英雄の起源

英雄の起源についてつらつら考えています。

日本は農耕民族で狩猟民族じゃないから突出した英雄が出ない。

よく言われる議論ですが「間違い」です。

そもそも、実家の村には猟師が何人もおり、一族集まっての宴会では猪鍋や、鹿の刺身が卓にあがるはゆまからすれば、日本を一概に農耕民族といっていいものかどうか疑問が残りますが、その議論はまずおいておいて。

純粋な狩猟採集社会というと、狩りの達者な人が一番尊敬され、肉も女も一番いいものをもらい、村の政治においても最も大きな権力を握ると思われがちですが、実態はまるで違います。

コンゴ民主共和国のムブティ・ピグミーやアカ・ピグミーのハンターは、大きな獲物をしとめても、まったく興奮の色を見せず、静かな態度でキャンプに戻ってくるのだそうです。

その後、規則にしたがって槍や銃の所有者、猟に参加したものの間で分配され、それからキャンプの各家族へ分配されるのですが、この際、決して肉を直接手渡されることはないのだそうです。

肉は放り投げられ、それを女性がバスケットにつめてキャンプへ持ち帰り、葉にくるんで仲間の小屋の上へ「置き」ます。受け取る側は常に表情を変えず、感謝の意は決して表現されることはありません。

ブッシュマンも、獲物をしとめたハンターは控えめな態度をとるのが普通です。キャンプに戻っても、たずねられるまで答えず、翌日みんなで獲物を取りに行ってもまったく賞賛の声は聞かれません。それどころか、獲物が小さすぎるとか、遠くまで歩かされたとか、ぶつぶつ愚痴を言われるのが常なのだそうです。

ハンター自身も自分の獲物が取るに足らないことを認め、申し訳なさそうな態度を取ります。

無論これは一種のジョークでありまた儀礼です。

ブッシュマン達は肉を平等に分配し、その幸福を存分に味わうわけですから、ハンターの仲間に対する貢献は高く評価しています。しかし、そこで獲物をしとめたハンターが一方的な「威信」を集めることのないよう、節度ある振る舞いを要求するわけです。

長らくピグミー社会の研究を続けてきた丹野正氏によると、彼らの社会は「分け与える」ことではなく「分かち合い」の精神によって特徴づけられています。そして、その前提として「所有」という概念は徹底的に忌避されるのです。

三国志の劉備や曹操、戦国時代の大名達、あるいはローマのカエサルといった人たちを示す意味で、今英雄という言葉を使いますが、こうした社会では、彼らのような人が生まれようがないということは容易に分かるものと思います。

英雄という肥大した自我は、優れた知恵と力で何事かを「所有」し、それを集団に「分け与える」ことで「威信」を示し、集団は彼に対し「感謝」を捧げるというプロセスによって、生み出されます。

しかし、純粋な狩猟採集社会は、そのプロセスのステップ一つ一つを、注意深く摘み取っているのです。これでは、劉備も曹操も織田信長もカエサルも生まれようがありません。

全ての民族は過去狩猟採集社会というものを体験してきていますが、もともと私達の社会は英雄など物騒なものは生み出さない仕組みを内包した社会だったと言っていいのかもしれません。

また、「御恩と奉公」という端的な言葉で、先ほど言ったプロセスを仕組みとしてしっかり組み入れた武家社会を過去に持つ、私達日本人の社会は、突出した英雄を嫌う社会どころか、実はそれが大好きな社会なのです。よく言われる嫉妬深さも、その大好きの分だけの反作用に過ぎません。

さて、ここで、タイトルに立ち返ってみると、英雄の起源は、狩猟採集社会のなかに見つけることは出来ません。むしろ、狩猟採集社会から、農耕牧畜社会への移行期に、この肥大した「これは俺のものだ」「俺がお前にこれを与える」「だからお前は俺に感謝しろ」と言い始めた自我は生まれ、彼の存在がブーストともなって社会の移行が完成したのではないでしょうか。

そして、リビアの砂漠で、メソポタミアの平原で、中国の黄河や長江のほとりで、生まれた彼こそが、全ての皇帝の、王の、大名の起源であり、人類を先に述べた「分かち合い」のエデンの森から追放し、なべての栄光と悲劇のルーツとなった存在なのです。

日本海があるのになぜイギリス海はないのか?

19世紀のロシア海軍の提督にクルーゼンシュテルンという人がいました。

当時のヨーロッパ人の冒険心や好奇心の強さを一身に体現したような人で、帆船を駆って世界中の海を旅し、ロシア人としては初めての世界周航も成し遂げました。

日本史の関わりとしては、あのレザノフ事件の際、レザノフを乗せていた旗艦ナジェージタ号の船長だったりします。ただ、クルーゼンシュテルンはスマートな人で、外交交渉が上手く行かなかったからといって、はらいせに国境の相手側施設を焼き払うような暴挙については反対の立場だったようです。

レザノフはこの事件の後すぐ死にますが、クルーゼンシュテルンはその後も栄達し、軍人としてだけでなく水路学者としても赫赫たる名声をあげ、晩年にはロシアアカデミーへの入会も果たしています。

この人が昨今議論されている「日本海」の命名者です。

その事実は最近有名になってきているのですが、実はクルーゼンシュテルンはもう一つ日本近海の海域の名付け親になっています。そちらは、韃靼海峡といいます。ただ、この名称はロシアが使っているだけで、正式には間宮海峡と言われています。

間宮海峡がIHOも認める正式な名称となったのは、有名なシーボルトの尽力があったからなのですが、その話をしようとすると長くなるので今回は割愛します。本稿のテーマはあくまで日本海なのです。

さて、クルーゼンシュテルンが名付けた二つの海域の名称を並べて見ましょう。

「日本海」
「韃靼海峡」

何か気づくことはないでしょうか?

わからない?

片仮名でロシア語表記にしてみましょう。

「ヤポン海」
「タタール海峡」

もっとわかりにくくなったかな。

実は、両方とも同じ文脈で名付けられているのです。

タタールは、ロシア人だったクルーゼンシュテルンから見てその辺縁部に位置する「蛮族」の名前です。そして、ヤポンもまたクルーゼンシュテルンからしたら、文明人たる自分の世界周航によって初めて文明の光に照らされ「発見」された蛮族の呼称なのでした。

かつてローマはゲルマンの森深くに攻め入り、今はバルト海と言われる海域を発見すると、そこに住む蛮族スエビ族の名前を取ってスエビ海と名付けました。それは、自分の勢威がそんな蛮族の住む海域にまで及んだことを高らかに誇るいわば凱歌でした。

日本海もまた、

「凄いや。日本って本当にあったんだ」

そんなラピュタみたいなノリで、しかも文明から未開へという侮蔑的な視点も含めて名付けられた名前なのですね。

で、ここでタイトルに戻って何故かつて世界七つの海を支配したイギリス海という呼称がどこにもないかを考えるとあたりまえだということに気づきます。イギリス近海の海の名前は、アイリッシュ海にケルト海、どちらもアングロサクソンたるイギリス人から見て異民族の名前です。例外として、イギリス海峡というのがフランスとイギリスの間にありますが、こちらは先のスエビ海とほぼ同時期にローマ人が名付けた名前で、この頃のイギリス人は青い入れ墨を入れ、髪を泥で逆立て、半裸で突撃してくるバリバリの蛮族でした。

まとめると、ローマ・ギリシャ以来の西欧文明というのは新たに発見した海域に、その土地に住む蛮族の名前を冠してつけるというのを昔からやっていて、日本海もその文脈のなかで名付けられた名前なんですね。これはインド洋なども同じです。

だから、別に日本海という呼称は、日本にとって名誉なことでも何でもなくかつてオーストラリアのコアラとか、ガラパゴスのゾウガメとかと同じく発見される側でした、ということを示すむしろかっこわるい名前なのでした。

こんな西欧帝国主義の残骸みたいな名前を今極東の二カ国がむきになって争っていますが、クルーゼンシュテルンが見たら大爆笑するんじゃないでしょうか。

また、韓国は日本に喧嘩を売っているつもりなんでしょうが、実はもっと大きなもの、西洋視点で地名や海域名が名付けられてきたこれまでの世界史の大きな枠組みそのものに喧嘩を売っているということにどこまで気づいているのでしょうか?

はゆまから言わせると日本が絶対に守らなきゃならない海域名は「間宮海峡」の方です。こちらこそアジアが西洋から一方的に発見され地図上に線を引かれ放題されていた時代に、勇気と知恵と冒険心を持って世界史の地図に先鞭をつけた偉大な日本人「間宮林蔵」がいたことを示すものなのです。シーボルトの日本に対する友情に報いるためにも、私達日本人はロシアに乗り込み、「韃靼海峡」と名付けられた地図の上に「間宮海峡」のシールをぺたぺたはり付けてやることにしましょう!

スケープゴートとしての平家

古代ローマで共和制・帝政を通じて行われてきたお祭りに「王の放逐」(Regifugium)というものがあります。王制最後の王「傲慢なタルクィニウス」の追放を擬したと言われる一種の儀式的な競走ですが、その起源を遡ると、かつては本当に王が参加して他の参加者と競走していたようです。このお祭りで王様は走力が抜群であることを見せつけ、自分の肉体的な強さを誇示するという、いわばマウンティングの儀式でした。

もし、王様が負けちゃったら?

その場合、王様は肉体的・霊的力が弱まったものとして殺され、王権は王様に勝った者に譲り渡されます。

奇妙な話のようですが、実は王を殺したり、一定の年限がくると退位させる風習は、世界各地の古代社会で見られることでした。古代南インドでは王は在位十二年後に犠牲に供されましたし、古代スウェーデンの王も任期の九年を過ぎると殺される宿命でした。

日本でも有名な卑弥呼の死期は皆既日食の時期と被っていて、太陽の死と共に民衆に殺されたのでは?という説があります。また、古代中国で殷を創始した湯王は日照りの際に、積み上げた薪の上に座り、自分の身を焼いて雨を降らせようとしました。湯王の場合は儀式の途中で雨が降ったので助かりましたが、古代中国では本当に王が焼き殺される例もたくさんあったのだと思います

王様が祭祀王でもあった時代、力の弱くなったり、干魃などの災害を招いた王様は「祟り」をもたらすものとして殺されるのが一般的でした。

しかし、時代が下るつれこうした慣例は段々抽象化・儀式化されてきて、冒頭の「王の放逐」のような象徴的なお祭りになるか、あるいは身替わりのものが殺されようになりました。バビロニアでは毎年五日間の年次祭の時は死刑囚に王衣を着せ、王様の身替わりをさせたそうです。その間彼は王様同様に大事にされ、後宮の女と寝ることさえ許されるのですが、夢のようなひとときが過ぎると、鞭打たれたあげくに縄で吊されるか槍で突かれるかして殺されるのでした。

さて、タイトルの平家の件ですが、どうもはゆまには平家のあっという間の栄達と没落が、このバビロニアのスケープゴートと重なるのです。

平安末期それまで日本を支配してきた公家社会は、明らかに統治者としての能力を失っていました。奈良時代の貴族は体が頑健で気宇も大きいものが多いのですが、平安時代の貴族は仏教・神道両方の禁忌に心身ともに絡め取られ、体は不健康で小さくなり、まともな政治を行う力も意志も無くしてしまっていました。代わりに台頭してくるのが武士です。繁田信一氏の「殴り合う貴族達」という本には、平安末期の情けない貴族と、それとは対照的な凛とした武士の姿という構図を示す象徴的なエピソードが紹介されています。

治安三年(1013年)後一条天皇の時代のことですが、天皇の寝所の清涼殿を二人の若者が無断侵入した上に、派手な暴力沙汰を起こすという事件が発生します。二人の若者は、少将と称される内裏女房の息子で、母親を迎えに来ようとして、清涼殿に無断侵入したのでした。このとき、藤原永職という蔵人が二人を見とがめ誰何します。しかし、逆に二人から大声で威嚇されて怯み、警護の武士を呼びに行きます。無断侵入した二人も二人なら、怒鳴られた程度で怯んでしまう永職も永職です。

それで藤原友良という武士が駆けつけてくることになるのですが、こちらは見事な手並みで二人のうち一人をたちまちのうちに取り押さえます。しかし、さすがに二人同時というのは難しかったらしく、一人は取り逃してしまいます。友良は、まずは捕らえたものの身柄を確保して、ということで若者の一人を柱に縛り付けはじめるのですが、その間に一度は逃げたはずのもう一人が兄弟を助けようと舞い戻ってきました。手には抜き身の刀が握られています。この馬鹿者はあろうことか宮中で抜刀したのです。

しかし、凶器を持っても所詮公家は公家です。友良は取り押さえた方を柱に抑えつけつつ、空いた手の方でもう一人のくせ者を白刃をものともせず取り押さえてまいます。そのうちに、他の武士達も駆けつけ、二人のくせ者は柱に縛り付けられます。これにて一件落着のはずでしたが、この期におよんで馬鹿息子二人の母親少将が現場に駆けつけます。そして息子達の無断侵入と抜刀の罪を棚に上げて、二人を逮捕した武士達をさんざんに罵倒したのでした。

この話には後日談があります。これほどの騒ぎを起こしながら少将の二人の息子は母親の七光りで罰せられることはありませんでした。それを僥倖と思えばよいのに、そう思わないのが、甘やかされ思い上がった人間というもの。彼らは初めに自分達を誰何したあの臆病者の蔵人藤原永職を逆恨みし復讐することにしたのです。自分達を直接取り押さえた藤原友良を標的にしなかったのは、とても叶わないという思いがあったからなのでしょう。

で、二人の息子の内一人が再び宮中で抜刀し永職に斬りかかりました。しかし、これまた幸いに、側に永職の同僚で検非違使でもあった平孝成という武士がいたため事なきを得ます。孝成は、弓で息子の胸をつき、突き転ばして簡単に取り押さえてしまったのでした。

少将の馬鹿息子二人に比べて、藤原友良、平孝成、二人の武士の立ち居振る舞いの見事なことといったありません。また、二人は貴族を取り押さえる際に、貴族の繊弱な体というものを知ってしまったはずです。「こいつらは弱いし、その気になったら簡単に殺せる」ということを肉体的に実感したはずでした。その上で、友良などは少将に罵倒されているのですが、そのとき全身を駆け巡った血も凍るような怒りというのはどれほどのものだったでしょう。

恐らくこうした類似の事件は数限りなく起こっていて、その度に武士は貴族を舐めるようになっていき、次代の政権を担うものとしての自信をつけていったのだと思います。

ただ、武士に対する世間の目というのは複雑な面もあり、平治の乱の際、藤原信西を討ち取った武士の行列を見物する群衆は彼らに対しえんがちょを切っています。また、平家は平正盛以降時代の寵児として貴族社会に深く関わっていき、最後にはその大手道を歩くようになりますが、京都での本拠地は六波羅のままでした。

六波羅は洛中の東の外れにあり、京都の住民の葬地でもある鳥辺野の入り口にあたります。腐りかけの死骸が転がり、時に間引きのための捨て子の泣き声響く、障り多い場所です。平清盛は太政大臣になり、また娘・徳子を高倉天皇に入内させるなど栄華を極めますが、結局のところ厳密な意味ではあの洛中の碁盤の目に足一本踏み入れることが出来ませんでした。

公家社会には「位打ち」という言葉があります。位をどんどん高めることで、その人物の精神の平衡を奪い人格をつぶしてしまうことを差すが、はゆまにはこれとバビロニアの死刑囚に着させられた王衣が重なります。

政権担当者としての能力は失った公家ですが、権威者としては生き残るために、王たる者達が最後に果たすべきこと、薪の上に座って焼き殺されること、あるいは縄で吊されること、はたまた槍で突き殺されることを、全部平家に押しつけたのでした。平家は公家社会の最後の最後に登場し、ほんのわずかな一瞬貴族にしてもらったというだけで、それまでの矛盾と憎しみを一身に背負うことになったのです。

寿永四年(1185年)源義経が壇ノ浦で勝利し、平家は一族から出した念願の天皇、安徳天皇も含め全てが海の底へと沈み絶滅します。一方の公家社会はしぶとく生き残りますが、日本人の心に強く焼き付けられたのは、真の意味で貴族的だった平知盛、平重衝、平維盛ら、平家の公達達の美しい夕陽の最後の残照にも似た滅び行く様だったのでした。

蛮族たち

ドーリア、スキタイ、キンメリア、ゲルマン、ガリア。匈奴、犬戎、西羌、狄、東胡。

東西どちらの文明でも蛮族とされた民族の名称ってとげとげしく、いかにも洗練されていない響きで聞こえるから不思議だ。特にゲルマン民族のなかでも、キンブリ族、テウトネス族なんかは、もう蛮族以外の何ものでもないって感じで素敵。

実ははゆまはこの蛮族達が大好きだ。

迷信深く、考えは足りず、憎愛いずれにも血が濃く、幼児のように光ものを好み、何よりも命知らず。

ゲルマンの黒い森で、ウクライナの金色の草原で、シベリアの凍てついたタイガで、大漠の熱い砂漠で、チベットの高原で、大興安嶺の密林で育まれ、飢饉や、カリスマ的な英雄を持ったことをきっかけに、怒濤の如く中国やローマといった文明地帯に押し寄せる彼等。中国の長城やローマのレギオンに、巌に砕ける波のように、敗れ去ることがままあっても、蛮勇が知恵を、感情が理性を、野蛮が文化を上回り、取り澄まし穢れた文明を血で洗い清め、新たな秩序を打ち立てる。

その最後の例が、明清革命だったのだろう。それ以降、先述の蛮族の揺籃地は皆文明の光源のさらすところとなった。世界史的には進歩だったのだろうが、歴史書をひもとき、今はなき彼等の名前を見つけると「歴史は寂しくなったな」と極東のまつろわぬ蛮族、倭族の末裔は思うのだった。

お金の産まれる場所

お金の産まれる場所に行ったことがありますか?

はゆまはあります。

昼間のお仕事の関係で桜の通り抜けを過ぎ造幣局に行ったのですが、それは本当に何というか、非現実的というかシュールレアリスムな体験でした。

そもそも要件自体がシュール。

お金を作るのに幾らお金がかかるかを把握したいという、原価管理システムの設計開発のお仕事だったのです。

明治浪漫という言葉を連想させる門を潜って、工場に入ると、まず人がほとんどいません。持ち逃げを防ぐためということでしたが、ここまで人がいない、シンとした工場というのは初めてでした。ただただ、ガラス張りの向こうで、様々な工作機械が黙々と動き、お金を打ち出していきます。世界が終わった後も、無言で打刻を続けていくんじゃないか、そんなことさえ思いました。

「作業工程で、人が関わることはほとんどありません」

担当者の方の言うことを聞きながら、じゃぁここの人は何して働いてるんだろうと思っていると、終業のチャンネルが鳴ります。そうすると、出るわ、出るわ、いかにも毛並みの良さそうな人達が、爽やかな笑顔で退社していきます。何でも、残業はほとんどなく、社内サークルも盛んなので、局所有のテニスコートで一汗流していく人も多いとのこと。まるで、ソ連のプロパガンダ映画のような話です。レーニンやスターリンが夢見た労働者の天国は、こんなところ、資本主義の最も進んだ国の、そのまた聖地のような場所にあったのですね。

さて、結局、この時の仕事は要件定義だけで、そこまで深く関わらなかったのですが、お金というのは、本当にシュールというか不思議なものだと思います。例えば、冒頭の原価管理の仕組みでいえば、実は一円玉を作るのには一円以上のお金がかかります。多分四円くらいだったと思います。

また、現在のアルミ市況は1gあたり1.7円ですので、もし皆さんが一円玉を一万円分集め、それを溶かしてイゴットを作り、売り飛ばせば一万七千円の価値になり、利益を得る事が出来ます。もちろん、その後、おまわりさんがやってきて逮捕され、ついでにはゆまままで逮捕されますので、絶対やってはいけませんが、お金というのを突き詰めて考えていくと、こんな風にシュールなことになります。

結局、お金というものは大きな嘘というか幻想に基づいたものなのですね。そのため、国はこの嘘を暴かれたり、ちゃかされたりするのを異常に嫌います。実際、昔、ミスターマリックというマジシャンがテレビのなかで硬貨に穴を空けたところ、即座にトリックを見破られ、警察から厳重注意を受けたそうです。ミスターマリックは元々は超能力者という触れ込みでデビューしたので、「ハンドパワーです」と言ったそうですが、一顧だにされなかったというところに、国の本気度が伺えますね。

また、この話は、お金の価値を保証するもの一つとして、国からの強制力・暴力というものが、まぎれもなくあるということを示しています。

今、アメリカがデフォルトするかもと心配している方も多いと思いますが、決してしません。アメリカは世界最強の軍事力、つまり暴力を所有した国です。国家は色々と忙しく嘘をつきますが、お金がお金であるという、このフィクションだけは、いかなることがあっても守るはずです。多分、来週には普通に方がつくんじゃないかな。

無論、アメリカが将来その力を失ったとき、ドルがどうなるかについては、また別の話になりますが……
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花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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