魏延文長 知られざる守護者(3)

◆魏の侵攻作戦の顛末

激情家の魏延は、反駁する間、言葉が凶器のように鋭くなりました。発言も何度か火走りします。罵声に近い言葉を浴び、丞相府付きの役人達も何度か怒りに顔を青ざめさせました。とくに楊儀などは、このときにはっきりと魏延を敵と認識したようです。

孔明はというと魏延が自分の手飼いの子分達を罵るのを黙って聞いていましたが、魏延・王平という軍事における二枚看板が反対にまわったことで、何か思うことがあったのでしょう。

軍議の後しばらくして、魏延が秦嶺山脈に造った防衛網についてもそのまま温存させることにする、ただ兵や兵糧の格納に使えることだし二城建設の方針も変えないことにすると発表されました。

それで魏延も、

「まぁ、後詰めの城ということなら邪魔にはならないだろう」

と、矛をおさめることにしました。ただ、どこか心にひっかかるものがあります。自分の絵図のなかに、構想外の醜い染みを二つポツポツとつけられたという不快感だけではありません。それは何か得体の知れぬ一種異様な不安でした。共に反対した王平も腕組みし、憂い顔でしきりに首をひねっています。

しかし、そんな二人の不安をよそに、漢・楽の二城は丞相府の優秀な官僚達の手で、着々と行政化されていき、半年の工期で建造されてしまいました。

そして、翌二三〇年、予測通り、魏は曹真、張コウ、司馬懿という三枚のカードを同時に切り、三路から攻め立ててきました。

張コウが斜谷道から漢中の西に、曹真が子午谷から漢中の中央に、司馬懿が漢水を遡って漢中の東に攻めかかるという、雷神が三叉の矛を振り下ろすような誠に壮大な作戦でした。後々の曹爽や鍾会・鄧艾の侵攻作戦と比べても、将軍の質、兵員・軍需の規模ともに最大だったと言ってよいでしょう。

しかし、結局、このときの魏の侵攻作戦は長雨により行軍が不可能となったため、蜀がほとんど何もしないうちに中止になりました。

ただ、漢中の定軍山で戦死した夏侯淵の息子、夏侯覇のみが、復讐に燃えていたのでしょう、子午谷を一人突出して攻めかかってきました。蜀軍も迎撃の兵を繰り出し、彼を迎え撃ったのですが、その場所は興勢山、楽城よりもはるか北東、秦嶺山脈のまっただ中にある要衝の地でした。つまり、魏延の作った防衛線上です。結局、夏侯覇はこの地以南には一歩も進むことが出来ず、本隊の撤退もあって逃げ出していきました。

魏の作戦が中途半端に終わったので、このときの蜀の防衛構想の全貌ははっきりとは分かりませんが、夏侯覇が補足された場所を考えると、概ね法正・魏延ラインの戦略に則ったものであると考えてよさそうです。魏延の防衛網は有効に機能することをしっかり証明したのでした。

しかし、その一方で、漢・楽の二城は、大した働きはありませんでした。

魏延は得意だったでしょう。「どうだ、おれの作品は」そう誇りたい気持ちだったかもしれません。ただ、面白くないのは丞相府の文官達です。この戦役以後、目立って彼らの魏延への態度は冷たくなっていきます。しかし、優秀な軍人そして民政家ではあっても、政治家ではない魏延は不幸にもそのことに気付きませんでした。そして、何より孔明の自分を見る目が冷ややかなものになっていることにも。

魏のような名士による政治を目指す丞相府の選良達にとって、政戦ともに出来るたたき上げの武官というのは、どれほど優秀であっても、いつかは取り除かなくてはならない害だったのです。

◆その後の北伐

その後も蜀は北伐を繰り返し、魏延も軍の主力として奮戦し続けました。

魏が侵攻してきた230年同年には、彼らの撤退したあとを追うようにして、魏延単独で羌中まで進軍、羌族に対する宣撫工作を果たした後、迎撃に来た郭淮を返り討ちにしています。小説ではやられ役の郭淮ですが、実際は後に車騎将軍にまでのぼり詰める、魏の西方の守護神とも言うべき人でした。この遠征の功績で魏延は、前軍師・征西大将軍・仮節に昇進し、南鄭侯に報じられました。

また、翌231年の第四次北伐では蜀軍は祁山を包囲し、その援軍に来た司馬懿・張コウの軍と会戦、大勝利を収めます。その際活躍した武官の筆頭として残るのが魏延でした。

しかし、こうした戦術的勝利をいくら積み重ねても、兵糧が尽きたら撤退を繰り返しているのですから、なかなか成果を繋げ、西方経営を軌道に乗せることが出来ません。それどころか、蜀の動きは魏を刺激してしまったようで、北伐開始前は飛び地だった関中への本腰入れての経営が始まります。司馬懿の弟だった司馬孚が関中の軍屯をはじめ、さらに少し後のことになりますが鄧艾がさらに西方の隴西方面の軍屯をはじめます。こうした対策によって魏はわざわざ防衛軍を中原で招集しなくてもよくなり、蜀はますます不利になっていきました。

姜維の代になるともう関中盆地に兵を入れることも難しくなってしまうことを思うと、結局、第一次北伐開始前に献策した魏延の策しかなかったのかもしれません。

いずれにせよ、孔明の五度に渡る北伐は失敗でした。

そして二三四年、五丈原で孔明は陣没、その後、皆さんお知りの政変が起こり、魏延はかつて漢・楽二城を巡る議論の際の盟友だった王平によって斬られます。この顛末については、はゆまも陳寿の評以上のことは言えないので、あまり触れないようにしておきます。

本稿で書きたいのは、あくまで、あまり知られていない漢中防衛網に関する魏延の功績なのです。

◆二つのドクトリンに引き裂かれる漢中

ドクトリンという言葉があります。

広義には政治や外交における基本原則を言い、狭義には作戦・戦闘における軍隊部隊の基本的な運用思想のことを差します。

孔明も魏延ももつれ合うようにして斃れましたが、二人の残した漢中を守るためのドクトリンは二つながら残りました。

魏延「衝立を幾つも作って山の中で敵を通せんぼするよ。敵は決して麓には降りさせないよ」

孔明「それじゃ手柄立てられないじゃん。衝立は後ろに下げて敵を麓に引き込んで殲滅しようよ」

そして、この真っ向から対立するドクトリンが一本化されないまま、秦嶺山脈に張り巡らされた諸陣営と、盆地内に聳える強固な城塞都市、漢・楽の二城として並立したがために、魏が攻め込む度に漢中の戦略は、常に二つに引き裂かれることになるのです。

五丈原から十年後の二四四年、曹真の息子だった曹爽が十万の軍で出征の軍を起こし、はやくも先鋒は駱谷に押し寄せるという事件がありました。この際、漢中はたった三万の軍しかいなかったため、諸将は非常に慌ててこう主張しました。

「現在の力では敵を防ぐことが出来ません。敵の進むのにまかせて、漢・楽の二城を固守すべきかと存じます。たとえ、賊軍を侵入させても、そうこうしている間に、フ城の本隊は十分関城を救援できましょう」

しかし、この頃漢中太守として漢中の総指揮官だった王平が真っ向から反対します。

「それは違う。漢中はフ城から千里近い距離にある。賊軍がもし関城を手に入れるようなことになれば、それこそ禍いの種となるであろう。今はまず劉護軍と杜参軍を派遣して興勢山にたてこもらせ、私が後方の備えに当たるがよかろう。もし賊軍が兵を分けて黄金谷に向かってくるのなら、私が千人でこれを迎え撃つ。そのうちに、フ城の本隊も到着するだろう。これこそ上計だ」

興勢山はもう出てきました。先の曹真・張コウ・司馬懿による魏の攻勢の際に、夏侯覇を迎撃した場所です。黄金谷はそこからさらに西方で、ここもまた秦嶺山脈のど真ん中、つまり魏延の作った防衛網の一つでした。

最後は袂を分かった王平ですが、ことドクトリンということに関して言えば、魏延と同志のままでした。防衛戦ということに限って言えば、魏延よりも有能で、張コウも打ち破ったことのある王平の目から見ても、孔明のドクトリンは当てにならないものだったのでしょう。彼の主張のなかには、漢・楽の二城の話は一つも出てきません。

そして、王平の策は図に当たり、本隊がたどり着くまで、魏の攻勢を持ちこたえることに成功します。成都から援軍を率いてきたのは、かつて魏延・王平と言い争った丞相府の文官の一人費禕でしたが、このとき費禕と王平がどんな感慨を持ったか記録からは分かりません。

◆蜀滅亡

王平が二四十八年に、費禕が二百五十三年に亡くなると、姜維が軍事指導者として台頭してきます。かつての花はじらう美少年も壮年の屈強な男になっていました。そして、丞相府の寵児であったはずの彼こそが、軍の都合で政治を引っ掻き廻す恐るべき軍閥政治家になるのでした。

積極策を主張した魏延でも愕然とするようなペースで北伐を繰り返し、蜀の国庫と人口はみるみるうちに減っていきました。そして、段谷の戦いで鄧艾に手痛い敗北を喫し、諸葛誕の反乱と呼応し呉蜀連動した北伐も失敗に終わった二百五十八年、ついに先述の言葉を姜維が述べる日が来ました。

「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、新しく漢中盆地内に築城する二城に兵を集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊し撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう」

こうして、魏延が才能と情熱の全てを掛けて作り、それまで漢中を守り続けてきた防衛網は放棄されました。

そして、二六三年、度重なる蜀の侵略に業を煮やした魏は、ついに鍾会・鄧艾からなる征討の軍をおこします。鄧艾が沓中に駐屯する姜維を足止めしている間に、鍾会が放棄された諸陣営の跡を通って、漢中盆地に乱入、漢・楽の二城を包囲すると同時に、漢中から益州に向かう入口に当たる陽平関に襲いかかります。

この時、張翼・廖化などが率いる軍が援軍に向かっていたのですが、蒋舒の裏切りもあって間にあわず、結局陽平関も陥落、漢中は魏の手に落ちます。

その後、何とか鄧艾の追撃を振り切った姜維が張翼・廖化と合流し、漢中から益州に向かう最後の要衝の地剣閣で鍾会を迎え撃ちます。一事は鍾会に撤退を考えさせるほどに姜維達は奮戦するのですが、結局、陰平から間道を抜けて益州になだれ込んだ鄧艾の手によって成都は落とされ、蜀は滅びるのでした。

皮肉なことに、あの漢・楽の二城は蜀降伏のその時まで健在なままでした。

国が滅びても、まだ城が残っている。

そのこと自体が、この二つの城の無意味さと、孔明の残したドクトリンの無内容さを証明しているのではないでしょうか。

魏延が漢中太守になってから四十四年がたった年の出来事でした。

◆石人石馬

蜀という国は三国のなかで最もはやく滅亡しました。後の六朝貴族政治に繋がる魏や、東晋などの南朝亡命政権の礎になった呉と比べ、歴史的意義は低く、存在感の薄いはかない王朝でした。

しかし、後年、最も多くの人の口にのぼり、物語られるのはこの国の英雄達の事跡でした。それがやがて中国四大奇書と言われる三国志演義に結集するのですが、魏延はそのなかでも不運な役回りをさせられることになります。

しかし、漢中の民衆達は、部下や民への面倒見がよく、そして自分達を守ってくれていたものは何だったのか良く分かっていたのでしょう。

「石人石馬」という漢中で民衆の間で語り継がれてきた故事が残っています。その故事(若干の脚色あり)を紹介して本稿の結びとしようと思います。

魏延の馬は毛並みが絹のように光る、それは美しい黒毛の馬でした。

魏延はこの黒馬をことの他可愛がっていました。

黒馬もその愛情に答えて、戦場ではご主人様を乗せて風のように走りました。

黒馬はご主人様のことが何よりの自慢でした。

「ご主人様は蜀一番の大将軍なんだ」

しかし、ある日ご主人様は政争にやぶれ、奥さまも子供も皆殺しにされました。

黒馬はその墓の前で魏延のくれた朱漆の鞍を外し、黄金の馬鎧も脱いでおいおい泣き叫びました。

黒馬は漢水に向かって聞きました。

「わたしの主人はどうして殺されたのですか?」

しかし、漢水の神はすすり泣くばかりで答えません。

黒馬は秦嶺の山々に向かって聞きました。

「大将軍はたくさんの数え切れない手柄をたてたのに、どうして殺されたのですか?」

しかし、秦嶺の山精達も口を噤み顔をおおって答えません。

やがて、黒馬は、自分の傍らで少年が二人、大地にうずくまって泣いているのに気づきました。鎧に首が埋もれ、刀が痛々しく見える、百合と水仙のような二人です。

少年の一人が言いました。

「これは冤罪だ」

もう一人も叫びました。

「丞相様は不公平だ」

黒馬は二人のことを知っていました。士卒を育てるのが好きな魏延が可愛がっていた小姓達です。

「ここは危ないですよ。お坊ちゃん達、はやくお逃げなさい」

黒馬は少年達の身を案じました。

しかし、二人は首を振って答えます。

「僕達は将軍の墓を守ろうと思うのです」

すると黒馬も身を震わせて言いました。

「では、私もお供させてもらいます」

それから、二人と一匹は魏延の墓を守るようにして、その側に立ち続けました。

東風に梅が咲き綻ぶ春も、棗の若葉が蝋のように光る夏も、七夕の天河が漢水に映える秋も、秦嶺の山波が銀色の冠を抱く冬も、二人の少年と黒馬は魏延の墓を守り続けました。

そうして、何年もの間、日に当たり、風にさらされしているるうちに、天がその真心を憐れんだのでしょうか。

「いつまでもご主人様の墓を守り続けたい」

そんな願いは叶えられ、人も馬もすっかり石になってしまいました。

今でも、その二人と一匹は主人を慕って、漢中にある魏延の墓の側で立ち続けています。


ちなみに、この伝承のもととなった石人と石馬は本当に今でも陜西省漢中市街にある漢台の博物館に展示されていて、鉄道の下敷きになったご主人様の墓を哀しげに見つめているのだそうです。

魏延文長 知られざる守護者(2)

◆劉備の死

219年、劉備は漢中王となり、その領土も旧国名の区分でいうと巴蜀に漢中、さらに楚を兼ねるという広大のものとなりました。人材も、帷幄で策を練る謀臣に孔明、法正、黄権、馬良、李厳、劉巴、爪牙となる猛将に関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠、そして魏延と、粒ぞろい。まさに人生絶頂のときでしたが、その栄華も長くは続きませんでした。

はやくも翌220年、関羽が魏へと侵攻し、一時は曹操に遷都を考えさせるほど勢いも盛んだったのですが、同盟を組んでいた呉の裏切りよって敗北します。関羽はなんとか義兄のいる蜀へ逃げ延びようとしたのですが、麦城で呉軍に補足され、万夫不当を謳われた豪傑もあえない最後を遂げました。

激怒した劉備は復仇の軍を起こします。しかし、これも出立まえから宿将趙雲の大反対にはあうし、軍の要だった張飛は事故のような感じで部下から殺されるしで、ケチ続き。

当初こそ快進撃でしたが、結局呉のダークホース陸遜が登用されると、その勢いも止まり、結局夷陵で敗れます。殲滅といっていいもいいような被害でした。蜀は軍需物資並びに、何よりも貴重な次代を担う中堅の指揮官を失いました。

命からがら逃げ延びた失意の劉備は白帝城で寂しく亡くなります。代わって台頭してくるのが孔明です。この頃には、魏延を可愛がってくれた叩き上げの猛将達、関羽、張飛、黄忠は既に亡くなっており、残るは趙雲ばかりになっていました。

◆孔明との関係

北伐開始前の孔明と魏延の関係はよくわかっていません。しかし幹部同士ですし、派閥としては同じ荊州閥に属しますから、まさかまったくの没交渉ということはなかったと思います。

百九十二センチという大リーガーみたいな体躯、山東人らしい精悍で秀でた容姿、優れた弁舌と頭脳、先祖には司隷校尉、今で言う首都知事みたいな役職をつとめた諸葛豊もいる孔明は、魏延から見れば世のなかのど真ん中の道を堂々と歩んでいける、まばゆいような名士でした。

ただ、孔明は名士でありながら、関羽や張飛といった叩き上げの庶民上がりの武将ともフランクに付き合えた人ですし、もし魏延が新野時代から劉備に臣従していたとすれば、広い意味での同期ということになります。年も似通ってますから、案外若いころは棒組になって飲み歩いた仲良しだったかもしれません。

孔明が劉備から跡を託されたと聞いても魏延は、

「まぁ順当なとこかな」

くらいのもので、反発も感じなかったでしょう。

◆初めての対立

しかし、北伐がはじまり、孔明が丞相府を漢中に移すと、徐々に二人の関係はギクシャクしだします。

まず魏延は漢中太守から外されました。これは孔明が直接軍事基地としての漢中を運営するための施策でやむを得ないことではあるのですが、それまで掌中の玉のようにして守り育ててきた漢中を辞令一本で取り上げられた、魏延の無念は察してあまりあるものがあります。。

ただ、その代わりに督前部(前線部隊司令)、丞相司馬、涼州刺史に任命されました。丞相府の軍事の統括と、主に戦場になるであろう涼州の行政長官ですから、これはかなりの出世です。やはり孔明にとっても、政戦両方まかせることのできる魏延は頼みとする存在だったのでしょう。臍を曲げられないよう、色々と気を使ったようでした。

孔明との長いつきあいの魏延もその辺りの人事の機微は理解できたはずなので、任免についてはまぁなんとか飲み下したのではないでしょうか。

しかし、最初の決定的なすれ違いは第一次北伐まえの軍議の席で起こります。ここで魏延は、後年、「子午谷の奇謀」として知られる長駆急襲策を提案します。

魏略によれば、その内容は、

「精鋭五千と兵糧五千石をお貸しください。子午谷を通って長安まで十日で踏破してみせます。長安の守将、夏侯楙は曹操の婿というだけの青二才ですから、私があらわれたら必ず逃げ出すでしょう。あとは御史と京兆太守がいるだけですので、長安横門の食料貯蔵庫と逃散した民衆の穀物とで軍糧は十分にまかなえます。魏が軍勢を集めるには二十日はかかるでしょうから、公は斜谷を通っておいでになるには、十分に余裕があるに違いがありません。こうすれば、一度の行動で咸陽以西を平定することが出来ましょう」

というものです。魏延は先述の通り、漢中太守時代、防衛網を構築するために秦嶺山脈を駆け巡っていました。その間、魏の関中方面の情報も収集していたはずで、そのなかで、案外、守りが手薄になっているという感触をつかんでいたのでしょう。

三国の勢力圏を示した白地図を見ると、線引きされた領土内はどこでも同じ影響力を持っているように見えますが、実は地方によって濃淡はかなり異なります。魏はその国名が表すとおり、洛陽や許昌、?など、黄河中流域の諸都市を中心にした国で関中は遠い外地でした。

当時、魏の蜀への印象は「劉備が頑張っているだけで、それも死んだから、そのうちに降伏してくるだろう」というものでしたから、案外、強行していたら成功したかもしれません。

しかし、残念ながらこの策は取り上げられませんでした。

一つには全滅か大成功かというイチかバチかのかなり危険性の高い作戦だったということがあります。もう一つは、長安という重要都市をとってしまった場合、この戦争の規模がどれほどのものになるか読み切れなくなるということがあったように思います。

孔明の頭のなかには、この戦争の範囲と規模に対して明確な枠組みがあったようです。

実は、孔明の北伐の目的は本当に魏を倒してしまうというより、益州と経済的な結びつきの強い、へい州・涼州を攻略するということへの比重の方が高かったのです。

北伐を文字通りの字義、漢王朝再興のための聖戦として捉える魏延と、蜀という国の経済を安定させるための施策として捉える孔明とでは、そもそも考えの立脚点がまるで違うのでした。

孔明は「五千の兵員の命を掛け物にする危険な策だね。安全を保って平坦な道を取り、無理をせず朧右を奪うべきだ。その方が万全の必勝策で危険がなくてよいだろう」と、北伐の真の目的をかすかに匂わせながら魏延の策を却下しました。

しかし、魏延にはこの辺りの考えのずれがよく理解できなかったのでしょう。漢中を取り上げられた上に、長年練ってきた作戦を無視された、そんな恨みだけが残りました。

◆第一次北伐から第三次北伐まで

結局、魏エンの策を無視して実行された第一次北伐は、孔明の一番弟子馬謖の信じられないようなポカミスで失敗に終わります。

健在なことを示すためにすぐ第二次北伐が実行されるのですが、こちらも孔明の出方を完全に読み切っていた曹真が作った陳倉城とその主将カク昭のために行く手を阻まれ、撤退の最中に突出して追撃してたき王双を切る程度の戦果で終わります。

北伐を続けてもなかなか成果につながらない年月が続き、この頃は魏延もやきもきしていたと思います。

しかし、二二九年、陳式という部将単独で行われた第三次北伐では、迎撃に出た郭淮も追い払い、武都・陰平の二郡を占領することに成功します。この直前、魏は蜀の官吏すべてに向けて降伏勧告の声明を発表していますから、その向こう面を張り倒すような壮挙でした。

当然メンツを潰された魏からは強力な仕返しが待っているはずでした。

当時、魏の蜀方面の戦線を担当していた将軍は、曹真、張コウ、そして司馬懿と、当代第一級の面々ばかり。魏はそのすべてのカードを切って、漢中に押し寄せてくることが予想されました。

どう防衛するか?

それを決める軍議の席で、孔明と魏延の意見は再び対立します。そして、この軍議の場で、蜀の滅亡に至る階梯の第一歩を踏む決定がなされてしまうのでした。

◆漢・楽二城

軍議に向かう道すがら魏延の足取りはいつになく軽いものでした。いよいよ、自分が構築した防衛網の真価が問われる日が来ようとしているのです。脇には、秦嶺山脈に蜘蛛の巣のように張り巡らされた諸陣営の地図が抱えられています。何十年も取りかかっていた傑作のお披露目会に向かう芸術家のように魏延の胸は高鳴っていました。

しかし、軍議の場で、孔明か、あるいは丞相府の参謀の誰かからいきなり切り出された発言は、耳を疑うようなことでした。

「来るべき魏の侵略に備え、漢中盆地内に新しく、漢・楽という二つの防衛用の城を構えようと思う」

魏延は唖然としたはずです。法正が図案を引き、自分の作った防衛網の堅固さは魏延自身がよく知っていました。

たとえ魏が、切りうる最良のカード、曹真、張コウ、司馬懿の三枚を同時に切ってきたとしても(実際にそうなるのですが)おさおさ破られるものではないと確信していたのです。

それが何故、先述の防衛思想「衝立をいくつも立てて、敵を通せんぼするよ」を
否定するような城を立てるのか?

怒りをこらえつつ、魏エンは軍議の席で、孔明側の席に座る白面の選良達に城を建設する目的を聞きました。するとしれっとした顔でおそらく楊儀辺りが返してきた答えはこうでした。

「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、新しく漢中盆地内に築城する二城に兵を集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊し撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう」

実は、上記は、正史姜維伝からの姜維の発言を一部変えただけで、ほぼそのままのものです。姜維の発言はかなり後年になってからのものですが、この時期、既に姜維は孔明の秘蔵っ子でしたから、漢・楽二城がどのような防衛思想の下に作られたものであるかを示したものと思ってよいかと思います。

それはすごくかいつまんで言うと下記のようになります。

「それじゃ手柄立てられないじゃん。衝立は後ろに下げて敵を麓に引き込んで殲滅しようよ」

◆魏延の怒り

魏延は赫怒しました。魏延にとって漢中とそれを守る防衛網は自分の全精力をささげた作品のようなものでした。また、曹操は漢中は放棄する際、住民の多くを拉致しています。そのため、ほぼ空になってしまった漢中に益州や荊州の住民、もしく羌族といった異民族達を移住させ、土地に馴染むよう慰撫する仕事も魏延はしてきたはずです。

それを血まみれの戦場にする?

しかも、五千の兵卒の命を掛け物にするのかと、自分の作戦を否定した連中がそれを言ってきたのですから、怒りはひとしおでした。

魏延は二城建設に対して絶対反対の立場を取りました。後々の顛末を考えると、魏延だけでなく、蜀の武官のなかで戦上手ということに関しては魏延と双璧だった王平も反対の論陣を張ったでしょう。ただ、こちらは板楯蛮出身で漢語があまり得意ではないため、ぼそぼそと「わ、わたしも反対……」程度を呟くだけで、あまり頼りにはならないのでした。

そのため軍議の席では魏延だけが必死に発言することになりました。その席で魏延は、向こう側の席に座る面々を見て、「なんなんだ、こいつら?」という感覚を覚えたでしょう。

第一次北伐が終わった直後に趙雲も死んでいますから、いつのまにかたたき上げの武将は魏延だけになっていました。身一つで乱世を駆け巡った庶あがりの豪傑たちが去ったあとの空席は、皆名士あがりの武将や文官がうめていきます。例えば、先祖に三公を出した家柄の張翼や、光武帝の元勲の子孫である鄧芝といった面々です。孔明直属の文官である蒋?や費?、楊儀なども、皆代々官僚を輩出してきた家柄でした。

溌剌とした壮士集団であったはずの劉備軍は、いつの間にか冷たい選良たちの指揮する組織に変わってしまっていたのでした。

「ここはどこだ?」

いくら意見を主張しても、いっこうに響かない場の冷ややかさに、魏延はそう感じる瞬間も多かったのではないでしょうか。

そんな軍議の様子を末席で澄まし顔で見守っている若者がいました。白皙の薄く透き通った肌に、ほんのりと桜色の血がのぼり、唇はあくまで紅く、髪は濡れ羽ガラスのように艶やかな、一見少女のようにも見える若武者です。

彼の名は姜維といって、出身は羌族ですが、代々学問を好み、地方官を輩出してきた家柄の出でした。彼は武芸のみならず、学問とくに儒学を好み、しかも蜀に自分の栄達のチャンスがあると見ると、母親を弊履のように棄てて寝返ってきたという珍種としかいいようのない若者でした。彼は劉備など一度も見たことがありません。そんな世代も蜀に加わるような時代になっていました。

魏延文長 知られざる守護者(1)

小学校六年のとき初めて三国志という物語に出会って以来、気になって気になって仕方がない武将がいます。

その名は魏延。

大体、三国志というか、中国古典小説の登場人物というのは、良い人間はあくまで良く、悪い人間はあくまで悪い。一色で塗られた書き割りのような人格の持ち主ばかりなのですが、孔明に対し逆らったり、文句を言ったりしながらも、命懸けの奮戦も見せれば、「丞相の蝋燭消しちゃった」と時に殊勝な態度も見せる魏延は、ちゃんと屈折と奥行がある、いわば近代的自我を感じさせる唯一のキャラクターでした。

まぁ、当時からはゆまはひねくれものだったので、同じくひねくれものの魏延に共感したということもあるでしょうが……

そもそも大体初対面で「こいつ人相悪いから斬っちゃいましょう」とか言われたら、誰だってひねくれちゃいますよね。

で、魏延は日本ではその不器用な生き方に共感する人も多く割と人気があるんですが、中国ではまじで嫌われています。毛沢東から裏切り者の比喩として使われたこともありますし、お墓も壊されちゃって、今はその上を鉄道が通っているほどです。

生前は主に孔明のせいで、死後も主に孔明のせいで踏んだり蹴ったりの人ですが、正史に記述に基づいてちょっと弁護を、特に漢中防衛ラインの構築という面で、していこうと思います。

◆生い立ち

魏延は荊州義陽郡出身の人です。春秋戦国の区分で言うと楚、現在で言うと湖北省と河南省の境あたりで、今でも激情家で無鉄砲な人が多いと言われる土地です。また、光武帝を輩出した南陽郡の近くで、いわば後漢王朝の故地でもあります。そんな風土が、向こう気の強く、同時に後漢王朝に強いこだわりを持つ彼の気質を形作っていったのでしょう。

出生年についてはよく分かっていません。言動から判断すると、孔明と同世代か、それよりも五、六歳下くらいでしょうか。いずれにせよ、劉備や関羽の世代とは親子ほども年は離れていたようです。

出自も詳細は不明なのですが、そんなに高くはなかったでしょう。後に、魏延は悲劇的な死を遂げますが、その際ライバルの楊儀が首を踏みつけ「傭奴」(奴隷野郎め)と罵っています。まさか奴隷ではなかったと思いますが、精々が小規模の自営農家くらいの家柄でしょうか。

◆雄飛

魏延が史料にはっきりあらわれてくるのは入蜀の戦いからです。身分は既に部隊長でした。一兵卒でないところを見ると、魏延の産まれ育った義陽郡は新野のすぐ近くですから、劉備が劉表の客将だった頃には既に臣従していた可能性があります。

いずれにせよ魏延は入蜀の戦いでたびたび戦功をあげ、牙門将に任じられました。

推測ですが庶民出身で、向こう気の強い魏延は同じような境遇の古株の将軍、関羽や張飛や趙雲や黄忠達から可愛がられていた可能性があります。素寒貧だった劉備軍もこの頃になると孔明をはじめとする名士層の武将や文官が増えてきて、彼らたたき上げもときに浮き上がってしまうことが多くなっていました。そんななか、かつての自分達と同じく何の背景もなく身一つで奮闘する息子ほどの年の若武者は可愛くて仕方なかったかもしれません。

魏延もそうした先輩達からの期待に素直に答えるいわゆるいいやつだったのでしょう。少なくともこの頃は小説のネタになるようなひねくれた一面など微塵も感じられません。

やがて張魯をくだした曹操と漢中を巡っての争いがはじまります。正史に詳細は書かれていませんが、魏延は張飛か黄忠の麾下で大活躍したようです。その働きぶりをじっと見ているものがいました。

漢中争奪戦の作戦を主導した法正と主君劉備です。二人は先輩達と張り合いながら、むきになって仕事する新進気鋭の将軍に、それまでのたたき上げの武将とは違う側面を見出したようでした。

漢中争奪戦は、黄忠が夏侯淵を斬り、さらに曹操もまた陣地を固く守る劉備に手を焼いて、鶏肋という言葉を残して去ったことにより劉備陣営が勝利をおさめました。漢中は劉備が初めて曹操を破って手に入れた土地になりました。漢中は東に肥った頭を西に細い尾を向けたなまこ型の盆地です。南西の益州盆地を守る要衝の地であるとともに、来るべき北伐の際には関中侵攻の策源地となる重要な場所でした。

もう一つの重要拠点、荊州は関羽が守っていましたから、漢中太守は張飛がつとめるものと皆が思い、本人もそう思っていました。しかし、劉備が漢中王になったとき、多くの下馬評を裏切って漢中太守を任命されたのは魏延でした。一軍皆驚きましたが、任命にあたって劉備が「今君に重任をゆだねるのだが、君は任にあたってどう考えているのか」と抱負を聞くと、魏延は胸を張って「もしも曹操が天下の兵をこぞって押し寄せてきたならば、大王のためにこれを防ぐ所存。副将率いる十万の軍勢が来るならば、大王のためにこれを呑み込む所存です」と答えました。人々はみなこの言葉を見事と思い、劉備もよきかなと満足したそうです。

この辺りの劉備の期待と、魏延のそれに報いようとする一途さは、父子関係に近いものを感じさせるところがあります。
督漢中、鎮遠将軍、漢中太守、堂々たる役職をもらった魏延は、このとき三十代半ばほど、最も体力・気力ともに充実する壮年の季節でありました。

◆漢中防衛網

魏延が漢中太守時代にした仕事で最も重要なのは防衛網の構築でした。

青写真は性格は最低だったが、軍才は最高だったもう一人の天才軍師法正が描いたもののようです。

先にも述べたとおり、漢中は南西の益州盆地を守る要衝の地です。関中から出発した軍は蜀を攻めるには必ずこの土地を通らねばならないのですが、そのためにはまず標高平均二千~三千メートルの秦嶺山脈を越える必要がありました。この山脈自体が天然の長城のようなもので、強力な防壁になっているのですが、河川に削られて出来た自然道など、所々に綻びが見られます。

そして、一旦敵を漢中盆地に入れてしまうと、防衛することは難しいということを法正は経験上痛いほど知っていました。

そこで、法正はこうした綻びに、交錯した複数の陣営、いわば縦深陣を構え、敵が漢中盆地に雪崩れ込む前に通せんぼしてしまおうとしました。敵はこの複雑に入り組んだ陣営に入ると、腹背に攻撃を受け突破する前に痩せ枯れるか、嫌になって撤退するかどちらかしかありません。

人間としてはクズでしたが(しつこい)、こと戦争に関してなら天使だった法正らしい防御網でしたが、惜しいことに彼は漢中争奪戦の決着のついた翌年には死んでしまいます。そのため、実務のほとんどは魏延が行いました。

元々、建物を作るとか、堤防を作るとか、道を作るとかいったふうな、大地に壮大な跡を残す工事はやり出したら止まらない、蠱惑的な魅力があるようです。それは何故か山の稜線に築かれている万里の長城を見ても、土木マニアと称される皇帝が幾つも生まれていることからも、分かる通りです。

魏延もこの仕事を壮年期の精力をかけて夢中になってやりました。

できばえは見事なものだったようで、魏延が構築した防衛網は蜀が滅びるそのギリギリのときまで有効に機能しつづけます。というより、この防衛網を自から外してしまったとき、蜀滅亡のカウントダウンは始まったのでした。

重要なのでもう一度、めちゃくちゃにかいつまんで法正が企画し、魏延が構築した防衛網のことを説明すると下記になります。

「衝立を幾つも作って山の中で敵を通せんぼするよ。敵は決して麓には降りさせないよ」

孔明の北伐と秦の東進

今、書いている小説のため、中国関係の資料を読み直している。で、創元社の「中国文明史図説4 雄偉なる文明」の秦の遷都ルートを見ていたら、これが、孔明の第一次北伐のルートとそっくりなことに気づいた。

孔明の第一次北伐は馬謖の失態により、街亭で潰えるのだが、街亭は秦の三つ目の首都だった秦亭のすぐ隣である。もし、馬謖の失敗がなく北伐が続いていたら、天水・南安・安定、かつて秦が関中進出前に勢力を扶植した土地を安定させた後、秦遷都の跡を追って、汧、汧渭の会、平陽、雍城、そして長安というルートを辿ろうとしたに違いない。

また、秦の東進は、周の東進の跡を追ったものでもあった。三国志の時代、殷周革命以上に正義の戦争はなく、日本の武将が、東海道を西進して、源頼朝・義経が平家を逐い天下を握ったのを真似したがったように、孔明もまた武王・太公望の正義の師を再現させたかったのだろう。孔明のファッションでも書いたが、孔明は痛烈なほどのかっこつけである。その思いは、ひときわ強いものであったように思う。

そうした観点から見ると、北伐開始時、どのルートを辿るかを巡る孔明・魏延の論争もまた違った色合いで見えてくる。純軍事的には最適解だったろう、最短ルートの子午谷を通り、長安を長駆奇襲しようという案を提出した魏延は孔明のことが分からなかっただろうし、軍事は政治のためのページェントでもあると考える孔明には魏延のことが分からなかっただろう。

ある時代の事象と類似のものを、別の時代に見出し、その両者の比較・類推をもって、考察を深める。歴史を学ぶ楽しみの最たるものはここにある。

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三国時代のインフレ

日本はもう十年以上デフレが続き、その退治のため、アベノミクスなんかが叫ばれていますが、後漢末から三国初期にかけてというのはインフレが大変な時代でした。

まず、魔王董卓が長安遷都後、何を思ったか、当時広く流通していた五銖銭を改鋳し、董卓五銖銭と称される粗悪銅銭を発行します。これは各種銅銭を打ち抜き、外側を削り小型化させたもので(磨辺銭、剪輪銭)、水に浮いてしまうほど薄く軽いものでした。

ちょうどその頃、通貨の原料である銅の最大の供給基地漢中と中原を結ぶ桟道を、劉焉が焼いて遮断してしまっていたので、それも影響しているのかもしれません。いずれにせよ、この改鋳というか改悪によって、貨幣としての 信用は地に落ち、私鋳銭が広く流通することになります。

また、後漢末は、寒冷化が進み、食料基地である農村の生産力がどんどん落ちていく時代でもありました。そんななか、戦いにあけくるう各地の群雄は、自衛のために、取り立てた穀物は我が城の倉庫に溜め込もうとします。董卓は三十年以上の食料を郿城にたくわえ、公孫瓚が築いた易京城には十年分の食料がありました。もちろん、こんなことをしていたら、市中に出回る穀物の量はうんと減ってしまいます。

こんな状態の市場に、水に浮き、打刻も満足にされていない冗談のような通貨が、どっと流れ込んだらどうなるか?
 
当然、ワイマール共和国末期も真っ青のとんでもないハイパーインフレーションが発生しました。記録では、穀物の値段は1石50余万銭まで跳ね上がったとされています。この傾向は、三国時代通じて続き、魏の曹叡の代になっても、洛陽の市場での取引は物々交換でされていたくらいでした。

革新的な施策を次々に打った曹操には珍しく、こと貨幣政策に関して、彼はほとんど無策でした。曹操が力の源とした青州兵と、彼らを養う屯田制は いわば管理経済だったので、それを乱す可能性のある、盛んな商取引は邪魔だと思ったのかもしれません。彼が集中したかったのは、荒れ果てた中原の生産力をまずは回復させることだったのでしょう。それは、彼の支持基盤である、潁川の名士層の利害とも一致していました。

魏の無策をついて、通貨の面で三国に覇を唱えたのは、蜀が鋳造した直百五銖銭でした。曹操の無関心とは対照的に、劉備は貨幣政策に積極的でした。帷幄に策を めぐらすことにかけては孔明以上といわれた劉巴の献策を受け、成都制圧後、すぐに貨幣鋳造に手をつけています。それは董卓の改悪以来、はじめて中国が手にした分厚く、打刻のしっかりした、品質の高い貨幣でした。

また、先に言ったように当時最大の銅山があった漢中をめぐる戦いについても、彼にしては珍しく粘っこい戦いを見せ、曹操を追い払っています。曹操には鶏肋といわれたりしましたが、銅の最大供給基地であった漢中を手に入れることは、現在で言えば中央銀行を手に入れるのに等しいことだったのです。この土地に対するこだわりの違いに劉備と曹操の価値観の違いがすけて見えるような気がします。

どうも劉備は、旗揚げ時に資金を出した馬商人、張世平・蘇双といい、流浪時代有力なパトロンだった大富豪、麋竺・麋芳兄弟といい、商との関わりが多いように思います。伝承によると、弟分の関羽は解県で塩の密売人だったそうですし、張飛も肉屋を商っていました。また、一時兄貴分だった公孫瓚は烏丸・鮮卑などの異民族との交易で大利を得、名士を軽んじ、代わりに裕福な商人を重用した人物でした。

そういったことから議論を展開というか飛躍させると、名士層の支持のなかったはずの劉備の情報通ぶりや、その不死鳥のような復活ぶりは、商人層の厚い支持のおかげだったのかもしれません。だからこそ、安定した地盤を得たとき、劉備が最初にやったのは、それまで負けても負けても援助し続けてくれた商人達に対する恩返し、安定した通貨の発行だったのでしょう。

良質な銅山を領土に持つ呉も独自の通貨を発行したりしましたが、三国時代通じて、最も流通した通貨は蜀の直百五銖銭でした。今でも、魏・呉の領土だった場所で、三国時代の墓を発掘すると、蜀の直百五銖銭が見つかることが多いのだそうです。魏・呉と比べ、領土的には一番小さかった蜀ですが、こと交易、商売においては、その存在感はかなり大きなものでした。

さらに小説家的に発想を飛躍すると、曹操の晩年、彼の手元には劉備の発行した直百五銖銭があったかもしれません。荒廃した中原の地味を回復させることに必死で、手をつけられなかった信頼ある通貨の発行を、かつての弟分がやってのけたことを、曹操はどう思ったでしょう。

小説家的妄想を許して貰えるのなら、直百五銖銭を手の平にのせながら、彼はこう言ったのだと思います。

「やはり君と余だけだったな」

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プロフィール

黒澤はゆま

Author:黒澤はゆま
歴史小説家。はゆまは古語で「早馬」「報せ」の意味。小説のことや歴史のこと、また日々の徒然のことを、「報せ」ていこうと思います。三国志を舞台にした小説「花武担」連載中。

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