に優しげに言った。

「でも、一体どうしたんだ?君は、今まであいつ等に逆らわなかったじゃないか?どうして、こんな激しい喧嘩を?」

 羅憲が聞いた。これまで、いじめっ子達に何をされても、柳隠は逆らおうとしなかった。聞けば、柳隠は、いじめっ子達の一人に、磚を叩きつけ、噛み付いたらしい。羅憲が、知っている柳隠からは、考えられない行動だった。

「僕を守ってくれたんだ」

 姜維と羅憲が振り向くと、張嶷が、タイ族の少年と蘭に付き添われて、正堂の入り口に立っていた。大きな目から、止め処なく、涙が零れ落ちている。

「何をされそうになった?」

 姜維が、白皙の顔を怒りで蒼白にして聞いた。しかし、張嶷は、いよいよ激しく泣き出すばかりで、詳しいことは何も言わない。小さな人形のような肩が、震えていた。

 埒があかないと姜維と羅憲が、張嶷に詰め寄って、質問を重ねようとした。

「ちょっと、阿嶷は、何も悪いことしてないじゃない。被害者よ!詰問するようなことしないでよ。とにかく嫌なことされそうになったのよ」

 蘭が、張嶷を抱きしめながら、二人を睨みつけた。

「士(おとこ)に、被害者などいないがな」

黙って母屋の奥の上座で、少年達の様子を見ていた簡雍が口を開いた。

「あるのは、力の強弱だけじゃ」

 蘭が、今度は、簡雍を睨みつけた。老師とはいえ、暴言である。許せない。

「それじゃ、弱いものは、踏みつけにされっぱなしじゃない」

「そうじゃよ。だから、優しい人間には、責任がある。何者よりも強くならなくてはならない」

 簡雍は、話を続ける。蘭がハッとしたほど、その表情は、一切の感情移入を許さない厳しさに満ちていた。

「隠は、すべきことをまったき形でやった。力及ばなかったかもしれんが、弱いことは、やるべきことをやらない理由にはならん。わしは、こいつを見直したよ」

 そして、姜維と羅憲を見る。

「わしは、お前達全員を見どころのある若者と思っている。お前達を、先帝の御前にならべたとしても、恥ずかしくないようにするのが、わしの使命じゃ。こういう時、かつての先帝麾下の侠(おのこ)達なら、どうしたか、お前たちならもう分かるはずじゃ。やるべきことをやれ」

 かつての劉備軍は、何よりも侠的紐帯によって結ばれていた。それは、ライバルの曹操軍が、法規や機構、名士層の利害関係で結ばれていたのと対照的だった。

 今、友達が、辱められ、傷つけられた。その恥を雪ぎ、仇を討たなくてはならない。侠(おのこ)の証を打ち立てるために。

 羅憲は、柳隠の側まで歩くと、彼の手を握った。

「自分のことじゃないから。伯岐がヒドイ目にあいそうになったから、君は怒ったんだね」

 羅憲の胸を、この小さな友人に対する清らかな感動が満たしていた。そして、同時に卑怯者達に対する怒りが、止め処なくこみあげてくる。

「必ず、仇は討ってやるからな」

 羅憲が、そう言うと、音もなく柳隠の頬を涙が伝った。

 姜維は、もう厩から自分の馬を引き出している。

「あいつら、太学に入ったって言ってたな」

 姜維は、愛馬の雪山にまたがった。袴(ズボン)に、スラリとした足を包み、帯鉤(バックル)は獅子の金飾り。上着は、腰までの緋の襟飾りの素衣(白い衣装)。北冥の氷山を思わせる美貌は、怒りでいよいよ研ぎ澄まされ、その漆黒の瞳の奥で、触れるもの全てを焼き尽くす青い炎が、静かに、音もなく燃え上がっていた。

 羅憲も、自分の馬を引き出し、その大柄な身体を姜維の隣に並べた。

 こちらは、藍色のゆったりした裳(はかま)を穿き、上着は、膝まである橙の菱紋があしらわれた緑の羽織。いつもは、美味しそうな笑みを浮かべる陽気な顔が、今は怒りで真っ赤になっている。

 二人は、突撃前の騎都尉(騎兵隊長)のような緊張感を漂わせながら、門に向っていく。

 すると、どうしたことか、姜維の手元から鞭が落ちた。普段なら、こういうヘマはしない少年だが、今日は余程怒っているのだろう。手元が狂った。

 姜維の鞭は、珊瑚の掴み手に、鯨の髭の芯という高価なものだ。

 羅憲が、拾うよう姜維に注意した。姜維の馬も驕って進もうとしない。だが、姜維は、何百銭もするであろうその落ちた鞭には一瞥もくれなかった。

 彼の戦いの前の逸る気持ちと、高貴な誇り高さが、地に落ちたものを拾うなどという卑しい真似を許さなかった。

 その代わり、鞍から伸び上がって、側にあった楊柳の枝をポキリと折った。そして、ハァッと一声、凄まじい掛け声をあげると、その柳の枝を鞭に、稲妻のような速さで、太学に続く道に飛び出した。羅憲も、弾丸のような勢いで、それに続く。

 蘭が、姜維の鞭を拾い上げ、簡雍邸の門を出て、二人の背中を探したときには、すでに若き騎士は、市橋も超え、流星の尾のような砂煙をあげて、小さな二つの点になっていた。

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花武担 第五章 友というもの(四)

 蘭は、小城での買い物のあと、家路を急ぐところだった。

 成都の秋の風物詩である乳白色の霧が濃く出、すぐ前を行く人の背中も白色のなかに溶け入って、ときに見えなくなる。

「いやだな」

 と、蘭はひとりごちた。

 花江の向こう岸は苦手だった。

 商売用に限られた小城のなかはまだましだが、そこを出ると、見知らぬ街なかのような、風景と遠い自分を感じる。回りを取り囲む、背の高い、豪壮なお屋敷たちも、こちらに背を向けた、見知らぬ大人の背中のように見えた。

 霧をついて吹く風が、寒々しく、何か嫌な予感がする。

 早く市橋を渡ろうと、臨江の塩の入った竹篭を持ち直し、歩みを速めようとしたとき、前方で何か騒ぎが起きていることに気付いた。

 場所は、太学の近くだ。この辺りは、甘やかされた若様たちが、たちの悪い面倒事を起こす場所でもある。老将軍が一度大暴れして、しばらくはしょげかえった風だったのだが、最近はほとぼりも冷め、またもとの元気を取り戻したらしい。

 巻き込まれないようにと、野次馬を横目に、さっさと歩き去ろうとした。が、何か張嶷の声を聞いたような気がして、ピタと足を止めた。

 まさかと思いながら、野次馬の肩越しに、様子を伺ってみる。

 そして、驚いた。

 張嶷が、泣き叫び、最近よく簡雍宅に遊びに来て、何度か声を交わすこともあった柳隠という少年が、ひどい乱暴をされていた。いや、乱暴などという生易しいものでは無い。一歩間違えれば、死に至るような殴られ方、蹴られ方だった。

 何とか止めなくてはと、野次馬に助けを求めたが、皆後難を恐れて、手をこまねいている。

 相手は、有名な名流の子供達である。実家に帰れば、地平線まで続く田畑、果樹園、生簀、そして一家郎党の住む巨大なウ(城塞)を持っている。下手に関わると、どのような災難が待っているか。

 野次馬の大人達は、力無く首を振るばかりで、何もしてくれない。蘭は、情けなさに、喉の奥に酸っぱい小石がつまってきて、泣きたくなった。

 と、何の騒ぎだ?と、ちょうど通りかかった少年と目が合った。

 少年は、褐色の肌、くっきりとした二重瞼、紺色の鉢巻をし、竹のようなしなやかな身体をしていた。タイ族の少年のようだが、目元にタイ族特有の険しさがない。漢族の血も幾らか混じっているようだった。

藁にもすがる思いで、蘭は、この少年に助けを求めた。

「友達が、乱暴されてるの。助けて」

 少年は、蘭を見て、暴行の現場を見た。

そして、ニッコリと微笑んだ。

 タイ族は、漢族から見ると突拍子も無いタイミングで笑うと言われる。今もそうだったが、しかし、何とも良い笑顔だった。四時如春と言われる雲南の土地そのものを思わせる笑顔だった。思わず、蘭は見とれた。

 彼は、スラスラと野次馬の群れを抜けると、暴行の現場に、ふわりと鳥のように降り立った。

 タイ族の少年は「やめよ」と言った。訛がきつい。漢族の言葉は苦手なようだ。

「何だ。てめぇ」いじめっ子達が、今度は彼を取り囲んだ。

「君達は強い。皆良く分かった。十分」

 タイ族の少年は、そう言うと、また笑った。いささかも、少年達を恐れている様子がない。

 いじめっ子達は、愚弄されたと逆上し、今度はタイ族の少年を殴りだした。

 しかし、この少年は、殴られても殴られても、竹のような素晴らしい復元力で、元の体勢を取り戻す。そして、決して笑顔をやめない。

 やがて、いじめっ子達の方が疲れてきた。さらには、野次馬達も、タイ族の少年の勇気に後押しされてか、囲みを縮め、口々に、「もう、やめてやれ」と叫び始めた。

 いじめっ子達も、形勢が悪くなってきたことに気付き、鼻白んできた。

 蘭は、倒れている柳隠と、泣きじゃくる張嶷の元に駆け寄った。柳隠の顔は赤黒く膨れ上がり、張嶷は、小さな拳で、しきりと涙をぬぐっている。蘭は、いじめっ子達を睨みつけた。

「こんなにまでする必要が、どこにあるのよ!」

 いじめっ子達も、蘭に言い返した。

「黙れ! 女が、えらそうな口を叩くな」

 下手をしたら、蘭にまで、手を出しそうな空気だった。しかし、タイ族の少年が笑みを含んだまま、少年達と蘭の間に身体を入れた。

「女に手を出す。あまりよくないね」

 そして、笑顔のまま、顎を引き、いじめっ子達一人一人の顔を睨んだ。笑顔の奥で、目が光っている。タイ族は、普段は処女のように温和だが、一旦怒ると手のつけられないような荒れ狂い方をする。いじめっ子達も、殴っても殴ってもビクともせず、さらには段々笑顔が大きくなってくるような、この少年が怖くなってきた。

 野次馬の罵声も激しさを増し、いじめっ子達も、ようやく立ち去ることにした。彼等の一人が、去り際、倒れている柳隠に向って、唾を吐きかけたが、蘭が、手でそれを払った。

「貞に加勢され、哀牢(タイ族に対する差別語)に助けられ、最後は、女にかばわれるとはよ」

 彼等は、最後にそう言うと、笑いながら、太学に入っていった。後には、踏みにじられた蜜柑と林檎が、屍のように転がっていた。

→ 花武担 第五章 友というもの(五)

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花武担 第五章 友というもの(三)

 柳隠は、唇をかみ締め、拳を握り締めた。自分のことなら、いくらでも我慢が出来る。しかし、友人の張嶷や、師である簡雍についてまで、言われるのは自分の身を切られるより辛かった。

 ふと気付くと、張嶷を見る四人の目が、ひどく湿度の高い、そのくせ温かみは微塵も感じられない、爬虫類のような嫌らしい視線になっていた。柳隠は、この四人が、好色かつ早熟で、まだ何の仕事をしたこともないくせに、二、三人の蓄妾をやっていることを知っている。

「なぁ、貞のあれってどうなってるのかな?」

 いじめっ子の一人が言った。

 四人は、この企みに、大いに興が湧いたらしく、皆一様に、見よう、見ようと騒ぎ出した。女を抱く前のような、上気した顔になっている。

 張嶷は、彼等の爬虫類のような目と、血と脂で膨れたような面付きを見ると、無数の毛虫に足元から這い上がられるような悪寒を感じた。物心ついたころから、劉備、馬忠、簡雍と、時代を代表する一流の男から養育されてきた彼は、このような低劣極まりない人間というものを見たことが無かった。

 四人は、身を固くしている張嶷をすっかり取り囲むと、美しい振袖を後ろ手にまわして掴みあげ、身動きが取れないようにした。

「ここでは、人目があるから、太学のなかにまで連れ込んじまえ」

 張嶷は、彼らの手が触れている部分を、自分の身体ごと切り裂きたいほどの嫌悪を感じながら、先ほどからの暴言の衝撃で、胸も悪くなり、気も遠くなってきていた。目の前が赤と黒の光でチカチカしだし、もう忘れたはずの、去勢されたときの情景が浮かんできた。赤黒い血で汚れた曲刀と、鉄さびの匂い。恥ずかしさや、悲しみや、痛み。

 ゆっくりと視界が、黒い靄に包まれ、張嶷の全身から力が抜けさっていく。

 柳隠は、張嶷の様子がおかしいのに気付いた。

「頼むから、やめてくれ、用があるのは僕だろう」

 何とか、張嶷から、この下劣な若者達を引き離そうとする。この穢れた魂の持ち主達は、冗談でなく、本気で人の傷口を白昼暴いて見ようとしているのだ。しかも、単に面白そうだからという理由で。

「うるせぇ!」

若者の一人が、柳隠を突き転ばす。それでも、割って入ろうとすると、一番大柄な少年が、丸太のような腕をふるって、柳隠の頭を殴った。頭の芯まで、ビィンと響く凄まじい一撃だった。柳隠が、頭をかかえて、うずくまると、いじめっ子達の嘲笑が振ってきた。

 柳隠は、頭をクラクラさせながらも、張嶷の身を案じ、顔を上げた。張嶷は、大柄な少年に、米俵のようにかつがれ、かどわかされようとしていた。いつもは太陽を思わせる光のこもる瞳が灰色になり、瘧のように身体を震わしている。

 その様子を見たとき、柳隠の中で、何かがはじけた。あふれるような激情が、これまで彼が抱いたことも無い感情が、小さな身体を満たした。

「こいつら、絶対に許さない」

 あつらえ向きに、太学の壁を補修するための磚が、回りに散乱している。無我夢中で、そのうちの一つを取り上げた。そして、それを、張嶷を抱えている少年の顔に叩きつけた。彼の勇武を、世界に見せ付けた最初の一撃だったのかもしれない。

 磚を叩きつけられた少年は、鼻血を出しながら、かかえている張嶷と一緒に倒れた。倒れた拍子に、張嶷の持っていた袋も投げ出され、蜜柑や林檎が、周りに散らばった。

 いじめっ子たちは、石がしゃべったのを見るような目で、柳隠の抵抗を見た。柳隠が、庶民階層出身の人間が、自分達に逆らうなどとは考えてもいなかったのだ。

 柳隠は、倒れている張嶷に駆け寄った。張嶷は、真っ青な顔で、震えている。薔薇色の頬も、すっかり色を失ってしまっていた。

 助け起こそうとしたその時に、凄まじい蹴りが、柳隠の腹を捕らえた。

 立ち上がった大柄な少年が、反撃に出たのだ。
「この野郎、ゆるさねぇ」

 柳隠は、自分の身体すべてが、蹴られた腹部に巻き込まれ、くるまれ、落ち窪んでいくような痛みを感じた。胃の腑が、きゅぅとし、すっぱいものがこみ上げ、吐いた。息が出来ない。

 大柄な少年は、それにもかまわず、柳隠の襟を掴む。怒りで、顔が赤黒くなり、醜悪な顔が、さらに醜くなっていた。

 柳隠も必死だ。張嶷に向って、早く逃げろと手を振りながら、その襟を掴む手にくわっと噛み付いた。

「あぁっ」

 大柄な少年は、悲鳴をあげた。こいつ!と言いながら、その大きな拳で、柳隠の頭やら顔やらを、めったやたらに殴る。殴るたびに、ごつぅん、ごつぅんという凄まじい音が鳴り響いた。それでも、柳隠は顎を外さない。

 他のいじめっ子達も、加勢に出た。この程度の低い暴君たちは、自分達の権威が、ちらとでも脅威にさらされたことが許せず、残忍さを増していた。

 一人の少年が、助走をつけた残酷非情な蹴りを柳隠の背中に入れた。ついに、柳隠は倒れた。

 その倒れた人間に対しても、いじめっ子達は、足蹴にし、立ち上がらせては殴り、また足蹴にしを繰り返す。

 張嶷は、まだ、頭がボンヤリとし、耳に栓を詰められた時のような遠さで世界を感じていたが、こわれた人形のようになった柳隠が、いじめっ子達の間で、クルクルと弄ばれているのを見て、ようやくハッとなった。

 このままでは、本当に柳隠は死んでしまう。

 張嶷は、泣きながら、傷だらけの柳隠の身体の上に覆いかぶさった。

「やめて、やめて」

 張嶷は、自分を守ろうとしてくれた小さな英雄にしがみつく。

 しかし、いじめっ子達は貴種の血筋らしい冷血さを発揮して、攻撃を全くやめようとしない。張嶷は、柳隠から剥ぎ取られ、突き転がされた。

「お前の料理は、また後でしてやるよ」

 シシシッと四人は怪鳥のように笑った。

 このまま殴り続けたら、柳隠は死ぬかもしれないが、所詮は庶民の出。なぁに、自分の名流の血が守ってくれる。自分に逆らった庶民を叩き殺すというのも、一興ではないか。自分の勇武を表すエピソードとなってくれるだろう。

 この未完成で、未熟で、身震いすることを知らない、名門の子供達は、そう思っているようだった。

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花武担 第五章 友というもの(二)

 後漢代から、重陽節には「登高」といって家族や友人と小高い丘や山に登り、開花時期にあたる菊を観賞して過ごすのが慣わしとなっていた。

「うん、いいよ」

 柳隠は、快諾した。

「よかった。どうやって過ごそうかって令則(羅憲)と話してたんだ」

 賑やかな日だけに、家族から離れて異郷に居るものには、よりいっそう孤独が染みる日でもある。

「一人ぼっちだったら、どうしようかと思ってたの」

「老師もついてくるかもね。菊酒を飲むために」

 柳隠が、言った。

「節句じゃなくったって飲むのにね」

 張嶷も話しをあわせると、二人は、顔を見合わせコロコロと笑った。

 この頃には柳隠の憂鬱は、すっかり消え去ってしまっていた。

 いつしか二人は、孔明邸はじめ、高級官僚が多く住む場所を抜け、太学の近くまで来ていた。後は、太学の壁を右手に通り過ぎ、花江にかかる市橋を渡ったら、簡雍の家まで、もうすぐである。

「すごいお屋敷ばっかりだったね」

「宮城の近くで、出仕しやすい場所だから、偉い方達は、皆あそこに住むんだよ」

「でも、何だか、ひっそりとしてたよ」

「そりゃ、北伐のために漢中に出払ってる人が多いからだよ。右将軍の家も、僕のほかは、あまり人がいなかったでしょ」

「北伐かぁ」

 孔明の内治のよろしきもあって、成都には戦時中という雰囲気は、あまり無い。そのため、今の張嶷には、北伐と言われても、遠くで聞こえる太鼓のようにしか聞こえなかった。

 と、柳隠が急に立ち止まった。

 張嶷が、いぶかしげに柳隠を見ると、顔が青くなって、固まったように前方を見ている。視線を辿ってみると、薄ら笑いを浮かべながら、シャナリシャナリと近づいてくる四人組の若者がいた。皆、錦の豪奢な服を着て、甘ったるい香水の匂いをプンプンと漂わせている。張嶷たちより、一、二歳ほど、年上のようである。

「おい、隠じゃねぇか」

 若者の一人が、殊更横柄に、呼びかけてきた。

「ちょっと、こっち来いよ」

 そういうと、柳隠の首に乱暴に腕を回してきた。そのやり方は、ひどく権高で、ヒヤッとする残酷さが感じられた。

 太学で柳隠を苛めている連中らしく、腕を回された柳隠の首が雨に濡れた稲穂のように垂れている。

「何だ、これ?汚い蜜柑と林檎だな」

 別の一人が、柳隠の抱えている袋の中をのぞいて、馬鹿にしたように笑った。他の三人も、それに合わせて、ゲタゲタと笑っている。

 柳隠は、唇をかみ締めていた。四人の若者は、巴西の周氏、蜀郡の杜氏、義陽の来氏、梓潼の李氏といった名族中の名族の子供達である。皆栄養の行届いた血色の良い顔をして、大柄である。かなうわけがなかった。

「ちょっと食べてみようぜ」

 四人は、柳隠の袋を取り上げると、てんでに手を突っ込み、蜜柑や林檎を取り出しだした。

「ちょっと、やめろよ」

 柳隠が、恐々抵抗しようとした。すると、いじめっ子の一人が、口の端だけ曲げ、ひどく意地悪そうな顔をしながら、耳の後ろに手を当てた。

「あっ、何だって?今何て言った?」

「それは、簡老師に渡す束脩なんだ。だから、触らないで」柳隠の声は震えている。

 束脩という言葉を聴くと、四人は、爆ぜたように激しく笑い出した。

「これが束脩だって!?」

「俺は、豚に餌をやりに行くのかと思ったぜ」

 口々に好き勝手なことを言う。

 それでも、柳隠が何か言い返そうとすると、若者の中で、一番体が大きな者が、柳隠を突き飛ばし、太学の壁に押し付けた。その若者は、体も顔も大きいが、目だけは線で描いたように細く、まなじりが吊り上がっている。いかにも、酷薄そうな人相だった。

「黙ってろ!馬鹿が」

 彼は、そう言うと、柳隠の横の壁を、どんと殴った。その拳と殴った時の音の大きさに、柳隠は震え上がった。他のものは、その様子をニヤニヤ見ながら、取り上げた蜜柑や林檎をかじっていた。

「やめてあげなよ」

 黙って、様子を見ていた張嶷が、口を開いた。

 若者達が、何だ?と張嶷の方を向いた。張嶷は、この日、鶏冠花の模様が入った着物を着、長い袖に薫陸香の香袋を入れていた。鶏冠花の鮮烈な紅色と、薫陸香のあえかな匂いで、人の形をした燃え上がる花束のようだった。

 いじめっ子達は、このただただ美しい存在を、どう解釈したら良いか分からず、少し気圧されたようになった。

 張嶷は、薔薇色の頬に、さらに血を登らせて、腹を立てていた。何て人達だろう。名門の子供らしいが、姜維のような高貴な責任感も、羅憲のような大らかな優しさも彼等からは感じられ無い。感じられるのは、甘やかされた思いあがりと、無慈悲な傲慢さだけである。

 スタスタと、壁に押し付けられたままの柳隠の側に歩いていくと、彼の手を取った。

「こんな人達放っておいて、さっさっと行こう」

束脩の入った袋を、引っ手繰るようにいじめっ子から奪い返すと、さっさと歩き去ろうとした。

「おい、ちょっと待てよ」

 例の、一番大柄で酷薄な顔をした少年が呼び止めた。

「誰か知らんが、お前には関係ないだろうが」

「関係あるさ。柳隠とは友達だもの」張嶷は言い返した。「君たちみたいな乱暴な子と遊ぶ気はないの」

 このっ、と大柄な少年は怒鳴ろうとした。が、その前に他のいじめっ子が、大柄な少年に何か耳打ちした。耳打ちする間ずっと、張嶷の方を見て、何やらにちゃにちゃとした、嫌な笑いを浮かべている。

 大柄な少年は、聞き終わると、にたりと笑った。笑ったというより、ぐしゃりと顔の輪郭や部品が崩れたような、何とも陰険で陰惨な表情を取った。

「お前、簡雍老師の所の腐貞だろう」

 大柄な少年は、あざけるように言った。

 貞とは、宦官の中でも、性徴が始まる前に去勢されたもののことを言う。腐をそれにつけると、宦官に対する侮蔑語になった。去勢された後は、しばらく排尿の調節が聞かなくなり、召し物を汚すことが多々あるため、宦官は罵られる時は腐と呼ばれていたのだ。

 張嶷は、身体的なことを言われるのを非道く嫌う子で、回りに居る人間も、張嶷の身体のことについては成るべく触れないようにしていた。成都に来てから、これほど無造作に、そして不注意に、傷口に触れられるのは初めてだった。

 張嶷は、怒りと恥ずかしさで、頭がボゥッとなった。

 いじめっ子たちは、もう毒気をすっかり取り戻し、何がおかしいのか、またヒヤヒヤと笑い始めた。

「あの老革様も、耄碌したもんだ。色子遊びかね」

「隠も情けねぇな。五体満足でもない、男ですらない人間から助けてもらう気かよ」

 老革とは、老いぼれの兵隊といった意味である。簡雍のような、創業者劉備の友人で、蜀建国のために命を的に働いた人間でも、名士層の間では、裏でこのように言われる扱いでしかなかった。

→ 花武担 第五章 友というもの(三)

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黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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