「日本を降りる若者たち」と「アル中病棟 失踪日記 2」

「日本を降りる若者たち」と「アル中病棟 失踪日記 2」を続けて読了。

思ったのはある種の人達にとって日本で生きていくのは本当に大変なことなんだなということ。

日本人のひしめくコミュニティのなかで普通に働いたり暮らしたりするのがとてもとても難しく、プライドや心を守るためにお酒に逃げたり外国に逃げたりする。

ただ、人に傷つけられた傷は、人のなかでしか癒されない。逃げた先にもやっぱりコミュニティがあって、彼等はそのなかに加わり生活していく。二つの本ではその様子が描かれているのだが、はゆまは正直楽しそうだなと思ってしまった。

アルコール依存症専門病棟であれ、タイのカオサンであれ、そこにいる人たちはある種の傷を前提にしている。だから、外こもりの青年も、アルコール依存症の人も、うまくやっていくことが出来るのだろう。

「アル中病棟 失踪日記 2」では、吾妻氏がレクレーションの幹事を張り切ってやる様が生き生きと描かれていた。吾妻氏は、漫画の大家といっていい人だが、ささやかな会の幹事として評価されたのがとても嬉しかったのだろう。恐らく、こうしたコミュニティのなかでは、些細なことでも承認されるような仕組みが出来ているのだと思う。

もちろん、しょーもないことや、人間関係のぎすぎすもあるのだろうが、それでもはゆまにはこの二つの本で書かれているコミュニティが桃源郷のように思えた。それは、きっとはゆまもまた彼等と同じような生きづらさと危うさを抱えているからなのだろう。勿論、作家なんて「いやー人生薔薇色っすよ!」なんて人のやる仕事ではないが……

新装版クロ號(2)ボス! チビたちが大変です

大好きな杉作氏の猫漫画、クロ號新装版の二巻を読了。少し大人になったクロやチン子と、クロの初恋の相手だったマダラの子供の話がメインだった。

ぱっちり目の大きく描かれた杉作氏の猫達は本当に可愛い。しかし、そのキュートなタッチの絵とは裏腹に、内容はなかなかにシビア。ふとしたことで命を失う、はかない野良猫たちの生もリアルに書いている。時々、ギューと胸が切なくなって、ついつい我が家の元野良をつかまえて取った写真がこれ。

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長生きしてね。ブーチン。

岡田史子 語られる前の物語達

前から気になっていた岡田史子の作品集「オデッセイ1966~2003―岡田史子作品集 (Episode1)」をアマゾンで購入。今日、読了した。

岡田史子を知らない人のために、その略歴を説明すると、1949年、北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身の少女漫画家で、その詩的な作風の漫画は、萩尾望都、手塚治虫、など錚々たる作家達に評価され、天才の名をほしいままにした。一般にはマイナーだが、漫画家のための漫画家といわれる作家である。

大好きな飯沢耕太郎のエッセイ「戦後民主主義と少女漫画」で紹介されていたので、前から読もう、読もうと思っていたのだが、今回初めて念願かない、手にとってみた。

が、やはり、もう40年以上前の漫画。画が古臭い、ていうか稚拙。そして、話も筋らしい筋がなかったり、あっても単線的なものばかりだ。最初は、う~ん、これが天才……?と思った。

だが、読み進めていくうちに、不思議とざわざわ、ざわざわ、心がざわつくものを感じる。大脳新皮質、理屈とか論理の世界では理解できないんだけど、そのもっと奥、無意識の世界にある、何かやわらかいものが、揺さぶられている感じ。ちょっと、たとえは悪いが、心の病んだ人の文字や絵を見るときの感覚と似
ている。時々、怖くなって、本を閉じたりもした。

これはいったい何だろう?

しばらく考えてみて、ここに描かれているものは、皆語られる前の物語たち、原物語とでもいうべきものたちなのだ、ということに気づいた。まだ、三歳とか四歳の子供が、何か語ろうとするとき、それは断片的なイメージばかりになって、一向に構造と流れを持ったいわゆるオハナシにはならないのだが、この作品集の漫画もそれに似ている。

一般に漫画にせよ、小説にせよ、物語の作り手というものは、意識の世界から無意識の世界にダイブし、水底に眠った原物語を見つけてつかまえる。そして、海女のように浮上したあとは、絵の技術であれ、言葉の修飾(レトリック)であれ、意識の世界で培った技術で加工し、人に聞かせたり、見せたりするにたるオハナシに加工するのだ。海底の珊瑚や真珠を、人が身につけることの出来る、指輪や首飾りにするのと、その作業はどこか似ている。

が、岡田史子の漫画というのは、その珊瑚や真珠に比況できる、原物語群が、元型のまま、ごろごろと、未加工で転がっているのだ。そして、その荒っぽい、宝石たちの輝きの豊潤で、まばゆいこと……

岡田史子の漫画について、ネットのレビューを見ると、はゆまが当初感じたように、わけが分からないと感じる人も多いようだ。萩尾望都をはじめとする、漫画家たちの熱狂ぶりと、それは対照的だ。実際、下記の岡田史子自身のインタビューからも分かるとおり、デビュー当初から、彼女の称賛者は、物語の作り手側の人たちだった。彼女の別名は「漫画家のための漫画家」でもある。

今回の出版はありがたいことだけれども、嬉しいというより、不思議な感じがしますね。東京に住んでいたころには、ファンの人がたくさん集まってきて、男性はたいてい私に恋をしたりしてね。わたしに直接会うと、漫画以上にわたし自身に興味を持たれることがよくあったんです。わたしの漫画の話はほとんどしなかった。みんな自分でも描く人だったしね。



この反応の違いは、材木を見るときの、大工と一般人の反応の違いに例えてよいのかもしれない。一般人から見ればただの杉の柱でも、大工から見れば、「この太さと長さ、しかも節が一つもない上にまっすぐだ。こんなやつで家を建てたいもんだねぇ。施主はどんなすげえ建物を建てる気なんだろう」そう感じるのだ。

少女マンガ家の中で、最も技巧に長けた、つまり意識の力で無意識をコントロールするのに長じ、そのために長命で、いまだに現役の作家、萩尾望都が、岡田史子に夢中になったのも必然だったのかもしれない。萩尾望都は、夢中になるあまり、断筆状態だった岡田史子を呼び返し、1990年に復活させたりもする。

が、結局、岡田史子は、技術を洗練させることはなかった。先述の一時的な復活もあったものの、すぐに再び筆を折り、さっさと田舎に帰ってしまう。言ってみれば、珊瑚や真珠は砂浜に、すばらしい材木は建築場で野ざらしのまま、ほったらかしにされた。闇に消える蝶の鱗粉のように、可能性の予感だけを、ふりまくだけ、ふりまいて。

創作を少しでもやった人なら分かることだが、実は、文章や絵を彫琢していくうえで、失われるものは幾らでもある。洗練された文章や絵で描かれた漫画が、読んでいるうちはいいが、読み終えて本を閉じたら、あれっ、自分のなかに何も残っていない。蒸留し過ぎたリキュールが、原材料の風味を舌に残さないのと同じく、技術で得ることも100あるが、同時に失われることも100あるのである。岡田史子にとっては、洗練なしで、「丸ごと」紙面に描くことの方が大事だったのだろう。一作ごとに、画風を変えたという姿勢からは、絵柄が洗練されていくことを積極的に拒否している気配が感じられる。

2005年に彼女はまだ51歳の若さでなくなった。漫画家としては決して若いという年齢ではないが、それでも、彼女の場合惜しいと感じさせるものがある。語られる前の物語たちは、彼女とともに、紺碧の水底へと沈んでいった。それは、決して、浮かび上がることない、誰にも目の届かぬ場所で、彼女の人生と同じ、なぞめいた光を放ち続けている。

風雲児たち 幕末編 22巻

風雲児たち22巻読了。

今回は、前巻で、熱を入れて書かれた桜田門外の変の後日談と、咸臨丸渡米の様子がメイン。

幕府の見栄の取り繕い方の見苦しさと、咸臨丸上の若き日の勝海舟、福沢諭吉らの溌剌とした活躍ぶりが対照的。

前巻で非業の死を遂げた井伊直弼や、安藤信正、一色直厚といった幕府側の人々も、本来優位な人材だったと思うが、どれほど個人ががんばっても、一度ヤキが回った組織というのは駄目なんだな。

ちなみに興味を持って調べてみたところ、咸臨丸の咸臨の意味は、『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味するらしい。こんなところにも、権威の落ちた幕府のおもねりみたいなものを感じる。

また、咸臨丸の実質的な指揮官だったジョン・ブルックの描写も秀逸。日本人の誇りを守るため、記者会見では「日本人乗組員達は十分な技術を有していた」とフォローし、実態の書かれた航海日誌を五十年公開させなかったという。この人についても調べると、深海の測深に重大な貢献をする装置を発明し、それが後の大西洋横断海底ケーブルの敷設につながるなど、発明家としてもすごい人だったらしい。アメリカには色々言いたいことはあるが、草創期の日本に対して惜しみなく人材を供給してくれた点は、素直に感謝したいと思う。

ハワイのカメハメハ大王などについての寄り道話も楽しかった。自分の銅像を作る際に、ハンサムな家来を指名してモデルにしたという逸話には大笑い。やっぱり南海の王様というのは、おおらかなんだな。

それにしても、1979年からはじまった本作の連載も、ついに34年を突破。まだまだ先は長いが、前方にかすかにゴールが見えてきた感じだ。この本のタイトルが「風雲児たち」である以上、最終回は、最後の風雲児が斃れたときになると思うが、それは誰なのだろうか? 今から楽しみだ。そして、もう66歳の作者の健康だけが心配である。

「G戦場ヘヴンズドア」日本橋ヨヲコ

はゆまは今3LDKのアパートに住んでいて、書き物をするときは、そのなかで一番玄関近くの六畳ほどの部屋を使っている。

天井まで届く本棚と机が一体になったやつにPCを置いてカチャカチャやるのだが、ブーチンはお気に入りの電気座布団の上。冬の間に自分の匂いがしみついたらしく、スイッチを入れない季節になっても、これじゃないと納得しない。いつも香箱すわりで働きぶりを監視している。

いわば書斎のその部屋に置く本は決まっていて、執筆に必要な資料集とかのみだ。小説や漫画、雑誌などの気が散るものは一切置かない。

だがただひとつ例外があって、それが「G戦場ヘヴンズドア」

漫画家を目指す二人の少年の成長を描いた漫画だが、とにかく面白い。三巻という分量もいいし、ストーリーの密度と展開はほぼ完璧。そして、創作を志すものにとっては箴言のごとき名言の数々。

「読者はあんたのファンじゃないのよ。がんばって読んでくれるなんて思わないことね」

「本物との差を決定的に分ける一線て、いったい何なんですか!?」
「人格だよ」

「この世界は読者が花(主役)。オレらはそれを引き立てる草だ(ワキ役)だ」

すばらしいよね。

作者のあとがきもとても素敵で、

「じゃあ、どんなもので漫画を作っているかというと、たまに、本当にたまになのですが、一瞬だけ、この世の本の一部の実存と構造が分かる瞬間があって、それを切り落として描かずにはいられなくなるのです。

その時のわたしは、信じてもらないかもしれませんが、熱さとは真逆の、無に近い状態でいるのです」

尊いなぁと思う。こういう感じは(おこがましいけど)とてもよく分かるのだ。はゆまも結局のところ、歴史の人物や事件の、ほんの一部の実存や構造が恩寵のようにはっと分かる瞬間があって、それをどうしても表現したくて、机にかじりついているのだと思う。

この漫画と出会ったのは、ちょうどはゆまが小説本気でやるかどうかの門口に立っていたとき。だから、最初は斜に構えていた町蔵が、段々一番やりたかったこと、漫画に向かっていくさまには、痛切な共感を覚えた。大袈裟でなく、どんと創作の道に向かって、背を押してくれた作品と言っていいのかもしれない。

そして、今でも、執筆に疲れたり、怠け癖が出そうなときは、この漫画を開いて、青臭い台詞を吐きながら、ペン一筋に漫画の道へとひた走る、町蔵と鉄男の姿に闘志と勇気をもらっている。

もし、まだ読んでない人がいれば、是非読んで欲しい。人生を変えてしまうかもしれない。それだけの力のある漫画です。
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三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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