今さらエヴァと自分について

ちょっと「花武担」の筆休め。

今年(2014年)11月20日にエヴァ最終巻が発売らしい。

1995年10月から連載開始だから実に19年、シンジやレイやアスカよりも、作品の方が年上になってしまった。

作中のかつては先鋭的に見えたデジタルガジェットも、幾つかは2015年を待たずにすでに時代遅れになってしまっている。

しかし、それでも、エヴァ(あえて新劇の方でなくこちらの表記で書く)は、今でも私のなかでは新しい作品のままだし、少年の頃私の心に食い入った爪は年をおうごとにつれ、その力を増していっているもののように思える。何事か痛みを伴わずには振り返られない作品なのだ。

それはこのエヴァが、まさに私達の世代、いわゆる団塊ジュニアといわれる世代のために作られたものだったからのように思う。

日本史上、最も幸福な子供達。もともと、はゆま達、いわゆる団塊ジュニアは、そう呼ばれるにふさわしい世代のはずだった。戦後40年続いた平和で、たまりにたまった国富はひっくり返したおもちゃ箱の中身のように、私達の前にぶちまけられ、お金を持った子供の群れという神代以来初めてあらわれた生き物のために、面白い大人達が面白いことを次々と仕掛けてくれた。

少年ジャンプ、ファミコン、ドラクエ、ビックリマン、ミニ四駆。少なくとも、80年代から90年はじめにかけては、大人と同じく子供も夢か祭りのような日々をすごしていた。パトレイバーの後藤隊長が言ったように「高度成長って日本人の性なのかな」と思われ、大人気だったドラゴンボールの悟空は もっと強いやつをさがして地球を飛び出していった。

が、誰もが知っている通り、90年3月の総量規制に よって膨れに膨れ上がったバブルは弾け、祭りには必ず終わりが来ることを、日本人も知った。とはいっても、すぐに景気悪化の深刻さが感じられたわけではなく、はゆまのような中産階級の家にまでその影響が及んでくるのは96年~98年にかけてのことだった。

はゆまはまだ高校生で、幸福な消費者からそろそろ脱却しなくてはならないことを予感しつつも、まだ祭りの余韻に浸っていて、世間に漂う閉塞感への憂いも、当時はまだ傷のかさぶたをいじって湿った楽しみに耽るような余裕があった。
そんなときに、のっぴきならない衝撃度を持ってあらわれたのがエヴァンゲリオンだった。

短いカットを連続で繋げるスタイリッシュなOP、魅惑的なキャラクタ、細部にまでこだわった近未来の世界観、散りばめられた衒学的な謎の数々、緊迫感のあるストーリー展開。

民放が2局しかない片田舎で放映がはじまったのは一年遅れのことで、 しかも春休み子供スペシャルという悪い冗談としか思えない番組枠でのことだったが、とにかく夢中になった。そして、その分だけあの伏線を放り出しような最終回は残念だった。

映画「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に(以下、EOE)」は不完全燃焼で終わったそのテレビ版最終回を補完し、この世紀末にふさわしい神話を締めくくるものになるはずだった。が、そうはならなかった。映画はテレビ以上に混乱と破綻に満ち、メタな意味で悲劇的なものになった。

1960年生まれの庵野監督は大人が子供に対し物語を作った最後の世代であり、大人になれないまま成長した子供が、同じく大人になれないまま成長した子供に物語を提供しだした世代の走りだったように思う。彼の作った作品に自己否定と懐疑の陰影が深いのは歴史の必然だろう。

「それは夢の終わりよ」という言葉で突き放され、最も魅力的だったメインヒロインが惑星規模に膨れ上がったあと血液と脳漿をぶちまけて崩れ落ちたとき、確かに私のなかで何かが終わった。

幸せな消費者、子供だった時は過ぎ、期待していたカタストロフィが得られなかったかわりに、いつか自分自身が物語の 語り手になろうと決意した。それが実現するまでには10年以上の月日がかかったが、その時日本は映画冒頭でシンジが佇んだ廃墟と同じ光景のなかにいた。そして史上最も幸福だったはずの子供達は未来の約束を皆破られた上、端から守る気のない約束をこれからも押しつけられ続ける史上最も可哀想な世代になっていた。

歴史小説家なんてものの端くれにしがみついている自分だが、物語を書くということの原点の一つにエヴァがあり、今でも振り返って、こうして何事かを書くとき、筆が震えるのを、どうにも抑えられない作品のように思う。

まどかマギカ[新編]叛逆の物語 考察 -ビューティフルドリーマー-

10月26日。

前回劇場版からほぼ一年。再び魔法少女達がスクリーンに戻ってきました。

待ちに待った日でした。しかし、一方で、テレビ版があまりにも綺麗に風呂敷を畳み、全きな完結を見せていただけに同時に不安でもありました。「見るんじゃなかった」そう後悔するんではないかと……しかし、そんな心配は杞憂に終わりました。

映画「まどかマギカ[新編]叛逆の物語」は、テレビ版を超克し、彼方にさらなる物語世界の地平を示す驚くべき作品になっていたのです。見終わって数時間がたちますが、まだ体の奥で何かが震えているようです。御覧になってない方は、是非まずは自分の目で映画の結末を確かめてください。絶対、後悔はしないはずです。

注意!

本ブログ記事の内容は、映画「まどかマギカ[新編]叛逆の物語」に対する重要なネタバレを含んでいます。まだ見ていない方は、映画を見てから以下の記事を読むようにしてくださいまた、以下の論考を読むにあたっては、前回テレビ版まどかマギカを考察させてもらった記事「まどかマギカ 考察 ―エディプスコンプレックスの物語として―」を先に読んで戴くと理解がスムーズになるかと思います。



◆叛逆の物語

多くの人が、この作品を見終わって感じるのは得体の知れない居心地の悪さではないでしょうか。バッドエンドなのか、ハッピーエンドなのか、それすらも分からない。ただただ、もやもやしたもの、かといって後味悪いとは言い切れない不可思議なものが、心の奥に残って、いつまでもいつまでも複雑な倍音を響かせ続けている。この映画を見た人は皆そんな感覚に襲われると思います。

しかし、結論から言うと、この映画は凄くシンプルな映画です。タイトルの通り、叛逆を描いた映画。少年ほむらによる父キューべー、そして母アルティメットまどかへの叛逆を描いた映画です。

この作品の後半でほむらの見せる決断、そしてその後の展開のなかで見せる不穏な表情によって、ほむらが豹変したと感じる方は多いかもしれません。しかし、テレビ版、映画版通して、彼女のキャラクターはぶれていません。彼女は、というより、彼、少年ほむらは少年のまま、男性原理の陽の部分を背負い、その陽を背負ったまま暴走し、あの結末となったのです。
少年ほむらは、その熱情のまま父を踏みにじり、母親を己が未生以前の存在にまで貶めて我が物としようとしたのでした。

乱暴な分析を許して貰えるならば、男性原理の陰の部分の暴走を描いたのがテレビ版で、男性原理の陽の部分の暴走を描いたのが映画版と言っていいのかもしれません。

◆キューべーとほむら

いきなり分けの分からんことを結論づけられて何のこっちゃという人ばかりだと思うので、まずはキューべーとほむらの関係を整理してみましょう。

前回記事で、はゆまはキューべーとほむらはこの作品世界に登場するただ二人の男で、片方は陰、片方は陽を象徴するコインの表裏であるとともに、父子なのだといいました。下記は前回の記事からの抜粋です。

男性原理(陽):暁美ほむら
 (情熱、恋、システムからの自由、冒険、歌、踊り、狂的な興奮、ゼウス)

男性原理(陰):キューべー
 (非情、理知的な判断、父権システム、システムへの服従、法律、選別、切断、裁判、クロノス)



テレビ版の最終回、聖なる処女母まどかは我が身を投げ出し、父なるものを象徴するキューべーの作った非人道的で血の通わぬ世界の仕組みを、非効率ではあっても、もっと温かみのある穏当で持続可能な仕組みへ再編成しなおします。女性だけが収奪の対象となる仕組みから、魔獣を通じて、男女が共同でエネルギーを生み出す仕組みへ。はゆまは、このことをキューべーとまどかの結婚と表現しました。そして、この結婚を通じて、少年はゆまも、また母まどかの息子となったのでした。

この結婚を通じて、血みどろの戦いを繰り広げていた、父キューべーと子ほむらも最終回のビルの上でリラックスした語らいを見せるまでに和解したかと思われたのですが、少々その考えは甘かったようです。

あくまで宇宙の延命にこだわるキューべーは、魔法少女→魔女システムにより産み出されるエネルギー生産の異常な効率性にひかれ、ソウルジェムの限界まで戦ったほむらに結界を張って餌とし、その罠のなかにアルティメットまどかをおびき寄せようとします。円環の理システムを破壊するためにです。

父親が自分に再びかしずかせるために、息子を人質に母親をおびき出そうとしている。そう説明すると、この陥穽の邪悪さが分かるかと思います。

◆一つ目の夢(1) 怖い夢を見ていたのよ

本映画の出来事はほとんどがほむらが夢見る世界のなかで起きていることです。そして、その夢は二つあります。

一つ目が、前編、ほむらがキューべーによる結界のなかで夢見ている世界です。構造としては、母まどか→父キューべー→子ほむらという順序の入れ子空間になっています。

この空間では、消滅したはずのさやか、神になったはずのまどか含め、マミ、杏子、ほむら、全ての魔法少女が勢揃いして、多分イタリア語に堪能な少女が命名したのあろう「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテッド」という名前のチームを組んで日夜ナイトメアと戦っています。

魔女や魔獣と比べれば、ナイトメアはただの少女の悪夢ですから、たわいない相手でしかありません。戦いの描写もふんわりファンシーで、緊張感がまるでありません。しかし、だからこそ、魔法少女達は少女性を失わず、お互いの交流を楽しみながら、幸せに暮らしています。

しかし、一方でこの世界は色々な部分がそんざいで、ほころびの目立つ世界です。見滝原の街より外へはいけず、ほむらと面識があった人以外の顔は書き割りです。また、実は他の魔法少女達とまともにコミュニケーションを取った形跡のないほむらは、彼女達のプロフィールをほとんど把握していないのでしょう。魔法少女達への記憶の改ざんの点でも、つじつまのあわない点がありました。

夢の世界は、ほむらなりに少女達が幸せになれるよう配慮されてはいるのですが、実は彼女達への本質的な理解抜きに成り立っている世界なのだということは注意しておかなくてはなりません。

◆一つ目の夢(2) 三つ編みを結ぼうとするまどか

パンフレットによると、一つ目の夢の世界のなかのまどかも、偽りのまどかではないそうです。ほむらの夢に誘い込まれた、神様になった記憶を置いてきた本物のまどかです。まどかは、みんなと離れるなんて耐えられないという本心を、美しい花畑のなかでほむらに吐露します。

この言葉がその後のほむらの行動に繋がるわけで、重要かつ感動的なシーンなのですが、まどかは本心を言う間、何故かほむらの三つ編みを編もうとしていました。しかも、そのときのまどかの指の動きと、ほむらの髪の動きの描写はどこか不気味で、演出側の悪意すら感じました。

ほむらにとって三つ編みはかつて無力だった存在のときの自分。嫌で嫌でたまらなかった、まどかに守られていたときの自分につながります。そこへ戻させようとするまどかの無意識な手の動きというのは、子供の退行を願う悪しき母親のものに近いのかもしれません。

そのため、このシーン、後々の衝撃的なほむらの決断につながるシーンには、実は二つの意味がこめられています。一つ目は少女としてのまどかの願いを少年ほむらが聞いたという意味。もう一つは聖母神まどかへの反発を息子ほむらが感じたという意味です。

◆◆一つ目の夢(3) 夢の終わり

夢の世界の正体と、キューべーの企みを知ったほむらは、例え永遠にソウルジェムのなかで呪われた存在になるのだとしても、まどかを守るために魔女化し、自己の夢の世界を破壊しようとします。

それを救わんとする、マミ、さやか、杏子、まどか、そして元シャルロッテのなぎさ達の戦いはとにかく感動的で、空から降り注ぐ幾万本の矢によって粉砕されるキューべー達の姿とともに最もカタルシスを味わう場面なのですが、すぐ大ドン伝返しが待っています。

ほむらを救済するためについにやってきたアルティメットまどかの手をほむらがつかみ、ただの普通の少女まどかを引きはがした後、悪魔となって、世界を再々編成するのです。この世界がアルティメットまどかの世界と並行して存在するものなのか、それとも内包されているものなのかは、まだよく分かりません。いずれにせよ、ほむらは悪魔ほむらとなり、アルティメットまどかと対立する存在、もう一つの神になりました。

前節に書いたように、花畑のシーンで、ほむらのまどかに対する思いは、少女まどかに対する愛情と、聖母神アルティメットまどかに対する反発に分裂しています。そのため、ようやく会えたアルティメットまどかに対する行動も、彼女を引き裂くという行動にならざるを得なかったのです。

また、このシーンでもう一つ注目すべきことは、ほむらもまたキューべーと動機は別であれ、同じような発想の策、おびき寄せてかどわかす、をやっているということです。二人は男性原理のポジとネガなので、結局行動は似たようなものになるのですね。

◆◆美しい悪魔の見る夢

悪魔となったほむらは、「人間の感情を利用するのは危険すぎる」と恐れをなして逃げようとするキューべーを捕らえ、まだまだのろいのために働いてもらわなくちゃと言います。少年ほむらがついに父を超えたかに見えるシーンですが、何故か溜飲はさがりません。

この辺りから、ほむらは歪んだ笑みと、目の下に隈のある危うい表情ばかりを見せるようになります。

新たに再編成された世界は、一つ目の夢のような破綻が見られず、細部まで細工が行き届いた世界です。からくりを知っているさやかも当初は反発を見せますが、恭介や仁美と再会すると、記憶が薄れ行くこともあって、新しい世界を受け入れる姿勢を見せます。

マミもなぎさも杏子も、魔法少女達は皆幸せそうです。

たった一人ほむらだけをのぞいて。

あたりまえですね。情報を隠蔽して駕籠のなかの鳥にえさを与えるように、幸せを一方的に与える人は、その幸せから孤立せざるを得ません。

◆敗北するエディプス

さらに悲惨なことには、ほむらはまどかからすら拒否されます。転校生としてやってきた引き裂かれた方のまどかに、ほむらは「秩序と欲望のどちらが大切か?」質問しますが、まどかは「秩序」と答えてしまうのです。先の記事の抜粋をもう一度あげます。秩序と欲望、どちらが何を象徴しているかは、直ぐに分かると思います。

男性原理(陽):暁美ほむら
 (情熱、恋、システムからの自由、冒険、歌、踊り、狂的な興奮、ゼウス)

男性原理(陰):キューべー
 (非情、理知的な判断、父権システム、システムへの服従、法律、選別、切断、裁判、クロノス)



つまり、この映画で父母に叛逆の限りを尽くし、エディプスコンプレックスの相克のすえ、ようやく母を自分のものにしたかと思えた少年ほむらは痛烈にふられたのです。お父さんの方がいいよと言われてしまったのでした。少なくとも、この時間軸では、永遠の恋人にして聖母神、まどかに対する、ほむらの恋は成就しなかったのです。

これは当然の帰結です。先に書いた通り、ほむらはまどかを含む魔法少女達を本質的には理解していません。例え、みんなと離れたくないということが、少女まどかの本心だったとしても、その最も大事なものを犠牲にしたことに、彼女の願いの崇高さと尊さがあるのです。自分の手元に置きたいからという理由で、彼女からその最も崇高なものをもぎ取ったとしても、それは到底ほむらがキューべーに言った「愛」などといえる代物ではないのでした。

このシーンの後、ほむらは奇妙な動きの「踊り」を踊ったあと、あの花畑でキューべーを徹底的に暴行します。そして、半月の闇に向かって身を投げます。痛々しさのあまり、思わず目をそむけてしまったシーンです。テレビ版で、安定した地平に落ち着いたかに見えたエディプス的相克は、映画版ではもう修復不能なものに思えるほど悪化してしまいました。

◆ほむらの姿が象徴するもの

また、ちょっと余談になりますが、本作によってまだまだまどか作品は閉じたものにならず、二次創作も含め、さらなる新しい作品がプロアマ問わず、どんどん出てくることになると思います。しかし、このラストのほむらの姿。自分の閉じた世界のなかで、父を小間使いに、母親を愛人のようにかしづかせようとしながら、都合のよい幸せを享受する美少女達を愛でる少年というのは、この作品の派生作品を作り見ていく人たちに突きつけられた自己の戯画なのかもしれません。

こうした自己批判的な部分も内包しているのが、魔法少女まどかマギカという作品の持つ凄みになっていると思います。

◆それでも

ちょっと話がそれましたが、しかし、それでも、はゆまは前記事でも書いたとおり、永遠の少年ほむらと永遠の少女まどかの恋は最後には成就するものと思っています。

EDで見せた二人が手を繋いで光へと走っていくシーン。

それが見れるのは次回作なのか、それとも別の魔法少女達の活躍を描いた作品をを経てなのかは分かりませんが、いつまでも、夢見るようにはゆまは待とうと思っています。

そして、最後にこれだけは言わせて下さい。

今回も安定して杏子ちゃんは聖女だったね。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版Q

2012年のボジョレーヌーヴォーを飲みながら書いてます。去年のボジョレーは、「50年に一度の当たり年と言われた2009年と同等の出来」だったそうですが、2012年は「凝縮された果実の味わいが、今年の特徴」だそうです。なるほど、確かに凝縮された果実の味わいがします。端的に言うと酸っぱいです。

実はエヴァQを見に映画館に出掛けたついでに買ってきたのですが、はゆまにとってのエヴァもボジョレーのようなものになってきています。今年(今回)も出たみたいだし買い(見に)行くか~と。

作品の感想は、映像は素晴らしいのですが、ストーリーについてはシンジ君がカヲルに言ったことに集約されていると思います。

「君がなにを言っているか分からないよ」

本当にその通りで、全然分かんない。ひとっつも分かんなかったです。破がよかっただけにちょっと残念ですね。

かといって別に不愉快でもない、ボジョレーと一緒。今年は冷夏で出来が悪いと知っていても恒例行事で買いに行って「あ~すっぱいなぁ。まいっちゃったなぁ」って楽しんでる。エヴァも「いや~いきなり破から十四年たったって言われてもなぁ。すっぱいなぁ。まいっちゃったなぁ」って楽しんでます。

十五歳のときリアルタイムで見て、衝撃を受けてからの長いつきあいです。もう今更人生から外すことも出来ません。かつての江戸っ子にとっての初鰹と一緒で、とりあえず食べる、見ることに意義があるのですね。

いっそのこと次回で最終回なんてケツの穴の小さいこと言わずに、これからもどんどん新作出していけばいいんじゃないでしょうか。で、ボジョレーと同じく毎回「1995年以来の品質のエヴァ」とか「ここ10年で最高のエヴァ」とか「出来は上々で申し分の無い仕上がりのエヴァ」とか講評を出していくと。

作家もファンもそれで十分幸せなんだし、全然かまわないと思いますね。次回作に特に期待することはありませんが、それでも多分はゆまは見に行くと思います。もうだってホントにクラス会みたいなノリなんだもん。太学行って、会社勤めもして、色々社会にまみれた自分が、未だに思春期真っ盛りの言動のままのシンジ君を見て、あぁ、僕もこんな時期あったなぁ、それと比べたら大分成長できたなぁと、ほっと安心出来る映画、それが今のはゆまにとってのエヴァだったりします。

まどかマギカ 考察 ―エディプスコンプレックスの物語として―

友人のすすめでまどか☆マギカを見ました。最初は、いかにも、萌え萌えした絵柄に抵抗があったのですが、一話半分過ぎた辺りから引き込まれていき、三話でマミさぁぁんと叫び、あとは最終話まであっという間でした。こんなにアニメを見て興奮したのは、エヴァ以来です。

見終わったあとのシクシク感もいいですね。ハッピーエンドのはずなのに、なにか心に穴があいたような、ほろ苦い感じ。とくにラストの、さやかが自分の願いに殉じ、消滅するシーンは思い出すだけで涙が出ます。

「いやぁ、いいアニメやった。えがった。えがった」

別にこんな感想でもよいのですが、はゆまも一応物書きのはしくれである以上、このアニメの構造をひもとき、この物語の非凡さが一体どこから来るものなのか、突き止めなくてはなりません。誤読、妄想てんこもりになるかと思いますが、論考を初めていこうと思います。

◆まどか☆マギカの物語とは

はゆまは、このアニメを、父性的、あるいは父権的なシステムを、平凡な少女が、その平凡さゆえに超克することができた物語と読みました。

父性的、父権的なシステムというのはちょっと小難しい言い方かもしれません。別の言い方をすると、男性原理から発する少年漫画的な文脈、価値観の侵犯によって崩壊しかけた、魔法少女としての物語世界を、まどかがその少年漫画の文脈も一部取り入れつつ再構築するオハナシ。そんなふうにはゆまは読んだのです。

父権システム? 少年漫画的な文脈?

何のこっちゃという感じでしょうが、つきあってもらいましょう。キーワードは二つ。

1)キューべー、2)暁美ほむら です。

まずは、あのにっくき白い淫獣のことから。

◆キューべー

キューべーが象徴するものとは何でしょうか? 

彼は、魔法少女アニメのマスコットにふさわしい可愛らしい外見を持っています。真っ白でふわふわなぬいぐるみのような体、赤いまん丸な目、猫耳とそこから伸びるもう一つの長い耳といった具合に。魔法少女達の年頃、十代前半の女子の心をわしづかみするにたるキューティーな容姿です。

しかし、その実正体は、魔法少女のマスコットなどではなく、彼女達の希望が絶望に変わる瞬間のエネルギーを、グリーフシードに変えて搾取しようとする宇宙人でした。彼自身がたとえたように、キューべーと魔法少女の関係は、畜産業者と家畜のそれに似ています。彼は確かに魔法少女達に対して助言をすることもありますが、それも全て彼女達から獲られるエネルギーを極大化させるという目的一つのためです。決して、彼女達のためなどではありません。

ただ、キューべーは、透明に残酷ですが、悪意はありません。それどころか、彼は宇宙を延命させるという、これ以上ない大義に従っています。また、劇中の魔法少女達に対するあまりな仕打ちに忘れがちですが、彼もまた自身に対する保身や自己愛というものは一切ありません。それは、ほむらに射殺された際の「かわりはいくらでもいる」という台詞からも分かることです。魔法少女達に対すると同等、彼は自分自身に対しても、大の前の小ということで、平気で犠牲にすることが出来るのです。

◆父権システム

はゆまは、いや私たちはキューべーに似たものを知っています。普通、私たちは、彼のことを国家、もしくはおおざっぱに組織、システムと呼びます。はゆまが最初に言った父権的システムというものです。国家というような大きなものでなくても、暴走族や暴力団、学校、もしくは会社など、集団の最適化のために小を切り捨て、そして自己拡大しようとする仕組みを内包する、全ての人間の集まりのことを、ここではゆまは父権システムと言おうと思っています。

父権システムも、また大義のために常に個人に犠牲を強いろうとします。終盤、ついに魔女のからくりが露呈し、本音を出さなければならなくなった、キューべーがまどかに言ったことを思い出して下さい。

「宇宙のために命をかける気になったらいつでも声をかけて」


この宇宙の部分は、なんにでも変換が容易なことに私たちは気づきます。米国、日本、中国、イスラエル、天皇、大王、ハーン、法皇、キリスト、総長、組長、尊師……歴史上、キューべーの台詞は宇宙の部分を替えて、繰り返し、繰り返し、唱えられてきました。キューべーの言っていることは、つまりこういうことなのです。

「大義のために死ね」

そして、通常、この言葉に殉じた人は、英雄と呼ばれることになっています。

はゆまは英雄を頭のなかでひねり出して、それを物語にすることを商売にしようとしています。だから、この台詞自体がいけないとか、安易に国家、父権システム反対とかいうつもりはありません。キューべーと同じく、これらの仕組み自体は透明で残酷ですが、悪意はなく、また哀しいことに私たちは、この文脈上でしか生活できないのです。

「ぼくたちがいなかったら、君たちはまだ洞穴のなかで裸で生活しているだろうね」


ただ、魔法少女達の悲劇は、突き詰めると、本来女の子達の世界である魔法少女モノの物語空間が、実は父権システムを支える歯車になっていることにあると、はゆまは言いたいです。

◆まどかの嘆き

「ひどいよ…こんなのあんまりだよ…」


魔法少女はいずれ魔女になるという仕組みを知ったときのまどかの嘆きです。しかし、まどかが、それを知るまでに享受してきた平和な生活というのは、実はまどかが嘆いたまさにその仕組みによって成り立っているものでした。その意味で、まどかもまた無邪気な加害者でもありました。

一年前の東日本大震災の悲劇の際、私たちは、怒り狂う原発の姿に戦慄するとともに、私たちの生活を根っこで支えていたものの仕組みを知りました。うんちゃら号機建屋とともに、私たちが知ろうとすれば幾らでも機会があったのに、顔をそむけてきたもののベールが、文字通り吹き飛ばされたのです。そこでは明らかに癌障害などの健康リスクを抱えながら働く人がおり、そして、そういった人々は減るどころか、今後増えていくという事実を突きつけられたのです。その時、私たちも、またまどかと同じことを言いたくはならなかったでしょうか?

「ひどいよ…こんなのあんまりだよ…」

さらに言えば、あの大災害のときの、政府、東電をはじめとする国家システムを代表する連中の言動は、知性やエレガントさにおいては比べものにならないものの、キューべーと同種のものでした。いざとなれば、平気で大のために小を捨てる、父権システムが持つ宿命的な冷血さもまた私たちは目の当たりにしたのです(ただ、キューべーが魔法少女と時に肩を並べて戦い、少なくとも安直な嘘はつかず、また先述のとおり自己保身は一切ないことを考えると、どうやら私たちが今抱えている国家システムの運営者というのは、キューべーにも劣る連中のようです)

◆少年漫画的な文脈

ちょっと話がずれましたが、一方で、この父権的なシステムが語る言葉は、実は少年漫画と実に相性がいいのです。

「大義のために死ね」

日本でも、中国でも、モンゴルでも、ヨーロッパでも、米国でも、イスラムでも、この御旗の元、斃れた少年兵、元少年兵が、何十万どころか何千万という単位でいることを私たちは歴史から知っています。そして、現在でも、少年ジャンプ、少年マガジンなどを開けばこの言葉に勇躍し、死地に赴く少年達を幾らでも見ることが出来ます。

無論、この言葉がそのままで語られることは少ないでしょう。微細なレベル、血が通っているかのようにさえ見えるレベルにまで、分解・再構築されて語られることの方が多いはずです。例えば、「家族のために」「街の平和のために」あるいは、あの有名なキーワード「勇気、友情、勝利」といったふうに。

父権的システムは狡猾なのです。キューべーの愛らしい外見のように、時に耳障りのよい言葉を語り、時に魅力的な武器や、能力でつりつつ、少年達の魂を差し出せと要求してくるのです。

◆斃れた三人の少女

劇中、斃れた三人の少女。マミ、さやか、杏子。彼女達が、魔法少女になった事情はそれぞれですが、戦う理由は大方共通しています。それは、下記のさやかの台詞に代表されるでしょう。

「これからのミタキハラ市の平和はこの魔法少女さやかちゃんが、ガンガン守りまくっちゃいますからねー!」


しかし、それがどれほど崇高で、善意に満ちた理由から出たものでも、彼女達の戦いは、自分達を苦しめ、破滅に追い込み、そのことによって延命を図るシステムを強化するという運命から逃れることができません。杏子は、若干この事情に気付き、利己的な戦い方をすることで、自らの破滅を先延ばししようとしますが、傷つきながら戦うさやかへの共感、友情もあって、結局キューべーの陥穽に落ちます。

「そういうもんじゃん?最後に愛と勇気が勝つストーリー、ってのは」
「アタシだって、考えてみたらそういうのに憧れて魔法少女になったんだよね」


そう、武器を取れという、アンクル・サムは、目の澄んだ、純粋な子供しか狙わないのです。

クライマックスの十一話で残ったのは、暁美ほむら、そして鹿目まどかの二人だけででした。

では、なぜこの二人だけが生き残ったのでしょうか? 彼女達が、父権システムに絡め取られなかった理由とは、一体何なのでしょうか?

◆鹿目まどか

「鹿目まどか。貴女は自分の人生が、貴いと思う? 家族や友達を、大切にしてる?」


第一話でほむらがまどかに対して言った言葉です。これは、もしそうだったら、今と違う自分、つまり魔法少女になりたいなどとは思うなという意図をこめて発せられた言葉でした。

まどかは答えます。

「え…えっと…わ、私は…。大切…だよ。家族も、友達のみんなも。大好きで、とっても大事な人達だよ」


自分の人生が貴いと思う? という質問には答えていないことが重要です。マミの戦い振りに憧れた時もありますが、彼女は自己実現よりは、他者との良好な関係性の方に重きを置く女の子です。魔法少女としての才能があると言われたときも、戸惑いの方が大きく、それは、自分の戦い振りを自慢するさやかの態度とは対照的でした。

またマミがまどかとさやかを、初めて魔法少女体験ツアーに誘ったシーンを振り返ってみましょう。このとき、さやかがバットという戦いに有効性のあるものを持ってきたのに対し、まどかが皆に見せたのは、ピンクの愛らしいコスチュームの描かれたノートでした。そのことに、マミとさやかは微苦笑を誘われるのですが、このシーンも実は重要で、まどかの価値観が、マミやさやかのように、「大義のために」戦える人とは違うということを如実に示しています。

まどかは、手の届く範囲のもの、家族や友人に興味は限定され、戦いにおもむくシーンでも、武器よりも可愛い衣装の方が気にかかる当たり前すぎる女の子です。過去の時間軸、そして最終回をのぞけば、彼女は決して、武器を取ることも、それを敵に向けることもありませんでした。

結局の所は、「大義のために」という言葉に収斂される動機で戦う、マミ、さやか、杏子とは違い、彼女はラストギリギリまで、自分の感じるかもしれない痛みにおののき、立ちすくみ、恐怖に震えていました。そして、だからこそ、彼女は、キューべーの誘惑を拒絶し、彼の背後にある父権システムから自由でありつづけることが出来たのです。普通の少女としての平凡な善良さを、彼女が失わなかったからこそ、彼女は奇跡を起こせたのです。

そんな彼女がラスト、ワルプルギスの夜に立ち向かうために、寄ってたったもの、それはまさに最初に暁美ほむらによって投げかけられた質問への真の回答となるものでした。彼女は、第一話では、おずおずとほむらに告げていたことを、今度は堂々と、自分を産んでくれた母親に告げます。

「私だってママのことパパのこと、大好きだから。どんなに大切にしてもらってるか知ってるから。自分を粗末にしちゃいけないの、わかる」
「だから違うの。みんな大事で、絶対に守らなきゃいけないから。そのためにも、私今すぐ行かなきゃいけないところがあるの!」



彼女が、その後、いかにして、父権システムを超克したかについては、また詳しく述べますが、ここまでの議論で、一つ重要なことが漏れ落ちています。あの最終回で語られた時間軸でのみ、なぜ、まどかは救済の結論に至れたのでしょうか?

それは、彼女のために無数の時間軸で戦い続けた一人ぼっちの少年がおり、彼の苦難の試みの積み重ねがようやく成功をおさめたからです。

その少年の名を暁美ほむらといいます。

◆暁美ほむらは超王道少年漫画の主人公である

暁美ほむら=少年という言説は別に、はゆまが言い出したことではなく、北への。国からさんのテキストを下敷きにしたものです。多分、他の考察サイトや、批評本などでも述べられているかもしれません。二番煎じになるかもしれませんが、まずは暁美ほむらと、鹿目まどかの出会いの場面から振り返ってみましょう。

第一話、冒頭、まどかは母親と鏡の前で身支度を調えています。彼女はリボンを二つ取り、どちらを結ぶかで悩んでいました。このときの、母親と、まどかの会話の流れはこうです。

まどか「リボン、どっちかな?」
まどか「え~。派手過ぎない?」
詢子「それぐらいでいいのさ。女は外見でナメられたら終わりだよ」
詢子「ん、いいじゃん」
詢子「これならまどかの隠れファンもメロメロだ」
まどか「いないよ、そんなの」
詢子「いると思っておくんだよ。それが、美人のヒ・ケ・ツ」



後に分かることですが、ほむらはまどかの隠れファン以外のなにものでもありません。そして、詢子がめろめろと言っているのは、明らかにヘテロ的なもので、この母と娘の会話のなかに、秘められているのは、異性との出会いの予感でなかったら、なんなのでしょう。

また、登校中のさやかとまどかの会話。

まどか「いいなぁ。私も一通ぐらいもらってみたいなぁ…。ラブレター」
さやか「ほーう?まどかもヒトミみたいなモテモテな美少女に変身したいと。そこでまずはリボンからイメチェンですかな?」
まどか「ちがうよぅ、これはママが」
さやか「さては、ママからモテる秘訣を教わったな?けしからーん!そんなハレンチな子はー…こうだぁっ!」
まどか「や…ちょっと…やめて…や…め…」
さやか「可愛いやつめ!でも男子にモテようなんて許さんぞー!まどかは私の嫁になるのだー!」


まどかが、ヘテロ的なリビドーに対して語る唯一のシーンです。またさやかの台詞は、女の子同士のホモソーシャルな世界に、ヘテロが侵入してくることを示唆しています。

ちなみに、まどかの恋愛に関わる事柄について、まわりの登場人物が言及したのは、このシーンまで。あとは最終話になっても、一切出てきません。開始わずか三分で、主人公の恋バナに関する話題が一切なくなるというのは、女の子を主人公にしたアニメとしては、かなり異質なことです。

そして、朝のHR。暁美ほむらがを紹介する直前に、担任の和子は言います。

和子「女子のみなさんは、くれぐれも半熟じゃなきゃ食べられないとか抜かす男とは交際しないように!」
和子「そして、男子のみなさんは、絶対に卵の焼き加減にケチをつけるような大人にならないこと!」


この直後、さやかは、和子が自身の男女恋愛における教訓を先に、転校生の紹介を後回しにしたことの不自然さに、

さやか「そっちが後回しかよ!」


と、突っ込みます。しかし、これを、女の子まどかに対して、男の子ほむらを紹介するシーンだと解釈すると、不自然でもなんでもなくなるのです

そして、暁美ほむらがあらわれます。彼女は、自分の名前を黒板に書き、まっすぐまどかだけを見つめて言います。

ほむら「暁美ほむらです。よろしくお願いします」


黒板に書かれた彼女の名前を、よく見てみましょう。他の魔法少女の名前と比べて異質です。他の子達の名前は、まどか、さやか、マミ、杏子。どんな漢字をあてようが、女の子につける名前にしかならないのですが、ほむらは、炎、やわらかい語感にだまされそうですが、実は男性的な意味を秘め、男の子につけてもおかしくない名前になっています。

さらに付け加えると、一回目の時間軸の時に、ほむらの名前に対して、まどかはこう言います。

まどか「えー?そんなことないよ。何かさ、燃え上がれーって感じでカッコいいと思うなぁ」
ほむら「名前負け、してます」
まどか「うん?そんなのもったいないよ。せっかく素敵な名前なんだから、ほむらちゃんもカッコよくなっちゃえばいいんだよ」


つまり、まどかとほむらの出会いの場面は、ボーイ・ミーツ・ガールのシーンなのです。

そう考えると、ほむらとの出会い以降、まどかの恋バナの話が一切出てこない不自然さも納得することが出来ます。

また、第一話では、文武両道の謎めいた黒髪美少女としてあらわれるほむらですが、もともと一番目の時間軸では、心臓の病が癒えたばかりのひ弱で臆病な、三つ編みメガネの少女でした。そんな彼女に転校初日に声をかけたのが、鹿目まどか。この時間軸のまどかは、魔法少女にすでになっていたためか、自信に満ちていて、第一話の時間軸とは若干キャラが違います。まどかは、退院したばかりで、戸惑うばかりのほむらに手を差し伸べ、初めての友達になってくれます。

そして、ほむらは、魔法少女に変身したまどかによって魔女から襲われているところからすくわれ、その後、彼女の戦いを傍観者として、見守り続けることになります。やがて、ワルギルプスの夜が訪れ、まどかは、ほむらをすくうことが出来た誇りを口にした後、特攻、戦死します。

ほむらは、まどかの亡骸を抱きながら、キューべーに願いを叫びます。

「私は……。私は、鹿目さんとの出会いをやり直したい。彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」


この願いも実は奇妙です。ほむらは一つの願いという約束事を破っています。「鹿目さんとの出会いをやり直したい」と「彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」は、別々のことです。キューべーは、この誤りを特に訂正することもなく、願いはかなえられたというのですが、その直後、二回目の時間軸のほむらのつたない戦い方を見ると、「彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」という願いは無視されているように見えます。この件については、また別途詳述しますが、ひとまず、ほむらの願いを他の魔法少女の願いと比較してみましょう。

考えてみると、さやかの悲劇は、一つの願いの後ろに隠されたもう一つの願いのためでした。「恭介の腕を治してあげて」の文章の後には、「そして私を恭介の一番にさせて」という文が実は隠されていました。一見、利他的な願いごとの裏に、その貢献した他者からの見返りの期待が隠されている、それがさやかを破滅に導きました。父親からの感謝という見返りを期待していた、杏子の願いも同質のものです。

しかし、その願いの後ろに隠されていることも含めて叫んだ、ほむらの願いはまどかからの見返りではなく、自分自身が変わること、端的に言えば強くなることでした。ここにほむらの異質性があります。

「彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」

自分の庇護者であった女性を守る男になりたい。

これは、銀河鉄道999の鉄郎とメーテル、三つ目が通るの保介と和登千代子、スラムダンクの春子さんと桜木花道、バスタードのヨーコとルーシェ・レンレン(D.S)、聖闘士星矢の星矢と城戸沙織、史上最強の弟子ケンイチのケンイチと美羽など、少年漫画のなかで繰り返し繰り返しあらわれるテーマです。これが、少年ではなく、男性の願いであったら、「そして彼女を自分のものにしたい」が続きますが、性徴前の少年の欲求は、そこまでたどりつきません。相手を守る自分になれたら、強くなれたら、そして、それでいいのです。

また、魔法少女になったあと、彼女に備わった能力も特殊です。他の魔法少女が、魔女への主要な攻撃手段となるメインウェポンと、戦いをサポートするサブ能力のセットが授けられているのに対し、彼女には、時間停止のサブ能力だけで、メインウェポンは与えられませんでした。そのために、彼女は、マジカルなアイテムではなく、ゴルフのドライバーからはじまり、拳銃や、焼夷弾、はてはミサイルランチャーなど、物理的な鋼鉄のアイテムで戦うことを強いられます。

拳銃、手榴弾、ミサイルランチャー、全てストロングでマッチョな男のアイテムです。また、彼女が、それを盗み出した場所も、やくざの事務所や、自衛隊、米軍など、暴力に携わる徹底的な男の世界でした。

燃え上がる火を意味する名前を持ち、マジカルなアイテムでなく、鋼鉄のウェポンを操り、肉弾で血反吐をはきながら、たった一人の好きな女の子のために戦う、暁美ほむらは、どれほど愛らしい容姿をしていようと、実は少年なのです。彼女が、五人の少女のなかで、一番ささやかな、ひらべったい胸をしていることにも留意する必要があるでしょう。

◆暁美ほむらとキューべーは同じ男性原理のポジとネガ

さて、はゆまは、先に父権システムとか、男性原理から来る少年漫画的な文脈が、魔法少女ものの物語世界に入ってきたため、こ魔法少女達は苦しむことになったと述べてきました。しかし、別にはゆまは、いちがいにだから男性原理は駄目とか、どこかのフェミニストみたいなことを言おうとしているわけではありません。

原理自体は、ただの思考システム、考え方なのですから、キューべーのように悪意があるわけではないのです。

一つの物象には、必ず光と影があります。それと同じで、男性原理にも、陽と陰の部分があります。(善と悪ではありません)

最終話、Cパートのラストのシーンを思い出して下さい。みたきはらを見下ろすビルの上に、ほむらとキューべーがいるのですが、このシーンのときの二人は、それまでの激しい対立が嘘のように打ち解けて、親しげに語りあっています。考えてみれば、まどか以外で、ほむらが親密な態度を見せたのは、この時のキューべーに対してだけでした。

これは、なぜかというと、実はこの二人は、同じ根から産まれた兄弟だからです。

つまり、キューべーが男性原理のネガ、陰の部分を象徴しているのに対し、ほむらは、男性原理のポジ、陽の部分を象徴しているのです。

ちょっと整理してみます。括弧のなかは、はゆまが、それぞれの要素にたいし、思いつくまま単語を並べたものです。

男性原理(陽):暁美ほむら
 (情熱、恋、システムからの自由、冒険、歌、踊り、狂的な興奮、ゼウス)

男性原理(陰):キューべー
 (非情、理知的な判断、父権システム、システムへの服従、法律、選別、切断、裁判、クロノス)

キューべーの言説は、すべて「大義のために死ね」という冷酷な言葉に収斂されるものでした。そのため、「○○のために戦う」という言葉のなかに、一度でも、みたきはらの街とか、世界とか、第三者の単語を入れて、武器を取ったマミ、さやか、杏子は、キューべーの背後にある父権システムの燃料となる運命から逃れられませんでした。

しかし、ほむらだけは、この○○のなかに、第三者ではなく、「貴方、まどかのためにこそ戦う」という二人称の単語入れました。恋愛は常に反社会的、反システム的なものです。少年漫画に存在するもう一つの文脈、

「好きな女の子のために命を捨てる」

ほむらは、この言葉の体現者でした。縦軸の圧力である父権システムを、男性原理のなかで横断的に切り裂く力のあるもの、それは少年の少女に対する恋しかないのです。

そのため、彼女は、同根の兄弟が造った父権システムからまどかと同様、最終話ギリギリまで自由であり続け、そしてこの父権システムを滅ぼす戦いを続けることが出来ました。

もっと議論を大胆に推し進めると、まどかマギカは、父キューべーから、母、聖処女まどかを奪い返そうとする、少年ほむらの戦いの話と言ってすら、よいのかもしれません。あの最終話の二人きりのシーンは、エディプスコンプレックスの対立と葛藤を乗り越え、対等の戦友となった、父子が、遠いところに行った母について、同性同士の緊張感は保ちつつも、鎧と兜をぬいで率直に語り合っているようにも、はゆまには見えました。

ほむらの戦いは、無数の時間軸での試行錯誤の末、ある程度の成功をおさめます。最終話まで、まどかを魔法少女にすることを防ぐことが出来ました。ほむらの活躍があったからこそ、まどかは、普通の女の子であり続けることが出来、その平凡な善良さも、優しさも、失うことがありませんでした。そして、少年が好きな女の子に絶対にして欲しくないこと、武器を取るということも、しなくてすんだのです。

まどかが、あの奇跡に至れた最大の要因である、平凡で普通の少女であり、武器を取らずにすんだこと。それは、少年ほむらの捨て身の戦いのおかげでした。

◆まどかの願いが教えてくれるもの

第11話。ほむらは、ワルギルプスの夜と単騎戦います。しかし、彼女が集めた全ての武器、を持ってしても、それまでの魔女の呪いの集合体であるワルギルプスの夜を破ることは出来ませんでした。父権システムを滅ぼそうとするほむらの戦いは、結局のところ敗北に終わります。

これは、当然で、「武器を取って相手を滅ぼす」という行動自体が、男性原理のネガ的、父権的な考え方なのです。父権システムの反逆者であった、少年ほむらですが、彼の奮闘も、端的に言うと、外に出ず家の中で、父親に刃向かう不良息子のそれでしかありませんでした。彼には、父権システムを超克することは出来なかったのです。

そのことに気付き、魔女化しようとするほむらの前に、まどかがあらわれます。

まどか「ごめん。ホントにごめん。これまでずっと、ずっとずっと、ほむらちゃんに守られて、望まれてきたから、今の私があるんだと思う」
まどか「絶対に、今日までのほむらちゃんを無駄にしたりしないから」



その後、まどかが起こした奇跡については、皆知っての通りです。彼女は、世界を変えます。ここで、重要なのは、世界を変えたあとも、キューべーは存在し続けるということです。

父権システム。

まことに厄介で、一度暴走をはじめると、おぞましいカタストロフィを起こすシステムですが、哀しいことに、私たちは、この仕組みなしでは生きることが出来ないのです。もし、このシステムを破壊しようとしたとしても、ほむらに殺されるたびに、また新しい個体のあらわれるキューべーのように、すぐさま、別のシステムに代替されてしまいます。

そのことをまどかは知っていました。だから、彼女がしようとしたことは、ほむらのように父権システムを破壊し尽くすことではなく、システムと交渉し、より穏当で血の通った仕組みへ変えていくことでした。そして、自分自身が、システムのブレーキ、監視役として、そのシステムを内包する神となることでした。

まどかの奇跡が、その映像の鮮烈さの割りに、改変前と改変後で、魔法少女達の悲劇性がそんなに変わっていないように見えるというのは、よく指摘されることです。

しかし、改変前と改変後の、エネルギー回収の仕組みを、男と女の役割分担の公平性という観点から見ると、劇的に改善されていることに気づきます。

家畜がとさつ人の役割もかね、しかもそのとさつという作業のなかに、家畜を肥えさせる仕組みも含まれている。そして、この一連のエネルギーサイクルは全て少女達の世界で完結され、サイクルが一巡りするごとに、回収されるエネルギーは螺旋状に増大していく。これが、改変前の魔女システムによる、エネルギー回収の仕組みでした。

男性がいっぺんの血も払っていないわけですから、これは男女の関係においては、かなりアンフェアなものだといってよいでしょう。(そういえば、少年ほむらが、父に叛逆、キューべーに銃をむけだしたのは、この不公平さに気づいてからでしたね。少年ほむらは、ジョン・アーヴィングのような、戦闘的フェミニストなのかもしれません)

一方、改変後は、魔女は消え、代わりに魔獣があらわれるようになります。裏設定ファイルによると、彼らは直線的で男性的な力の持ち主なのだそうです。また、グリーフシードの形も卵形のものから、角張ったキューブ状のものに変わっています。以上を考慮すると、恐らく、彼らは、もとは人間の男であったと断定してもよいでしょう。

ということは、エネルギー回収システムは、とさつ人が少女なのは、変わりませんが、家畜の役は男が担うようになったのです。少女達の呪いは、それがグリーフシード化し、父権システムに利用される前に、まどか神によって浄化されます。女から男への一方的な収奪システムだったものが、役割を、家畜は男、とさつ人は女と分け合ったわけですから、男女の関係において、随分フェアなものになりました。ただ、これは、改変前の仕組みよりは、エネルギー回収の効率性が落ちるようで、それは、キューべーの下記の台詞からも分かります。

キュゥべえ「人間の感情エネルギーを収集する方法としては、確かに魅力的だ」
キュゥべえ「呪いを集める方法としては、余程手っ取り早いじゃないか」


燃料が燃料を産む仕組みが失われたわけですから、これは当然といえば当然の結果です。しかし、ワルギルプスの夜や、まどかの最強魔女化が、まさにその異常な効率性の良さから発生したことを考えると、穏健で、安定的な仕組みに改良されたと言ってよいのでしょう。

男と女が手を取り合って、ある経済活動にいそしむ。これは、結婚以外のなにものでもありません。永遠の少女にして、永遠の処女母でもある、まどかは、実はキューべー、父権システムと結婚し、それを完全にコントロール下に置いてしまっていたのです。

まどかの願いのなかには、キューべーもすくいたいという思いがあったのかもしれません。

改変後の、キューべーからは明らかにモンスター性が失われています。ほむらともなごやかに話せるまでになったのは、彼の、父権システムの体現者としての業すら、まどかから許されたからなのでしょう。

父権システムを超克し、それを血の通った人間的なものにするためには、まどかのように、身体性、自分のなかの、やわらかく、やさしい、繊細な震えのようなもの、つまりは少女的なものを決して手放してはならない。彼女の十二話での神々しいまでの活躍振りは、そのことを教えてくれています。

◆少年ほむらと少女まどかの恋の物語

では、少年ほむらと、少女まどか、二人の恋はどうなったのでしょうか?
無論成就します。しかも最高の形で。

ほむらの願いを思い出してみましょう。それは、

「私は……。私は、鹿目さんとの出会いをやり直したい。彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」

でした。そして、この文章は、二つの文節に分けることが出来、最初の願いはかなえられたが、最後の願いについてはかなえられていないと指摘したのは、先述の通りです。

この物語のなかで、魔法少女の願いは、ほむらのようにおおっぴらに語られるにせよ、語られぬにせよ、二つの文節に構成されます。さやかの場合なら、「恭介の右腕を治して欲しい」「そして恭介から愛されたい」でしたね。そして、さやかは、その後半の願いは、結局かなえられぬまま消滅、もしくは神になった、まどかにより救済されました。

神に等しくなったまどかも、魔法少女達の後半部、秘められた願いについてかなえることはしませんでした。なぜなら、後半部がかなえられないにもかかわらず、前半部の願いに自分の命をかけることが出来た。そこに願いの崇高さがあり、少女達の偉大さがあることをまどかは知っているからです。安直に後半部の願いも奇跡でかなえることは、魔法少女達の尊厳を穢す行為であり、まどかにとって大好きなさやかちゃんを、さやかちゃんたらしめている根幹の部分を、破壊する行為でした。

しかし、たった一人の例外があります。

それが、ほむらです。彼女だけが、まどかによって、実は二つ目の願いもかなえられたのです。最終話、Cパートのほむらのモノローグを思い起こして下さい。

(悲しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようのない世界だけれど)
(だとしてもここは、かつてあの子が守ろうとした場所なんだ)
(それを、覚えてる)
(決して、忘れたりしない)
(だから私は、戦い続ける)


まどかは神なわけですから、世界も場所も、まどかそのものです。だとしたら、そこを守るためのほむらの戦いは、好きな女の子を守る戦いに他なりません。この唯一の例外があったのは、まどかが少年ほむらを特別扱いした。つまり、ほむらの恋に、愛でむくいたと解釈してよいでしょう。

最高の友達と言っていたんだから、恋人じゃないのじゃないの?と言われる人もいるかもしれませんが、まどかは、永遠の聖母でありながら、永遠の処女でもあります。そのため、最高の異性に対する称号は、最高の友達しかないわけです。これは、恋人と同種、もしくはそれ以上の価値があることです。

無論、これはとても過酷なことです。まどかが未来永劫存在し続けるということは、彼女を守るほむらの戦いもまた未来永劫続くということになるわけですから。この点について、どうもまど神様は気づいてない形跡があります。神であるまどかにとっては、ほんのちょっとでも、生身の人間のほむらにとっては、とてつもなく長い時間です。悪意なく、無邪気な言動で、少年を地獄のような試練に追いやってしまうというのも、少年漫画のヒロインの典型ですね。

しかし、少年ほむらは喜びに打ち震えていることでしょう。神となったまどかは、どこにでもいる存在です。ほむらは常に彼女の手のなかに、優しく包まれながら戦い続けることになります。戦う自分の姿を、好きな女の子がいつも見守ってくれ、そして頑張れと声をかけてくれる。これは、少年なら、誰しもが夢見ることです。(少年漫画のスポーツものを、二、三思い出してみて下さい。スポーツに打ち込む少年と、それを見守る女子マネージャーという組み合わせは腐るほどあります)

そして、「いつかまた会える」というまどかの言葉を信じるのなら、気が遠くなるほどの、先の未来で、ほむらが戦いに斃れた時、永遠の少女、まどか神は、満身創痍の少年ほむらの前にあらわれます。そして、今度は「がんばって」ではなく、「よくがんばったね」と、ほむらを抱きしめ、その胸のなかで、ほむらは消滅、もしくは救済されます。果てしない戦いの果てに、好きな女の子の腕のなかで、安らかに眠る。少年が持つ究極の夢をかなえたとき、永遠の少年ほむらと、永遠の少女まどかの、永遠の恋愛は完璧な形で成就することになるのです。

◆締め

まどかマギカは、少年ほむらが、血みどろの戦いによって、普通の少女まどかの、優しさと善良さを守り抜く話です。(守り抜いたもののなかには、普通のという部分も含まれています)これが少年漫画でなくてなんでしょうか?

また、同時にまどかマギカは、普通の平凡な少女が、愛と祈りによって世界に奇跡を起こす話です。これが魔法少女モノでなくてなんでしょうか?

まどかマギカは、超王道少年漫画と超王道魔法少女ものとの幸せな結婚によって産まれた、世にも稀な幸福な作品なのです。この素晴らしい奇跡のような作品を作った、全ての方々に、はゆまは最大限の敬意を表します。

そして、最後に言わせて下さい。

杏子ちゃん、まじ聖女。

→2013/10/16公開の映画「まどかマギカ[新編]叛逆の物語」についての考察はこちら
http://hayuma7931.blog.fc2.com/blog-entry-165.html
三国志連載小説
花武担 花武担
プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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